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九話

 ギイ、と重たい音をたてながら扉を開く。

 店の中へと入れば、すぐに大きな展示ガラスがあってその中に数十種類のパンが並べられていた。


 アイセルは外套の頭巾を取って店員の顔を見る。


「いらっしゃ……」


 店員の男と視線が交われば、少しだけ驚いたような顔を見せていた。


「まさか、本当に来るとは」

「嘘は言わぬよ」


 普段と違う格好のイゼットを、アイセルは遠慮なしに眺める。

 白いシャツを腕捲りして、腰部分には青い前掛けを巻いていた。いつもの整えられていない跳ねた髪型ではなくて、前髪はきっちりと綺麗に片側に寄せてある。頭には丸くて平らな、前掛けと同じ色の帽子を被っていた。

 騎士服を着ている姿よりも、しっかり身綺麗な着こなしをしていたので、その大きな隔たりに笑ってしまった。


「お嬢様、何にしますか?」

「!」


 背後からフェルハに声を掛けられてハッとなるアイセル。慌てて視線を展示ガラスの中に並べられているパンに移した。


「なんだかガラガラですねえ」


 緑野菜の渦巻きパン、果物の甘露煮入りパンに、黒麦の田舎風パン、山型パンに、香草パンと商品名の書かれた札はたくさん出ているが、肝心のパンはほとんど無い。


「あの~、お兄さん、パンはこれから焼き上がるんですかあ?」

「いや、朝に焼いた分の残りはこれだけだ。次はお昼頃になる」

「ええ~!」


 まだ朝と言ってもいい時間帯なのに、ほとんど売り切れだとイゼットは言う。


 残っているパンは木の実パン数個と大きな山型のパンは一個だけ。


「では、この――」

「ねえイゼット、これ、新商品、味見をしてくれる?」


 アイセルが山型のパンを指さしたとの時、店の奥から中年の女性が現れる。イゼットと同じ黒髪で、どことなく面差しも似ている人物であった。


「あら、ごめんなさい、お客さんが居たのね」


 パンが載った鉄板を持ちながら、舌先を出しておどけた様に女性は笑う。


「まあまあ、若いお嬢さんのお客さんなんて珍しいわねえ」


 アイセルとフェルハを見た女性は嬉しそうに話し掛ける。

 古くから伝わるパンだけを売るこの店に訪れるのは、近所に住んでいる主婦か老人が多いという。


「若い人たちはみ~んな街に出来たオシャレなパン屋さんに行っちゃうのよお」

「おい、関係ない話だろうが」

「いいじゃないの」


 すっかり不機嫌面となってしまったイゼットなどお構いなしに、話を続ける。


「ごめんなさいね。今の時間帯は品物が少なくて」


 日の出が終わった位の時間から焼きたてのパンを売るというのは昔からやっていて、周辺に住んでいる人達も早起きして買いに来ることが習慣になっていると語って聞かせた。


「あ、そうだ。これ、食べる?」


 掲げられたのは筒型の長いパン。プチプチとした食感のある木の実が混ぜられていると説明をする。


「わあ、いいんですか!?」

「ええ、久々の可愛らしいお客様ですもの」

「やったー!」


 パンの味見が出来ると聞いて、フェルハは飛び上がって喜んでいた。

 女店員は展示ガラスの上に布を敷いて、そこにパンを置いて薄く切り分けて行く。

 アイセルはちらりとイゼットの様子を窺う。無愛想な店員と化している男は、自分は関係ありませんとばかりにそっぽを向いていた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!」


