八話
朝。
アイセルは久々に食堂へ向かった。
普段滅多に食事の席に現れないので、アイセルの家族たちは驚きの表情で出迎える。
「アイセル、あなた、どうしたの?」
「如何したも左様なも、食事に参っただけだが」
「そ、そうよね」
母親と会話をしながら、使用人の手によって事務的に引かれた椅子に座って給仕を受ける。
朝食の品目は煮豆とを漉し、家畜の乳を混ぜて作ったスープに野菜の取り合わせ、焼いた燻製肉に、焼きたてのパン。
食前の祈りを捧げてから、皿の上に載っているパンを掴む。
バターをたっぷりと練り込まれたパンは、表面はパリッと焼かれており、ツヤツヤとした照りがある。粒状の砂糖も散らされていて、甘く香ばしい匂いを漂わせていた。
半円の弧を描いた形で、練った小麦を何度も伸ばして折りたたむという工程を挟むので、層になった生地がサクサクとした軽い食感を味わえるという、非常に手の込んだものでもある。
そんなパンをアイセルは口にする。
「!」
残念な事に、いくら噛んでも味がしない。それに、胃がもたれるというよりは、体が重たくなって具合が悪いような気分となる。
家族が居る手前、アイセルは朝食を無理して食べ切った。
万全ではなくなった体を引きずりながら、アイセルは仕事場へと向かう。
こういった現象を兄であり魔術研究者であるアイディン・イェシルメンは魔力の過剰摂取ではないかと推測している。
食べ物にも微量な魔力が含まれているのではないか、という事は未だ研究などでは明らかにされていないが、おおよそはそうであろうという理由付けをしていた。
人は生きる為に食事を摂り、日々の生活の中で消費した魔力を蓄える為に睡眠を摂る。
アイセルは魔力が十分に足りている為にそれを必要としないのでは、というのがアイディンの個人的な考えだった。彼女のような前例は長い歴史の中で存在しないので、明確な答えを出すことは不可能に近いと言われている。
馬を駆って騎士隊の駐屯地へと向かう。
厩に愛馬を預けてから、少しだけ職場に来るのが遅くなってしまったと、時間を知らせる鐘を聞きながら考えつつ早足で廊下を進んでいた。
執務部屋へ行けば、新たな副官であるイゼットが既に来ており、だらけた姿で執務椅子に座っている。
挨拶をすれば、軽く会釈をする動作のみ返していた。今日ばかりは礼儀がなっていない部下を咎める元気などない。無言で椅子に座って書類の整理を始める。
ふと、アイセルは朝のパンの話をしようかと悩む。まだ始業前で、イゼットも忙しい様子ではない。
しかしながら、他人との深い付き合いをしたことがなかったアイセルは、部下である男にどうやって日常話を振ろうかと悩んでしまう。
今まで所属していたいくつかの部隊では、思った事や気になった事をそのまま口にしていた。
結果、生意気な奴だと喧嘩の種となり、口争いが絶えない相手も多かった。
尚、騎士隊では身分など関係なく、己の地位を確立するのは剣の腕のみ、ということになっている。なので、騎士団長を父に持とうが、国王を伯父に持とうが周囲の騎士達は問答無用な態度で接して来るのだ。
今までは隊の中で孤立をしても、誰も気にしないというのは普通のことだった。
長年騎士生活を共に過ごしたギヴァンジュ・チェリクは父と子ほど年が離れており、十四年間、意見をされることもなく影のように付き添っていた相手なので、空気のように思っていた。
二人の間で交わされた言葉は少ない。
ゆえに、アイセルの情緒は育たないまま、二十八歳という年齢を迎えていた。
「――午前中の任務は以上とする」
結局パンについては話せないまま、仕事の内容だけ語ってイゼットとは別行動となった。
昼を知らせる鐘を聞き、アイセルはぐっと背延びをする。
午後からは訓練なので、魔剣でも振るえば体のだるさも少しはマシになるのではと考えていた。
昼以降の予定を頭の中で整理して、さて、これからどうするかと顎に手を当てる。
今日はいつもと違い、家からパンを持って来ていた。なんとなく、お昼に食べればまた違った味わいがあるのではないかと思っていたが、朝の事があったのでどうにも食べる気にはならない。
机の上には紙に包まれた野菜と燻製肉を挟んだパンを置いている。それを眺めるだけで、手に取ろうという気すら起きなかった。
大きな溜め息を吐いた瞬間に執務部屋の扉は開かれる。
互いに「あ!」と言って目が合ってしまった。
合図もなしに入って来たのは副官イゼット。
任務から帰った旨を報告し、アイセルは「大儀であった」と言って部下を労う。
鞄を持って外回りに出かけたので、お昼時には帰ってこないだろうと油断をしていたのだ。
長椅子にどっかりと腰掛けたイゼットは、家から持ってきたパンを取り出して無表情で食べている。
小さな木の実入りのパンを食べ終えると、執務机に置いた昼食と睨み合いをしているアイセルに気が付いた。
