ユートアの花
朝露が葉を伝ってぽたんと落ちる。
大木の幹に寄りかかって眠っていた少年は、冷たい滴が額にあたって目を覚ました。
いい朝だ。この森にだけ咲く花の香りが心地いい。人差し指を口元にあて、にっと笑みをつくる。
少年は一つ背伸びをし、体を後ろに倒した反動で一気に起き上がった。
「よしっ」
ボロ小屋から一振りの剣といくつかの木の実を手に取って駆け出す。
目的地はすぐそこだ。場所は街の人にそれとなく探りを入れて聞き出していた。
すでに多くの人が集まっている。少年が近づくと、その場にいた一同の表情が一瞬固まった。
「君……も試験を受けるのかね?」
「はい!」と間断なく彼は答えると、懐を探り、参加料を手のひらいっぱに広げてみせる。
銀貨三枚。試験監督が近づき、本物かどうかを見定め、一つうなずく。
「たしかに」
明らかにその場にそぐわない身なりだったが、建前上、この試験は貴族に限らずすべての者が受けることができることになっている。試験監督が銀貨を受け取ったのだから、周りの貴族たちも異議を唱えることはできない。
「君には悪いが、念のため町で窃盗事件が起きなかったか、確認させてもらうよ。もしここ何日かの間に銀貨が盗まれる騒動があった場合には、君には面通しのため同行願うことになる」
「構わないですよ。それは父が僕のために遺してくれた最後のお金なんです」
試験監督が目配せをすると、部下の一人がたちまち森の奥へと消えていった。
「風変わりな格好をしているのね」
一人の少女が少年に近づき、話しかける。
男女問わず重装な鎧を身につけた者が多いなか、彼女は狩人然とした格好をしていた。彼には関係のないことだったが、彼女は数少ない平民出身の受験者であり、薄汚れた格好の少年にも偏見はなかった。
「これしかないんですよ。こんなでも毎日洗ってるんです」と服をつまんでみせる。
「この森に住んでいるのよね?」
「ええ。普段は木こりをしています」
少女はすばやく彼の両腕に視線を走らせ、その筋肉の付き方から彼の言葉が嘘でないことを確認する。見た目ほど臭わないのも、近くを流れる小川で髪や身体を洗っているからだろう。
「銀貨を持ってきたということは、たまたまこの場所に近づいてきたというわけでもないのでしょう?」
「もちろんです」
「これから何が行われるか知っているの?」
「中央学院への入学試験ですよね」
少女は注意深くその瞳を見つめ、最後に尋ねるべき問いを見つける。
「この試験を受けにきたのは、あなたの意思?」
「まあ、いちおう」
「そっか。うん。わかった。私はセアナータ。あなたは?」
「ニアノです。よろしく」
二人が握手を交わしたそのとき、試験監督の厳かな声が響く。
「では時間だ」
少女は伸び上がるようにしてニアノの耳元に近づき、「またあとでね」と小声でささやくと、彼から少し離れたところでぴんと背筋を伸ばして佇む。
「試験の内容を発表する。試験の内容は、偽物を見破ること。偽物の意味は各自で考えるように。偽物がわかった者は、それが偽物であるという証拠をもってきたうえで、本物が何かを私に告げること」
回答権は一度きり。誤答は即座に失格。試験範囲はこのアリエスの森に限られ、森の外に出た場合は即刻失格。制限時間は日没まで。なお、受験生同士の戦いは禁じられていないが、真剣や殺傷性の高い魔法の使用は厳禁。そんなことが矢継ぎ早に説明される。
貴族の一部が、重装な鎧を脱ぎ捨て、それらを付き人に片付けさせる。これまたニアノには何の関係もないことだったが、隣国との関係が悪化した昨年は受験生同士の剣術・魔術の腕を競い合わせる決闘形式がとられていたため、今年の試験対策で剣術や魔術の腕を磨いた者が多くいたのだった。
「受験生同士での協力は認める。ただし、合格者は先着順であることに注意すること。一人合格者が出るたびに、大太鼓を鳴らすので目やすとすること。合格者は、最高で十人までとする」
場がざわつく。例年になく合格者の定員が少ないことに気が付かなかったのは、ニアノだけだった。
「開始は十分後。質問は認めない。各々待機して待つように」
試験監督のアナウンスが終わると、セアナータが早速近づいてきて、ニアノの手をとった。
「私と協力しましょう」
それから首を振って、言葉を続けた。
