六十七話
ジェラールはイゼットの妻を前にして頭の中が一瞬真っ白になった。
目の前にはとても二十代後半には見えない可憐な少女が居る。
ぱっちりとした大きな目に、薄紅色の頬、ふっくら艶々とした唇。はにかむ表情は純情可憐そのもの。世間の汚さを知らずに育ったように見える初々しい姿。
それらは十代後半の少女に見えなかった。
――なんという、童顔。
時間に置き去りにされたような女性を前に、呆然としていた。
そして、この時になって思い出す。
アイセルに一度、城塞門の前で会話をしたことがあると。
周囲を見渡しながら馬を操る彼女は一目で良家の令嬢であることがわかった。
困っているように見えたので、手助けをしようと思った。そこに下心なかったと言えば嘘になる。
世間で言う、一目惚れという現象が起きていたのだ。
お近づきになりたいと、特別親切な態度で話し掛けていたら、邪魔者が割って入って来た。
イゼット・セネル。
この場合、邪魔者はジェラールであったが、嘲笑うような表情でアイセルを連れ去って行ったので、忌々しいとばかりに睨みつけてしまったのだ。
どうして今まで忘れていたのかと首を傾げる。
色々と忙しくて、考える暇もなかったことを思い出した。
無意識のうちにイゼットを睨みつけていた。
そんな爆発してしまえと呪いを送っている相手からジェラールの名前が出たので我に返る。
「――今は副官補佐の下で働いていて」
「そうしたか」
アイセルがにっこりとジェラールに微笑みかる。
やっぱり可愛いと、ぼうっと魅入ってしまった。
その後、「夫がお世話になっています」という言葉で冷水を頭の上からかけられたような気分になるジェラールだった。
最後に客間に現れたアイバク。
その瞬間にイゼットへの恨み辛みなどは吹っ飛んでしまった。
まさか家族ぐるみの食事会だとは思わなかったので、驚いてしまう。
ジェラールは幼少時にアイバクが御前武道会で戦う姿を見て、騎士になろうと決心をした。いつか、国王の近衛部隊に入り、アイバクの部下になることを夢見ていたが、それも叶わなかった。
今、このように隊長から紹介されているのが夢のようだと、ぼんやりとした頭の中で考える。
「それで、現在イゼット殿はこちらの副官補佐の下で働いていまして」
「然様であったか」
最後に、アイバクは「息子のことをよろしく頼む」と言って朗らかに笑ってから、ジェラールの肩を強く叩く。
ここでも、冷水を頭の上から被せられたような思いをしてしまった。
――やっぱりあいつ、気に食わない!!
恵まれた環境に居るイゼットを、心の中で羨ましがるジェラールであった。
◇◇◇
夕食後、イゼットは即座にジェラールに煙草に誘われた。
執事が喫煙室へと案内してくれる。
一人掛けの椅子に座れば、執事が円卓に灰皿と細長い箱に入ったマッチを置きながら、執事は煙草を吸うのかと聞いたが、イゼットは首を振る。
一度だけ紳士の嗜みだとヒュリムに言われたので吸ってみたが、あまり良いものとは思わなかった。
この家ではアイバクもアイディンも煙草を吸わないので、別に無理しなくてもいいとヒュリムも言ってくれた。
イゼットは執事に食後酒をなにか用意してくれと頼む。
「でしたらウイスキーをお持ちいたしましょう」
続いてジェラールにも酒について訊ねる。
「任せる」
「かしこまりました」
イゼットのグラスには琥珀色の蒸留酒が注がれる。
傍らには一口大に切ったチーズの盛り合わせが置かれた。
ジェラールには白葡萄の蒸留酒が用意される。
共に置かれたのは銀紙に包まれたチョコレート。
「お前は?」
「吸わない」
ジェラールは懐から葉巻の入った容器を取り出し、一本引き抜いて灰皿の上に置く。続いて吸い口を作るためのギロチンのような小型の刃で葉巻の先端を切った。
マッチで火をつけ、葉巻を口に含んで煙をふかす。
「どうしてここに呼び出されたか分かるか?」
