七話
副官の席を押し付けられたイゼットは、勝手な決定を拒否し続けていたが、その日のうちに上から昇進辞令が届いてしまったので受け入れるほかなかった。
嫌々呼ばれて来た部屋で待機をしていれば、元副官となってしまったギヴァンジュ・チェリクよりちょっとした引き継ぎを行うと伝えられる。
話を黙って聞いていれば、部隊の副官というのは大した仕事があるわけではないらしい。事務作業などはアイセル一人が全て担い、発言権の無い第八騎兵隊は会議などの参加は書類の同意書一枚で済んでしまうというので、これと言った特別な業務は無いという。
最後に業務日誌を手渡され、厳つい顔の騎士と別れる事となった。
執務部屋は隊長と同じ部屋で、しかも机が隣り合って並んでいる。客間とも併用をしているので、執務机の前には長椅子と机も置かれていた。
イゼットは大きな溜め息を吐きながら、執務椅子に腰掛ける。
アイセルとイヴァンジュが代わる代わる日々綴っていたという業務日誌を開けば、隊員一人一人についての記述が書かれてあった。勿論、イゼットについての詳細も記されている。
イゼット・セネル
二十四歳、中肉中背。
剣の筋はいいが、本人にやる気がないからかそこそこの水準で停滞している。俊敏性は騎士隊全体でも五本の指に入ると言ってもいい。
イゼット・セネルに隊の露払いを任せた前隊長の采配だけは評価する。常日頃から酔っ払いだった仕様もない男だったが、人を見る目はありそうだ。
散々に日頃の不真面目な態度を批判されていると思いきや、書かれてあることは悪いものではない。
他の隊員達も同じように各々の良い点を見出して書かれている。
業務日報には日々の訓練での成果と今後の課題、理想の陣形などもこと細かに綴られていた。兵站を丸暗記しているだけあって、理屈を突き詰めたような内容となっている。
しかしながら、ここ最近の訓練は発展の兆しが出ているようにも感じていた。雪狼退治も的確な指示が出されていたので、そこまで戦闘行為に時間も掛からなかったのではと気が付く。
ぼんやりと日報を眺めていたら、執務部屋の扉が突然開いた。
「なに、左様な所にいたのか」
合図も無しに入って来たのは部屋の主であるアイセル。
先に来て寛いでいたように見えるイゼットに文句を言うこともなく、長椅子に腰かけた。
「夕食は食べたか」
首を振るイゼットに、役職に就いている者達専用の食堂があるからそこで食べればいいと勧める。
「隊長は?」
「いや、私は、いかがほどにも食欲が湧かぬゆえ」
その言葉にイゼットは不審な視線を向ける。
アイセルは昼過ぎから執務室に籠り、忙しいからと言って副官の用意していた食事を断っていたのだ。
二食も抜いて大丈夫なのかと思ったが、自分には関係のない話だと思ったので、その日はそのまま帰宅をする事となった。
翌日から、副官としてのイゼットの一日が始める。
いつもの通りに休憩所へ行けば先輩騎士からからかわれる事が分かっていたので、そのまままっすぐ執務室へと向かった。
アイセルは既に机に着いており、積み上がった書類の山の攻略を行っていた。
本日は王都周辺の見回りを行う。馬を駆って魔物や怪しい人物などがいないかを見て回るだけなので、イゼットに部下達を率いて行くようにと指示を出した。
任務から帰宅をすれば、報告書を掛けと手渡された。
アイセルは残り数枚となった書類を書き終えると、紙面とにらめっこしていたイゼットに報告書の書き方を教える。
慣れない言葉使いを考えながら綴るというのは面倒なことだと考えながら、なんとか報告書を書き終えた。
ちょうど昼食の時間になったので、ぐっと背延びをしてだらけた姿勢となる。
「セネル副官、食事に行かれよ」
イゼットはお言葉に甘えて鞄の中からパンと果実汁の瓶を取り出し、立ち上がる。
わざわざ家から持参した昼食を手にしていた部下を、アイセルは不思議そうな顔で問いただした。
「なに、食堂には行かぬのか?」
「隊長こそ、行かないんすか?」
「私は――」
