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六十六話

 イゼットは暇さえあればヒュリムに礼儀作法を習う。

 食事の仕方、会話の作法、服の着こなしなど、身につけなければならないことは山のようにあった。


「そうではないわ!!」


 本日も、ヒュリムの鋭い叱咤が飛ぶ。

 なにか失敗をすれば指し棒で容赦なく叩かれていた。女性の力なので痛くはないが、躾をされている犬のような微妙な気持ちになる。


 休憩時間にも指導は続いていた。

 優雅なお茶の飲み方に、お菓子の食べ方など、気の休まる時間ではなかった。


 途中、アイディンが冷やかしにやって来る。


「うわ、母上どうしたんですか、それ」


 アイディンは蝶の仮面を付けてイゼットに教鞭を揮う母親の姿を見て訊ねる。


「この仮面をしている方が、どうしてか指導に熱が入るのよ」

「……へえ、面白いですね」

「不思議よね。どうしてかしら?」

「違う自分になれるからですかねえ」

「そうなのかしら?」


 アイディンの分のお茶を持って来た使用人が、ヒュリムに来客が来たということを告げる。


「母上、仮面を外さないと」

「ああ、そうだったわ」


 体に馴染み過ぎている仮面を外し、机の上に置いてから出て行った。


 アイディンは紅茶を啜り、菓子を一口で食べる。


「どう? 貴族の礼儀とやらは」

「なかなかキツイ」

「だろうね」


 育った環境で身に付いていたものを正すのは難しい。食事も味がしないだろうと苦労を労う。


「まあ、アイセルのためだと思って頑張ってくれると嬉しい」

「それはわかっている」

「ありがとう」


 にっこりと、笑みを浮かべるアイディン。

 出会ったころによく見せていた腹黒いものではなく、自然と浮かんだ微笑みを見せていた。


「でも、一人で抱え込まないで欲しいね」


 そんな風に言ってから、おもむろに机の上にあった顔半分を覆う仮面を手に取り、自身に装着する。


 そして、胸を張って一言。


「――なにか困ったことがあれば、このアニウに相談をし」

「ぶっ飛ばすぞ!」


 笑わせるなと抗議をする。

 口汚い突っ込みを受けたが、気にしないで笑い転げるアイディンであった。


 ◇◇◇


「は? 私を食事に招きたいだと?」


 ジェラールはイゼットからの言葉を意外そうに繰り返す。


 明後日の夜にクレイシュを公爵家に招待して食事をするので、ジェラールもどうかと誘ったのだ。


「妻も、是非に、と」

「へえ、お前の奥方も同席するのか」


 公爵令嬢アイセル・イェシルメン。

 社交界にはほとんど現れず、二十八歳と結婚適齢期を過ぎても独身を貫いていた。

 会ったことがある幸運な男は競い合うようにして彼女に話し掛けるが、誰ひとりとしてなびく事がなかったという。そのような噂が広がるうちにアイセルは氷の心を持つ乙女と言われていた。