「まあ」
アイセルのことで物申したいというのは食事の前からの圧力で十分に伝わっていた。
「城塞門前での出来事をすっかり忘れていた」
「左様で」
「どうして言わなかった!?」
「なんと言えばいいのかわからなくて」
「なんとでも言い様はあるだろうが!」
文句を言いながら葉巻の先端の灰を灰皿の上に軽く叩きつけて落とす。
「初めて城砦で会った時の、お前の顔の憎たらしさといったら!!」
「普段から、こういう顔なもので」
「嘘だ! 獲物を横取りした狐のような顔をしていた!」
「狐……」
とりあえず、イゼットは城塞で会った時に礼儀がなっていなかった件と、アイセルのことを黙っていた件について謝った。
「まあ、そこまで謝るのならば、許してやらなくもない!」
「……」
尊大な態度で許すと言ったジェラールに、イゼットは感謝をする。
良い意味で単純な男でよかったと、心から思った。
「お前の妻に横恋慕をするつもりもないから安心しろ」
人妻ならば興味も失せるものだと主張する。
「しかし、奥方についての噂はただの根拠のない話だったな」
「噂?」
「奥方は氷の心を持つ乙女と言われていたという話をしただろう」
「ああ」
アイセルは至って普通の女性だった。
よく笑い、よく喋る。
氷の乙女という呼び名は当てはまらないものだと言った。
「だから、他人についてどうこう言うのは好かないのだ」
ジェラールは怒り任せにぐしゃりと葉巻の先端を灰皿に押し付けていた。
力任せに消された火を見ながら、そういう風に葉巻を押し潰してから吸うことを止めるのは礼儀違反だとヒュリムから指導を受けたことを思い出す。
今の場合、ジェラールは会話の流れで怒っていたので別に不思議ではないが、なにもない時に灰皿に葉巻を潰して火を消すという行為は怒っているという感情を示し、相手に不快な思いをさせるのでしないようにと言われていたのだ。
貴族は大変だなと、他人ごとのように思ってしまう。
ジェラールの個人的な呼び出しが終われば、別の部屋に移動をしてアイバクやアイディン、クレイシュらと酒を飲むことになった。
食後に男性だけ集まって会話に興じるのも貴族の嗜みである。
その間、女性陣は紅茶を楽しんでいると聞いた。
先ほどまで偉そうな態度でイゼットに接していたジェラールであったが、態度は一変している。アイバクの隣に座って夢見る少年のような表情で話を聞いていた。
クレイシュはアイバクに退職後の楽しみについて聞いていた。
「やはり、体を動かすことよの」
「そうですよね」
相変わらずチチウとして第八騎兵隊で剣術の指導に明け暮れていた。多くの人が知ることのない事実である。
「最近は毎朝息子と庭で稽古をしているが、それがなかなか楽しい」
「それは羨ましい話です」
クレイシュがそう言えば、アイバクはいつか第四王女親衛隊にも顔を出すことを約束した。
「隊員達も喜びますよ」
同意するようにコクコクと頷くジェラール。
皆、アイバクの指導を受けたがっていたという事実を知り、イゼットは恵まれた環境にあることを感謝した。
クレイシュが明日は早番だからと言ってお暇をすると言った。
ジェラールも一緒に帰ろうとしたが、アイバクよりもう少しだけ若いものだけで楽しむといいと言われてしまったので、浮いた腰を下ろす。
アイバクとクレイシュが居なくなった部屋で、再び酒を楽しむ会は再開された。
「そういえば、君ら二人はナニの内緒話をしていたの?」
それまで大人しくしていたアイディンが、イゼットとジェラールに問いかける。
「……」
「……」
下心を持って声を掛けていた相手がアイセルだった、という話など言えるわけもない。
ジェラールは視線を泳がせる。
「気になるな~」
「別に、息抜きをしただけだ」
「あ、そうなの? 意外と仲良しなんだ、君ら」
「……」
「……」
そうではないが、そういうことにしておいた。