窮地、一時離脱
一歩下がれば、一歩近づく。
アーチを描く橋の中央、マルファを背中に囲うマルスは、今左右の男女からにじり寄られていた。
「絶対絶命のピンチって感じ?」
「そんな感じだね。さて、どうするかな……」
左に見える男は、スーツのポケットに両手を入れたまま、サングラスの奥からじっとマルス達を睨み付けている。口元には整えられた髭、右頬には十字の傷。
一方で刃をちらつかせる女性は、右側から圧を放っていた。
「ちょ、ちょっとお話しない? 僕いいカフェ知ってるんだよ! えーっと……」
「サヤだ」
「さ、サヤさん!」
サヤと名乗った女性は、仕切り直すように刃を振るうと、長い切っ先を突きつけるように構え直した。
「あなたと話すことはない」
「あはは。取りつく島もないな」
ぼぉ~、と、汽笛が鳴った。マルスの苦笑いが、より色濃くなっていく。
「ねえ、もうダメかな」
背後から服を引かれたマルスに、後ろから声がかけられた。
「マルファ。そんなにすぐ諦めちゃだめだよ。良い手があるはずだ。探そう」
「でも、サヤも、ウォンも、すごく強いのよ? あなた一人じゃいくらなんでも……」
ざりっ。威嚇するすり足が、マルスとマルファを際へ追いやった。
マルファが足腰に硬質な石を感じて振り返ると、下には川面が見えた。
「追いかけっこは終わりだ。その方を返して貰おう」
「う、でもなぁ。僕、この子のこと、もっと知りたくなっちゃったんだよね」
「……どういう意味だ」
「君も男だろ? 聞くなよ」
サヤとウォンが微かに腰を落とす。空気の緊張がピンと張りつめて、一切の余裕を排除した。
その時。
「飛ぶよ!」
「うぇぇ!?」
「待て!」
マルスがマルファの細身を抱えると、一気に空へ躍り出た。
「ひゃああああ! やっぱりぃぃぃ!」
「ごめん! これしかなかった!」
ふわり。上昇する浮遊感は意外にもすぐに終わり、落下が始まった。
「わ、わ、私泳げないの!」
「君も? 奇遇だなぁ。僕もだよ!」
「嬉しくなーい! どうす……うわわわわ!」
落下を予測したマルファがマルスの胸に顔を埋めた。しかし、二人を迎えたのは、軽い着地音だった。
「えっ?」
「やあ、ちょうどだね」
静かに降ろされたマルファが立っていた場所は、水上バスの屋根だった。
「あ、あ、ああ」
「いやーよかったね! 一時はどうなることかと思ったけど!」
ふうー、と一仕事終えたマルスが額の汗を拭った。
「どうなることか、じゃないわよ! 来なかったらどうするつもりだったの!」
「いやでも、この橋に来る前から見えてたじゃない。ね、ね?」
「ね、ね? じゃなーい!」
マルファが地団太踏みながらマルスに抗議していると、下から野太い声が聞こえてきた。
「おい、お二人さん! 乗るなら運賃払ってくれよな!」
「ああ、悪いね船主さん!」
「二人合わせて四百クレッゾだ!」
船の後端に落ち着いたマルス達から見て、船主は三、四メートル程向こう側の斜め下にいる。
「はい、これでよろしく!」
窓から無理矢理身体を伸ばす彼へ、マルスは硬貨を投げた。
が、放物線を描いた硬貨は船主の手に渡らず、マルス達の前に着地してきた女性がキャッチした。
「あ」
「船主。私の運賃も含める。六百クレッゾだ。納めろ」
「うおお!? なんだあの姉ちゃん! 橋からとんでもない距離ジャンプしてきたぞ!」
「見るからに強者だぁ! こりゃひと嵐来るぜ!」
屋根の下にいる乗客が、身を乗り出して行方を見守る。
そんな船内と船主も碌に見ないまま硬貨を投げ渡したサヤは、改めて腰から得物を抜き出した。
「マジで? 彼女すごくない?」
「サヤはお屋敷の中でもダントツだから、仕方ないわね」
再び相対す。今度は川の上で、クリーム色の足場に身を任せたまま。
「おい、飛んできた姉ちゃん!」
「なんだ!」
「ドンパチやるなら金がたりねぇぞ!」
「いくらだ!」
目標から目は逸らさず。サヤは声を上げた。
マルスとマルファは、交互に声を張り上げる二人へ視線を右往左往して見守る。
「運賃より一桁は上がらねぇと振り落とすぞ!」
「なぜ私だけに言う!」
「あんたが始めなきゃ、戦いはおきねーだろーが!」
「くっ……」
サヤが、得物を離した左手で、斜め後ろにサインを送った。人指し指を一本立てている。
「これでどうだ、船主!」
「わかったよ! 仕方ねえ! 一万クレッゾで勘弁してやらぁ!」
「千だ馬鹿者! 一万なんて大金が出せるか!」
「ちゃっかりしてるねあの人」
「そうね。いやだわ」
「おい! こっちを見ろ!」
マルス達が会話していると、サヤが叫んだ。ほんのり、赤くなっている。
「愚弄して……。許さん!」
構え直したサヤが足に力を込めた、その瞬間。
「はぁーいマルーバ!」
「なっ……」
「えっ?」
水上バスへ並行するように、一台のバイクが水面を走ってきた。
「あれ? アリシア!?」
「奇遇ね! 何やってるのこんなところで?」
「ちょうどよかった! 乗せて!」
「えっ、ちょ、きゃああ!?」
軽やかに二つの影が舞い降りた。急な増員にバランスを崩した大型バイクは、ぎりぎりのところで姿勢を保つ。
「おい、貴様ぁ!」
「ごめんサヤさん! もう少しデートさせて! アリシア、飛ばしてくれ!」
「なんなのもう、仕方ないわねぇ……」
「ちょ、わっ、ひあああああ!?」
スロットルが解放されて、モーターが唸りを上げる。
急な加速に頭を持ち上げたバイクは、そのまま、白い轍を残して足早に突き抜けて行った。
「残念だったなぁー飛んできた姉ちゃん!」
「……ふん。少し時間が伸びただけだ。船主! 次の停泊所で降ろせ!」