時空の狭間で
夜空が、捻れた。
水面を揺らしたような歪みが中央から周囲に向かって広がっていく。
そこへ、赤い燐光を纏う影が四つ。
浮かび上がる様子を、現場に到着したゾアは静かに眺めていた。
「集まった? 四つ」
「らしい」
「なんと……」
紫煙を細長く吐き出す隣には、屋敷で指揮を執っていた老執事の姿もあった。
「マルファ様……」
「見守るしかないな。幸い、事は済んでいるらしい」
冷たい視線が、辺りを見渡す。
左から右へ一周した後、視線を足元に及ばせると、気を失った二頭身の太い男が転がっており、少し離れた壁際には、腰を抜かしたらしい男が泣きべそをかきながら座っているだけだった。
「うお……?」
「ここは……」
見渡すと、足元に白い靄が広がっていた。
「マルファ……!」
「ここにいるわ」
マルーバが彼女の姿を探して振り返ると、すぐ近くにマルファは立っていた。
振り向いた瞳は、赤い。
「大丈夫?」
「大丈夫だけど、ここは?」
「ここは、最後の宝石が眠っている場所」
マルファが、静かに指を差し向けた。
周囲、見渡す限りにどこまでも雲海が続いているような景色。その中に、白い階段が、ぼんやりと浮かんでいた。
「あったっけ?」
「わからん……」
思わずサヤがマルーバの問いに答えてしまうほど、その場所は幻想的だった。
太陽が三つ、浮かんでいる。それぞれ地平線の向こうから顔を出していて、一つを正面に捉えるとすれば、残る二つはそれぞれ斜め後ろ、左右に一つずつ。
それでいて頭上は暗い。鮮やかな白色から、橙、水色と変化し、最後には深い青色、黒と、変わらぬ模様を空に残している。朝と夜、そして終わることの無い夕焼けが一度に埋め尽くしていた。
「まあ、こんな場所で立ち止まっていても、何も始まらんな」
マスターが、一息吐いてから呟いた。
「とにかく、道があるんだ」
「……そうですね。進みましょう」
各々が、交わした視線に頷く。マルファが先陣を切って歩き始め、マルーバ、サヤが続き、マスターが殿を務めた。
「足元、霜が降った後みたいだね」
「そうね」
距離はあったが、会話はそれだけだった。
そして、着く。階段のふもとに来た四人は、一度立ち止まると、再び顔を見合わせた。が、すぐにマルファが一歩踏み出した。
マルーバが続く。そして、サヤとマスターも進もうとした。
「……っうあ!」
「どうした嬢ちゃん」
「壁が……」
「壁?」
マルファとマルーバが振り返ると、サヤが両手を突き出して、何かに触れていた。
「サヤさん?」
「どうしたのかしら」
振り返る二人だったが、声が聞こえない。
しかし見える姿に注目していると、見えない壁が階段を仕切ったらしかった。
「塞がれた?」
「……それか、私達だけが許された、のかも」
がんとして、何も受け付けない壁。
しばらくしてマスターがサヤの肩に手を置くと、彼女はすごすごと引き下がった。
向こう側から視線だけで促される。二人は頷くと、今度は振り返ることも無く階段を昇り始めた。
「わあ……」
頂上。長い階段を通り過ぎると、そこは広くすっきりとした平地があるだけだった。
「すごいね」
マルーバが振り返ると、いつのまにか階段の足元は薄く靄がかかり、見えない。
「でも、なにもない……」
変わったことと言えば、雲海が無くなり、暗い空に近づいたくらいで、他に変わりはない。
「やっと来たのね」
「!」
「待ってたわ」
突然声が響いて、辺りを見渡していた二人は一斉に正面を向いた。
すると、数メートル離れたところに、一人、立っていた。
「誰だ」
マルーバがマルファを庇いながら進み出る。すると彼女は、短く、愉快な様子で笑い声を上げた。
「いやだ。別に食べちゃおうなんて思ってないわ」
「なら……」
「待って」
「マルファ?」
庇う為に広げた腕を、マルファが静かに下げる。
そして二、三歩、歩いたマルファは、ぽつりと声を落した。
「……お母様?」
口元に手を当て、ころころと笑う女性。
その目尻は、確かに笑ったマルファと似通っていて――。
「久しぶりね! マルファ!」
はっきりとした声が、マルファに返る。
くびれた腰に手を当て、強気に口角を持ち上げる彼女は、そう言うと、再び肩を揺らして笑い始めた。
「お母様! 本当にお母様なのね!?」
「そうよマルファ。ずいぶん大きくなったのね? 私驚いちゃった」
一目散に走り出したマルファが、頭一つ分程背の高い母親に抱き着いて、無邪気に喜んでいる。
