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[かかさまが縫ってくれた手袋]

作者: 飛騨の猫

主に、昭和十六年から、昭和二十年頃の私の体験談です。

                                             かかさまが縫ってくれた手袋

              金子 金造

  はじめに

 おりは、昭和十年四月一日生まれ、平成二十年現在、七十三歳で有る。

  最近、ど忘れ、もの忘れが多くなったが、小学校の頃がやたらと思い出されるので、思い出した事を色々書いて見る。

 小学校一年生から小学校五年生の頃がやたらと思い出される。

 小学校へ入学したのは、昭和十六年四月、この年の十二月六日が大東亜戦争勃発の年である。目をつぶると今その場所を見ているかのように、目の奥に映し出る、小学校から新制中学校卒業まで勉強嫌いのおりが本を書くなどとは、とんでも無いことである。


 文字を書く事など全く不得手であった。小学校二年生頃の国語の時間に、文字を書きながらエンピツを眺めて思った事がある、この『エンピツ』に向かって「おいエンピツ字を書け」と命令をしてエンピツの頭に書きたい言葉を話せば、エンピツが勝手に文字を書いてくれれば楽できるのになあ・・・と。

 今は、このワープロがあるので不勉強のおりでも字は書くことが出来る、但し、段落の場所も分からない、、や。も入れる所が良く分からんが、適当な所へ入れておく、また、標準語も良く分からんので、おりが普段使っている言葉で書く、標準語への通訳は書かない。

 おりが生まれた所は岐阜県吉城郡郡古川町字大野である。

 現在は、町村合併で岐阜県飛騨市古川町大野になっている。

生まれ育った家は、田、五反、畑、三反ほどで当時の小作農家で、多人数の我が家の経済はかなり苦しかったと思う、大東亜戦争の最中で商店等にも物の無い時代で、ひもじい思いさえしなければ 良い 時代であった。


 その頃の思い出を書く。

 その頃の家族は、年の多い順に、祖父じさまとっつあまかかさま長男あんにゃま次男じゅうぞうあんにゃま、あんにゃまの嫁、《ねえちゃん》、三男くにあんにゃ長女みよねえ次女かずねえ本人おりたえの十一人であった。

長女は3歳、次女は二十歳で亡くなっているので、みよねえは三女、かずねえは四女、たえは5女で、かかさまは、9人の子を産んだ大した母である。


 じさまの事。

 じさまは、おりが小学校二年生の冬二月に亡くなったが、生前は百姓仕事の合間に、家から50メートルほど離れた小屋で、藁うち仕事をしておいでた、小屋は小さな藁葺き屋根の小屋で、壁は無いも同様の麻柄を立てかけた粗末なもので、まわりは田んぼと畑で冬の吹雪の時などは、雪が吹き込んで寒かった事と思う、藁仕事は、秋に収穫した米を入れる〔俵編み〕や、おりたちが履く「わら草履」を編んでおいでた、当時はおりたち子供や大人も普段は「藁ぞうり」を履いておった、その「わら草履」は一日か二日ですり切れるので家族の履く「藁ぞうり」を確保するのは大変だったのである。

 そのじさまが亡くなった小学二年生の冬を今でも思い出す、雪の多い年であった、一月の末、早朝まだ暗い時刻にじさまの小屋が火事で焼失した、前日の焚き火の残り火が藁くずに燃え移ったのであろう。

 じさまは火事に気づかず夜あけるまで寝ておいでた、朝飯後、仕事小屋へ出かけようとするじさまに、かかさまたちは「きょうはさーぶいで藁仕事は休みないよー」などと火事で小屋が焼失したことを知らせまいとした、が、じさまは小屋へ向かおうするので、火事の事を静かに話した、「あのーなーじさまえなーゆんべ火事で小屋が焼けてまったんやさー、がっかりせんようになー」じさまへの心配りである。

 それを聞いたじさまは「ん、・・・そうかそしゃ見てだけくるわい」と小屋の焼け跡を見て帰ってきた「やっぱ燃えてまってなんにもなかった・・・」そして寝床へ入って寝込んでしまったのである。

 亡くなったのはその後一週間ほどであった、診断は老衰とのことであったが仕事小屋が火事でなくなったのが大きなショックだっのだろうか、八十三歳であった。

当時、葬儀は自宅で行った、お通夜が有り、本葬を行い、火葬する、その火葬場が〔ナカンガラ〕に有る。

 おりの家のまわりは田んぼで、集落の家が点在していた、家から小道を50メートルほど〔ナカンガラ〕の方向に歩いた所に、じさまの仕事小屋があった、小屋を通りすぎて4〜50メートルほど行った所の野原が〔ナカンガラ〕である。(中川原がなまってナカンガラ、つまり昔の中州の事と思う、じさまの小屋の跡すぐ近くには現在も石積みの古い堤防が残っている)〔ナカンガラ〕の一画は当時から現在もこの集落の墓地になっている、当時は墓地のすぐ傍が火葬場になっていた、火葬場といっても、野原に直径2メートルほど、深さ1メートルほどにすり鉢型の穴を掘っただけのものである。

 棺に収めたじさまの遺体は、葬儀の日、家での午前本葬後、午後〔ナカンガラ〕の祭壇へ運ばれて野の葬儀を行い火葬された、棺のまわりに薪を積み火を炊く、夕方から翌日の早朝まで、親戚や近所の男がめんどうを見る。

 骨のみとなったじさまの骨を、家族や親戚で骨壺に骨拾いをするなどして数日間の葬儀は終わる。


〔とっつあまの事〕


 冬、雪が降り積もった季節は、田畑の仕事が出来ない事と、小作農家だけでは家計がもたないこともあって、現金収入のため、冬になると《とっつあま》は〔とまりやま〕に出かける、〔とまりやま〕とは何か、主に、建築用の材木を切り出すため、山奥に小さな小屋を造って、(小屋とは名ばかりで極、粗末なものだったそうである)材木を切り出すため現場に泊まり込んで木こり仕事をする。

 町の材木商からの請負で、数人のグループを組んで、松や、杉、檜などの伐採から町の製材所まで運搬仕事を行う。

 当時は、材木の有る山までは徒歩のみで、自動車道など全く無い、人力の荷車が通れる道からさらに山奥が材木の伐採現場である。       切り出す材木量や、場所によってグループの人数や、仕事始めの時期は色々であるが、〔とまりやま〕の準備は秋の農作業が終わり次第始める。


 〔山小屋〕作り、〔きんま道〕作りから始める、〔きんま道〕とは何か、荷車の行き止まり、その奥は当然のこと伐採現場までの道は、けもの道程度のものしかないので、伐採した材木を引き出すための道が必要になる、里からの荷車の道の最奥行き止まりまでは〔きんま〕と呼ばれる道具(〔ソリ〕の一種)を使う、〔きんま〕は堅い材木、樫の木で頑丈な作りのもので、全長二メートルほど、重量も大人がやっとこさ背負う事が出来るほどの〔木製のソリ〕である。

 その〔きんま〕に材木を積んで荷車道まで引き出す道が〔きんま道〕である、伐採現場の地形によって、さまざまであるが、急坂有り、平坦有り、谷有りの山中に幅1メートルほどの道を人力だけで、長い場合は数キロメートルにも及ぶ大仕事である。