「いえ、ちがったわね。ごめんなさい、正しく言い直すわ。ニアノ、どうか私に力を貸してください」
ニアノは薄く笑みを作り、はい、と答えた。
セアナータは見逃していなかった。偽物と試験監督が言ったとき、ニアノが今と同じような勝者の笑みを浮かべていたことを。
試験開始の大太鼓が鳴り響き、受験生は散り散りになる。ニアノはその場でじっと佇んだまま、自分とセアナータ以外に、ほとんど人がいなくなるのを待った。
「おかしいと思いませんか?」
とニアノは抑揚なく言った。
「おかしい、って?」
「偽物を持ってくる必要があると言ったのに、この辺り一帯は立ち入り禁止にされなかったんです。今の僕たちみたいに、ずっとこの場所で待っていれば、いずれ誰かが何かを持ってきて、合格するところを見ることができる。合格者が何を持ってきたかが分かれば、少なくとも誤答を避けることはできますよね。何の情報もない人たちよりも遥かに有利になれる」
ああ、とセアナータは思い至る。自分たちのほかにもこの場所にとどまっている人がいるのは、そういった考えからだろう。実際、ほとんどの貴族はこの場に一人の付き人を残している。誰かが正解を出したときに、彼らはたちまち伝令役となるのだろう。
「でも、それは、ここで待つっていうのを戦略として認めているからじゃ?」
「もちろんその可能性もありますけど、下手をしたらそんな人ばっかりが合格者になりますよ。それに、父さんは入学するのが世界一難しい学校だと言っていました。ということは、ここで待っていることもまた、試験のミスリードの可能性が高いと思います。おそらく、偽物が何かわかっても、なぜそれが偽物なのか、説明がつかないからでしょう」
行きましょう、とニアノは歩き出した。彼の後を追ってくる人の気配もあったが、ニアノは捨て置いた。
「ねえ。あなたは、答えがわかっているのよね?」
「わかっているとは思います」
「ここがあなたの生まれ故郷だから?」
「まあそれもありますけど……」
ニアノが急に立ち止まる。
彼の前に、二人組の貴族が立ちふさがっていた。
「お前、この森の出身なんだろ?」
試験開始前のセアナータとの会話を聞いていたのだろう、一人の少年が凄みを利かせて、ニアノに威圧的な態度を取る。
「答えがわかってるなら教えろ。もし間違ってたら、そのときはどうなるかわかってんだろうな」
「ちょっと! 何なのよ、その態度は!」
「うるせえな。平民ごときが貴族様に偉そうな口をきいてただで済むと思うなよ」
ぐっ、とセアナータは言葉に詰まる。
この国では貴族と平民との間に厳しい身分差が存在する。平民が貴族を殴っただけでも、その平民はもちろん一族郎党が打首となる。この試験は一応は例外的な扱いとされているが、貴族の名誉を守るためならば、彼らは試験が終わった後でも平気でニアノやセアナータを襲うだろう。そうそうあることではないが、年に数度は貴族による事件が国家権力によってもみ消されている。
「答えがわかっても、おそらくあなたは踏み越えられません」
「あ?」
ニアノは微笑み、セアナータの手をとった。
瞬間、二人の姿はかき消えた。
「なっ、なっ……」
セアナータがわなわなと震える。瞬きをする間に、景色が一瞬でがらりと変わった。日光が及ばないほどの鬱蒼と茂る林のなか。ついさきほどまで自分たちを見下していた貴族の姿はどこにもない。
「いま、あなた、瞬移の魔法を使ったのよね……?」
「ええ」
ニアノは悲しげに口元を歪める。
「こんな古代魔法をどこで覚えたのよ……」
「覚えたんじゃありません。生まれたときから使えたんです」
理解が追いつかずに意味のない問いを繰り返そうとするセアナータは、けれど気配を察して咄嗟に腰元に手をあて、茂みから現れた敵の視界を左手で奪いながら、右手で敵の喉元に短剣を突き出す。
その男は試験官の一人だった。悲鳴をあげることもできず、ぶるぶると震えている。
「見事な腕前ですね」
とニアノが感心したように言う。セアナータはナイフを仕舞い、ごめんなさいと試験官に声をかけて立ち上がらせた。
「相手が同じ競争相手じゃなくてよかったわ。下手したら本気で明日から命を狙われかねないもの。私の住んでいたところはあまり治安がよくなくてね。つい癖で反射的に手が出てしまったの」
