影巡り重なる時、二人、旅立ちを
「う、うぅ……」
マルファが気づいた時。既に試合場の土の上だった。
涙で歪む視界を振り払って、辺りを見渡す。すぐ傍に、マルーバがいた。
「マルファ……」
「マルーバぁ。お母様が、お母様が……」
「うん……」
しゃがみこんだマルーバに、マルファが縋る。
嗚咽を隠して震えていると、じゃり、と、土を踏む音がした。
「マルーバ」
「……ゾア警部」
「用事は、済んだか?」
「ああ。たった今ね」
マルファの小さな背中を抱きしめながら、マルーバは呟いた。
「お前も難儀だな。誰からも認められない。存在があることすら知られてはならない稼業に身を費やすとは」
「……珍しいね。あなたがそんなことを言うのか」
かち、と音がして、細く吐く息遣いが続いた。
「仕事と情は別だ。混同はしない。が、……どう思うかは、俺の自由だ」
「なるほど。あなたらしい」
ぽんぽん、と、優しく背中をあやしたマルーバは、長方形のカードケースを取り出した。
一度中身を確認する。青、緑、桃色。三色が、きちんと穴に収まっている。
「影の中走り続ける気分はどうだ? そろそろ、楽になりたくないか?」
「なるほど。ここはもう、取調室というわけだ」
「そのつもりだ」
辺りには、先程蹴散らしたマフィア団の気絶した山。そして、蠢くように、無数の影が、闇の中で合図を待ちわびていた。
「自首なら、軽いぞ」
「それは魅力的だね」
「だろう」
「……でもね。僕は、走り続ける」
「なぜ」
「なぜか。なぜかな……。自分でもよく、わからないや」
マルファが、顔を上げた。
シャツをきゅっと掴む手のひらをあやしてから、カードケースを渡す。
マルファは、素直に受け取った。
「ただ言えることは……僕は、生きているんだ。だから、止まらない」
マルファと視線を切り、すっと立ち上がったマルーバは、ゾアの鋭い瞳を真っ向から受けて立った。
「マルーバ!」
「!」
何ものかが、上空から現れて、マルファの握るカードケースを奪い去った。
「あ、宝石が!」
「これで五つね。頂いたわ!」
鮮やかな手口。まるで魔法のように、彼女は残る二つの宝石も握りしめて、遥か上空へと跳び上がった。
「アリシア!」
「お疲れ様マルーバ! 最後の宝石も、しっかり見つけてくれたのね♪」
影が羽を広げた。紙飛行機にも似た人工の翼を広げた彼女は、丸い空を周回しながら高らかに言い放った。
「待て!」
「あら、ゾア警部。お仕事お疲れ様! でも自慢の鉄砲もここまで来れば当たらないわ」
「くそ……!」
「宝石を手に入れれば、世界中が力に慄いて私は意のまま! ああ、素敵! じゃあねマルーバ! 後はよろしく~!」
「アリシアさん!!」
「マルファ! あなたのこと嫌いじゃなかったわ! でもさようなら! 大切に使わせてもらうわ!」
ひゅん、と、消えた。丸い枠の外へ飛び出した飛行機は、風を頼りにすぐ姿を消した。
「……ゾア警部」
「なんだ」
「時間は?」
「なに?」
「今、何時?」
「四十八分。十一時」
いつの間にか近くに来ていたイルメアが、答えた。
「あと十二分。日付が変わるまで」
「そうか。ありがとうイルメア」
そういうと、マルーバは、マルファの下へしゃがみ、伝えた。
「マルファ」
「マルーバ……」
「すぐに諦めちゃダメだ。言ったね、あの橋の上で」
「……うん」
「待てる?」
「……。待つ。待ってるわ。あなたを、信じて」
「……ありがとう」
音も無く、唇をさらった。
マルーバは、三歩程歩くと、右手を振った。振り終えた手には、黒いステッキが現れていた。
そして、跳躍する。
一瞬で星空に紛れる程高く跳び上がった彼は、満月の中央で黒いマントをたなびかせた後、消えた。
「ふふふ! 力があるっていうことは、幸せだわ!」
呟きが、街に注がれる。何者も邪魔しない、平坦な夜空。
「使わずにちらつかせるだけで、全ての者が私の前にひれ伏す。そうなれば、欲しいモノは全て私のモノ……」
優雅な風が、グライダーを流していく。
大きな鳥が悠々と飛び、満月が羽を照らしていた。
「じゃあね! 水の都!」