 特に大変な仕事は、谷を渡る〔桟橋〕をかける事である、〔桟橋〕の材料は現場で調達出来るとしも、高さ数メートルの柱を立て、桁でつないで橋を作る、橋とは名ばかりで、足を置く板など無い、一メートル弱の間隔に横棒が有るのみで素人では、足がすくんで渡れない橋である。  〔きんま〕に積んだ材木は、数百キログラムに達するので頑丈に作る必要がある。

〔とまりやま〕の準備の、〔山小屋〕や〔きんまみち〕は冬の雪に降り込められない内に済ます。同時に、米、味噌、塩、醤油、などの食料を小屋に蓄える、最低限度の寝具も運んで用意をする。

 〔とまりやま〕の準備作業が完了すると、山小屋に泊まり込んで伐採仕事を始める、立木を切り倒し、余分な枝木を切り払い、定尺の長さに切り揃え、〔きんま道〕の最奥の付近に集積する、立木は、あちこち、ばらばらの場所にあるので集積場所まで運ぶだけでも、力、技術、経験が必要な仕事である。

 山小屋での食事は、朝、昼、夜とも自炊生活である、その時の山の地形により、条件は色々あるが、まず水を確保する必要があるが、小屋の近くに細くても谷川が有れば好条件だが、そのような好条件は少ない、多くの場合冬の水は、小屋の周りに降り積もった雪を溶かして飯を炊く、その他、風呂など当然無い、着替えも極僅か、原始時代に戻ったような生活をしながら、長い時は一ヶ月ほど家え帰らない。

 伐採作業が一切りすると、〔きんま引き〕でふもとの荷車が通れる道まで材木を運ぶ作業を始める、きんま道は急な下り坂や、難所の桟橋、平坦な所など様々な道で、平坦な所は人力で〔きんま〕を引っ張る、きんま道には、横棒を適当な間隔に(鉄道線路の枕木の様子)地面に伏せてあるので、平坦な所は横棒の上面に油を適量塗りながら、きんまを引く、きんま引きもこれまた重労働である、きんま道の終点に着くと〔きんま〕から材木を降ろす、ほっと一息だが、即、次の仕事が〔きんま〕を背負って、きんま道の始発地点へ戻る事になるが、〔きんま〕は頑丈な作りになっているので、重量はかなり重い、当時、それ以前は、山から材木を切り出す仕事は実に大変な作業で有った。

〔きんま引き〕を終わるか、又は、平行して〔きんま道〕の終点から、荷車による町の製材所までの〔荷車引き〕で材木を運ぶ仕事に移る。


 荷車で山道を奥へ向かう事は当然上り坂であり、空車でも人力で荷車を引くのは重労働である、ここで綱引きの〔犬〕が必要で、おりが子供の頃、綱引き用の犬が飼ってあった。先代の犬は、〔クマ〕と言う名で力は強かったそうである、(このクマは、おりの2〜3歳頃の犬ではっりと覚えていない)そのクマは雌犬であったが、気の荒い犬で〔とっつあま〕以外の人の言う事は絶対に聞かないヤンチャな犬だったそうである。

 その〔クマ〕が生んだ子犬の〔タマ〕が二代目の綱引き犬である、この〔タマ〕は雑種ではあっても、実に賢い忠犬だった。

 〔町の製材所〕までの材木運び等、請負の仕事が完了すると、その仕事を請け負っていた連中で、山算用をする。

 つまり、手間賃の山分け??である、山算用は連中の内、誰かの家を宿にして行う、おりの家で宿役をした事も有った、 まず、それぞれ手配をして、酒、魚、等の酒盛りの準備から始める、不慣れな手つきの男共が、胡瓜をきざんだり、塩イカを輪切りに裂いたり、塩鯖を焼く人、うどんをゆでる人、ただでもせまい家は、山連中に乗っ取られて、おりたち子供は邪魔者扱い、せまい部屋へ押し込まれて、障子の穴からその様子を見ているだけだった、金銭の分配が無事終わると、お祝いの酒盛りで夜遅くまで盛り上がる。

 〔とっつあま〕の山仕事は〔とまりやま〕だけではない、山仕事の内に〔はるき山〕と言う仕事がある。〔はるき山〕とは何か、まず〔はるき〕とは何かを説明する。当時、農家など一般家庭は炊飯や、おかずを炊くには薪を使うのが普通であった、又、いろりに薪を焚く、その薪のことをおりたちは〔はるき〕と言った、薪のことを何故〔はるき〕と呼んだか、その薪は里山の雑木林から切り出す、楢の木などの雑木の自生した若木を主に切り出す、その切り出す時期が二月から三月頃春先に切り出すことが多いため〔はるき〕と呼ぶ。

 二月、三月に何故、木を切り出すのか、薪にする木は山のあちこちに点在する。切り倒して、定尺の長さに切り揃えてから、荷車道の近くに集積する、その集積する手段に、ソリとか、山の斜面が急勾配の所は藁で編んだ特殊な道具を使い、雪を利用することにより、労力が軽くなるため、山に雪が有る内に木を切り出す、又、農閑期でもある。

 ところが、おりの家には持ち山が無かった、自分の山を持っている家の〔とっつあま〕は、自家山から自家用分の〔はるき〕を切り出して自家用に使うが、おりの家には自家山が無いので、自家山を持っているが、男手が無い家とか、大地主の〔はるき〕を切り出す仕事をして、切り出した〔はるき〕の数割を、その手間賃として頂き、おりたちの家の薪を確保したのである。

 夏

 おりの家から、じさまの藁小屋の跡を過ぎて〔ナカンガラ〕を通り過ぎると堤防が有る、〔ナカンガラ〕とこの堤防が〔タマ〕と共に、特に小学校頃の思い出として心に残っている。

 この堤防を上り超すと大川に達する、この大川がおりたちの夏の遊び場所であった、この堤防は昭和の初め頃、造られたものである。古い石垣の堤防と新しく造った堤防の間にある田畑や近くの集落を洪水から守るもので、〔ナカンガラ〕から川下へ200メートルほどで途切れているが、川上の方の古い堤防と合流するまで3〜4キロメートルほどが昭和の初め頃に造られた。この堤防の大きさは、川側の水面からの高さ13メートルほど、陸側で7メートルほど、川側の下部9メートルほどは石を積んだ石垣の形で、上面は土を盛った幅4メートルほどの人手だけで造った堤防である。

 現代のように土木作業用の重機の無い頃、川側の石積みは70年ほども洪水に耐えきた事に当時の石工職人の技術のすごさに感心する。

 但し、平成16年の9月の大洪水には一部分が流された、〔ナカンガラ〕から上流へ200メートルあたりで長さ80メートルほどが、上面の土盛りの部分が崩れたが、〔ナカンガラ〕の墓地付近が浸水した程度で墓が流れるような急流が流れ込む事もなく、この堤防の威力に又感心した。


 この平成16年の大洪水は、この川の洪水としては前代未聞の大洪水で、岐阜県と富山県の県境付近ではJRの高山線の鉄橋が数カ所で決壊して、JRの列車は北側は、富山県側で折り返し運転、南側では飛騨古川駅までで折り返し運転していた、高山線の鉄橋が洪水で落ちるなどの被害は高山線開通以来の大洪水であった。

 川の名は「宮川」と言う名の川で、高山市の宮村の分水嶺が源で、富山県に入り神通川となって富山湾に流れ込む。

 この川をおりたちは、大川と呼んだ、堤防から向こう岸まで100メートル以上は充分有る大きな川である、この大川は、夏、おりたちの水浴びの場所であった、学校にも町にもプールなど無い時代である。夏は渇水期のため水量は