それから気づいたように、セアナータはニアノに視線を向けて尋ねた。
「この人ってたしか、あなたが盗みをしてないかどうかを確認するために町に出ていった試験官よね」
「ええ」
「ここって、これだけ薄暗いんだから森の中心部に近いはずよね。それなのにどうしてこの人がこんなところにいるの?」
「それが、今回の問いに対する答えなんですよ」
ニアノは答えを確認するように試験官に向かって言う。男は顔を背け、逃げるように走り去った。
「森を出たら失格とすると言われたことを覚えていますか?」
「うん、確かにそう言ってたわね。でも、それが?」
「考えてみてください。試験官は、僕たちがどうやって森を出たかどうか確認するのでしょうか。森に出入りする道は限られていますが、道なき道を行けばいくらでも街に出られるんです」
「それは……監視魔法、とか?」
言ってから、それはないわね、とセアナータは首を振る。アリエスの森は広大だ。中規模の街なら二つ、三つを覆い隠すだけの面積をもつ。外周だけを監視するとしても、並大抵の魔術師では魔力がもたない。国中の魔術師の魔力を使い果たして、やっと半日監視できるかどうかだ。隣国との戦争が囁かれる今日に、いくら中央学院の入学試験といえども、それだけの魔力を監視のために割けるほどの余裕があるとは思えないし、そこまでのことをするメリットもないだろう。
「答えは一つ。この森は、偽物なんです」
「え?」
「ここはアリエスの森ではないんですよ」
「えっと、ごめん。何を言ってるか、よくわかんないだけど……」
「ここは試験のために使われている、まったく別の森なんです。森を出たら失格という表現から考えると、外からの監視がしやすい孤島でしょうね。島の周りに監視船を数隻配置しておけば、森を抜け出した人の姿を容易に視認できますから」
ニアノは茂みをかきわけ、彼女に自らの仮説が正しいことを示す。
さきほどの試験官が出てきたところには、魔法陣の跡があった。この魔方陣が結ぶ先が、本当のアリエスの森なのだろう。
「たぶん、試験が始まる直前に、僕らを全体瞬移させたんでしょう」
「ちょ、っと待って。そうすると、偽物って……?」
「アリエスの森にだけ咲くユートアの花。あれはアリエスの森の土でなければあっという間に枯れてしまいます。この森は精巧にアリエスの森に似せてつくられていますが、おそらく、この森のもともとの土質がユートアの花に合わなかったのでしょうね。この森に咲く花はよく似た別種で、わずかに香りが異なっています」
そう言われても、セアナータには、アリエスの森に咲いていた花の姿かたちを思い出すことができなかった。そもそもユートアの花という名さえ初耳だし、それがアリエスの森にだけ咲くと言われても、はあそうですか以上の感想が思いつかない。よほどこの森に知悉していなければユートアの花の存在を知らないし、仮に知っていてもその花の特性を十二分に理解していなければ答えにたどり着けない。
「答える場所を立ち入り禁止にしなかったのは、花だけ見てもそれが偽物である理由がわからないからってことね。ほんと、教養のある貴族さまにしか解けないような超難問ね……」
一種の侮蔑と皮肉交じりのセアナータの言葉に、ニアノは微笑みを返す。
「じゃあ、行きましょう。僕らの合格はすぐそこです」
「待って」セアナータはニアノの袖を引き、歩みを止めさせる。
「あなたは、何者なの?」
「没落貴族の末裔とか、そんなところでどうでしょう」
セアナータのすべての疑問にひとまずの答えを出させるずるい言い方だった。古代魔法を使えること、単に森のことに詳しいだけでは説明できない知識量のこと、何よりも、他の貴族よりもずっと貴族然とした物腰や立ち居振る舞いであること。
セアナータはそれ以上の質問をしなかった。顔を背け、彼の袖を掴んだまま歩き出した。近くに貴族の気配は感じない。二人の会話中に一つ二つの気配はあったが、ニアノの推理の結論を聞いた途端にいなくなった。
案の定、二人が戻ってきたとき、すでに合格者が三人いた。
この中に、自力で解いたのは一人でもいるのだろうか。この人たちはずるい。自分の力で何もせずに、ただ運良く答えを聞いて偉そうな顔をして回答者を嘲笑っている。そう考えて、セアナータは暗澹たる気分になった。
