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呪縛

作者: 山本 lemon  栧子

                    

呪縛

山本lemon栧子





 朝刊の訃報欄に「松倉保」の名前を見つけたのは、十月下旬のことだった。

 保は亡夫、繁の二歳違いの弟である。松倉奈津子は葬式に行くべきか半日悩んだが、まだ決めかねていた。いままで家庭の問題で迷ったときは墓参りに行きたくなり、午後から繁と義父母の墓がある長岡丘陵の市営墓地を訪れた。

 長岡墓地は江戸時代からの墓所で、御廟とよばれている。富山藩二代藩主正甫(まさとし)が初代利次侯の御霊をここに祀った。十一代までの藩主や正室側室たちの墓もあるので、御廟とよばれるようになった。

 義母は二十数年前に、繁は義母の七年後に、義父は繁の五年後に鬼籍の人となった。繁は四十四歳で母親と同じ脳溢血だった。土曜日に会社の同僚たちと隣県のゴルフ場でコースを回っているとき、気分が悪いと訴えたという。もう少し様子を見るといって続けているうちに、倒れて意識がなくなったのだった。救急車で病院に着いたときは心肺停止の状態だった。病院では死亡とみなされ、所轄の警察預かりとなった繁の遺体は、検察医になよった検死された。連絡を受けて夜遅くにS市警察署に着くと、繁は今にも起き上がりそうな綺麗な姿で棺の中に横たわっていた。早く病院へ行っていたなら、助かったかもしれないと思うと無念で、奈津子は涙が止まらなかった。

 繁は長男だが親とは別の墓に入っている。

 繁の葬式が終わって二週間ほどした日、保が訪ねてきた。梅雨入りしたばかりで、雨が降ったり止んだりして、蒸し暑い午後だった。線香を上げに来てくれたのだと思った。六畳の和室に安置した遺影の前に案内し、「かまわないでください」という声を背中で聞きながら、急いで茶菓を準備した。位牌と骨壺の横で回り灯篭が青白い光を放っていた。

「葬式の時はお世話になりました」

「少し落ち着かれたけ。ところで、兄貴の骨壺はどこに入れるつもりですか」

 保は単刀直入に要件を切り出した。顔にはぎこちない笑みを浮かべていたが、切り口に無駄はなかった。

 奈津子は「えっ」と声を詰まらせた。保は聞こえないふりをして灯篭を見ていた。いや、耳は奈津子の声を聞き漏らすまいと緊張していたはずだ。

 繁が結婚するとき、年の近い弟がいては気を遣うから、当分別居すればよいと義母が提案した。しかし、一年後結婚した保が、親と同居し跡取りの形になっていた。

 奈津子にとって別居は気楽だったが、繁はそうではなかったようだ。長男という立場にこだわっていた。

松倉の姓になって十六年、保と会うのは年に数回だった。繁より数センチ背が低く、小太りで細かいところによく気が回り、父母への心配りがうまかった。義母の送迎や買い物から、義父の趣味である庭木の手入れまでこまめに手伝っていた。兄弟の仲は悪くなかった。愛想笑いや態度に違和感を持ったのはいつからだろう。保は結婚したころから少しずつ変わっていった気がする。彼にも守るものができたからだろう。

目の前にいる保は奈津子が知っている気配り上手には見えなかった。夫を亡くしたばかりの奈津子と高一の息子、剛に「あんたらは松倉の一族ではない」と引導を渡しに来たように聞こえた。それは義父の意思なのか。繁はお人好しで融通が利かないところがあり、頑固で短気な父親と反りが合わなかった。父と息子の橋渡しをしていたのが義母だった。

 兄弟の間に確執があったのだろうか。そういえば繁が実家で、「なにしにきたの」と保にいわれ、「親の家に用事がなければ来たらだめなのか」と言い返し、喧嘩になったことがあった。

  繁は今の保の言葉をどう聞いたことだろう。写真の顔は、青年のように若々しかった。

「どこかに墓を建てるのかなと思って」

 納骨まで二十日しかないのにどんな答を言えというのか。予想だにしなかった問いかけに、めまいがしそうだった。

「どこといわれても、急なことなので……。入れて置けない理由があるから、建てるのかと聞かれたのね。でも、今は無理です。突然こんなことになって、これからどうしようかと思っているところですもの」