多くなかったが、深い所は2メートルから4メートルほど、急流も有り、緩やかな水流も有るが、今から考えれば非常に危険な、自然の大川である、子沢山のその時代、近所の子供たちで夏場は賑っておった。危険な場所であったが、おりが子共時代、この場所で水の事故は無かった、川幅の大半は石ころの川原で、泳ぎの上手な者は川を泳いで横切って向こう岸の川原へ遊びに行く、おりも三年生頃には向かいの川原まで泳げるようになった、命綱の浮き輪を付けて。 その川原の所々に水たまりが有り、水たまりは普通の冷たい水もあれば、暖かい水のたまりも有る、冷たい水たまりには、うぐいや、はやなどの体長一センチほどの小魚が群れている、この小魚を手ぬぐいで捕まえる、目的は、生きたままの小魚を飲めば泳ぎが上手になると先輩に聞かされて、本気になって 小魚を捕まえて飲んだ。口の中でピチピチと跳ねるやつをゴックンと飲み込む、特に味は覚えていない。

 大川での水あびには大切な決まりが有った、大川へ入る前は胡瓜を食っては駄目なのである、百姓屋の子供のおりたちは、おやつ代わりに胡瓜を食った、皮を剥き、縦に半分に包丁で切る、切り口に塩を付けてこすり合わせる、畑からの取り立ては、結構うまかった。


 なぜ大川で遊ぶ時、胡瓜 を食っては駄目なのか、大川には〔ガオロウ〕が潜んでいるからである 、ガオロウは胡瓜が大好きで胡瓜を食った子供を見付けると、その子供のゴモンジキを抜くと先輩から教えられていたので、大川で遊ぶ前には絶対に胡瓜は食わなかった。(ガオロウはたぶんカッパだと思うが、ゴモンジキとは何のことか未だ分からない・・)


蜂の巣。

 夏の頃の子供たちの大仕事に蜂の巣取りが有る。足長蜂は民家の屋根のひさしとか、石垣とかに巣を作って[蛹]を育てる、蜂が高い所に巣を作る年は台風が少ない、また低い所に巣を作る年は台風が多いと言ったが、本当かどうかは分からない、悪ガキ連中の誰かが巣を見つけると[蜂の巣取り作戦]が始まる、

屋根のひさしとか高い所の巣は、長い棒で巣をツッイテ落とす、ところが蜂も大切な巣を落とされては一大事であるので、おりたちを攻撃してくる。

 攻撃の方法として、おりたちが持っている棒を伝って[ブァー]と来る、頭とか顔を目掛けて攻撃してくる、おりも刺されては大変なので手に持った棒を放り投げて逃げる。

 この蜂とおりたちとの攻防を数回繰り返して巣を取れるか、諦めるかその時の成果は色々であった。

 悲惨なのは、見事に蜂に一発くらった時である。『アッツイタタタ・・・・』すでに時おそしである。一発くらうのは主に顔であり、目の近くをやられる、やられた数時間後から、ぼつぼつ顔がふくれ出す、その翌日の朝頃には、顔はパンパンに腫れ上がり、目は太った、お相撲さんの目のように、横長の細い細い目になって人相が別人のようになる。

 刺された直後の手当としては、アンモニャ溶液を塗る、大豆の青葉をつぶして青汁を塗る、川蟹を叩きつぶしてその汁を塗る、ジャガイモをすり潰して湿布する。上記の四点は蜂にやられた時は全部試したが、ジャガイモの湿布が一番効果が有ったように覚えている、年に一二回はやられた。


 巣の利用方法は、蛹の幼虫が美味い、巣から蛹を取りだし、桑の青葉に乗せて塩を少々ふりかけて桑の葉でくるみ、囲炉裏の熱々の灰の中へ押し込んで蒸し焼きにすれば『一丁上がりである』なかなかの珍味である。

 又、蛹を魚釣りのエサに使うと、うぐい、むつ、はや、あぶらめなどが良く釣れた、ミミズなどより格段によく釣れた。

 だから危険を知りながらも、蜂の巣取りは止められない大仕事であった。

 近所の〔風変わりおじさん〕に蜂の巣取りの方法を教えて貰った事があるそれは自分の手に『蜂公、蜂公取って食うぞ、蜂公、蜂公取って食うぞ、蜂公、蜂公取って食うぞ、』と三回指で書き、棒や、道具無しで素手で蜂の巣を取れば良いとの事であったが、どうも信用出来ず試した事は無い、絶対に無理だと今でも思う。あの時おじさんに手本を見せて貰えば良かったのに・・・・・・。


 蜂のついでに地蜂にやられた話

 小学校三年生の初秋、日曜日天気の良い午前、家の近くの田んぼで遊んでおった、田んぼは数日前に稲刈りが済んで、稲をハサにかける準備中であった。おりが田んぼのあぜ道をピョンと飛び越した瞬間、おりの頭の上空にブワアー音と同時に、おりの頭に十数本の毒針を打ち込まれた。後から分かった話で地蜂の総攻撃を受けたのであった。当地方の地蜂は、体長は日本ミツバチほどの大きさで小型であるが、蜂は蜂であり、刺されると痛むし腫れる。この地蜂は名前の通り地中の穴に巣を作る、直径15〜20センチほどで、三層、とか四層の巣で幼虫から蛹を育てる、何処かの地方で『ヘボ』とか言われているやつと思うが、この幼虫が珍味で、巣の在処を見つけると[地蜂捕獲作戦]で地蜂の巣を、親地蜂から横取りする、巣を取る主な方法は、昼間に場所を確認しておき、夜親蜂が巣で休んでいる時を見計らって、線香花火などの花火を竹筒に仕込んだ、火炎放射器で親蜂の出入り口から熱と煙、ガスを吹き込んで親蜂が気絶して間に、鍬とか鋤きでゴッソリと掘り起こして幼虫の入った巣を持ち帰るのである。

そこで、おりが何故地蜂の攻撃を受けたか?である、おりが、さっき飛び越したあぜ道は、昨夜、田んぼの持ち主のおじさんが[地蜂捕獲作戦]を行った、その翌日であったため、ゆんべ、ガスで気絶しておった親地蜂が、目を覚まして怒りの絶頂に有った所へ、おりが通りかかったのであった。親地蜂たちは「憎い憎い人間やろう」と敵討ちの総攻撃を決行したのである。

帽子をかぶっていなかった、おりの頭はボコボコになった、「痛かったーー」        冬。

 当地方は冬になれば必ず雪が降り積もる、その年によって雪の多い年、少ない年と色々有るが全く雪が降らない事は無い、近年の積雪で38豪雪とか、56豪雪とかには、当地方でも2メートルほどの雪が積もった、平年並みの積雪は50センチ〜から1メートル以内かと思う。 家からの小道を元〔じさまの小屋跡〕を過ぎて〔ナカンガラ〕を通り抜けた所の提防、この堤防に雪が積もると、小学生の頃のおりたちには、ちょうど良いスキー場になる、学校から帰るとすぐに、この堤防スキー場で遊んだ。

 もちろん、スキー靴や、スキー服など無い、ゴム長靴でスキーを履く、そのゴム長靴も、当時、簡単に買えるものではなかった、店、等には多少は売って有ったらしいが、ゴム質が粗悪で、破れやすかった、おりが履いていた長靴は、小二の時、学校の配給品の長靴である。

