六十五話
公爵家に辿り着けば、まだアイセルやアイバクが帰ってきていないと執事が言うので、ヒュリムが居るという居間に案内された。
アイディンはイゼットにとりあえず廊下で待っているように言ってから扉を叩かずに中に入る。
「きゃっ!」
「あ、すみません、お取り込む中だったようで」
突然の侵入者に驚くヒュリム。膝の上には黒い子犬をちょこんと乗せていた。家族が誰も居ない間にこっそりと犬を可愛がっている最中だった。
既に、以前のように邪険な扱いが出来なくなっているからか、犬を離さずに抱き上げた状態で息子と対面をする。
「あ、あなたね、部屋に入る時は、扉を叩きなさいと何度も言ったでしょう!!」
「すみません。ちょっと急用で、母上に了承頂きたいことがあって」
「もしかして、あなたまで犬を拾って来たとか言うの!?」
「あ~、まあ、似たようなものと言えばいいのか」
「飼えませんからね!!」
「でも、もう連れて来ているので」
「あ、あなたって子は!!」
アイディンはひらひらと片手を振った。
背後に控えていた執事は、意図を察して部屋を出る。
「一体、なにを拾って来たというの!?」
「母上も好きだと思うんですけどねえ」
「わたくしは、これ以上公爵家に獣を増やすことを許さないから!」
大切そうに犬を抱きかかえている姿では説得力の欠片もなかった。
そうこうしているうちに、執事が外からアイディンが拾って来たものを連れて来る。
「あ、あなたは!?」
「こんばんは」
イゼットを見て目を見開くヒュリム。それから息子をきつい眼差しで睨み付ける。
「ど、どうして普通に連れて来ないのよ!! 驚いたじゃない!!」
「いや~、驚かすつもりはなくって」
「嘘おっしゃい!!」
落ち着きを取り戻したヒュリムはイゼットに椅子を勧めた。
「それで、どうしたの?」
「ここに住んで貰おうと思って無理矢理連れて来たんだよ」
「なんですって!?」
「だって、アイセルさん、たまにイゼット君の名を呼びながらタネルを撫でているでしょう? 多分無意識だと思うけれど」
アイセルの現状に絶句をする二人。
タネルというのは犬の名前だとアイディンは紹介をした。夜の闇を映して生まれたという意味で、アイバクが名づけたという。
「父上だっておにぎりの入った弁当箱持って屋敷の中を彷徨っていたし。おにぎりなんて誰も食べないのにね」
「おにぎりは私が責任を持って食べています!! あと、彷徨っているなどと変な解釈をしないように!!」
「え!? あ、あのおにぎりは、全て、母上が……!?」
母親の尊い犠牲にアイディンは真なる夫婦愛を見たように思う。
「あの」
ここで初めてイゼットが口を挟んだ。
「やっぱり、俺帰りますので」
「お待ちなさい!」「いやいや、待って、待って!」
腰を浮かせたイゼットを同時に引き止める親子。
アイディンはイゼットの腕を引いて無理矢理座らせた。
「……アイセルが寂しがっているの、お願いだからここに住んでくれないかしら?」
「父上もおにぎりを持て余しているようだし」
「……」
おにぎりの話題が出るたびに表情を曇らせるヒュリムを見て、イゼットも気の毒に思ってしまう。
しばらく黙って三人でお茶を飲んでいれば、ばたばたと廊下を走る音が聞こえた。
突然勢いよく扉が開いたので、ヒュリムの膝の上にいた黒犬はきゅっと身を丸めた。
「イ、イゼットさんが、来ていると!!」
息の荒い状態で飛び込んで来たのはアイセルだった。
とりあえず胸を押させて落ち着きを取り戻してから、長椅子に座る家族の元へと行った。
「イゼットさん、どうして!?」
そして、扉に背を向けて座っていたイゼットを確認して、一瞬だけ嬉しそうな表情を浮かべてから、事情が分からなかったので眉を潜める。
「ここに住もうと思って」
「え?」
イゼットの発言にアイディンは感謝した。ここで無理矢理連れて来たと言えば妹に怒られる事態になるからだ。
「公爵家の屋敷からだと王宮務めがしやすくなる」
「そ、そうだったのか」
突然の話で迷惑だったら止めると言ったが、その場に居た者達は歓迎すると言った。
最後に居間にやって来たのはアイバク。
執事が事情を話していたからか、何も聞かずにイゼットを歓迎していた。
