四十八話
身支度の為に用意された時間をほとんど使い、アイセルは準備完了となった。
「お嬢様が一番お綺麗です」
「またそんな事を言ってから」
「本当ですよお~」
侍女とフェルハの言葉を軽く受け流すアイセル。
短く切った髪は付け毛のお陰で元通りになった。
化粧もいつもより濃くしたからか、大人っぽく見える。
袖が手先まである、襟の詰まったドレスで露出も高くないと安心をしていたが、後方を見れば背中が広く空いていた。反対側の趣向まで確認していなかったので、してやられたと思う。
「このように、背中が開いているドレスなど見たことがないが?」
「異国で流行している意匠でございます」
「とんでもないものが流行っているものだ」
若い娘が纏っているような全円に広がるスカートではなく、体の線にぴったりと沿った形をしていた。夜会用のドレスのほとんどは胸元を露出するような意匠であるが、今回のドレスは詰め襟状の物なので、前面からの肌の露出は無い。
「お嬢様、とても素敵です」
「どうだか」
「きっとお連れ様もドキっとする筈ですよお~」
「だといいが」
「大丈夫です! お似合いですもの!」
「背後ははしたないほどに開いているがな」
全身鏡で自身の姿を確認しつつ、呆れた感想を漏らすアイセル。
「背中が凍えるようだ」
「殿方が腰回りに腕を回してくれるので、暖が取れます。あと少しの我慢ですよ」
「いや、あの人はそんなことはしないだろう……」
夜会会場で必死にイゼットの後を追いかける姿を想像してしまった。
そこで、あることを思う。
「そろそろお時間です」
「分かった」
扇を手渡され、夜会という名の戦場へ赴く準備は整う事となった。
「いってらっしゃいませ」
「ああ」
「楽しんで来て下さいねえ」
「分かっている」
約束していた壁掛け時計の前に行けば、既にイゼットは待機していた。
普段身に着けない手袋に違和感を覚えているからか、履き口を引っ張りながらなんとも言えない表情で居る。
初めて見るイゼットの正装姿にアイセルは目を細めた。
新しく作った正装はよく似合っている。髪型もきっちりと整えられており、好青年のようにも見えた。
「すまない、待たせたな」
声を掛けてアイセルの姿に気づいたイゼットは、その艶やかなドレス姿に目を見張る。
言葉は何も発する事はなかったが、驚くような反応を見る事が出来たので、アイセルは満足した。
「早く行こう」
アイセルが先を歩き、イゼットが後に続く。
直前になって、アイセルは提案をした。
主従のように歩いていれば、変に目立つ事はないと。
以前までは公爵家に婿入りをするような話をしていたので、一緒に行動をしていても問題なかったが、家を出た現在は噂が立ってしまえば面倒な事にしかならないので、それを避ける為に並んで歩くのは止めようと言った。
会場の入り口に着けば、左右に並んだ第四王女の親衛隊員が深く頭を垂れて、扉を開いて中に招き入れた。
中にはまだ参加客はほとんど居ない。よくよく見れば、王族関係者ばかりだった。
少数の人だかりの中心に居るのは第四王女、アイシェ・トゥリン・メネメンジオウル。
本日が九歳の誕生日であった。
目ざとくアイセルの姿を発見したアイシェは、ドレスの裾を掴んで駆けて来た。
「アイセル!」
アイシェ王女は抱きつく寸前にアイセルの体質を思い出し、ぐっと爪先に力を入れて勢いを落とした。
「本当に来てくれたのね!」
「約束をしたからな」
「ぬいぐるみもありがとう! 初めてお誕生日の日にお礼を言えたわ」
「……」
毎年第四王女から誕生会の招待状が届いていたが、体質の事を理由に断り続けていたのだ。
数ヵ月前にその事を心配したアイシェ王女に最近は具合も良いと言った事から、今回の参加が叶ったという訳である。
「ジュルガルも来てくれて嬉しいわ!」
王女はアイセルの影のように佇む黒髪赤目の騎士にも言葉を掛けた。
「……姫、ジュルガルは彼の馬の名前だ」
「あら、そうだったかしら? ごめんなさいね。あ、思い出した。イゼット! イゼット・セネルだったわ!」
ぴょこんと跳ね上がってから、イゼットの名前を記憶から蘇らせて言う。
「家族にはお礼のキスをしていたけれど、アイセルには無理ね」
「気持ちだけ頂こう」
「そうね。だったら――」
ちらりと後方で待機をする騎士を見るアイシェ王女。
目が合ったイゼットは、とんでもないことだと思って首を振った。
「いいからそこに膝を着きなさい!」
「……」
王族に命じられたら仕方がない。
アイセルの代わりにお礼のキスを受ける為に、イゼットはその場に片膝を着いて大人しくする。
