月夜、闇を駆ける
影が、路地裏を駆け抜けた。
見通せない程の闇の中を、軽快な足音だけが進んでいく。追っ手が照らす灯りの環でも触れないほど進んでしまった革靴は、一つ、大きな音を鳴らして、その存在を路上から消した。
「くそ! また取り逃がした!」
「マルーバめ! どこに消えたぁ!」
三方を高い壁が埋める袋小路に、無念の声が残響する。
軽やかな背中で受け止めながら壁の縁へと着地すると、彼は再び疾走を始めた。
次々に流れ往く景色。決まった高さに均された屋根達を背景に、月夜を疾走する影は素早く進む。足を瞬時に入れ替えて、道が無くなれば跳び、着地しては走る。屋根瓦へ、衝撃さえも後へ残さず駆け抜ける。
雲無く月見守る土色の絨毯は、一人、彼の独壇場だった。
しばらくして街の中心まで来ると、彼はその脚力を活かし、聳え立つ時計台の頂点目指して跳び上がった。
急激な角度。常軌を逸する跳躍は速度を保ったまま天を指し、放物線は落ちる間際にようやく彼へ失速を命じる。
無言のままに受け止めた彼も、抗うことなく風にマントをなびかせて、硬い傾斜へ着地した。
とっ、と降り立つ。
風が、いくらか強く吹いた。
一陣の風が吹き抜けた後、彼はゆっくり、その傅いた身を起こした。
月明かりに煌めく革靴。折り目正しく流れるボトム。微笑む純白を秘めるジャケット。赤いネクタイ以外に目立った色を纏わない男は、たなびくマントとシルクハットに全身を黒く染めながら、鋭利な瞳で街を眺めた。
静かだった。全く、喧騒も聞こえない。
ぽつぽつと煙突から立ち昇る煙と、賑わいを予感させる橙色の明かりだけが彼に暖かみを感じさせる。
そんな眼下の景色に目を細めた後で、彼は、ポケットから一つの宝石を取り出した。
右手の人指し指と親指とで柔らかく摘み上げ、月に掲げる。
輝く宝石は優しく透いて、暗い世界を青色に染めた。
満月、というにはまだ少し足りない月に、惹かれる瞳を近づけて覗く。
丸い片眼鏡のレンズ越しにも、その儚い星々は、確かに光を放っていた。