「それ、食べないんですか?」
「!」
「さっきから虚ろな目で見てますけど」
指摘されて苦い表情を浮かべてしまう。昨日のパンは手に自然と手にとって口に運ぶことが出来たのに、今日はそれが出来ない事を不思議に思う。
アイセルは勇気を出してイゼットに相談をしてみることにした。
「朝からパンを食べたが、美味しくのうて。昼に食べたら違うものかと思ったが、全く食欲が湧かぬと」
そんなアイセルに、イゼットは昼食を交換してみるかという申し出をしてきた。
「よきとか?」
「まあ、別に」
「かたじけない」
手渡された袋の中にあったのは、朝食べたパンと同じ半月型のもの。家で出てきたものよりも照りは少なく、砂糖もまぶされていない。
けれど、どうしてか美味しそう、と思ってしまった。
パンを手に取り裏表とひっくり返して眺めるが、失礼ながら見た目も香りも家で食べたものより劣っているように見えた。余りにも色々と考え過ぎて、パンを口にした後で食前の祈りをしていなかったことを思い出す。
だが、そんなこともパンを噛みしめた瞬間にはどうでもよくなっていた。
イゼットは昨日の残りのパンだと言っていた。なので、時間が経っているためか表面のパリっとした食感はないが、しっとりとしていて歯ごたえのある層を重ねた生地はほんのりと甘くて優しい味がした。
「これは、どうして」
なぜ、美味しく感じるのか。
呟いた疑問の答えを知るものは誰も居ない。
就業後、イゼットより貰った地図を頼りに下町のパン屋へと向かったが、迷路のような道に迷ってしまって辿り着くことはなかった。
日も沈み、一人途方に暮れていれば、実家からやって来た使用人に回収されてしまう。
地図を渡して案内をしろと命じて向かったが、パン屋はすでに閉店をしていた。
翌朝、アイセルは朝から出かける支度をする。イゼットの家族が経営をするパン屋に行く為に。
昨晩下町に迎えに来てくれた使用人に再び案内をするようにと呼び寄せたが、貴族令嬢らしい服装に問題があると指摘された。
「あのお、お嬢様、そのお姿では、下町で目立ってしまうかと~」
「左様であるか?」
「え? ええ」
連れてこられた使用人は台所の下働きをする少女。昨晩は下町の地理に詳しいからとアイセルの捜索を命じられていた。
礼儀に疎い使用人は、ついつい仕え先のお嬢様におせっかいな意見を述べてしまう。
「如何風になすればよきか?」
「え?」
古い言い回しが理解できずに首を傾げる少女。背後で控えていた侍女が意味を説明する。
「でしたら、あたし、じゃなくって、わたしの外套を貸しましょうか?」
言葉遣いがなっていない、なんて事を言っているのか、と二つの意味合いで責めるような視線を侍女は下働きの少女に向ける。その鋭い目つきに気が付いた少女はヒッ! と息を呑み込んだ。
委縮した少女にアイセルは言葉使いは気にしてくてもいいから、その外套とやらを貸せと命じる。
貸して貰った頭巾付きの外套を纏い、使い古した籠を持てば、アイセルも忙しなく道を行き交う下町の人々に上手く溶け込んでいた。
黙ったまま歩くのも不審に映るかと思い、アイセルはフェルハと名乗った下働きの少女に何か喋るように命じた。
「あ、そこのお店のお菓子が美味しくって~」
イゼットにババア臭い喋りだと言われた事をひっそりと気にしていたアイセルは、若い娘がどのようなことを喋り、気にするかということに大いに興味があった。
フェルハの話を聞いて、なるほどな、と思う。自分は他の娘とは違うのだと納得をしてしまった。
流行っている恋愛小説、恋が叶うおまじない、高くて買えない街で人気の髪飾り。
話題はころころと変わるが、どれもアイセルにとっては初めて聞く話ばかりで新鮮な気持ちで聞き入っていた。
フェルハの話を聞いているうちに、目的地へと到着をする。
「あ、ここですねえ」
二階建ての建物の一階部分を店舗に構えたパン屋は、下町の中でも人通りの少ないひっそりとした場所にあった。吊るされている地味な看板が風でぎいぎいと音をたてながら揺れている。
「お嬢様、ここでお買い物を?」
「あ、ああ」
あまりにも静かなので、本当に営業中なのかフェルハに調べて貰うようにお願いをした。
堂々と窓から店の中を覗き込んだフェルハは、アイセルに報告をする。
「大丈夫ですよお~。パンもありますし、ちょっと目付きの悪い、若い男性の店員さんも居ます」
「!」
フェルハの話を聞いて、すぐにイゼットが店番をしていることに気が付く。
今日は第八騎兵隊の者達は全員休日で、副官が居てもおかしい話ではなかったが、どうしてかびっくりしてしまった。
「お店の中に入りませんか?」
「……」
しばらく店に背を向けたまま険しい顔で居たが、道行く老人に不審な目で見られてしまったので、入店することにした。