 急なには、急死だったからと、急な質問だったからの二つの意味がある。奈津子の答えが想定外だったのか、無言で口元にうっすら笑みを浮かべた保。彼の冷たさを垣間見たようで、心が凍りそうだった。うつむくと涙が滲んだ。すこしの沈黙のあと、奈津子は顔を上げ、ようやく探した言葉を絞り出した。

「いつになるか分からないけど、力ができた時に建てます。その時まで本家の墓にお願いします」

 頭を下げた。頼むことは不本意だったが、それしかできなかった。胸の鼓動が激しくなり、つばを飲み込んで手を握り締めた。顔はひきつっていたかも知れない。保は分かりましたといってお茶に手も付けずに帰って行った。玄関で保を見送ってから、奈津子は骨壺の前にへたり込んだ。繁の死から毎日が悲しみと喪失感で奈落の底だった。気持ちの整理どころか、現実をどうしても受け入れられなくて眠れない奈津子に、保は追い打ちをかけた。

 繁は夫として父として、城壁のように家族を守っていてくれたのだ。城壁がなくなった途端に身内からも冷たい仕打ちを受ける。今更ながら夫の存在の大きさを思い知った。これから待ち受ける世間の荒波を奈津子が最初に感じた出来事だった。

 奈津子は繁の写真に向かって、

「逆の立場だったら、弟の奥さんにあんなこと言える? 暮れにみんなで楽しく餅つきをしたのに、あの態度は信じられない」

 と恨みがましいことをいった。

 十二月三十日、家族が集まって恒例の餅つきをした記憶が新しかった。臼と杵でついた餅を丸めて、鏡餅やのし餅にした。つきたての餅はあんなに温かくて柔らかかったのに、と思うと涙があふれてきて、奈津子は乱暴に拳でぬぐった。

 帰宅した剛に「保さんが来て、墓はどうするかといわれた」と話した。

「叔父さんの気持ちも分かるけど、今いわなくてもね。僕は墓なんかどこでもいいと思っているよ」

「なにが気持ち分かるよ。あっちの肩を持たんといて」

「別に。近ごろは子供の数が少ないし、県外や外国に住む人もいるから、いつか墓を見る子孫がいなくなる可能性があるだろ。墓ばかり増やしてもね。それでお母さんはどうするつもりなの、建てるの?」

 剛は奈津子の顔をうかがうようにいった。

「今は無理だからいつか力ができたら建てます、と勢いでいったわよ。息子の遺骨を拒むお義父さんの気持ちが理解できない」

「仕方ないね。相手の気持ちを理解しようとしても無理だよ。先に死んだお父さんが一番不運なんだから、お母さんも運がなかったと思われよ」

 剛はストレート過ぎて、奈津子は更に気が滅入った。

 その後も不眠症からなかなか解放されなかった。眠ると目覚めないような恐怖心と不安に苛まれていた。精神安定剤を飲み、ヨーガを始めたりしたが効果がなく、ふらふらして仕事に行けなかった。とうとう気が狂いそうになり、総合病院の神経内科に行き「どうすればよいか分かりません、助けてください」と訴えた。鏡に映る顔の肌は荒れ、腐った魚のような虚ろな目をしていた。

中年の女医が「今はとにかく眠ることです」とやさしくいい、睡眠薬を処方してくれた。それから一日十時間を寝て過ごした。三か月近く訳が分からない日々だったが、睡眠は脳の栄養となり、少しずつ奈津子は正気を取り戻していった。

 それからは今までのパートの他に、夕方からビルの清掃の仕事を増やし、積み立て貯金を始めた。

御廟の西側に新しく造成された一区画を入手したのは、繁が急死してから数年後のことである。東側の旧地区に本家の墓があり、同じ墓地なら墓参りに好都合だと思ったからだった。建立までには更に七年かかった。

 いざ建てる段になると墓についてなんの知識もなかった。何からすべきか見当がつかなかったので、高校からの親友である藍子に相談した。藍子の叔父が石材会社をやっていると聞いたことがあったのだ。カタログを取り寄せてもらってから、石材会社へ電話すると、営業部長という人が、「御廟の墓を見て回り、気に入ったものを探すのが一番ですよ」と助言してくれた。その上一緒に霊園を見回ってくれるという親切な申し出だった。営業部長は四十代半ばの、目元がやさしい落ち着いた感じの男性だった。建てる予定地に部長を案内し、現在は本家の墓に預けてあること、十三回忌までに仕上げたいことを話した。夫の享年を聞かれ四十四歳だったというと、お若かったのですね、と言った。若かった命を惜しむような、心からの言葉の響きがした。