 学校への配給品も数が少なくて、一クラスに二足程度のため、欲しい者が多い場合、くじ引きで決めるのが通例であった。おりも欲しい仲間の一人として手を上げたところ、先生がクラスの全員に問いかけてくれた、「金子くんの家はこのクラスで学校から一番遠いんやで、二足の内一足は金子くんに買わせてやってくれんかなあ」と、そしたら、皆が賛成してくれた。

 この長靴は、大事に大事に履いて、五年生頃まで履いた、靴の文数は覚 えていないが、五年生頃まで履けたということは、二年生の頃は、〔だぶだぶ〕であった、足に合わない大きな靴を履くために、後の話の藁草履作りに出てくる〔スクベ〕が活躍する。〔スクベ〕とは何か??、稲から米を脱穀して、残るものが、藁、である、その藁、で藁草履とか藁縄とかを作る、米のなる稲が育つ時の下葉、(若葉)が藁、の根本に残っておる、それを〔スクベ〕と呼び、藁草履や、藁縄を作るには邪魔になるため〔スクベ〕取りをする、専用の道具が有り、手際良く取り払う、この〔スクベ〕は、稲の下葉で柔らかい、保温にもなるし、大きすぎる靴を履く時の大きさ調整にもなり、一石二鳥の優れものである。但し、一日か二日で新しい〔スクベ〕と取り替える必要があった。

 この長靴も、二年生から四年間も履く内には、傷が出来たり、破れが出来る、現代であれば廃棄することになるが、当時は、その破れた箇所に、ゴム切れを、ゴム糊で貼り付けて補修をして使った、大げさに言えば、補修の上に又補修で靴本体より、補修で貼り付けた部分のほうが多いくらいであった。


 堤防スキー場の斜面は一定であるが、直角に滑り降りれば急な角度になり早い速度で滑れる、但し距離が短い、堤防の斜面を斜めに滑ればその角度により、なだらかに長い距離を滑り降りる事が出来る、日曜日などは近所の子供たちで賑わったものである。          スキーだけではない、ソリとか、竹スキーとか子共たちがそれぞれ得意な滑り道具で遊んだ、おりもスキーだけではない、ソリでも滑って遊んだ、小三頃にはそのソリは自分の手作りである、色々と変わった形のソリを作った、中に《舵取りソリ》がある、ソリ本体の前に少し小さい目のソリを首振り状態にして取り付ける、本体に自分の尻を乗せて、足で前の小さいソリを操縦して左右に舵を取るのである、一号機の試運転、なだらかに滑った時はやや上手く行った、ところが、急な斜面を一気に滑った時、本体と舵取り部分の連結がボッキリと折れてしまった。

 なんの、これくらいの失敗はよく有ることで又作り直す、数回繰り返した。

 滑り道具の中に竹スキーがある、子供が自分で手作りする、材料は太さ10〜15ミリで、長さ80センチほどの笹竹を使う、秋頃山から取ってきて用意しておいた材料である、5本ほどの笹竹を板の形に幅方向につなぐ、これはキリで穴をあけて針金で縛る、80センチほどの長さに5カ所ほど縛る、筏状にして一枚の板が出来る、これの先端を普通のスキー板のように火で炙って加熱し曲げる 、慎重に作業をしないと焦げたり、折れてしまって使い物にならない。

曲げた先端をに紐をくくりつけて仕上がりである、紐は馬の〔たずな〕を想像して頂けばよい、この竹スキーですべるには普通のスキーのように足を乗せ、たずなを手で引きながら滑る、引き加減により速度が速くなったり、遅くなっりする、技術を要する道具である、極端に急な斜面を滑る時は速度を制御するために、たずなを強めに引く、緩やかな斜面は、たずなを緩めればそれなりに良く滑る、材料が笹竹であるので表面がツルツルで、ロウやワックスを塗る必要がなく良く滑る竹スキーである。


 スキーの板。

 スキーの板は、当時、木材を削り出した、単材のものが多かったようである、現在のような合成樹脂を混ぜて合板したものが有ったか、どうかは、おりにはわからないが、おりのスキー板は近所の友達が羨むほどの立派なものであった。

 このスキーはおりで4代目の兄弟が受け継いで使用していた。 一代目、新しく買って貰ったのは、くにあんにゃである、当時の我が家には新しいスキーなど買う経済に余裕は無かったそうな、兄弟中ちよっとヤンチャな、くにあんにゃは、スキー買ってくれー・・スキー買ってくれーと親にぐずったが、なかなか聞き入れて貰えなかったそうな、ここで二十歳で亡くなった、〔きよ〕ねえちゃんが登場する。

 その頃の我が家や、小作農家の娘たちは、小学校高等科二年を卒業すると都市部の方の紡績工場へ働きに出かける事が多かった、〔きよ〕ねえちゃんも小学校高等科二年を卒業するとすぐに、岐阜市近辺の紡績工場へ働きに行った、もちろんのこと工場の寮生活で、帰省するのは夏の盆、冬の正月と二回ほどである、この〔きよ〕ねえちゃんの顔は、おりはよく覚えていない、二十歳で亡くなったのは、おりが4.5歳の頃だと思う、家へ夜中に紡績工場から〔きよ〕ねえちゃんが危篤との電報が入り、早朝、慌ただしく両親が出かけた事を、うろ覚えに覚えている、両親が紡績工場へ着いた頃にはすでに意識が無かったそうな、急性肺炎で亡くなった、両親は遺骨を抱えて帰ってきた、悲しい出来事であった。

 スキーの話に戻そう、にくあんにゃがスキーを買ってくれー・・とぐずっていたのは〔きよ〕ねえちゃんが紡績工場へ働きに出てから何年目かは、おりには分からないが〔きよ〕ねえちゃんが正月に帰省している時、寝言にスキーを欲しい・・・スキーが欲しいと、くにあんにゃが言うのを聞いた〔きよ〕ねえちゃんが「そしゃ私が代金の半分持つで買ってやりないよ」と両親に言ってスキーを買う事になった、スキーの値段は一円八十銭だったとか聞いたような気がするが、はっきりとした覚えは無い、若くして亡くなった、優しい〔きよ〕ねえちゃんだったのである。

 生前の写真を見ると、ほんとうに綺麗な〔きよ〕ねえちゃんであった。

くにあんにゃの寝言の件は、本当の寝言なのか??くにあんにゃの策略かは不明であるが、何となく偽の寝言で有ったからしい。

 このスキーは、くにあんにゃが大切に使い、次にみよねえが使い、次かずねえが使い、四代目がおりで、五代目妹のたえも使った、おりが小学校頃、当時は、大東亜戦争の最中でスキーなど買ってもらえる状態では無かったが、くにあんにゃを含む兄弟5人が使う事が出来た立派なスキーであった。

                                          〔かかさま〕の事。


 冬、スキー遊びや、ソリ遊びになどに欠かせないものは手袋である、当地方は海抜500メートルほどで当然、雪が降り気温も低い。スキーの時、杖を持つには手袋は必需品である、が、物の無いその当時、簡単に手袋など買えない、店、等には売ってあったかどうか、おりには分からないが、平成二十年の現在物が溢れている今日、想像も出来ないような時代の話である、おりたち子供も、物がたしない事が分かっていたので、あれ買って、これ買ってとはあまり言わなかった、お下がりでも立派なスキーを持っている事は近所でも鼻高々であった、但し手袋無しでは、手がつめたくて我慢出来ない。           かかさまは、子供のころ学校へ出して貰えない家庭に生まれた不運なひとで、文字はひらがなを書くのが精一杯であったが、裁縫など上手で足袋などの難しいものでも何でも縫ってくれた。