街の中心にそびえる時計塔を過ぎれば、もう目立つシンボルは無い。
過ぎた瞬間に忘れ去る予定の街に挨拶を交わすべく、大きな時計を一瞥した彼女は、その屋根にたなびく影を捉えた瞬間、下げていた目尻を強張らせた。
「あ……!」
黒い鳥は、時計塔を過ぎ去った。
そして、そのまま進路を変えることなく、突き進んでいく。
満月には、人影が落ちていた。
「あ、あったー!」
「え~! テヴォ、もう見つけたの!?」
無邪気な手が、木の上で静かに暮らす木箱の中から引き出された。
その手には、緑に輝く、美しい宝石。
「テヴォ~! ローゼ~!」
「あ、お婆ちゃんだ!」
「イズお婆ちゃ~ん!」
するすると木の幹を降りていくやんちゃな子供達は、今手にいれたばかりの宝物を掲げて、優しげな瞳の前に差し出した。
「お婆ちゃん! 見てみて! これ! 今見つけた宝石!」
「どう!? キレイでしょ!? キレイでしょ!?」
「どれどれ。ああ、綺麗だねぇ。うん、とても綺麗」
「これスゴイキラキラしてるー! 僕、机の中にしまっちゃおうかなぁ」
「だめだよー! こういうのは、別の場所に隠す決まりでしょ! ね、お婆ちゃん、そうでしょ!?」
「そうだねぇ。それが、しきたりだからねぇ」
「えー。残念だなぁ~。他の場所に置いたら、しばらくしたら誰か見つけちゃうかもしれないじゃん!」
「うぅん。でもねぇ、テヴォ」
「なーに?」
「また誰かが見つけた時、テヴォと同じくらい、ドキドキするんだって考えたら、どうだい?」
「あー……。んー……。…………。それなら、いいかも!」
「じゃあ今度は隠す場所探そうぜー!」
「探そう探そうー!」
「ほっほっほ。気をつけるんだよー」
そんな平和な会話が響く街。
ディア・セーデの港では、今、一隻の船が出港しようとしていた。
「おっと……」
「マルファ様。お足元にご注意くださいませ」
「あら、船長さん。どうもありがとう」
白いドレスに身を包んだ老齢の女性が、帽子の広いつばの下から、優しい微笑を覗かせた。
挨拶に来た船長が、揺れにつられた彼女へ手を差し伸べている。思わず身体を任せたマルファは、椅子に導かれると、ゆっくりと腰を降ろした。
「ふぅ……。だめね。身体が言うことを聞かない」
「女王様は、ずっとこの国を守ってこられましたから。無理もありません」
出航の挨拶が済んだ彼女は、希望した通り、街並みを一望できるデッキに来ていた。特別に設えた椅子は、身体をゆったりと包み込んでくれる。青々とした空と、そよぐ風が、彼女の頬を労わる様に撫でた。
「ご旅行に出られるのは、いつ振りですか?」
「そうね。いつ振りかしら。公務では諸国へ出かけることもあったけれど、プライベートでは……」
「そうですか」
きゅっと、船長が制帽を整え直した。
マルファが、瞳を閉じた。海鳥の声が潮風に乗り、海上を賑やかせている。
「……一度」
「は」
「一度だけ、気ままに外へ出たことがあるわ」
「それは……」
瞼を開いたマルファが、遠のく街並を眺めながら、言った。
「私がこの位に着く直前。よく覚えているわ。あの頃の私は、とても、眩しかった……」
ざざん、と、潮騒が、相槌を静かに打った。
その静けさは、マルファが落とした言葉を良く知るように、とても深く頷きを伴い、そして消えた。
「もう五十年以上も前の話よ。それでも私にとっては、大切な思い出……」
「そうですか……」
船長も、マルファの視線を辿り、遠くを見つめた。
穏やかな波は、一刻ごとに小さくなっていく街から、二人を遠ざけていく。
それでもゆっくりとしているのは、別れを惜しむ彼女達を慮ってなのか。
「……あの頃は確かに眩しいかもしれませんが、しかし今は、いかがですか?」
「そうね……。不思議な気持ちだわ。身体は歳を取ってしまったのに、気持ちだけは、全く変わらず、あの頃のまま……」
「でしたら、やはり、あなたは変わらず、眩しいままです」
「あら。お上手ね」
笑い声が響いた。それは、青空にとてもよく合った声だった。
「それにしても、出航しているのに、操舵室にいなくてもよいのですか?」