 石材会社は御影石や大理石を東南アジアや中国から輸入している会社だったので、墓の建設は取引先の墓石加工会社を紹介してくれることになった。石の材質や産地などの説明を聴きながら見て回った。部長は疑問に丁寧に答えてくれ、最初の印象通り信頼して相談できる人だった。一時間ほど見て回り、艶のある肌色と深みのあるグレーの二色が気に入った。花生けや線香立てのデザインも決めた。部長は奈津子が気にいった墓地の番号を手帳に書き留めていた。

「いいと思われたのはどれも高級品です。見れば分かりますよね。水を吸いにくく、傷に強く、耐久性のあるものがいいです」

 しかし、高級品には手が届かない。

「でも価格にばかり囚われることはないですよ」 

 と助言してくれた。一か月後に設計図と完成予想図が届き、何度か打ち合わせをした。自分の経済力に見合った墓ができたのは、十三回忌の目前だった。一つの思いが形になったことが嬉しかった。


 保の訃報を見た日、御廟の駐車場に着くと、三十台ほどある駐車場には車が二台停まっていた。お盆の混雑が想像できないほど広々としている。持参した花と線香を持った。午後から更に気温が上がって、微風が心地良かった。よく晴れわたり墓参りには最適な日だった。お盆にはにわか花屋になる駐車場脇の民家もひっそりして、小鳥の群れが空を横切って行った。

 繁の墓があるのは新長岡墓地と呼ばれている。先にそこへ行くことにして、緩い下り坂を足取りも軽く下りていった。

 藍子は墓場を気味が悪いところだといい、特に天気が悪い日と夕方や夜は近づかないと決めている。墓場には成仏できない悪霊が浮遊していて、暗い時に誰かに取り憑こうとしている。だから墓参りはお盆かお彼岸にいくものだというのだ。確かに暗い墓場は不気味だと思う。小泉八雲の「怪談」にもある。夜な夜な油を買いにくる女を油屋がこっそり後をつけると、女は墓場で見えなくなった。恐る恐るあたりを見回すと、墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。墓の中には死んだ母親に抱かれて赤ん坊が泣いていた、という怖い話だ。だが霊だって出てくるときをわきまえているはずだ。まさかこんな秋晴れの日に悪霊など現れるはずはない。光が溢れる午後には天使がふさわしい。

 墓は縦型や横型や三角など、色や形も様々で、掘られた文字から宗教も推察できた。モニュメントのような個性的なものもあり、それぞれの形や文字ひとつもよく考え抜いて決められたものだろうと興味深かった。

 高台から下の道路脇に収穫が終わった梨畑が見渡せる。青いネットで覆われていた。その向こうには田舎の風景が印象派の絵のように広がっていた。

横型の繁の墓が見えてきた。南向きで中央の歩道に面している。水道場から数メートルの近さで、立地条件も申し分なかった。明るいグレーが日差しを弾いていた。静寂で心が洗われるような清々しさだった。 「南無阿弥陀仏」の文字は横書きで、納骨扉に家紋の「下がり藤」が刻まれていた。墓の前のベンチにバッグを置き、水道場で花立てに水を汲んできた。白と黄色の小菊を活け線香に火を点けた。火は簡単に点いて白い煙がゆっくり上がっていく。

「繁さん、今日は報告することがあったから来たんだけど、でもいいことじゃないよ」と手を合わせた。

「保さんが亡くなったって、今朝新聞のお悔み欄に載っていたわ。六十二歳だって。お義父さんの納骨以来、本家とは疎遠になっていたから、驚いたわ。病気だったのかな。明後日のお葬式に行くべきか迷っているのよ」

 迷いを言葉にすると、本当の気持ちが見えてきた。保の妻や娘たちにも会いたくなかった。

 義父の葬式が終わって、遺産相続の話があると呼ばれたとき、保夫婦は警戒心を漂わせていた。

「住んでおられる家屋以外で、お祖父さんの名義のものは法律通りに手続きしてください」

 剛が淡々というと、二人は顔を見合せた。現金はほとんどないというので、義父が詳しくつけていたノートと数冊の通帳を見せてもらった。ノートには保の名義で土地を買ったことや、孫娘の大学の費用のための出費や、預金を保名義に変えたことが細かく書かれていた。義父の入院中にここまで遺産の移行ができていたとは、抜かりがないと感心したのだった。