 もちろんミシンなど無い、糸と針で縫うのである、縫うのはほとんど夜なべ仕事で仕上げる、寒い時期はコタツで、おりたちに色々話ししながら・・・、足袋だけではない、学校への服とかズボンとかも兄たちのお下がりで、あちこちにツギがあった、大きな穴になっている所は他の古着の丈夫な布きれを当てて直す、足袋は、大きい子から小さい子までその子の文数に合わせて縫うのである。足袋は立体的に縫い上げる必要があるので、材料の布を裁つのに、型紙が必要である、かかさまは、この型紙も自分で作った、古い足袋を分解して、型紙を作る、何々文(文は当時の大きさの単位、現在の何々センチ)の右足の親指側、小指側、底側など一足の足袋に数枚の型紙が必要になる。こはぜは、古いすり切れた足袋から取り置きしていたものを繰り返し使う、現在のリサイクルの先駆者でもあった。

 手袋を縫うにも最初は型紙を作る事から始める、古雑誌などの紙に、おりの手を乗せて鉛筆で指のまわりをなぞって手形を書く、その後、立体になるための幅などの余裕や、縫い代を付けた紙の型を作り、その型紙に合わせて布を切るのであるが、布きれでも貴重な時代である、布きれを切る前に古雑誌の紙で試験台の手袋を作る、そして、おりの手に古紙を糊で付けた手袋をはめて見る、小指が長すぎるなあ・・とか親指がちょっと短いかなあ・・・とか型紙の調整をしてから布きれを型紙に合わせて切る、布きれはもちろん新しいものでは無い、その他の古着の残った部分の丈夫そうな所を使う、一枚では冷たいので4枚ほど重ねた手袋を縫うのである。

 こたつで、幾晩か夜なべ仕事の結果、手袋は縫い上がった、布の色は今は覚えがない、手にはめてみると、なんとなくぶかぶかの感じがする、そこでおりが文句を言った、「なんじゃらしらんがブカブカや」かかさまの答え、「わりゃ何にも知らんくせに文句を言うなキチキチの手袋は冷たいんや使ってみりゃわかるわい」おりは納得できんまま黙った。

 次の朝、一月半ばで寒い、たぶん零下5〜6度でもあったろうか、近所の信太郎を誘って、堤防スキー場へ行った、もちろん『かかさまに縫ってもらった手袋』をはめて・・・・信太郎の手袋は大人の軍手の古いのをはめている、おりは『かかさまに縫ってもらった手袋』である。しばらくの間いつものように堤防スキー場で登っては滑り、登っては滑り、転んでは起き、を繰り返していた、信太郎は、おりより二学年下でスキーもおりよりちょっと下手なため、転ぶ回数も多く、ズボンの尻も濡れてくるし、手袋も濡れて、「手がつめてい」と悲鳴を上げるようになった、おりも数多く転ぶので、ズボンのしりも濡れてきたし、手袋も外側は濡れてきたが、手はちっとも冷たくない、逆にホカホカする感じがする。

 ついに手が、つべとうて我慢がてきない信太郎が、おりに言う、「かねちゃんの手はつべとうないか??おらあ手がつべとうてどもならんで帰る」そこでおりは、信太郎に言った「あのなあ、おりの手袋はかかさまが縫ってくれた手袋で、ゆんべ出来たばっかのホカホカの手袋や、信ちゃんもこの手袋はめてみよ」と〔かかさまに縫ってもらった手袋〕を信ちゃんにはめさせた。信ちゃんは「ああ・・のくとい手袋やなあ・・」信ちゃんは暫くの間、おりの〔かかさまに縫ってもらった手袋〕をしたまま、スキー滑りをしておった。おりは、黙って眺めながら心の中で思った、「この手袋はかかさまが縫ってくれた手袋やで、のくたいんや」。

 〔かかさま〕は、上手なことは裁縫だけでは無い、〔じさま〕の話で〔じさま〕は、おりたちが普段履く藁草履を作ってくれていた事を書いたが、〔じさま〕が亡くなった時、おりが言った言葉に「〔じさま〕が亡くなったで藁草履を作ってくれる人が、おらんようになったで こわい」と言ったそうな、それを聞いた〔かかさま〕は、「そしゃ、おりが草履を作るわい」と藁草履を作る練習をして、おりたちの草履を作ってくれた。戦後色々な物資が出回るようになり、ゴム草履とか、ゴム靴など容易に買えるようになるまで、わら草履も〔かかさま〕が作ってくれたのである。

 しかも、藁草履作りは、冬仕事で農作業が忙しくならない内の仕事であった。

〔かかさま〕が、藁草履を作ってくれていた頃の思い出に、次のような事も有った、藁草履を作るには、藁打ち作業がある、藁、つまり、米のなった稲から籾(籾を籾すり、精米して食べる米になる)を脱穀したものが、藁であるがその藁から、まず〔スクベ〕を取り払う、〔スクベ〕とは何か、稲が育つ時の若い下葉で、藁草履を作るのには、邪魔になるので、この〔スクベ〕を取り払う、この〔スクベ〕は他に利用価値があるので、適当量保存して置く。(〔スクベ〕の利用方法はゴム長靴のところに書いた件が主な利用法)、藁の茎から上、全部を材料にして草履を作るのであるが、藁打ち作業から始める。稲が立っている必要が有ったため、藁は堅い、堅いままの藁では、草履を編む事ができないので、藁を打つ、藁を柔らかくするのが、藁打ちである。藁打ちは、草履作りだけではない、縄などわら細工には、ほとんど必要になる、わら細工の事を、藁打ち仕事と呼ぶほどの藁打ちである。〔かかさま〕の草履作りの際、女手では藁打ちは、力仕事で大変なため、おりたち子供が手伝う。

 普通の農家には、藁打ち場が有る、土間の一画とかに、直径30〜40センチほどの石を半埋めにしたものを台にして、その上に藁束を乗せて、木槌で叩く。木槌は直径15センチほど、長さも15センチほどで持ち手が付いていて、かなり重い、藁束を左手で持ち、右手で木槌を振るうのが大人の藁打ちであるが、子供には木槌が重くて片手では振れないので、おりたち子供は一人が藁束を持って藁が根本から、先っぽまで平均に打てるように、前後や上下に藁束を動かし、もう一人が両手で持った木槌を振った。

 〔かかさま〕に、「きょうは、藁束十束打たんと遊びにいってはだしかんぞ」

と言われて、しぶしぶ藁を打ったのである。

 普段は、優しい〔かかさま〕であったが、おりが時々訳のわからん事を言って「やんちゃ」をふむと「このおだけめが」と叱られた、「このおだけめが」と叱られて収まらない時は「あのな、わりはな、宇津江の橋の下に〔アジカ〕に入れて捨ててあった子やで、わからん事言うと橋の下へ返すぞ」と叱られた。

 この宇津江の橋は、大川の向い山、谷沿いの集落への橋で、当時は板張りの吊り橋で、所々に木の節穴があって、子供の足なら踏み抜きそうな〔おすがい〕橋であった、このような何となく不気味な橋の下に捨てて有った〔おり〕だとすると、また橋の下へ返されてはどうにもならんで、ちっとは、ええ子にせんなららんかなと思ったものである。


