五十九話
アイセルの家の問題は解決した。結婚の許しも得た。
「さて、あとは親父だ」
「ま、まあ、無理はいけない」
揃って帰宅をしたあと、イゼットの母に手伝うことはないかと聞き、何もないと言うので、二階に上がった。
――帰ったか!
アイセルとイゼットの声を聞いて、洗面所からコロコロと転がって出迎える桶。否、淫魔・メティン。
イゼットは父親の魔法陣が宿る桶をがっしりと掴み、持ち上げた。
――あ、なんだ? 父が恋しくなったか?
「少し、話がある」
――聞いてやるぞ。ふ、仕方がない奴よの!
普段は素っ気ない息子が話をしたいと言うので、父は嬉しくて弾んだ声で返事をする。
一方のイゼットはどうにか話を纏めようと、厳しい顔付きでいた。
アイセルは親子の様子をはらはらと見守る。
桶は机の上に置かれた。対面するように、座る。
――で、話とはなんだ?
アイセルの淹れた紅茶が三つ、机の上に並べられてから、本題に移る。
「アイセルと結婚をすることになった」
――!?
「あの、先ほど、私の両親にも報告に行って」
――左様であったか! まことにめでたいことよ!
桶は結婚報告を聞いて垂直にポーンと飛びあがって驚き、それから喜びと祝福の言葉を告げた。
「それで」
――うん?
「この家を出ることになる」
――なぬ!?
ガタガタと揺れながら喜んでいた父の動きが止まる。
「公爵家の籍に入ることになったから、母さんのことを頼む。あと、いい加減外に出て来てくれないか?」
急に普通の桶のように大人しくなったメティン。
「おい!」
イゼットが返事をするように急かせば、ガタガタと震え出す。
――……、で
「は?」
――……だから、その
「声が小さい!」
息子に怒られた父は、睨まれた視線から逃れるようにアイセルの居る方向へ転がって行った。
「イゼットさん、もう少し優しく聞いてくれないか?」
「……」
メティンは机の端で存在感を消していた。
アイセルは気の毒に思ってしまう。
「一体いつになったら人の姿に戻るんだ?」
――い、いずれは……
「これから、誰が母さんを助ける?」
――わ、私が、た、助けたい!
「俺たちはもうじきここを出る」
――う、うむ……
「いつ出るんだ?」
――い、今でしょ!
「……」
本当なのか? と疑いの視線を桶に向けるイゼット。
――わ、私の決心を、見届けるがいい!!
メティンは、縦になってコロコロと食卓の上を転がり、端から華麗に飛翔した。
宙に魔法陣が浮かび上がり、桶は力なく床に落ちて行く。
それと同時に、大きな物体が、ゴトリと音をたてて落下して行った。
イゼットとアイセルは、床を覗き込む。
「……」
「……」
床の上に転がっていたのは、小太りの中年親父。うつ伏せになっているので、顔などは確認出来ない。シャツとズボンはぱつんぱつんで、いまにも弾け飛んでしまいそうだった。
警戒しているイゼットは、足の先で中年の男を転がして仰向けにさせる。
「――ヒッ!」
悲鳴を上げたのは、中年の男だった。
近くにあった桶で顔を隠したが、すぐに取り上げられてしまう。
「親父か?」
「……はい」
イゼットとの共通点と言えば、黒い髪に赤い目と声。
以前聞いた時は、痩せ細っていて恥ずかしいと言っていた。なのに、目の前に現れたメティンは、良く肥えていた。
理由を聞けば、アイセルの魔力を日々頂いていたら、いつの間にかふっくらとなっていたと言う。
「こんな変わりきった姿、見られてしまったら、エ、エヴレンに嫌われてしまうぞ」
「……」
イゼットは窓の外を見る。良い天気だった。
背後にいたアイセルが、早く父親の発言に対する返事をした方がいいと肩を叩く。
「いや、大丈夫だろう」
「なんだ、今の間は!?」
埒が明かないと思ったので、とりあえず母親に掛けていた魔術を解くように助言した。
メティンはイゼットの母から自身に関する記憶を封じていたのだ。
「も、もしも、拒絶されたらどうする!?」
「その時は、一緒に私達と住みましょう」
「!?」
アイセルの提案に、目を剥くメティン。