 あの時の雰囲気からすれば、歓迎などされるはずがないと思う。

 新しい墓に繁の骨壺を移したいと挨拶に行った日もがっかりさせられた。

「お陰様で墓ができたので、繁さんの骨壺を移したいのです。そちらの御都合の良い日に出しますので立ち会っていただけませんか」

 時候の挨拶の後に切り出すと、

「いつでも持って行ってください。別に立ち会う必要はないですよ。納骨堂は開けておきますから」

 そっけなく保がいった。兄の遺骨などどうでもよく、厄介払いできると思ったのかもしれない。

「分かりました。では明日取り出します。長い間有難うございました」

 奈津子は菓子箱と気持ちの商品券を玄関の上がり口に置いて深々と頭を下げた。冷や水を浴びせられた気分だった。人を見下したようなあの態度は、どうすれば身に付くのだろう。何も期待していなかったのに、不快な気持ちがせり上がってきた。暇を告げ庭に出ると、松が青々と茂り、壁を伝うバラの木は華やかにピンクや白の花をつけていた。高い石塀に囲まれた家は立派だったが、二度と来たくない場所だった。

 翌日、繁の骨壺を取り出し、白布に包み胸に抱いた。

「あなた、お母さんの横にいられてよかったね。今から私たちのお墓へ引っ越しします。お義父さんお義母さん、長い間本当に有難うございました」

 骨壺は思ったより重かった。落とさないように胸に抱えた。

 五月のゴールデンウイークに十三回忌の法要と墓の除幕を兼ねて行うことになった。その日、やっとこの日を迎えられたという昂揚感が奈津子の胸に溢れていた。実家の両親が来てくれ、剛と墓の前に並んだ。

「なんといい天気になったのう」と父が空を仰いだ。

「立派な墓やね。奈っちゃん、おめでとう」

 実家の両親が喜んでくれたことが二重の喜びとなった。墓前に海と山の幸が供えられ、花立ての真っ白な百合と黄菊が芳香を放っていた。墓石の白い布を外しながら、繁と幼馴染の住職が言った。

「墓を建てるとはめでたいことですよ。繁さんも喜んでおられるでしょう。しかし、本家から誰も来ないとはどういうことなんですか」

「案内はしたのですが、忙しいのでしょう」

「せめて奥さんが来るべきですよ。非常識な人たちですな」

 言葉に怒気さえ含まれ、住職はまるで奈津子の心を代弁するような言い方だった。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 心の雑念が住職のバリトンに乗って空中に拡散されていった。

 墓ができたのは喜ぶべきことだった。しかし、時間の経過とともに、墓は本当に必要だったのかと奈津子は疑問を持つようになった。ただ、本家に対する意地ではなかったか。繁の骨壺をずっと置いて欲しいと、真剣に義父に頼むこともできたはずだ。剛は結婚する気配もないし、いつか墓を守る子孫がいなくなる。自分は実家の墓に入るか、灰を海に撒いてもらってもいい。「わたしはここにいません、眠ってなんかいません」という歌が流行ると益々墓にこだわりが無くなった。考えれば方法は他にもあったのだ。

 繁の墓の前で思いを巡らしていると、線香は半分まで灰になり、ろうそくも短くなっていた。そろそろ義父母の墓へいくことにしようと立ち上がり、「また来ます」というときも、まだ保の葬式に行くべきか迷っていた。

 もと来た道を戻り、細道を曲ったり狭い階段を上ったり墓の間を縫うようにして東の方へ向かった。ところどころに転がり落ちた墓石をロープで囲み、「持ち主の方は連絡してください」という市環境保全課の白いプレートがかかっている墓地があった。お盆に来た時も見た記憶があるが、その時は人が多くて気にも留めなかった。よく見ると地面に草が生え、転がり落ちた石は黒ずみあちこち欠けていた。もう墓とはいえない残骸だった。何代も先祖を祀ってきたかけがえのない場所なのに、子孫が絶えれば墓石も不燃物と同類になる。墓は残された人のために必要なのだと気付いた。古墳やピラミッドなら遺跡になるが、名もない無縁墓を放置しておけない時代になったのだ。骨は単なる物だとしたら、霊魂は消滅してしまったのか。忘れ去られ捨て置かれた遺骨が哀れで、寂しいような虚しいような現実に、すぐにその場を去りがたかった。