 愛犬タマの事。

 タマは、〔とっつあま〕が荷車 を引く時の綱引き犬で、〔とっつあま〕が荷車で材木引き仕事の時は一生懸命、真面目に良く働く犬であった。餌は、現代のようなドックフードなど全く無い時代で、冷や飯ご飯に味噌汁のブッカケが多かったが、綱引き仕事の時は、魚の骨などを食べさせてあった。雄犬、体の毛は茶色で雑種、体長はやや大きめで、後ろ足で立ち上がると小学校一年生のおりの身長より高いほどであった。タマはおりが小学校一年生頃二歳ほどだと思う。当時は犬を鎖でつないでもあったが、放し飼いの時間もかなり多かった、鎖から放しも家からむやみに遠くへ行く事も無く、家の周りの田んぼや畑で用を達したりして遊んでいた。

 夕方適当な時間になると〔とっつあま〕がタマを呼ぶ口笛を吹くと、どこからともなくタマは現れた。〔とっつあま〕の口笛は、ピーーとは鳴らない、「スイーー」「スイーー」とかすれた口笛だったがタマには〔とっつあま〕の呼ぶ声だとすぐ分かったらしい。         冬、タマが退屈そうな顔でいる時は、堤防スキー場の平面を犬ぞり仕立てにして遊んだ、ところが、家から離れる方向へ走る時は、後ろを振り向き振り向き、不安そうな顔をして、もたもたとしか走らない、あちこち走り廻ってから、家への帰り道へ向かうと、タマ全速力で走る、おりがソリから振り落とされても知らん顔で家まで一目さんに走るタマだった、タマに遅れておりが家へたどり着くと、何となく申し訳なさそうな顔で、チョコンと座って待っておった。

 又、ある時の話、〔とっつあま〕の友人の黒川さんが60キロメートルほど先の町まで荷車を引く用事があるので 「綱引きにタマを貸してもらえんか」と頼まれた、〔とっつあま〕は「どうぞどうぞ」とタマを友人に貸した、ところが次の日、黒川さんが「すまん事した、出先の町でタマが行方不明になった」と謝りに来た、〔とっつあま〕は、「心配せんでもええでな、タマは賢いで帰ってくるさ」と、一生懸命歩けば十数時間の距離やで、タマは賢いで必ず帰ってくるさ〔とっつあま〕は言った。

 タマは、三日過ぎても、一週間過ぎても帰らない、帰って来たのは一ヶ月ほど経ってからであった、普段、遠くへ出かけた事の無いタマには、かなり冒険旅行であったのか、少し体は痩せていたが、一ヶ月間何を食べていたのだろうか、日数はかかったが帰って来たので、やっぱりタマは賢い犬であった。

 タマは、綱引き仕事の無い時は、家の周りで、ごろごろしたり、のんびり昼寝をしておった、その目の前を飼い猫の三毛が通ると、さあ大変、三毛を追っかけ回すのである、じゃれて追うなんて程度のものではない、とっつかまえて噛みつく勢いで追いかける、三毛は背を丸めて、逆毛を立てて立ち向かうとはするが、体格の差が違い過ぎる、逃げるが勝ちとばかりに家の周りに有る、棗の木に駆け上って逃げる、猫は木登りは得意でタマの手の届かぬ高さで、「ここまでおいで」と上からタマを見下ろしている、タマは残念そうに暫くは木の下で三毛を見上げて、うろうろしているが、やがて諦める。

 ある時、おりは〔かかさま〕に聞いた、「どうしてタマは三毛をいじめるんやろう」すると〔かかさま〕は「あのな・・三毛は家の中へ入れてもらえるけど、タマは家の中へ入れてもらえんで目の敵にしとるんや」なるほど、当時、犬を家の中で飼ってあるのを見た事は無かった、都会ではどうか知らんが近所にも犬を飼ってある家は有ったが、犬を家の中で遊ばせたりするのを見た事は無い。〔タマ〕の寝床は外ではなく、家の勝手口の土間の一画の箱であった、その土間から家の中へ入ったのを見た事は無い。

 三毛は鼠から金子家の米を守るガードマンであるので、自由に歩き回っておった、当地方では、猫に首輪を付けたり、引き綱を付けるなどは絶対に無かった。 三毛は名のとおり、黒、茶、白のよく見かける三色猫であるが、現代よく見かけるペットでは無い。


 農家では、秋、収穫した米の自家保有分(家族が来秋の収穫まで食べる分)を保有米として家に保存して置く、この米を狙って鼠が出没する、この鼠を退治するのに欠かせないのが、鼠の天敵『猫』である、我が家の米のガードマンが三毛である、三毛もタマ同様、良く働く猫で、おりたちが囲炉裏の周りに居る時に鼠を捕らえると、見せにくる、まだ生きている鼠を、一瞬放すと鼠は逃げようとするが、即捕まえる、これらを繰り返し、暫くの間遊んでから、鼠の頭からバリバリと骨を砕く音を立てて食う、尻尾からとか食ったのは見た事が無い、必ず頭から食う、しかも床などを汚すことは絶対にしない、きれいに食べる。家族が寝てから捕らえた時などは、寝ているおりたちの枕元へ来てニャーゴ ニャーゴと鳴いて知らせに来る、おりたちは「そうかそうかよくやった」と褒めると安心して離れたとこへ行って食う。

 この三毛は雌猫で、時々子を産んだ、もちろん猫母乳で育てるが、母乳離れの時期になると、子猫に鼠を与える、これは猫が鼠を捕る事を教えるためか、まだ生きている鼠を子猫の前に放す、子猫であっても、さすが猫である、三毛が放した鼠を四匹の子猫が突進して捕まえて、子猫同士取り合い合戦をしながら、たちまち平らげる、が、子猫たちは自分の口の周りなど血だらけになる、

親猫三毛は床など絶対に汚さないと先にも書いたが、子猫どもは未熟で下手。

タマの話に三毛の話が入ったがタマの話に戻す、昭和十九年頃になって、戦争は、ますます厳しくなり、物資や食料が全国的に乏しくなって、我が家も農家であったが、供出米を多く出す事が強制的にもなり、われわれ農家でも、麦飯とか、サツマイモ入りご飯とか食料の節約が厳しくなり、戦争時代のため〔とっつあま〕の材木引き仕事も無くなった事などが重なって タマは隣町の広瀬町の船川さんの家へ貰われて行った。

 今になって考えても見て、その時は悲しいとか、タマが可哀想とかの覚えは無い。     広瀬町の船川さんの家へ行くには道路を通って行くのが普通であるが、船川さんの家は堤防を通って川上へ行くのが近道で、4.5キロメートル行ったあたりの堤防の近くに船川の家が有った、船川さんの家がこの堤防の近くで有ったことが、タマには 幸運で、時々我が家へ遊びに戻った、たぶん船川さんのご主人が「タマわりゃ親家へ遊びに行ってもええぞ、そやけどちゃんと帰ってこいよ」と言って放してくれたのかと思う、

