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紅の笠  作者: カフェ店員
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其の壱

 月のない夜、獣道を駆ける。追手を撒くべく、慣れ親しんだ気になっていた山へ踏み込んだことは、結果的に裏目に出ていた。雨でぬかるんだ足場と、月明かりの届かない深い闇に包まれた木々は、まるで別人のように牙を剥いた。

 行く手を阻む細枝を圧し折りながら、息を切らして走り続ける。流浪人として流れに流れて一年が過ぎ、健脚の自負はあったものの、今日この日に限っては、枷をはめられたかのように足が重い。対する追手の目明し共は、まるでこの山道が庭であるかのように軽々とあとをついてくる。

 風に揺れる木の葉の音を掻き分けて、かちゃりと鞘鳴りが聞こえた。背後につく目明し共はやはり、獄中から引き出された半端者。安物の鈍ら刀を携えているのだろう。しかし、切れ味不足でも刀は刀。こちらも刀を抜かなければ、鍔迫り合いもままならない。

 前へ前へと足を進めながら、腰に佩く刀の柄に手を添える。今にも振り返り、一閃しようと力を込めた瞬間、脳裏に一人の男が浮かび上がった。

 男は問い掛けてくる。何故、人を斬るのか。

 答えられなかった。空回りした右手を刀の柄から離し、先頭を走っていた目明しと向き合う。その手に握られる刀は、手入れも碌にされていない刃毀れし放題のものだと、暗がりでもよく分かる。

 走る勢いを乗せ、渾身の力で突き出されたぼろぼろの切っ先を、寸での所で躱す。よろめいた目明しの腕を掌で押し弾き、鼻っ柱に拳骨を叩き付けた。

 後をついて来ていた二人を巻き込んで、目明しは地面に転がった。取り落とされた鈍ら刀を茂みに目がけて蹴りつけ、再び追っ手を撒くべく走り出す。

 何度目かの応戦を経て、最早自分がどの辺りを進んでいるのかも、どちらに向けて進んでいるのかもわからなくなっている。しかし、目明し共と、脳裏に浮かんだ男を振り払うべく、この足が止まることはなかった。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。どうすればよかったのかと、葛藤することに意味はない。答えを出さなければならない瞬間から、既に逃げ出してしまったのだから。逃走という選択肢の果てには、恐ろしく平坦な道が広がっていて、振り向いたところで引き返すことはできない。この無意味な葛藤と後悔の念が、ただ付き纏い続けるだけなのだろう。

 そんな現実と向き合うことすら恐ろしく感じて、只管に走る。既に、背後から追いかけてくる気配はなかった。それでも、この足が止まることはない。

 ぬかるみに足を取られる。息が上がる。玉のような汗が浮かび上がり、頬を伝った。風の音が煩い。揺れる木の葉が煩わしい。何もかも振り払い、走り続けたい。

 しかし、それは許されなかった。

「おい」

 短く、しかし険のある声が、確かに耳に届いた。足を止めたその瞬間、騒がしいほどに吹き付けていた風が凪ぐ。気付けば、崖際に一人立たされていた。

 分厚い雲に覆われていた月が、顔を覗かせる。眩い白が闇を払い、足元に濃い影を落とした。木々に遮られ光が届かない山道から、一人の侍然とした男が姿を見せる。

 目深に被った赤黒い笠に遮られ、表情を伺うことはできない。着崩した着物と羽織は泥まみれで薄汚れており、みすぼらしい格好をしていた。刀と脇差も、数日は手入れをされていないようにすら思われる、だらしのない侍だ。

 だが、その侍が間違いなく只者ではないことは、一目で見抜くことができた。音も無い足捌きと、放たれる鋭い殺気の力強さは、先程の目明し共とは比べ物にならない。

 侍は、流れるような手付きで抜刀して見せる。音はない。艶めかしい刀身が、月明かりを受けて黒く煌めく。どのような理由で切り掛かってくるのか見当もつかないが、話の通じる雰囲気ではない。最早、喧嘩殺法でどうにかなる相手ではないことも明白だった。

 一触即発の雰囲気の中、再び刀の柄に手を掛けるが――やはり、引き抜くには至らない。

 何度でも現れ、何度でも繰り返されるあの男の問い掛けに、体が委縮してしまう。何故、人を斬るのか。斬ることができてしまうのか。結論は出ないまま、鎖に雁字搦めにされたような感覚に陥る。