こうして、イゼットは公爵家に移り住むことになった。
◇◇◇
イゼットは朝一で実家に帰って事情を説明したり、荷物を整理したりして忙しい時間を過ごす。
本日は珍しくアイセルと休日が同じ日だった。
だが、結婚式前なのでゆっくりと過ごす暇はない。
「せっかく休日が被ったのに!」
「仕方がないだろう」
二人で一心不乱になりながら招待状を記す。
アイセルは文章を便せんに書き、イゼットは誤字脱字がないか確認をしてから宛名を書いて封をする。
結婚式の準備は着実に進みつつあった。
アイセルの私室にはトルソーに着せた純白のドレスがある。一着目の婚礼衣裳が完成していた。二着目は制作中だという。
イゼットは騎士隊の正装があるので関係のない話だと思っていたが、そういうわけにはいかないとヒュリムが主張したために、何度か公爵家に呼び出されて採寸や布選びをしていた。
きりのいい所で作業を中断してから使用人に軽食とお茶を持ってくるように頼む。
しばらく待てば机の上に紅茶と焼き菓子とが運ばれてきた。
カップにお茶を注ぎ、焼きたてのパイを切り分けてから皿に盛り付ける。
給仕を終えた使用人は一礼をしてから去って行った。
イゼットとアイセルは長椅子に並んで座り、一息入れる。
紅茶を飲んで眉間に皺を寄せていたイゼットにアイセルは話し掛けた。
「迷惑ではなかったか?」
「なにが?」
「色々と」
アイセルは申し訳なさそうに言う。
盛大過ぎる結婚式のことから始まって、口うるさい母親に熱苦しい父、強引な兄と家族も普通ではない。
そんな者たちとの生活は息苦しいだろうと言う。
「いや、うちだって普通じゃないだろ」
淫魔の父になにごとも軽く受け流す母。
イゼットがそんな風に言えば、アイセルは窓の外を眺めて「いい天気だ」と呟いた。
「落ち着いたら、また遠乗りにでも行くか」
「本当か!?」
「ああ。今度は敷物も用意してくれ」
「イゼットさんの膝を借りるから必要ないだろう?」
「この前は嫌がっていたくせに」
「嫌がってはいない!」
だったら座ってみろと挑発するような目でアイセルを見ながら、自身の膝をぽんぽんと叩く。
瞬く間に頬を紅く染めるアイセルを見て、イゼットは冗談だと言って前言を撤回した。
「ちょっと本気にしかけていたのに!」
「座りたければいつでも自由に座るといい」
アイセルはジロリとイゼットを睨み付け、意地悪ばかり言っていると低い声で抗議した。
「俺が悪かった」
「……」
「なにをすれば許して貰える?」
アイセルはしばらく考えるような仕草をしてから、だったら手を握ってくれと言った。
「そんなことでいいのか?」
「ああ、出来たら、その、前にしてくれたように」
「?」
アイセルが魔剣をアイディンに預けている間、イゼットは魔力を吸い取るために頻繁に手を握っていた。
「あれのなにが良かったんだか」
「自分でなんでもすると言ったのだから、文句は禁止だ」
そんな風に言いながら手を差し出す。
イゼットはアイセルが着けている手袋をするりと外し、白い手の甲に自らのものを重ねた。
アイセルは瞼を閉じてホッと安心したかのような息を吐く。
「体が辛いのか?」
「いや、平気だ」
日々、送られてくる結婚を祝福の手紙。それすらも、彼女の魔力生成を促してしまうものであった。
「結婚式も、身内だけでするわけにはいかないのか?」
「……」
たくさんの人を招待して結婚式を挙げたいと言ったのはアイセルだった。
当然、彼女の両親や兄は待ったを掛ける。
「式自体は短いものだし、披露宴はしないから……」
結婚式の最中に具合でも悪くしてしまえば周囲に迷惑が掛かる。
アイセルも良く分かっていた。
「けれど、私は、きちんと幸せになれたという報告をしたい。今まで迷惑を掛けてきた人たちにも、安心させたいから」
それがアイセルの我儘であることは重々承知していた。
一生に一度だからと、自らの意見を押し通したのだ。
「もしも、なにかあったら、その時の責任はすべて私が――」
「なにも起こらない」
「……」
「大丈夫だ。心配するな」
イゼットはアイセルを引き寄せてから、そっと抱きしめて安心をさせるように背中を軽く叩いた。