自分も彼らと同じだ。私も何もしていない。ただニアノと一緒に森の中を歩き回っただけ。したことといえば、あろうことか試験官の首筋にナイフを突きつけただけだ。そんな自分に合格者たる資格があるのだろうか。
試験監督までの距離があと数歩というところで、セアナータは止まった。ニアノが不思議そうな顔をして振り返る。セアナータは摘んできたユートアの花を地面にそっと置き、すべての面で自らの上を行く彼を見上げた。
「私に合格の資格はないよ」
無理してつくった笑顔で、声は震えていた。
ニアノは、彼女と同じ目線にしゃがみこむと、さきほど手放した花をその手に滑り込ませた。
「資格があるかどうかを決めるのは僕らじゃなくて、試験官ですよ。あなたも、あなたの目的があって、ここに来たんでしょう」
それを聞いて、セアナータはハッとしたように、自らの手にある入学試験の合格切符を見つめた。
平民である自分の一家にとって銀貨三枚は大金だ。それだけあれば、一か月分の家賃に食費までついてくる。その余剰金を出すために、必死になってお金をかき集めた。友人たちの使いっ走りのようなことをやって駄賃を稼ぎ、知り合いの厨房でこっそりと皿洗いや盛り付けをやらせてもらった。それでも足りない分は両親に頭を下げ、何とか捻出してもらった。
すべては再会と復讐のため。
彼女の瞳に光が戻ったことを確認すると、ニアノは彼女を立ち上がらせ、その肩をぽんと叩き、ともに試験官の前に立った。
「答えを聞こうか」
厳かな声で、試験監督がセアナータを見据える。その目に差別の色はない。彼女は物怖じひとつせず、ニアノと視線を交わし、答えを告げた。
ニアノは、セアナータと再会を約して住み慣れたぼろ小屋へと戻った。
暮らし慣れた森。澄んだ空気。そして澱んだ気配。
試験が始まったすぐに声をかけてきた二人組の貴族が、進路を遮るようにして現れる。背後には表情のない奴隷身分の従者が複数人あった。
「何か言い残すことはあるか?」
単刀直入に、男は言う。平民以下の得体の知れないやつにコケにされたという怒りが彼の人格すべてを支配していた。
「ここはもう結界の中だ。あの古代魔法は使えねえ。お前と、あのとき一緒にいた平民の女も殺せば二枠が空く。お前らごときが中央学院に入ろうなんて冗談にしてもヘドが出るぜ」
男の突き出したナイフがニアノの腹部を貫く――ニアノは、そのナイフを掴み、短く「反転」と唱えた。
一瞬白くまばゆいた空間が静寂を取り戻したとき、そのナイフは男の腹部に突き刺さっていた。ニアノの体には傷一つ無く、倒れ込んだ男を冷たく見下ろしている。
「お、前……」
「人を傷つけるのは好きじゃないんだ。師匠の教えにも反するし、何より人の血を見るのはもうこりごりなんだ。だから、もう引いてよ」
「ふざけるなあああっ!」
もうひとりの貴族がレイピアを抜き、正確無比な殺人術を繰り出す。国いちばんの剣術の使い手である男を父に持つ彼は、我を忘れながらも殺意に塗れたレイピアでニアノを刺し貫こうとする。
だが、唐突に彼は対象を見失った。眼の前にいたはずのニアノの姿はなく、はっとして振り返ったとき自らの背後にその姿を認めた。
「――お前は、何だ?」
「もう追い回すのはやめてね。セアナータにも手を出さないで。もし万が一にでも彼女に危害が及ぶようなことがあったら、そのときは覚悟できているよね」
レイピアをもつ手が力なく垂れる。もはや戦意はなかった。ニアノはナイフが刺さったままの男のもとに近寄り、その身に治癒魔法をかける。
すべてが彼らの理解の範疇を超えていた。眼の前の少年は彼らの知る常識では語れない力を持っていた。
それは称賛に値しない――恐怖そのものだった。
ほうぼうの体で散り散りになって逃げ出した貴族たちを見送り、ニアノはため息をついた。
「あんな連中を守るために、なんで師匠一人が犠牲にならないといけなかったのさ……」
その言葉は誰にも届くこと無く宙を舞う。それがまた虚しくて、万感の思いを吐き出すため息が漏れた。
やがて、春が来て、ニアノは無事中央学院の門をくぐる。
そこで後世に伝わる伝説がつくられたのだが、それはまた別のお話。
お読みいただきありがとうございました。
続くかもしれませんし、続かないかもしれません。