遊びに戻ったタマは、家の周りで暫くゴロゴロしたり、〔とっつあま〕を見つけるとシッポがちぎれるほど振り、甘えたりした、夕方、薄暗くなるとタマに〔とっつあま〕が話しかける、「タマよ、わりゃ広瀬へ貰われて行った子やで、今日はぎょうさん遊んだで広瀬へ帰れ」〔とっつあま〕の顔を見ながら話を聞いたタマは、くるっと体の向きを変えて、家から堤防までの小道を全速力で走り、堤防の上を川上の広瀬町の方向へ、また 全速力で走り船川さんの家へ帰って行った。

 タマが我が家に遊びに来るのは毎日ではない、時々であった、月に何回かなど割合は覚えてはいない。

 タマの里帰りは二年間ほど続いた、冬、二月初め頃、おりがいつものように堤防スキー場で遊んだ帰り道、〔ナカンガラ〕 の一画にある農機具小屋の軒下に茶色いものが有る事に気が付いた、さらに近づくと犬が寝そべっている、毛色から察するとタマに似ている、もっと近づくとタマである、「おーいタマわりゃそこで何しとるんや」と声を かけても反応が無い、すぐそばまで近寄りよく見ると、目をつむったまま動く様子がない、すでに死んでいる事が分かった。手で触って見ると冷たい、体はコチコチになっている。

 おりはそのまま家に帰り、〔とっつあま〕に言った、「タマが〔ナカンガラ〕の小屋で死んどる」〔とっつあま〕は慌てもせず「そうかタマは自分の死期が分かって生まれ故郷へ戻って死んだのや」タマの亡骸を見てから、スコップと鍬で、タマの埋葬の用意をした。埋葬の場所は、金子家の墓屋敷の隅っこに穴を掘って埋める、穴を掘り終わると藁を敷き〔すくべ〕を敷きタマをそっと寝かした、タマに〔すくべ〕を着せ、藁を重ねて着せて土をかぶせながら〔とっつあま〕がタマに話しかけた、「本当は、動物は家の墓屋敷には埋めれんのやけど、タマ・・わりは家の仕事を良く手伝ってくれた、ええ子やで端っこやけど墓屋敷に埋めるで・・・」土をかけ終わると、その上に近くに有った石をそっと乗せた、おりはすぐに分かった、 石はタマの墓と・・・。


 今、考えてみて、その時やたら悲しかった覚えは無い。

先日(平成二十年六月)〔ナカンガラ〕の墓地へ行ってみた、六十数年経った今もタマの石は墓地の隅に有る、おりはタマの石をそっと撫でて、「タマ」、綱引きを一生懸命がんばってくれて有り難う、あの時遊んでくれて有り難う。石がぼーとかすんで見えた。

                                           小学校時代。

 小学校入学は、大東亜戦争勃発と同じ年の昭和十六年四月。おりは四月一日生まれで、いわゆる七つ上がり、昭和十六年の四月一日現在満六歳で小学校入学、同じクラスの中で一番年が若い、昭和十五年四月二日以後十六年の四月一日まで生まれが同級生である、つまり、おりは同級生の中で一番チビッコである、ためか?体もクラスで前から二番目ほど、痩せぎみで体力弱く、運動会は大嫌い(全部の科目も出来ない)皆からは忘れられた存在同然であった。

 大戦突入時期ではあったが、教科書などは新品のもので普通の本やノートも買ってもらった。カバン(ランドセルのことをカバンで通用した)も新しいものを買ってもらった、そのカバンは皮革とはかけ離れた材質で作られたものでとにかく堅い堅い、がんがんのカバンであった、材質は多分[グラスファイバー]とかで出来ており、丈夫さは天下一品だが重い重いカバンであった。                                    学校から帰って家の床に放り出すと、ガンガラガンと音がして床板の方に傷が出来るほどで、このカバンは全く壊れず、六年生まで背負って学校へ通った。

 小学一年生の先生は、女先生で石山成子先生だった、普通の授業の他に、紙芝居を見せてくれた時、紙芝居の幕を開ける紐を引っ張りながら、「チャンチャカチャン、チャンチャカチャン」とおどけて見せたのを今でも覚えている。 雪の降るとき、校庭に黒い大きな幕を敷いて、雪の結晶をハッキリと見せたり、春先に校舎裏の田んぼで、蛙の卵の観察をしたり、時には、金子くんは授業中にボケッとして他の事を考えておる!!だめ!!と叱られたりした。(エンピツ ワープロの事考えていた時かも・・・・・)

 二年生になっても同じ石山先生だったが、同じ女先生なのに、船川先生に変わった、名前は成子で変わらず、船川成子になった。家で〔かかさま〕に「どうして先生の名字が変わったのか?」と聞いたら「あのなあ石山先生は船川と言う家へ嫁にいかはったでや」とのことであった。

 同級生のクラスは三クラスで、小一と小二は、全クラス男女混合のクラスであったが、三年生からは、男子組、女子組、男女組に組み替えになった、おりは男子組になった、先生は男先生で当時、学校の先生の中で一番怖い先生と評判の、戸川先生で四年生まで二年間戸川先生の受け持ちだった。

当時は、軍国主義の真っ最中で、小学三年生の子供にも、体育の時間など得に厳しく、戸川先生は体育の先生で、ビシビシとしぼられた、運動場を裸足で飛んだり、跳ねたり、走ったり、木刀を振ったり、夏場は上半身裸であった、動きの鈍い子には、背中に一発平手で、バシッツとくる、あの大きな大人の手形が小さな子の背中いっぱいに、真っ赤に残る。

 おりも何発かくらった事が有る、夜、風呂に入るとヒリヒリと痛かったが、後遺症が残るような事は無かった、時にはホッペタに平手ピンタなど貰った事も有ったが、その時痛かっただけで済んだ、今時なら暴力教師だ、何だかんだと騒がれるかも知れんが、当時は叱られ上手で叱り上手だったかも知れない。

家へ帰っても学校で叱られた事など親には話さなかった、なおさら叱られる可能性が有る。

 戸川先生は、冬の期間、外での体育が出来ない時は、色々な本を読んで聞かせてくれる先生でもあった、中で、鎮西八郎為智(字が違うかも??)という弓の名人の話などを覚えている。

ストーブ当番

 冬になると、各教室にストーブが入る、ストーブは板金屋さんの手作りで鉄板で出来ていて、小判型、縦80センチ、幅60センチ、高さ50センチほど、薪ストーブである。小学校三年生以上の生徒は朝、自分たちでストーブの火を焚きつける。ストーブの火を焚きつけるには、席順に従ってストーブ当番を決め、日替わりで順番にストーブ当番を受け持つ、ストーブ当番は他の生徒が登校する前にストーブに薪を焚き、部屋を暖めて置く必要があり責任重大であった、杉葉と穂枝を持って、他の生徒より2.30分程早く登校する。ストーブの薪は長さ30センチほどの太い木のため、マッチだけでは着火出来ない、そこで杉葉と穂枝が必要になる、杉葉は個人で秋頃、山の杉林から拾ってきて保存しておいたもの、穂枝は、〔はるきやま〕の話に出てきた〔はるき〕の原木の小枝で、マッチで杉葉には簡単に着火する、杉葉から穂枝に燃え移り、次に太い薪に火が燃え移る、この方法は各家庭で薪を焚く時用いる主な方法である。 ところが、生徒の中には時間ぎぎりだったり、薪に上手に火が付かなかったりして、他の生徒が登校してきてもストーブがまだ燃えていない時がある、そんな時は悪ガキが、ストーブを棒きれで叩きながら、「はよ燃やせ、はよ燃やせ、今日の00君はかいしょが無い」とはやし立てる、但し、みんなで助け会ってストーブに火が入り暖かくなる。