「お前の嫁が社交界で『氷の心を持つ乙女』と呼ばれていたのを知っているか?」

「いや」

「誰が話し掛けても表情を変えることもなく、誰が話し掛けても微笑まない。素っ気ない態度から、そう呼ばれていた」

「……左様で」

「まるで童話の姫君だな」


 アイセルの体の事情を知っていれば仕方がない話だとイゼットは思う。


 至って冷静な態度な部下を見ながら、ジェラールは疑問を口にする。


「姫の凍った心を溶かすような情熱があるような男にはとても見えないが?」


 運が良かったと言えばまた怒られるので、イゼットは義母から習った差しさわりのない言葉を返す。


「妻に、情けを頂きました」

「だろうな!」


 力強い一言で会ったが、なんとか怒鳴られる事態は回避した。


「副官補佐、いかがいたしましょうか?」

「そうだな。まあ、お前の氷の姫君が気にもなる。滅多に会える相手ではないからな」

「……」


 ジェラールが以前声を掛けていた女性がアイセルだと言った方がいいかと迷ったが、何と言っていいのかわからなかった。


 ――以前副官補佐が城塞門前で軟派していた美少女風の女性が妻ですよ。


 そんなことを言えば怒られそうだと思った。

 やっぱりジェラールを誘わない方が良かったのかと後悔が押し寄せる。

 だが、ヒュリムから隊長と副長を連れて来いと言われていたのだ。

 親衛隊の副長は夜勤担当なので誘えない。なので、ジェラールに来て貰う他なかったのだ。


 アイセルに会えば色々と面倒なことになりそうだったので、断れ、断れと心の中で願っていたが、その思いが届くことはなかった。


「せっかくだから行くことにした」

「……ありがとうございます」


 心の籠っていないお礼を人生で初めて言うことになるイゼットだった。


 三日後。

 憂鬱なお食事会の時間は刻々と迫っていた。


「さて、そろそろ隊長に声を掛けに行くか」

「……はい」


 ジェラールのもとで書類仕事を手伝っていたイゼットは憂鬱な思いを隠しながら返事をする。


 王宮から出れば公爵家の馬車が迎えに来ていた。

 クレイシュとジェラール、イゼットの順に乗り込む。


「イェシルメン公爵と会うのは久しぶりだな。アイドアンは?」

「直接会うのは今日が初めてです」

「そうだったか」


 ジェラールはアイバクのことを尊敬しているという話を隊長に向かって熱く語る。

 一方で、向かいに座るイゼットは細い目を更に細めながら窓の外を眺めていた。

 結局アイセルにもジェラールのことについて言えなかった。連れて帰ったらどういう反応をするのか全く想像がつかない。


 ガタゴトと車輪の音を鳴らしながら、石畳の街道を進んでいく。

 市場に売られて行く家畜はこのような気分なのだろうかと思いながら、イゼットは家路に着いた。


「おかえりなさいませ」


 執事の出迎えにイゼットは片手を上げながら軽く会釈を返す。

 その後に入って来たクレイシュとジェラールにも歓迎の言葉を掛けていた。


 まずは客間へと案内をする。


「すごいお屋敷だ」


 クレイシュの言葉に頷くしかなかった。

 住人であるイゼットでさえ、屋敷の規模は把握出来ていない。


「部屋では既に――」


 もしや、アイセルが客間で待っているのか!? 

 執事の言葉を聞いて戦慄する。


 イゼットは早速危機的な状況になったと額に汗を掻いてしまう。


「アイディン様がお待ちで」

「……」


 ――兄貴だった。


 ひっそりと安堵するイゼット。


 客間へと入れば、アイディンが立ちあがってクレイシュとジェラールを歓迎する。


「やあ、どうもどうも、はじめまして」


 愛想良く握手を求め、互いに紹介をしてから座るように勧めていた。

 イゼットはジェラールが緊張した面持ちで居るのをちらりと横目で見る。


 使用人がお茶と運び、各々の前にカップが差し出される。

 紅茶を飲んでひと息つけば、アイディンはクレイシュに話しかける。


「どうですか、弟は?」


 親衛隊に配属されて一ヶ月半ほど。

 ジェラールの使い走りをしたり、訓練に参加したりと環境に慣れることで精一杯であるというのが現状だ。


「よく、頑張っているみたいですよ」


 ねえ、と言ってジェラールに話を振る。


「ああ、君の下に配属されたんだっけ」

「はい。日々、努力をしているようです」

「そうか。これからも弟をよろしくね」

「もちろんです」


 まるで目には見えない権力の圧をじりじりと掛けているようだった。

 味方にしたら心強いが、絶対に敵には回したくない男だと、義兄を見ながらイゼットは考える。


 しばらくすれば、客間の扉が叩かれた。

 アイディンは「どうぞ」と返事をする。


「こんばんは」


 現れたのはヒュリムとアイセルの二人。

 クレイシュとジェラールは揃って立ち上がる。


 イゼットも後に続いて立ち、義母と妻の紹介をした。


義母ははと妻です」

「はじめまして」


 ヒュリムはすっと膝を軽く曲げて美しい淑女の礼をした。


 アイセルはにっこりと客人に微笑みかけながら挨拶をする。


「妻のアイセルです」


 クレイシュ、ジェラールと双方の顔を交互に見てから名乗る。


 アイセルはジェラールの顔を完全に忘れていた。


 一方のジェラールは、驚いた顔を見せている。

 それから責めるような顔でイゼットに鋭く射抜くような視線を向けていた。


 もう、どうにでもなれと思いながら、イゼットは引き攣った顔で食事会に挑むことになった。


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