「臆病者め」

 糾弾するような言葉を皮切りに、侍は大胆に踏み込み、一息に距離を詰めた。抜くことのできない刀など、恐れるはずもない。空気すら引き裂くような斬撃が、真正面から襲い掛かった。

 間一髪の所で横に免れたものの、追い打ちの手は緩まない。薙ぎ払われた刀が、羽織を浅く切り裂いた。

「刀を抜け!」

 侍の怒号が、音のない山に雷鳴のように轟く。それはまるで、相手の方が焦りに駆られているようにすら思われた。しかし、この肉体は既に、刀に手を掛けることすら拒んでいる。

 大上段から振り下ろされた一撃を、体を投げうって回避した途端、足場が音を立てて崩れ始める。崖際の不安定な地面は、二人の男の重さに耐えきることはできなかった。

 今にも転がり落ちようというさ中であっても、侍は刀を振り上げていた。ところが、突如として現れた何者かの腕が、侍の肩を掴んで引き留める。一方で、こちらに縋る手はない。崖を掴もうと伸ばした腕は届かず、抵抗も虚しく瓦礫と共に落ちていく。

 身体を包み込む浮遊感と、身の毛も弥立つような開放感。刃を向けられた瞬間よりも、鮮明に死の結末を感じたが、それに抗う術は残されていなかった。

 それもいいか、と、全てを投げ出せる終わりに半ば自暴自棄になった瞬間のこと、流れる水の音が鼓膜を揺さぶる。

 次の瞬間、水面に叩き付けられた衝撃で、脳は意識を手放した。


   ――


 この近くには、綺麗な水の汲める井戸は少ない。

母に先立たれた父が家を出て、定期的な仕送りをしてくるだけとなってしまったため、弟の耕と二人暮らしの静は、村の中で孤立気味であった。稲作も碌に手伝えない子供に、水を分けてやる義理はないと突っぱねられて以来、齢十三の彼女は朝早くから水桶を抱えて、村外れの川まで水を汲みに行くことが日課となっている。

 今日も静は例によって、体に対して少し大きな水桶を抱えて川に向かう。日差しの強い朝、弟はまだ眠りこけていた。遊び盛りの弟の為に、早く水を汲んで帰って、食事を用意しなければならない。

 忙しなく川辺にしゃがみ込み、水を汲もうとした静は、川の向かいに揺れる薄汚れた羽織を見つけた。こんな都から外れた村に落ちているにしては、随分と上等なものだと、遠目でもはっきり分かった。

 まず間違いなく、村の人々のものではないだろう。不思議に思った静がそれを見つめていると、突然低い唸り声が響いた。獣ではない、しかし、人のものとも思えないような、煮えたぎるような声に、思わず腰を抜かしてしまう。

 呆然と座り込む静の目の前で、岩陰から伸びた傷だらけの腕が、羽織を掴んだ。あまりのことに声も出ないまま、慌てて水桶を抱え上げる。

 ふらふらと頼りない足取りでその場を離れようとする幼い背中を、引き留める者は居なかった。


―――――――――――――――

用語について

目明し:当時の警察、政治を司っていた所謂御奉行様の使い走りなどの一つです。犯罪者を獄中から引き立てて徴用する場合が殆どで、非常に素行が悪く、町人の中などでも悪名の方が先に立っていたと言われているようです。

鞘鳴り:質の悪い刀や鞘であったり、刀と鞘の大きさがあっていない場合、本来腕の立つ剣術家であればならない抜刀の際に音が鳴ってしまうことがあるそうです。これは今でいうダサいことであり、粗野な物以外は刀によく気を配ったとされています。

更新は、とても遅くなってしまうと思います。

お仕事を始めて、また昔のように小説を書きたくなったのですが、一人だと長続きしない気もしたので、小説家になろうで投稿しようと思いました。些細なことでも感想を頂けると嬉しいです。

用語については幾つか難しいかなと思うものに関して言及していこうと思います。一応専門で学んでいた時期もあるので、基本的に間違いはないとは思うのですが、誤っている部分があればご指摘お待ちしています。

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