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兄さま


 突然、俺は頬を叩かれた。

 目の前にいる、長い黒髪と青い目をした、カラフルな民族衣装に身を包んだ少女に、である。

 思いっきりだ、頬が熱い。



ハイヴィさま……」



 俺は目頭に涙を溜めたが、叩いた女の子の方も目頭に涙を溜めていた。なんだろうあの表情は、口惜しさや懐かしさ、愛情や、やるせなさ、困惑と安堵、様々な感情が入り交じったような混沌とした顔をしている。



「えっと……」



 俺はどうにか声を出した。



「キミは誰だい?」



 女の子の表情が豹変する。これはわかりやすい表情だった、怒りだ。

 怒りのまま、女の子は再び平手打ちを繰り出してきた。ああ、こんなときでも赤いラインが見えてしまう。攻撃予想の赤いラインは、空気を読まず俺の視界に浮き上がる。

 俺はつい反射で、その赤いラインを避けてしまった。

 女の子の渾身の平手打ちが、空振りに終わった。勢い余って一回転、体制を崩した女の子は足をもつれさせて、その場に転んでしまう。



「なんで避けるんだ兄さまっ!」


「あっ、いやごめんつい!」


「兄さまに避ける資格なんかないのにーっ!」



 女の子が、わぁわぁ泣き出した。「え? その!?」と俺も狼狽える。

 周囲がザワついてきてしまった。

 特に俺のところに並んでいる子供たちが、ザワついている。

「まだー?」とか「痴話げんかはあとにしろ」とか、皆早くパンとスープが欲しいのだ。



「はいはいはーい、今配りますからねー? ……ちょっとミチカズ、ここはわたしにまかせて、貴方ちょっとあっち行ってなさい!」



 オーレリアが横から俺が手にしていた木製のおたまをもぎ取り、配給を再開した。にっこりと微笑んだまま、「あとでちゃんと事情は聞くからね」と俺を追い出す。なんか怖い。俺はキョロキョロ回りを見た。



「ウィンクルム!?」


「知らぬ知らぬ! わしはつけられておると言っただけじゃ! それは事実だったであろう!?」



 皆無責任だ。

 俺はこのわぁわぁ泣いている女の子の手を引いて、街道の端に連れ出した。



「と、とにかくまずは泣き止もう! 泣くのはズルい話も進まない!」



 泣く子と女の子には勝てないというが、女の子が泣いてしまえばもうそれは最強なのだ。事実、周囲の人は俺たちから一定の距離を取りつつも、こちらをジロジロと眺めている。その視線が、どう見ても俺が悪者だと告げていた。



「なんですぐ帰ってこなかった兄さまぁー」



 小さな子供のようにびーびー泣く女の子、涙を隠そうともしない。綺麗な顔が涙と鼻水でグチャグチャだ。ん? ――兄さま? つまり……ハイヴィ!?



「ウィンクルム、俺と出会った日に決闘の邪魔をしようとした女の子の画像ログって残っているか?」


「いや? 特に重要でもなかろうから残しておらぬぞ?」


「そうか」



 ああ、だけどしかし。

 画像ログに頼るまでもない、見ていると思い出してきた。

 彼女は、あのときの女の子だ。長い黒髪をなびかせて剣を振り、青い目を俺に向けて必死になにかを叫んでいた女の子。着ている服は、民族衣装調で、どことなくアイヌの装束を思い起こさせるものだ。確かあのときも、こんな服を着ていた気がする。