 道筋の墓に女性がひとり墓参りをしていた。黒い服を着て、濃い栗色の髪は後ろで束ねられていた。「梁瀬(やなせ)家」という珍しい苗字を見ながら、奈津子はそっと後ろを通り過ぎた。

 本家の墓は回りに低い石柵をめぐらし、石段を二段上がると三メートルの参道があり、灯篭が二つ建っている。墓は大正十年に建てたもので、義母の死後修復された。

 奈津子はろうそくの燃えかすを取り除き、新しいろうそくと線香に火を点けた。

「お義母さん、保さんが亡くなったそうです。残念ですね。お義母さんにとって誰よりかわいい息子だったのでしょう? 保さんが一番お気に入りに見えました」

 つぶやくと、ろうそくの火が大きく揺らいだ。

「お義母さんが亡くなってから、繁さんは半年も泣いていたのですよ。桜木町のスナックでも泣きながら飲んでいたそうです。甘えん坊だったから、早くお義母さんのそばへ行ったのかな。繁さんはここにずっといたかったと思います」

 もうすぐ保が入ったら、義母とどんな話をするのだろうか。繁をここに置いてほしいと真剣に頼んでいればよかった、と今更ながら思う。人生とは儘ならないものだけれど死んでも儘ならない。

 暖かい陽がさしていた。遠くで重機の音がする。どこかで墓の工事をしているのだろう。天気がよいと仕事がはかどるだろうに、明日は一転して雨の予報だった。人生と天気はよく似ている。

 駐車場へは近道を行くことにした。この道もたまに迷うので油断がならなかった。東側ほど古い墓が多く、ここにも「持ち主の方は連絡して……」のプレートがかかっていた。墓石が落ちて転がっていた。

 藍子は墓場のにおいも嫌っている。そのにおいとは墓場の醸し出す雰囲気や印象からも発するらしい。無縁墓は憐れさや虚しさが入り混じった儚い(はかない)においを醸していた。

 数メ―トール前を女性が歩いていた。濃い栗色の髪が揺れていた。さっき見かけた人で、少し猫背な背中が日差しに溶け込みそうに頼りない。距離を保ちながら後ろを歩いて行った。駐車場についたときその女性が振り返った。顔に見覚えがあったので、奈津子は足を速め、近づいて声をかけた。

「東町の梁瀬さんじゃありませんか」

「あら、松倉さん? こんなところで奇遇ですね」

 切れ長の目の憂いを帯びた顔は、やはり隣の町内に住む梁瀬さんだった。若草色のべーズリーのスカーフが洋服とマッチして似合っていた。かつて一緒にPTA役員をした仲だが、子供が成長してからはたまにスーパーで会うくらいだった。

「さっきお墓の前でお見かけしたので、もしやと思ったんです」

「あなたもお墓参りですか」

「はい、夫と両親の墓に。息子さん亡くなって何年になられる?」

「十三年です。何年経っても心に穴が開いたままです。死んだ子の歳を数えると言うでしょう」

 梁瀬さんは胸に手を当てて、さびしそうにうつむいた。梁瀬さんの息子は剛と幼稚園から中学まで同窓の友達だった。大学四年生の時、交通事故に遭い全身打撲で亡くなったのだった。事故を新聞で知り、剛は葬式に行った。もう十年以上前になるが、梁瀬さんの様子ではまだ子供の死から立ち直っていないのか。

「息子さんに御兄弟はおられないんですか」

「姉がひとりいるけど、県外へ嫁いでしまって滅多に帰ってこないの。私が死んでしまったら、息子のことを覚えている人もいなくなります」

 梁瀬さんは先の心配している。子供を亡くすほど辛いことはなく、逆縁は最大の親不幸だというのは本当だ。

「最近は墓を守る子供がいなくて、『終の棲家のなき遺骨を救う会』というNPOもあるそうですよ。最後は『有縁墓』という合同のお墓で供養してもらうんですって」

「引き取り手のない遺骨を寺に預ける宅配便もあるというから、昔じゃ考えられない時代ですね」

「そうね。でも、逆にあの世へいったら、会いたい人たちと会えるのだもの、心配いりませんよ」

 梁瀬さんを少しは慰められただろうか、と顔を見た。梁瀬さんは墓の前で息子と会話していたのだろう。母親にとって亡くなった子どもは永遠なのだ。二十二歳の姿が見え、声が聞こえるのだ。墓は故人のためではなく、生きている人のためにある。生きている人を励まし癒やす処なのだ。奈津子は改めて墓の意味を想い、梁瀬さんに会えてよかったと思った。