一頻り笑ったマルファが、船長に尋ねた。彼は軽く首を振ると、口元を優しげに和らげて、言った。
「大丈夫です。私の代わりがいますから」
「おい、あれはなんだ!?」
答えた瞬間に、どこからか声がした。その瞬間、マルファを取り巻いていた従者も、思わず視線を彷徨わせる。しかし声が指さした対象はすぐに見つかった。
「あれ……!」
「時計塔の上に、誰かいるぞ!」
マルファが椅子の上から前のめりになり、船長も視線を投げかける。
彼らが注目する街のシンボルの上に、黒いマントをはためかせる何者かが、まるで主であるかのごとく大胆に、その身を太陽の下へ晒して街を見下ろしていた。
「マルーバ……!」
「お知り合いですか?」
「え、ええ。いえ、そんなはずはないわ。だって、マルーバは……」
「しばらく前から、消息を立っていますね」
相変わらず遠くを見ている船長に、マルファは思わず頷いた。
「そう。怪盗マルーバの名声が聞こえなくなってから、久しい……」
「でも、あそこにいるのは、マルーバで間違いありませんよ」
「どういうことかしら」
相変わらず、船長以外の者達は塔を見続けている。
しかし、マルファと、船長だけは違う。
お互いの瞳を交わした後で、船長は帽子を脱ぐと、マルファへ告げた。
「あなたには隠すことなくお話しましょう。マルファ」
「あなたは……」
「はい」
「私は……。いえ。僕は、マルーバ。元怪盗の、マルーバと申します」
「マルーバ……?」
「はい」
「では、あそこにいる方は……?」
「『怪盗マルーバ』という名前を継いだ、僕の弟子になります」
「ああ……」
マルファが時計塔に視線を戻すと、影はすぐに消えてしまった。
甲板で驚きの声が上がる。興奮冷めやらぬ様子で口々に予想を立てる声が、一定のリズムを刻み続ける波に交ざり始めた。
「本当に、あなたはマルーバなのね」
「そうです。人知れず影を追いかけましたが、あまりに走り過ぎてしまい、ここへ戻ってきてしまいました。…………心配したかい?」
「もう。どうして私の周りは、勝手な人ばかりなのかしら!」
「あははは。そうだね。ユニークな人が多かった。短い時間だったけれど、忘れられない……」
「マルファ」
「はい?」
「僕は役目を終えたけれど、君はどうだい?」
「私。私も、もう終わったわ。後は次の世代に任せるの」
「そうか。じゃあ、改めて僕たちの時間を、始めないか?」
「え?」
船長が、自らの制服を掴むと、勢いよく腕を振った。
その瞬間白い布が姿を眩ませ、拭い去った後には、老齢の紳士がそこには立っていた。
「あら……!」
「どうだい。イカしてるだろう?」
「ええ。とっても! でも困ったわ。私はもうお婆ちゃんよ?」
「関係ないさ」
マルーバがそっと手を握ると、静かにマルファを立ちあがらせた。
そして手の甲にキスを添えると、
「失礼」
「あっ……」
マルファの背中に手を添え、膝を包み、腕の中へ収めてしまった。
「おい! 貴様ァ!」
「何をやっているんだ!」
「君達。大事な主君から目を離すべきではないな。油断があるぞ」
「ふふっ……あはははは! マルーバ、あなたは教官に向いているわね!」
「そうかい? ああ、少し変わったらしい。まあ、悪い気はしないだろう?」
「ええ。とっても素敵よ」
それだけを聞くと、マルーバは跳躍した。
一度操舵室の上で水の都を一瞥してから、猫の如く軽やかに駆け降りていく。
そして、巨大な船の足元へ着けていた、小型ボートの上に着地した。
「マルファ様ぁ!」
甲板から声がする。マルーバの導きにより新たな椅子へ腰を降ろしたマルファは、白い手を振り、よく響く声で告げた。
「すこし家出します! あとは宜しくね!」
「おお、お待ちくださいマルファ様ぁ!」
「おい! 船! ボートを出せ! 早く!」
甲板が騒然とする。その賑やかさに笑うと、マルーバはボートを走らせた。
「さあマルファ! どこに行こうか!」
「そうね! とりあえず、東に向かいましょう!」
鮮やかな太陽が微笑む。海鳥が揺蕩い、波が祝福を上げる。
何も遮るもののない大海原を、白いボートが、今、轍を残して駆け出した。