その様子に目を細めていたマルーバは、しばらくすると歩いて、二人に近づいた。
「しかも彼氏を連れてとか」
「あっ! 紹介するわ。彼、マルーバって言うの!」
「お初にお目にかかります。マルーバと申します」
「あら。いい男ね。マルファ、やるぅー!」
傅く男に微笑む母親は、娘を見やると、親指をぐっと立てた。
「お母様、どうしてこんなところにいるの!?」
「ん? それはねー。あ。その前に。マルーバさん。私が、マルファの母親のメルビナです。ここまで娘を連れてきて頂いて、感謝します」
「は。恐縮です」
「なによマルーバ。改まっちゃって」
「そりゃ、君のお母様って言ったら、凄い人だろう?」
「それはそうだけど。それで? どうしてお母様がここにいるの?」
「あら。何も聞いてないのマルファ?」
「何を?」
「私、ずっと『サンライト』の宝石を守る門番をしているのよ」
「は……?」
「だから、番人なの。番人。私、番人」
沈黙が流れた。何とも言えない空気の中、マルファが再び切り出す。
「えっと……。あの、お母様は、私は、お亡くなりになったって、聞いているんだけど……」
「やだわ。誰が言ったのそんなこと。あ、ロイスね! もう、いつも冗談ばっかり言うんだから!」
「え、えー……?」
「っていうのは、冗談なんだけどね」
「は!?」
小さく舌を出しながら、メルビナはウィンクした。
「ごめーん! しばらく誰とも合ってなかったから、つい冗談言っちゃった!」
「お母様ー!!!!!」
「ごめんごめーん!」
きゃいきゃいはしゃぐ女性と、その娘。
マルーバは苦笑いを崩さぬままに、こっそり溜息をついた。
「……そう。いろいろあったのね」
「そうなの。私自身、お屋敷の中にいる不届き者を混乱させるために家出したんだけど、あ、もちろん前からしたかったっていうのもあるんだけどね!」
「マルファ落ち着いて。まずは経緯を話すことだけ優先しましょう?」
「うん」
「それで、最後の宝石を受け取るために、ここまで来たんです」
「そうだったの。ありがとうマルーバ」
「むー。なんか釈然としない……」
我に返り、メルビナから離れたマルファは、マルーバと並んでメルビナに対していた。
「もうそんなに時間が経ったのね。あっという間だわ」
「お母様。どうしてお母様はここにいるの? 今度は本当に教えて」
「うふふ。私が門番をしていることは本当よ?」
「だ、か、ら!」
「嘘じゃないのよ。本当のことよ。そして、あなたに、私が死んだと伝えて欲しいとお願いしたことも、本当」
瞼を閉じて訥々と語った。その様子を見たマルファは、一度口を閉ざした。
「どうして……? どうしてそんなこと!」
「だって、門番を務める者はこの空間に閉じ込められちゃうんだもの。それを知ったらあなた、ずっと私を待ち続けるか、すぐにでも変わろうと躍起になるに違いないわ」
「でも! だって……!」
「……うん。あなたが悲しむことはわかっていたけれど、でも、それ以上にどう伝えていいのかわからなかったの。ごめんねマルファ」
「そんな……!」
とうとうマルファは、口を完全に閉ざしてしまった。
唇をかみしめ、眉根を寄せるマルファを見やるメルビナは、困ったように微笑みをたたえていた。
「……マルーバさん」
「はい」
「マルファ」
「……」
必死にこらえる娘の様子を見て、静かに息を吐いたメルビナは、改めて瞼を開けると、声を発した。
「一つ、問います。『汝、我に、何を問う』?」
瞬間、空気がピタリと止まった。
風が吹くでもない空間が、確かに、マルーバへ向けられた問の答えを聞く為に、その微かな動きすらも、今は止めた。
「問い……?」
マルファが、思いもよらない質問に、マルーバを見た。マルーバも、彼女を見返す。
メルビナは、動かない。ただ、答えをじっと待っていた。
「私達が、何を問いかけるか……?」
「ヒント……すら、ないようだね」
静寂が満ちた。完全に、世界から音が消えた。
何が問われ、何が答えか。全く無から生まれた質問に、二人はしばし、佇むことしかできなかった。
「……この空間は、時間の干渉を一切引き受けない」
メルビナが、語りかけた。静かに。神聖な樹木生い茂る森の中で、誰にも気づかれることなく、ぽつぽつと湧き出る泉の如く。
「加速する『速さ』それ自体を直接言い表すことができないように、時間として認識する流れ、それ自体を捉えることはできない。この空間は全ての時間を包括し、かつ一瞬に押しとどめている。そこに時間としての認識は成り立たない……」