「そう思えばいいがやね。お話できて嬉しかったわ。遊びに来てください。ではそろそろ失礼します」

 穏やかな笑みが戻った梁瀬さんは、会釈して黒い車に乗り込もうとした。

「あら、あそこに誰か蹲っていませんか」

 と梁瀬さんが指差した。指の先には三角屋根の東屋があって、人が蹲っていた。老人のようなので二人で近づいてみた。しゃがみこんでいるのは八十五歳ぐらいの老女で、グレーの前開きの上着をはおり、毛羽立ったズボンを穿いていた。地面に布製の袋があった。

「おぱあちゃん、どうされたが。気分悪いがぁ」

 肩に手を置いて、奈津子が顔を覗き込んだ。老女はゆっくり顔を上げた。耳が遠いらしい。耳元で「大丈夫ですか」と梁瀬さんが大声で訊くと、

「墓がどこか分からなくなったが。あんた知らんけ」と子供みたいにいった。白髪で顔全体がくすみ、口元や目じりに深い皺が刻まれていた。鼻筋が通って、目が窪んでいた。

「わたしたちは通りがかりなので分かりませんけど、このあたりなんですか」

 大きな声でもう一度訊くと、「どうやったか、覚えないが」と哀願するように奈津子たちを見た。

「困ったね。おばあちゃんお名前は?」

 梁瀬さんが大声で訊くので、叱っているようだった。

「スズキフミコ、いいます」

 ぼそぼそと名のった。スズキというのはよくある名字だし、たくさんある墓の中から探すのは容易なことではない。

「スズキさん、ここへはひとりでこられたの? 自宅の電話とかは分かりますか」

スズキさんは手提げの中身を掻き回し、ベンチの上に並べ始めた。タオル、財布、メガネ、食べかけのパン、紙屑など。身元の分かるものはないかと見たが分からなかった。秋の陽は傾きやすい。風が出てきたし、空模様が変わるかも知れない。墓地で迷子の老人を拾うとは思わなかった。

「どうしますか」

 柳瀬さんは心配そうに言い、腕時計をみた。そのとき、奈津子の携帯電話が鳴った。

「奈っちゃん、今どこにおるが。昼過ぎにメールしたけど見てないでしょ」

 携帯にでると藍子の声が飛び出してきた。

「ほんと? 気付かなかった。わたしも電話しようと思っていたのよ」

 話していると、梁瀬さんが袖をひっぱった。

「申し訳ないけど、私これから人に会う約束があるんですよ」

 奈津子は慌てていったん電話をきった。

「それじゃ、急がないとね。スズキさんは私がなんとかしますから行ってください」

 梁瀬さんはあとをよろしくと言い、車で走り去った。奈津子が手を振って見送ると、スズキさんも手を振った。

 高い木の上で鳥たちが急に騒ぎ出した。低気圧が近づいてきたのか。奈津子は藍子に携帯を掛け直した。

「新聞見た?」

「見たわ、義弟(おとうと)亡くなったね」

 藍子は保と同じ町内に住んでいるのである。知ったときは驚いた。奈津子と藍子が親しいことを、保夫婦は知らない。

「その話はあとにして。 今、御廟の駐車場なんだけど、迷子のおばあさんといるの」

簡単に事情を話すと、

「御廟なの。日が暮れる前に早く帰りなさい。おばあさんは近くの交番へ連れて行ったら」と藍子が言った。

「この辺の交番いうたら、呉羽にあったね。放っておけないし、そこへ連れていくわ。それから藍ちゃんに頼みたいことがあるんだけど、明日時間ある?」

「二時以降ならいいけど」

「じゃ、本屋の喫茶店で午後二時過ぎに会おう」

 藍子と約束して、携帯を切った。スズキさんは食べかけのパンを齧っていた。少し認知症のようだ。

「スズキさん、これから交番へいきましょうね。お家を探してもらいましょう」

 スズキさんはよろめくように、奈津子のあとをついてきた。助手席に乗せ、シートベルトを締めてあげた。スズキさんはおとなしく乗っていた。

 旧八号線沿いに車を走らせるとパトカーが見え、そこが呉羽交番だった。交番の前でスズキさんが「ここどこ?」と訊いた。スズキさんを降ろし、手を引いて中に入った。若いお巡りさんが立って、「どうされましたか」と怪訝そうな顔をした。