「なんと、慈愛に溢れる者なのか! 息子よ、お前は本当に、良い娘と出会った!」
だが、新婚の邪魔をするわけにはいかないと、息子の言うことを聞き、解呪を行う。
桶を机の上に置き、立ち上がって魔術の印を指先で刻んだ。
魔法陣が浮かび上がり、四散していく。
「これで、エヴレンの記憶は戻っ……」
「ねえ、イゼット!! 父さんのこと、思い出したわ!!」
記憶が戻った途端に速攻で現れる母親。
「ん?」
食堂の扉を開き、中の現状を見渡して首を捻る。
そして、視線は背中を丸めている中年男のもとに。
「あら、あなた、メティンじゃない?」
「!?」
ビクリと、肩を震わせるメティン。
まさか、一目で見破られるとは考えもしていなかったのだろう。
「ねえ、そうでしょう?」
近くに寄ろうとすれば、逃げてイゼットの背に隠れる。
怒られると思ったのか、息子の腕をぎゅっと握ったメティン。
ところが、発せられた一言は意外なものだった。
「――良かったわ、元気そうで」
「!?」
そっと妻の顔を覗きこめば、穏やかな顔で微笑んでいるのが分かる。
「ど、どうして、怒らない?」
「どうして私が怒るのよ」
「助けて貰った、お、恩も忘れて黙って、出て行って、一番大変な時に、わ、私は息子とエヴレンの傍に居なかった」
「そんなことないわ。私、幸せだったのよ」
日々、忙しいだけのパン屋に婿に来てくれる男など居なかった。
エヴレンはパンが焼くのも、売るのも、客と触れ合うのも好きで、結婚するために家を出ることなんて考えもしていなかった。
だが、年頃になれば、道行く若い夫婦が子供を連れて歩く様を見て、何も思わないと言えば嘘になる。
「そんな中であなたに出会って、お互いに好きになって、パン屋を手つだってくれて、子供まで生まれて、本当に、嬉しかったの」
「……」
「メティンが美味しいって言ってくれた木の実入りのパン。どうしていつもたくさん作っちゃうのかしらって不思議に思っていたの。忘れていても、体が覚えていたのね」
魔力を食べ物から補給しようとしていたメティンは、とにかくたくさん食事を摂っていた。中でも、木の実入りのパンを気に入り、エヴレンは店で余るように多めに作っていたのだ。
「ねえ、あなたの息子、イゼットっていうんだけど、こんなに大きくなったのよ」
「あ、ああ、立派な、息子に、育って、本当に、良かった」
「でしょう?」
メティンはイゼットの背後から出て来て、深く頭を下げる。
「ほ、本当に、申し訳無かった」
「いいって言っているでしょう? もう、しつこいわね!」
明るく言いながら、メティンの肩を叩く。
考えていた悪いことは何も起こらなかった。
メティンは深い安堵の息を吐く。
イゼットは、本当のことを全て母親に伝えるように言った。
「そ、そうだな」
「まだ何かあるの?」
以前から話し合っていたことだった。
イゼットの母には、全て告白しても問題ないだろうと。
――結果。
「あら、そうだったの」
「……」
「……」
「……」
夫である淫魔のことも、イゼットやアイセルの体質のことも、一言で受け流す母。
「なによ、ずっと居るんだったら早く言って欲しかったわ」
「いや、このように、具現化が叶ったのも最近の話で」
「でも、会話は出来たのでしょう?」
「う、うむ」
「だったら、おしゃべりだけでもしたかったのに」
「そ、そうだな」
両親の様子を眺めながら、心配はしなくても良さそうだなとイゼットは思う。
家を出て、公爵家の籍に入ることになったと告げても、お祝の言葉と頑張るように言うだけだった。
「父さん」
「!?」
「母さんのことを、頼む」
頭を下げるイゼット見て、メティンは目を見開く。
「い、今、エヴレン、我が息子、イゼットが、父と!?」
「なんだよ」
「もう一度、父と呼んでくれ!」
「やだよ」
反抗的な態度を取って居れば、母親からお父さんに意地悪しないのと怒られてしまう。
そんな家族を様子を見ながら、アイセルは笑っていた。
セネル家の問題も、あっさりと解決する。