 冬はストーブで弁当を暖める話。                            昼食は学校に近い家の生徒は、各自、家に帰って食べる、現代のように給食など全く無い時代である、おりたち学校から遠い生徒は弁当持参で学校へ通った、弁当持参の生徒は四分の一ほどの数である、昼食前の三時間目にストーブに弁当を乗せて暖めるのが通例であった。

 鉄板製のストーブの上に直接弁当箱を乗せるのである、ストーブの上面面積に限度があるので、二段三段と重ねて乗せる、ストーブの火力の強い日は下段の弁当箱のご飯は焦げ付きになる、お釜のお焦げどころではない事も有った。

その日のストーブの火力を見ながら、弁当箱をストーブの何処の位置に乗せるか、ストーブの火力が弱い時は一段目が適温であるので、二時間目と三時間目の間の休み時間は、ストーブに弁当箱を乗せる駆け引き合戦であつた。

誰が決めたと言うこともないのに、一旦乗せた弁当箱は、焦げようがどうなろうが動かさない、面白いルールみたいなものが有ったのである。

 兵隊さん送り。

 大東亜戦争真っ最中で、町から村から兵隊さんが出征して行った、出征兵士は汽車に乗って行く。                                        おりたちが授業中に先生から号令がかかり、「これから兵隊さん送りに行く」と、おりたちは、手に日の丸の小旗持って(A4サイズほどの和紙に絵の具で赤丸を描いた粗末な旗)駅前の通りに整列して暫く待ち、出征する兵隊さんが付き添いの人たちと列を作って駅舎へ入るまで、「万歳万歳」と日の丸の小旗振って見送る、出征兵士が駅舎へ入ると次は出征兵士が乗っていく汽車を見送る場所まで移動する。鉄道線路は校舎の裏側、三百メートルほどに有るので線路に平行した道路で汽車の通るのを待つ、おりたちは、また、「万歳万歳」と小旗を振る、汽車に乗った出征兵士たちは、汽車の窓から身を乗り出して手を振ったり、帽子を振ったりして出征して行った。

 何十人見送ったか人数は分からないが、あの時見送った人たちの内 何人が無事故郷へ帰れたであろうか、大勢の人たちが戦場で亡くなった事を私たちは忘れてはならない。

 おりの家の〔あんにゃま〕もおりが三年生の時出征した、少し後から〔くにあんにゃ〕も出征して行った、出征兵士の家族は、〔あんにゃま〕や〔くにあんにゃ〕が汽車に乗って離れるまで 駅のホームで 見送る、が、おりは、万歳万歳なんて言えなかった、ただ黙って遠ざかるの見ていた、涙が流れた。

 富山市空襲。

昭和二十年夏の夜、時間は覚えていない、飛騨の上空を大きな飛行機がゴウゴウと轟音を響かせて北の方向へ飛んだ、富山市をアメリカの爆撃機B29が空襲しているとのことである、北の方向の山の空が赤く染まって見える、ここ古川町から富山市までは百キロメートル近くも有るのに、空が赤く見えるとは相当大きな火災になっている。                       頭の上を飛んでいるB29は爆弾を持っているので何時、おりたちの所へも爆弾を落とすかも知れん、電気や明かりは絶対に付けるな!!と誰かが言った、おりたちは、家の外で防空頭巾と毛布をかぶり、怖さでふるえていた。!!!


 昭和二十年八月終戦。

 おりが小学校五年生の、昭和二十年八月十五日、学校できょうは玉音放送が有るので、謹んで聞くようにと校内放送を聞いた、ラジオで天皇陛下の直接の話が有るとの事である、おりたちは教室で直立で校内放送のラジオから聞こえる玉音放送を聞いたが、何の事だかちょっとも分からなかった、先生からの説明も何にも無かった、家へ帰ったら、かかさまと、ねえちゃんが「日本は戦争に負けたんや、あんにゃまも、くにあんにゃもアメリカに殺されて帰ってこんかも知れん」と部屋の隅で泣いておった。まだおりには何の事か分からなかった。翌日学校へ登校しても、特に混乱とか先生たちが特別な話をしたとか覚えは無い。

 やがて、日本が戦争に負けて大東亜戦争が終わった事は分かった。

暫く日数が経ってから、インドネシヤのスマトラ島に行っていた、あんにゃまや、一時期、満州に行っていた、くにあんにゃも無事、復員して来た、おりは嬉かった事をはっきりと覚えている。


 終戦直後。

 この頃は、食料と共にあらゆるものが不足した時代であった、空襲で爆撃を受けた都市部での食料不足は、皆様ご存じの通りで、おりたち田舎は、まだ条件は良い方であった、が、物不足に加えて停電が有った、(電気も物かなあ)事故や故障の停電ではなく、電力会社が、元でスイッチを切るのである、火力発電の石炭や、石油が足りないための対策だとかである、水力発電も有ったはずだが???その頃の家の電気は、電灯が二灯とラジオが一台のみ、他の電気器具など無い時代、その停電は夜、夜中ではない、一般の家庭の夜食の時間帯に予告無しに突然電灯が消える、停電時間は長くて一時間程度だったと思うが食事中の停電にはまいったものであった。

 戦中からだったと思うが、タバコも自由に買えない時期が有った、おりはタバコには関係ないが〔とっつぁま〕たちはタバコが無いのは命が無いも同様だと嘆いていた、トウモロコシの毛を乾かしてタバコの代わりにしたり、時には栃の木の葉っぱを乾かして細かく刻んでタバコの代わりにしたり、タバコはそんなに美味いものかなと思って見ておった。


 新制中学一年生頃に教科書が学校を通じて生徒に配布された。国語や算数か、科目は覚えていないが、その教科書は新聞紙状態の一枚か二枚の形で、それをページが揃うように折りたたんで、糸で綴じて教科書を使った事も有った。

 新制中学二年までは、小学校と棟続きの校舎だったが、小学校と離れて新制中学の校舎が新築されて三年生は新しい校舎へ通った。

 その新しい校舎が建築中の二年生の夏休みに、校舎を建てる材木を引きだしに駆り出された。山の奥で伐採された材木を、荷車の道が有る所まで人力で引き降ろす作業である、〔とっつあま〕の事で書いた〔きんまみち〕と同じ作業であるが、桟橋は無く、〔きんま〕は使わず、細かい丸太で作った仮設の道を太くて大きな、長い丸太に付いたロープを、運動会の綱引きの要領で引っ張る作業であった、十二歳程度の子供の労力では、僅かな仕事量にしかならないが、働く事の大切さを感じさせるための体験学習で有ったのだと思う。


 終わりに。

 この年代に育った私たちは、戦中戦後の食料など物不足の時代から、現代の物の豊富な時代 になるまでの急変の時代を経験した、この後どんな時代に変化して行くのであろうか、物不足の時代も今になると懐かしい思い出でである。不細工で格好悪かった『かかさまに縫ってもらった手袋は、のくとかったなあ』


  読んで下さった方へ


 私ごとき素人が書いた、下手な文を最後までよんで頂いたことに感謝します、有り難うございました。


  ご意見、ご感想をお聞かせいただければ、なお幸いです。


  岐阜県飛騨市古川町増島町6−26

    金子 金造


 e-mail kinzou-k@wingbb.net












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