六十四話
ジェラールに中庭で行われている訓練を見学するようにと言われたイゼットは、王宮の廊下を早足で進む。
前方より、アイシェ姫の傍付きの女性たちがやって来たので、道を譲った。
「あら、あなた」
すれ違う前に女性の中の一人がイゼットに近付いてきた。
それは、侍女の中に紛れ込んでいた、がたいの良い女性たちであった。
イゼットは相手を刺激しないように、目を逸らしながら会釈をする。
「イゼット・イェシルメン殿、でしたね」
いつの間にか、四名の女性に囲まれていた。
彼女たちは騎士だというが、侍女と同じようにドレスを纏っている。遠くから見たら護衛だと分からない姿をしていた。
値踏みするような視線に息苦しく思いながらも、不快感が表情に出ないように努める。
「氷の心を持っていた公爵令嬢を射止めたって話を聞いたから、どんないい男と思いきや」
中心に居た気の強そうな女性が、イゼットの顎に畳んだ扇を当てて正面を向かせる。
「別に、大したことはないじゃない」
くすくすと周囲を巻き込んで嘲笑う。
なにをされても、なにを言われても、イゼットは大人しくしていた。
「次期公爵だか、聖剣の継承者だか知らないけれど、ここで上手くやっていくのであれば、調子に乗らないことね」
女性騎士は続けて言う。
「私達は貴族でもなんてもなくて、自分の実力だけでここまで来たの。だから、権力なんて怖くないのよ」
最後に調子に乗らないように言ってから、女性たちは去って行った。
目の前の嵐が過ぎ去ったので、イゼットは安堵の息を吐く。
アイシェ王女の一番の傍付きにしたいという発言が、女性騎士たちの不興を買ってしまったのだと考えたが、話を聞いていれば自分自身の顔付きなども問題だったと気付く。
普通にしているつもりなのに、赤い目が相手を挑発しているように見えていると魔眼研究者のフズル・セキが言っていたことを思い出す。
赤い色は興奮作用がある。
負の感情を抱いている時に見た赤色から連想するのは、悪魔、危険、怒り、野蛮、争いなどの相手の感情を沸き立たせるものばかりであった。
目の色だけはどうしようもないとイゼットも諦めている。
◇◇◇
その後、訓練をしているという中庭へと向かった。
親衛隊の訓練だというので勝手に隊列などを確認したり、剣の構えなどを確認したり、簡単なものをしているのだろうと思い込んでいたが、目の前にある光景を見て驚くことになった。
全体の指導するのは隊長であるクレイシュ・ジャンダン。
隊員達は皆泥まみれの姿だった。
それに、王宮の中庭と言っても、芝生などが綺麗に敷かれた場所ではなくて、他の部隊と同じような土の地面の広場だったのだ。
途中、イゼットの存在に気が付いた隊長が手招きをして近くに呼び寄せる。
親衛隊の訓練の様子はどうだったかと聞かれ、正直にすごいと思ったことを伝えた。
「せっかくだから、一戦どうかな?」
クレイシュは布で剣の土汚れを拭いながら聞いてくる。
鬱憤の溜まっていたイゼットは、その申し出を喜んで受け入れた。
互いに向き合って一礼をする。
にこにこと愛想良くしていたクレイシュであったが、力を込めて剣を握った途端に表情が一変した。
イゼットよりも背が高く、ひょろりとした印象だったが、振り下ろされる一撃は重たい。それに、動きにも速さが合った。素早く打たれる攻撃に、イゼットは剣で受け流すのが精一杯な状態まで追い込まれていた。
後方に跳んでクレイシュから距離を取る。
ぎゅっと握った聖剣は不思議なことに以前よりも軽く感じていた。
イェシルメン家の者と縁を結んだからだろうかと考える。
訓練と名のつくものであったが、クレイシュは本気を出している。
何度か剣を交えるも、相手を翻弄する一撃を与えられずにいた。
向かって来る相手の剣を回避して、剣を振り上げてから攻撃を仕掛けた。
だが、剣が届く前に待てが掛かる。
どうやら時間切れのようだったようだ。