「御廟で迷子になっておられたので、お連れしました」

「おばあちゃん、名前と住所わかる?」

 お巡りさんが聴いた。スズキさんが答えないので、奈津子が「耳が遠いようです」と言うと、お巡りさんが頷いた。

「調書を書きますので、すみませんが詳しく話してください」

 折り畳み椅子を勧められ、奈津子とスズキさんは並んで座った。見つけた場所や時間、状況と、奈津子の住所氏名を聴かれた。スズキさんの持ち物にはさわっていないと説明した。お巡りさんが質問しても、スズキさんはぼんやり笑っていた。老人の迷子はどうするのだろう、交番に泊めるのだろうかと気になった。

 十五分ほどして調書を書き終わると「ご苦労様でした」とお巡りさんが立ちあがった。

「スズキさん、わたしはこれで行きます。早くお家が見つかるといいですね」

 奈津子はスズキさんの手を握った。小さいごわごわした手だった。スズキさんは頼りなげに奈津子を見上げた。ひとまず責任を果たし外に出ると、旧国道は交通量が増えてきた。飲食店の明かりがともり始め、昼と夜が入れ替わる黄昏時だった。

 運転席でシートベルトを締めた。二時間前まで葬式にいくかべきか迷っていたのに、いつの間にか迷いが消え、穏やかな気持ちだった。

 その夜、夢の中で奈津子は繁の墓を探して、小高い丘を彷徨っていた。西陽が差す墓地を転んだりつまずいたりしながら彷徨っていたが、なかなか見つからない。「誰か(うち)のお墓知りませんか」といってあたりを見回した。声はスズキさんの声だった。そうだ、スズキさんも墓を探していたのだ。「スズキさん、お墓見つかった?」と呼びかけていると、雷鳴が轟いて目が覚めた。夢を見ていたのだ。訳の分からない夢だった。右腕が少ししびれていて喉が渇いていた。

 雷は猛獣のように空を駆け回り、あちこちですさまじく吠えていた。猛烈な雨風が屋根や窓を打っていた。息をひそめていると、雷が大きな音を響かせて落ちた。落ちた後もまだ雷鳴は収まらなかった。

時刻は午前一時を過ぎている。目が覚めてしまい、昨日のことを思い浮かべてみる。保の死亡記事を見て、墓参りにいった。葬式にいくべきか迷っていたが、それは誰に訊くことでもない、奈津子自身の問題だった。墓を建てるまでのいきさつに長い間こだわってきた。無縁墓を見て、梁瀬さんと会い、墓は生きている人のためだと気付いた。そして、いつかスズキさんのように分からなくなってしまう。「ドコニハカヲタテルノ」という、たった十の文字に縛られ、こだわってきたことが陳腐だった。

葬式にいっても、保の妻が喜ぶとは思えないから、今日藍子に会ったら香典を預けることにする。香典は死者への哀悼の気持と自分の気持ちのけじめだった。

 雨は収まる気配もない。今ごろ御廟にも滝のような雨が降り、雨水が小川になって坂を流れ、花や線香も潮垂れているのが目に浮かんだ。雷鳴がまた轟いた。雨がもっと降ればいい。なにもかも洗い流すほど降って、明日また晴天になればいい、と雨音を聞いていた。

朝には小雨になっていた。勝手口を開けると、ビニールの大きいゴミ箱がひっくり返っていた。楓の葉がわずかに赤くなったようだ。

 二階から降りてきた剛に、「葬式にいかないことにするわ」というと、

「そうだよ、その方がいいよ」

 剛は当然のように言い、コーヒーを飲んだ。

 テレビで気象予報士の若い女性が、

「次第に天気が回復する見込みです」

 天気図を指して説明していた。

                                       完



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