言葉に詰まるアイセル。
イゼットは前の副官から隊長の食事の世話も任されていたので、このまま「そうですか」と言って出て行くわけにもいかないのかと、食事をしないアイセルを面倒に思う。
イゼットはアイセルの机の上にハンカチを置き、袋の中からパンを出して置いた。
「これは?」
「木の実のパン」
朝から用意されていた果実水をカップに注いで差し出した。
「要らぬ」
首を横に振って受け取ろうとしないので、勝手に机の上に置く。
「下町の安っぽいパンは口に出来ないと?」
「そう、言外に申しているわけではない」
だったら詳しい理由を聞いてやろうと、イゼットは長椅子に腰かけて上司の顔を見る。
「……そうか。長年連れ添った部下と、お主は違う。説明を、せねばならぬか」
アイセルは果実水の注がれたカップを手に持ち、一口啜ってから顔を顰め、その理由を語った。
「私は、どうにも味覚が変じているらしい」
どういう意味かと聞き返せば、何を食べても味がしないし、食べ物を美味しいと思ったことがないという。
アイセルは自身に抱える問題を全て語って聞かせた。
魔力を作りだすことが出来る特異体質だということ、魔力の制御は上手くいかない時もあるので、他人が触れることは許されていないということ。食事を摂らなくても、体に特別な異常は起こらないということ。
「家族は、人らしく食事をしろと勧めるが、いかがにも苦手でな」
他にも語っていたが、話の全ては数日前にアイディンから聞いたことのある情報ばかりであった。
「だが、これは折角なので戴こうぞ」
アイセルはイゼットから貰ったパンを前に食前の祈りを捧げている。
「別に、無理して食べなくても」
「食べ物を恵まれたのは初の事。ありがたく戴く所存だ」
「……」
手を手巾で拭い、机に置かれたパンを千切ってから口にする。
「――!?」
目を見開いて、二口目のパンを食べるアイセル。
イゼットは店で一番人気がない木の実のパンを「口の中の水分を泥棒するパン」と呼んでいるので、しっとり感に欠けている残念な食感に驚愕しているのだと、そんな風に思っていた。
だが、アイセルの口から出た言葉は想定外のものだった。
「美味い」
「?」
ポツリと囁かれた言葉に、イゼットは自分の耳を疑うことになる。
アイセルは美味しそうにパンを食べ終え、果実水を飲んでから再び顔を顰めていた。
「これは、一体。なにゆえ、このように、美味しい?」
それはイゼットも聞きたいと思う。
アイセルに分けたパンは何の変哲もない実家のパン屋で作っているものだ。特別な工程は何一つ加えられていない。
「魔法のパンか!?」
「普通のパンだ」
イゼットはその辺で売っているものと変わらないのでもう一つ食べてみろと言って、乾燥果物が練り込まれたパンを差し出す。
「美味しい」
「……」
もしかして味覚が治ったのかと、副官が置いて行った焼き菓子を取り出して口にしてみる。
「……味が致さぬ」
「なんだよ、それ。意味が分からん」
念のためにイゼットも焼き菓子を食べてきたが、普通に上品な味のするものだった。
「このパンは、いずこにて買ったのか?」
「どこでって、実家のパン屋の残りを持って来ただけで」
「ご一族がこしらえたものであったか」
「まあ」
二人揃って不思議だと首を捻る。
「なにか事の由があるかもしれぬ。家の魔術師を派遣してもよきか?」
「よくない」
「なにゆえ?」
「特別なことは何もしていない、普通のパン屋だから」
「ぬう」
いや、ぬうとか言われても、と困った上司に視線を向ける。
「ならば、私が客として出向くのは構わぬか?」
「いや、貴族の娘が来るような店では」
「商売をしておるのだろう? 客を拒否すると申すのか?」
「……」
断る理由はなに一つとしてない。
イゼットは仕方がないと息を吐きながら店の地図を書いて渡す事となった。
「では、近日中に伺わせて貰おう」
迷路のように入り組んだ下町で迷って辿り着かなかったらいいのに、と思うイゼットだった。