「キミは、俺の妹さん?」



 パンッ! と平手打ちを食らった。

 なるほど彼女が敵意なく反射で繰り出している平手打ちは、赤いラインが出ないようだ。少し目から鱗が落ちた。



「なに言ってる、アイシャだ! ルクルト兄さま!」


「娘。なにを言っても無駄じゃ、こいつはミチカズ。貴様の知る兄さまではない。貴様の立場から言うと、記憶を失った状態じゃ」



 通信機からウィンクルムがソプラノボイスで話し掛けてきた。

 黒髪の女の子、アイシャは左右をキョロキョロ。



「なに兄さま、今の声?」


「今のはウィンクルム。ほらあそこに居るロボットさ、ここから声を出してるんだ」



 と、俺は軍服の胸ポケットの位置に取り付けてある小型の通信機を指差した。



「帝国のジ・オリジナル……。噂は本当だったんだ兄さま、ジ・オリジナルと共に戦場から消えた兄さまが、記憶を失ってミリーティアの軍に入ったっていう噂」


「見ればわかるじゃろ、ほれ、ミチカズが着てるのはミリーティアの軍服じゃ」


「村一の勇者が他国の軍に入るだなんて……。アイシャは情けないぞ、兄さま」



 キッと俺のことを睨みつけるアイシャ。

 だが俺は、言われれば言われるほど困ってしまうだけだった。思わず頭を掻きながら、アイシャの視線から目を逸らす。



「すまない、俺はキミの言う……ルクルト? ではないんだ。ルクルトとしての記憶は、欠片もない。今の俺はミチカズ、という」



 アイシャの顔が、一瞬悲しみに彩られた。

 だが堪えるように顔を作りなおすと、睨むように俺を見てくる。



「そうか……ミチカズ。その名も聞いている、帝国からジ・オリジナルを奪い、ジ・オリジナルと共にミリーティアの軍に入ったという男。ミチカズとは、ルクルト兄さまのことだったわけだ」


「キミは、俺の……この肉体の過去を知ってるみたいだね」


「知ってるもなにもっ……!」



 口惜しそうな表情で、アイシャは言葉を詰まらせた。俺は続ける。



「良かったら、俺の過去を教えてくれないか?」




☆☆☆




 俺のこの肉体は、ルクルトという男の物だったらしい。

 ルクルトは西方の村一の勇者で、剣を使わせれば近隣の村からも一目置かれる存在だったそうな。

 村はシュタデル自由都市国家と交渉があり、件のガイアス帝国との戦争では加勢した。ガイアス帝国の悪魔と呼ばれるジ・オリジナル、つまりウィンクルムに一騎打ちを申し込んだところ、ウィンクルムと共に飛び去って行方不明。

 簡単に言うと、こういう流れだったそうだ。



「その……村というのは」


「なくなった」



 彼女の村は古い伝承を守る村で、帝国はその伝承を調査するために村の長から語り部からを皆本国に連れていってしまったそうだ。その上で、村人は他所に移された。その移された場所、というのが――。



「シュタデル自治都市か……」



 アイシャの答えに、俺は目を伏せた。彼女もまた目を伏せる。



「皆、消えてしまった。アイシャは、兄さまを探して旅に出ていたから生き残った」



 言葉が出ない。

 たぶん慰める資格も、俺にはない。俺は彼女の兄さま、ルクルトの肉体を奪ったような物なのだ。



「ルクルトでない俺には、キミに掛ける言葉がない。俺はミチカズなんだ、すまない」


「……それでもおまえは兄さまだ。その証拠に、困るとほら、そうやって頭を掻く」


「えっ?」



 俺はどうやら無意識に頭を掻いていたらしい。

 これは確かに俺の癖だと思うが、あれ? 結城道和のときはこんなに頭を掻いていただろうか? ちょっと自信がない。



「ミチカズは、ルクルト兄さまだ。だからアイシャはついてくぞ、ついていって、伝承の担い手としての役を果たす」


「伝承?」


「そうだ伝承だ。村に口伝される、黒き巨人の伝承。この世に楽園をもたらすという黒き巨人を、兄さまと一緒にアイシャは守るのだ!」



 いきなりまくし立てるアイシャに圧され、俺は後ずさった。



「そんなこと言われても、俺には今仕事があって……!」


「アイシャは気にしない」


「俺たちが気にするの!」


「とはいえミチカズよ。貴様の肉体を追ってきた娘だ、無下にはできまい。それにこやつ、無視したところで後ろをつけてくると思うぞ」



 ウィンクルムが横から口を出してきたが、確かにその通りだ。俺は言葉に詰まる。



「皆に相談してみることじゃな」



 カカカ! と上手くまとめたと言わんばかりにウィンクルムが笑う。

 全然まとまっていない気がするんだが、と俺は嘆息した。


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