王女は従順な騎士の肩に手を添えてから頬に唇を寄せた。
「ねえ、嬉しい?」
「……とても」
嬉しそうに見えないイゼットの冷めきった反応を見て、アイシェ王女は笑い出す。
「ふふ。なんだかあなた、可愛いわね」
もう一度、不意打ちのキスをしてから、アイシェ王女はイゼットの前から軽い足取りで立ち去って行く。
ゆっくりと立ち上がるイゼットに、アイセルはハンカチを差し出した。
「頬に姫の口紅が付いている」
「……」
ハンカチを受け取ろうとしたが、その手は空振りした。
アイセルはイゼットに近付き、頬に付いた薄紅をゴシゴシと力を込めて拭う。
「地味に痛い」
「……我慢しろ。二回も口付けをしたから、二ヶ所に、口紅が」
そんなやりとりをしているうちに、楽団の演奏が始まった。
「端に移ろう」
「了解」
◇◇◇
招待客も続々と集まりつつある。
話しかけられたら面倒だと思ったので、アイセルとイゼットは目立たない場所に移動をした。
礼儀として、最低でも一時間は会場にいなければならない。
アイセルは楽しそうに踊ったり会話に興じる周囲の様子を眩しく思い、視線を地面に落とす。
「おい、大丈夫か?」
「ん」
アイセルの顔色が悪いように見えたイゼットは、少しでも楽になればと思って背中を撫でようと手を伸ばしたが、その部位が剥き出しの肌だったので、触れていた指先を引っ込める。
「待って」
「……」
アイセルはイゼットの腕の服を掴み、額を肩に寄せる。
「手袋越しでは無く、直接、触れて」
囁くように紡がれる懇願の言葉に、イゼットはぎょっとする。
アイセルは王女が休憩をする為に用意された目隠しの板の陰に居た。
他の人の目が届かないからと言って、会場の中で色々する訳にもいかない。
「もう、部屋で休んだ方がいい」
「……」
頬は紅潮して、額には汗が滲んでいる。それは、人混みに酔ったという状況ではないことは、イゼットも理解していた。
腰を支えながら、出口へ向かう。
途中、目聡くアイセルの姿を見つけて話し掛けて来る者も居たが、気分が優れないからと言って会話をする事は遠慮して貰った。
人通りの少ない廊下に辿り着けば、すっかり熱っぽくなった体を横抱きにして抱き上げ、個人に振り分けられた部屋へと急いだ。
預かっていた鍵番号から部屋を割り出し、両手が塞がっているので足先で扉を叩いて、中で待機している侍女を呼び出した。
「誰か居ないのか!?」
急かすように何度か扉を叩いたが部屋の中からの反応は無かった。
一先ず両手で抱えていたアイセルを下ろす。
壁を伝うようにしてその場に蹲る様子を見て、更に焦ってしまった。
鍵を使って扉を開けて、再びアイセルを抱きあげてから部屋の中へと入った。
明かりも点されていない部屋は、円らな月明かりが僅かな光を照らすばかりであった。
薄暗い部屋の中でイゼットは無人の部屋に愕然とする。
とりあえず長椅子の上にアイセルを下ろし、カップに水を注いで差し出したが受け取らない。
体は熱を帯び、息使いも荒くなっている。
額にはびっしりと汗を掻いていたので、それをハンカチで拭ってやった。
せめて水分補給だけでもと言ったが、アイセルは分かったからと軽く頷くばかりである。
「少し待て。兄貴を呼ぶから」
アイディンから預かっていた強制召喚の腕輪に触れようとしたが、アイセルの指先に止められてしまった。
「――も、もう、家族には、迷惑を、掛けたくな、い」
誕生会という大勢の人の善の気に晒され、アイセルの体は魔力が満ち溢れる状態になっていた。
魔力生成は自身に向けられた物に限定すると思い込んでいたので、まさかの事態を前にイゼットは動揺する。
息遣いの荒いアイセルであったが、話し掛ける内容は至極落ち着いたものであった。
「――今日は、とても、良い思い出が、出来た」
あまり交流が出来ていなかった王女を喜ばすことが出来たし、イゼットの正装姿も見られた。着飾った姿を見て、目を見張る表情も嬉しいと思った。
短い時間であったが、楽しかったという感想をアイセルは述べる。
「もう、部屋に帰って、休め。私も、しばらくの間、眠ると、しよう」
長椅子に背を預けた状態で目を閉じれば、眦に浮かんでいた涙が溢れ落ちて行く。
「ありがとう、イゼットさん」
目を閉じたまま、心からの謝辞を伝えた。
もう疲れたからと言って、そのまま動かなくなる。
「アイセル!?」
「……」
手袋を取ってから頬に触れたら、今度は熱が引いて冷たくなっていた。
どうにかしなければと思い、イゼットは水を少しだけ口に含み、アイセルの唇に押し付ける。