マルファは、黙っている。マルーバも、静かに耳を澄ませていた。
「ならば、貴方達は何を想う? 何を欲し、何を手に入れたいと欲す?」
それ以上、メルビナは唇を開かなかった。ただ佇み、行方を見守っている。
「どういうこと?」
「わからない」
「時間は、意味をなさない……」
「そして、問いかけ、か」
マルーバの言葉を限りに沈黙した二人は、お互いの瞳を見つめた。
「……この場に呼ばれたのは、僕達二人だ」
「なら、私達に関係していること?」
「だと思う。サヤさんも、マスターも、現に呼ばれていない」
「私達、二人……」
「…………」
「…………マルーバ」
「なに?」
「今日、私達が出会ったのは、やっぱり、偶然、なのよね?」
「そうだね。多分、偶然じゃないかな」
「そうよね……」
「…………」
「…………」
「…………時間がもっとあれば、お互いにいろんなことを知れたのかもしれないね」
「そうね。たった一日にも満たずに終わるんじゃ、知っていることなんてたかが知れてるわ」
「……」
「……」
「……仮に」
「え?」
「仮に、時間の制約が無いとしたら、僕達は……」
「……かもしれない。かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「わからないね」
「わからないわ」
「……」
「それに、私は明日から、正式にこの国を総括する姫として、君臨しなければいけないのだもの」
「!」
「元から時間は、無かったのよ」
「そうか……」
「……」
「……」
「…………時間、か」
「…………時間は、想い」
「え?」
「時間があるからこそ、想いが積み重ねられる。積み重ねた分、想いは、強くなっていく……」
「なら、僕達には……」
「…………」
「…………時間が」
「?」
「時間が、仮に、この瞬間が永遠になったのだとしたら、僕達の想いは、想いは……」
「あ……」
「そうだよ。重ねた時間も大事かもしれないけど、僕達には、もう、今、この瞬間があるじゃないか!」
「でも、変わるかもしれない。本当は、違うのかもしれないわ」
「マルファ」
「!」
「信じるんだ」
「でも……」
「出会ったあの時感じた直感が僕と同じなら、ううん。僕と同じではないかもしれないけれど、君が感じた直感は、確かにそこにあったものだろう?」
「…………。…………あった。確かに、あったわ」
「なら、信じるんだ。感覚を。確かに覚えた胸の内を、ずっと」
「……………………。うん」
「決まった?」
「決まったわ」
「僕もだ」
「では、改めて聞きます。『汝、我に、何を問う?』」
メルビナが微笑む。マルファはマルーバの手を握り、マルーバがそっと握り返した。
「問いかけは……」
言葉を切り、息を吸う。
そして二人は同時に、その問いを口にした。
「問いかけは…………『この愛は、真実か、否か』!」
その瞬間、地響きが、マルファ達を襲った。
それでも微動だにしないメルビナが、聞き届けた言葉に頷くと、背後へ振り向く。
マルファがその先に視線を移すと、巨大な顔面を模した石像が、視界の大部分を隠す程大きな石像が、突如出現した。
『汝らの問い、確かに聞き届けた』
一言放たれるごとに、身体が震える。それほどの響きが二人を襲う。
しかし石像は、マルファ達に構うことなく、話し続ける。
『汝ら、この宝石を手に入れ、真実を問え』
がこん、と、口を模した箇所の分厚い壁が、沈んでいく。
見通せない暗闇が現れた中から、一つ、小さい光が瞬き、それは間もなくマルファ達の下へと飛来した。
「あ……」
「最後の、宝石……」
「『サンライト』よ」
メルビナが、静かに落ちてくる宝石を、包むように受け止めた。
そして、マルファ達に差し出される。その手の中には、燦然と輝く、黄金色の宝石が一つ、転がっていた。
「お母様……」
「持っていきなさい。マルファ」
こくんと頷くメルビナが、宝石を手にしたマルファに声をかけた。
「かつて戦乱を収めた宝石も、今となっては災いを呼ぶ力に過ぎない……」
「お母様!」
「私の役目もこれでおしまい。ああ! やっとロイドの元へ行くことができる」
「お母様!!」
「マルファ。あなたには私達がついているわ! だから、頑張ってね!」
「お母様ぁぁぁぁぁ!」
足場が崩壊し、投げ出されたマルファは、ただ、マルーバの胸の中で、母親へ手を伸ばすことしかできなかった。