舞う、赤と白
――もお! せっかくお屋敷のことを頭から追い出してたのに、思い出しちゃったじゃない! 最悪!
そんなことを思いながら、少女は彼を視界から追い出して再び広場の中央を見た。
未だにはしゃぐ兄弟がいる。吹き上がる噴水も、高さを変えることなくキラキラ輝く。
しかし彼女の顔は以前とは違っていた。覇気のない表情に変わって、眉間に皺が刻まれ、頬がぷっくり膨らんでいる。
誰にもわかる不機嫌な表情。視線は睨み付けるように、ただ一点へと注がれていた。
……が。その目は、時折、ちらちらと動く。
ツリ目をたたえる彼女の瞳は、強めた圧を弱めることなく、二回、三回と瞬いた。
――ちょっと顔がいいからって挨拶なんかしてきちゃって……。顔は良いけど間が悪いのよ! どうしてこんな時に、挨拶なんかしてくるのよ!
内心、沸々である。
露店に立ち寄る男の姿を何気なく追いながら、彼女は奥底に沈めていた不満を胸の内で湧き上がらせた。
と、そこに。
「おねーえちゃん!」
「わっ!?」
子供の声が響いた。
不機嫌な少女が声に驚いて隣を見ると、さっきまで噴水辺りで遊んでいたはずの女の子が立っていた。
「なにしてるの?」
「え? えっ……と。ぼ、ぼーっとしてた、かな」
「なにそれぇー?」
本当にわからないという面持ちで、女の子は首を傾げた。右手に持った風船が、素知らぬ顔でふわふわ浮いている。
「おねえちゃんまってよぉー!」
小さい男の子がやっと追いついてくる。だが、それにも構わず、女の子は少女に話しかけた。
「おねえちゃんどうしたの? ずっと怖い顔して何か見てたでしょ」
「あー……」
無自覚に悶々とした態度を撒き散らしていたことに気づかされた彼女は、ばつが悪そうに笑った。
「私ね。ちょっと嫌なことがあって、家を飛び出してきたの。だから、今、機嫌が悪いの」
「なぁーんだ! そうなんだ!」
「あ、僕知ってるよ! それ、家出って言うんだよ!」
「まんまだし。ソクァは黙ってて!」
小さな男の子が意気揚々として放った言葉は、女の子が慈悲なくばっさり切り捨てた。
そんな様子に噴き出してしまった少女は、笑顔を見せて呟いた。
「正解よあなた。家出中なの。私」
「お家の人、心配しないの?」
「んー。どうだろうね。心配してるんじゃないかしら」
言いながら、浮かぶ風船が少女の目に入った。
「可愛い風船ね。赤くて、バラみたい」
「あ、これー? さっき街中で配ってたやつもらったの! いいでしょー!」
「うん。すごく似合ってる。可愛いわ」
「僕はもらえなかったの……」
「あらら。それは残念ね?」
ソクァと呼ばれた男の子は、小さな指を口元に当てたまま呟いた。
そうとう残念だったらしい。俯いた声には、力が入っていなかった。
「おねえちゃんも帽子白くてかわいい! 真っ白なお花みたーい!」
「あはっ。これ? ありがと。嬉しいわ」
褒められた拍子、少女は頭に手を添える。
位置を直す様な仕草で触れられた帽子は、どことなく誇らしげに輝いた。
「おねーちゃん! やっぱり風船僕にちょうだい!」
「やだってば! あんたが他のお店行ってたから悪いんでしょ!」
「やぁーだ! ほしい! ほしい! ほしい!!」
その時。
風船が、浮いてしまった。
「あ!」
「あ……」
ぐずる男の子に揺さぶられた女の子の腕が、思いがけない衝撃につい、握った掌を開いてしまったのだ。
「あぁ……!」
風船は、浮かんでいく。
その後を、切ない声が追っていく。けれど、風船は表情を変えずに青い空の中へとずんずん、進んでしまう。
離れてしまった。誰もがそう思った瞬間、紐を捉える右手があった。
「あ!」
「ああー!」
「……っとと。はい。どうぞ!」
風船は、戻ってきた。女の子の手に。再び、しっかりと手綱を握られて。
「お姉ちゃん、すごーい!」
「やったぁー! ありがとお! おねえちゃん!」
「ふふふ! どう? これでも足には自信があるの!」
元気なシルクハットが自信に輝く。腰に両手を当てた少女は、純白のワンピースと共に堂々と言い放った。
「でもお姉ちゃん、足汚れちゃうよ」
女の子が、足元を見る。
素足が、地面に直接立っていた。傍らには、無造作に脱げた赤いハイヒールが転がっている。
しかし、少女はその靴を見てもあっけらかんとしていた。
「いいのよ。飛ぶには邪魔だし、靴ズレもしてたから」
「でも……」
「いいの! 足は拭けばいいのよ! でも風船は、飛んで行っちゃったらもう戻ってこないでしょ? だから、いいの!」
そう言いながら、少女は女の子の頭を撫でる。
くすぐったい面持ちで笑顔を浮かべながら、女の子は元気よく頷いた。
「きゃん!」
「わぁっ!」
「んっ……!」
一陣の風が、強く吹いた。
今度は、風船は上がらない。しっかり握られたそれは、強風に煽られはすれども女の子の手から離れることはなかった。
が、代わりに……。
「あー! お姉ちゃんの帽子が!」
「飛んでっちゃったぁ!」
遥か上空を、白いシルクハットが、くるくると舞った。
吹き上がった風が真上に向かって強く流れたらしい。さっきの風船とは比べ物にならないほど高くに、彼女の帽子は浮かんでいた。
風に髪を乱されつつ、少女は眩しい空を見上げる。細めた瞳が、白色を追う。
広い、青。どこまでも広がっている、青い空。
深い未知と慈愛を含んだ海のような空の中へ、白い帽子が小さくなって落ちていく。
少女は、その光景に憧れを見た。
開け放された自由な世界へ、後ろも見ずに進んでいく、たった一羽の白い鳥。
もう決して帰らない潔さと、手を離れていってしまう寂しさ。
二つの想いに胸を詰まらせた時――。
影が、よぎった。
一瞬だった。
視界の外から飛び出した影は、中央をかすめるように通り過ぎて、目を動かす暇も無く、再び外へと消え去ってしまった。
何が――。
「お嬢さん」
あっけにとられた少女は、ふと、後ろからかけられた声に振り向いた。
一段高い、階段の上。
すらっと長い、きちっと整えられた足があり、白い帽子を手に添えて立つ、男の人が現れた。
「お嬢さん。落としましたよ」
「あ、ありがとう……」
何とかそれだけを絞り出した少女は、まるで花束を受け取る様に、彼から帽子を渡される。
その手の中に戻る、シルクハット。
巣穴に戻った鳥のように羽を畳んだシルクハットは、居心地の良さに瞳を細めたようだった。
それに目を落した後で、顔を上げる。
少女は、今度は声も出せずに驚いた。
さっき一度視界に収めた、爽やかな笑顔が、そこにあったからだ。