 焼き立てでまだ熱いので、パンは紙に包んで手渡された。フェルハは目を輝かせながら二度目のお礼を言って、いただきますとパンを頬張る。

 同じようにパンを手に持っていたアイセルは、その様子を呆然と眺めていた。


「お、美味しい~!」

「まあ、嬉しいわ」


 初めて遭遇した目の前の光景に、ただただ圧倒されていた。


 立ったまま食事をするというのはありえないこと。勿論、立食会などの例外もあるが、この場は食事をする場所ではない。

 しかしながら、これは貴族の礼儀だ。

 ここは下町。自分の価値観など通用しないのだろうな、とアイセルは思う。


 手に持ったパンを見つめながら、早く食べなければと口元に近づけようとしたその時、その行動は制止させられる。


「あ、ちょっと待ってね」

「?」


 女店員は再び奥の部屋へと引っ込んでいく。


 数分後、手に何か持った状態で戻って来て、「これを載せれば美味しいわ」と掴んでいた瓶を示した。


「それは――」

「は? ババア、なに持って来てるんだよ!」


 それに食いついたのは他人の振りをしていたイゼットだった。持ってきた瓶を奪おうと手を伸ばしたが、さっと避けられてしまう。


「おい、クソババア!」

「お客様の前で汚い言葉は使わないでちょうだい!」

「ふざけたことをしているから言ったんだよ」

「ふざけたことですって? 残念ね。あなたがそんなケチな子だなんて、思ってもいなかったわ」

「ケチとかそういう問題ではないだろう!?」

「そういう問題でしょう!?」


 女店員は埒が明かないと思ったからか、奥の部屋に居る従業員を呼んだ。

 すると、がたいのいい男が出て来て、イゼットの体を引きずって連れ去ってしまった。


「見苦しいところを見せてしまったわね」


 親子喧嘩を見せられたアイセルは、どういう反応をしていいか分からずに言葉を失っていた。フェルハは「仲良しですねえ」と見当違いなことを言っている。


 イゼットから勝ち取った瓶の中身は豚肉ドモズのリエット。


「りえっと?」


 フェルハがそれは何かと質問をする。


「リエットは食用の固形脂とお肉を香草で煮込んで練ったものよ」

「へえ~」


 リエットを匙で掬い、アイセルへ差し出した。


「パンだけじゃあ物足りないわよね。気が利かなくってごめんなさいね」

「!」


 アイセルは食べ物の中でも動物の肉が特に苦手だった。口にした途端に具合が悪くなり、寝込むこともあった。


 だが、店員の好意を無駄にしてはいけないとパンを差し出す。

 ジャムのように匙の背で伸ばされたリエットは、香草の香りがふわりと漂い、意外な事に肉臭さは感じなかった。


 隣で早くもリエットの載せられたパンを食べたフェルハは、美味しいと絶賛している。


 アイセルも、勇気を出してパンを口に運んだ。


「!」

「どうかしら?」


 パリッとした香ばしい皮に、ふんわりと口当たりの良い生地と、プチプチとした食感のパンは素晴らしく美味しい。それに合わせた冷たいリエットとも不思議とよく合う。

 長時間煮込んだ肉は旨みが凝縮しており、噛めば香草の風味と共に素材の持つ甘味が舌の上に広がっていた。


「美味しい」

「良かったわ」


 アイセルは深々と頭を下げてからお礼を言った。

 そして、迷惑でなければここにあるパンを全て買いたいと申し出る。


「迷惑だなんて思わないわ。こう言ってはなんだけど、ここにあるのは売れ残りだから、お昼前には下げてしまうの」


 だったら安心だと、アイセルは店のパンを買い占める。

 店員の手によって紙に包まれたパンは籠の中に収まった。


「良かったらこれ、持って行かない?」

「え?」


 店員は豚肉ドモズ脂肉練りリエットが入った瓶を差し出す。


「ならば、お代を」

「いいの、これ、売り物じゃないから!」


 結局、おまけだと言ってリエットを受け取ってしまった。


 翌朝。

 わざわざ下町まで行って買って来たパンを、平然と食べるアイセルを見た母親は驚くことになる。


「あなた、お肉は苦手じゃなかったの?」


 そうだと頷くアイセル。


 一体どこの店の美味しいリエットかと、娘に頼んで試食をさせて貰ったが、別になんてことのない、普通のもので拍子抜けをしてしまう。


 食後も元気良く出かける娘を見送りながら、母親は更に首を捻る事となった。


 出勤したアイセルは、調子よく仕事を片付けていた。

 お昼時になれば、外回りから帰って来たイゼットが執務部屋に顔を出す。


「先日は、邪魔をした」

「いや、別に」


 パン屋に押し掛けた事を怒っていないようで、アイセルは安心をする。


 それからイゼットの家で売っているパンは美味しかったことも伝えた。


「だったら今度から使用人に買いに来させればいい。若い娘が来るような店では無いから」


 別に、買いに行くのは個人の自由だと思ったので、イゼットの言葉は聞き流す。


「して、もう一つ問い掛けを」

「?」

「あのリエットは、いずこにて買いりしか?」

「……」


 急に顔を背けるイゼット。

 重要なことなので、アイセルはもう一度同じ質問をぶつけた。


「内密にしたいような、商い所なのか?」

「……」

「あの練り物は、素晴らしく美味しかった」

「……」

「私の食せるものが僅かだということを、存じておるであろう?」


 だんまりを決め込むイゼットに、アイセルは近づいてから問い質した。


「上官命令だ。早く申せ」


 深いため息を吐いた後に、イゼットは言う。


 あれは、自分が作ったものだと。


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