イゼットは息を整えながら、剣を鞘に収める。
そんな若い騎士を見ながら、クレイシュは一言。
「基礎はしっかりしている。これからいくらでも伸びるだろうね」
「……ありがとうございます」
イゼットはハハウから習っていた貴族の礼をして、下がって行った。
午後からはジェラールについて回り、王宮内の見回り任務を行った。
慣れない親衛隊での一日はあっという間に終わる。
◇◇◇
新しい生活が始まって半月ほど経った。
色々と不安材料のある職場だと思っていたが、意外なことに大きな諍いなどは起きていない。
親衛隊の騎士たちは育ちが良い者ばかりだからか、イゼットを妬むような態度を見せる者は居なかった。
だからと言って仲良くなれるわけではなかったが、仕事は慣れ合いで成立しているわけではないので、イゼットは何とも思っていない。
仲間外れにされないのは副官補佐であるジェラールの下についているというもの理由の一つだろうと考えていた。
彼は怒りっぽくあったがどこまでも正直な男で、人の悪口を嫌っていた。
何か気になることがあればイゼットに直接言って来る。
慣れたら気持ちのいい性格の男だという印象を抱いていた。
それから、アイシェ王女の傍付きの女騎士にはなるべく近づかないようにしている。
とは言っても、彼女らと接触する機会といえば夜勤と日勤の交代した後に帰宅をしている時だけ。イゼットが気にしていれば頻繁に会うこともない相手だった。
一日の仕事を終えて家路に着こうとすれば、侍女に呼び止められた。
「なんだ?」
「あの、お迎えが」
「迎え?」
客間で待っているからと言って、侍女は去って行ってしまった。
一体誰がやって来たのかと首を傾げながら向かえば、アイディンが「やあ」と言ってイゼットに向かって片手を上げていた。
「どうした?」
「い、いや~、ちょっと家が大変なことになっていてね」
「はあ?」
ことの発端はアイバクがイゼットの実家へパンを買いに行くと言って出掛けた日だった。
帰宅をするまでは良かったが、片手にパンの入った袋を持ち、片手に小さな黒い犬を抱いていたのだ。
「父が、拾って来た犬を飼い出すと言って……」
当然ながら、ヒュリムは拾って来た犬に反感を抱いた。
アイセルは中立的な立場に居たが、それも数日のうちだけだった。
「アイセルさんが、急に犬がイゼット君に似ていると言い出して……」
犬の目はくりっとしていて可愛らしく、茶色い目をしていた。誰が見てもイゼットに似ている要素はなかった。
「多分、黒い毛並みだけに見て言っているだけだと思うんだけどね」
「……」
「きっと、イゼット君に会えない寂しさを犬で埋めようとしているんだよ」
それから数週間と経ち、痩せ細っていた犬はコロコロと肉付きも良くなって、アイバクの世話によって毛並みも美しくなった。
「でも、何故か犬は一番母上に懐いていて……」
ヒュリムは犬の存在を拒否し続けていたが、後に誰も居ないところで可愛がっていたということが発覚する。
「なんか、最近は私まで犬が可愛く見えてきて、疲れているのかな~って」
「それで、俺にどうしろと言いたい」
「早くうちに引っ越してきて、犬の天下を終わらせて下さい」
犬の天下など気のせいだと言うが、アイディンは絶対にそうだと主張する。
「アイセルさんも寂しがっているし、一日に一回顔を合わせるだけでも違うんじゃないかなと思って」
「……」
アイディンには大きな借りがあったので、頼むと頭を下げられたら断ることは出来なかった。
「わかった」
「え、本当に!?」
「いつ、行けばいい?」
「今日から」
「は?」
「夕食は家族で食べよう」
「……」
イゼットの実家には事情を説明した手紙を送るからとアイディンは言う。
「いや、そっちも色々準備があるだろう?」
「大丈夫。君の部屋は早い段階で母上が準備していたから」
イゼットはアイディンに腕を引かれて帰宅をする。
向かった先は当然ながら、イェシルメン公爵家だ。