四十五話
アイセルとイゼットは話し合って同居をするにあたっての決まり事を作る。
「とりあえず、隊の奴らにはバレないようにする」
「分かった」
他に弁当を当番制にする事や、家賃の代わりに店の手伝いをする事、掃除の担当区域などを決める。そのほとんどはアイセル自身がしたいと申し出た事だった。
「他に何かないか?」
「そうだな」
イゼットはすっかり様変わりしたアイセルの姿を眺めつつ考える。
長い髪の毛は肩口までの長さとなっていた。シェナイに切って貰ったと言う。
何度練習しても三つ編みが上手く編めなかった為に、だったら短く切ってしまおうという英断をしたのだ。本人曰く、驚くほど頭が軽くなり、かつ洗髪にも時間がかからなくなるから良い事しかないとの事。
服も街の商店で買って来た既製服を着こなしていた。
だが、どんな格好をしていても、一目見ただけで育ちの良い娘だと言う事が分かる。
その事実が、近くに居るのに遠い所に居るように感じるのだろうと、イゼットは思っていた。
隣に座っているアイセルが真面目な顔でじっと見上げるので、何事かと見下ろした。
黙ったままだったので、イゼットは何となくアイセルの短くなった髪に手を伸ばす。
肩口まで揃えられた髪の毛はさらさらとしていて柔らかく、触り心地が良い。
猫を可愛がるように、頬に指先をすべらせて、最後に顎の下を撫でるという動作をした所で待ったが掛った。
「セネル副官、ちょっと」
「……」
イゼットはアイセルへ伸ばし、触れていた手を離す。
「こ、ここは台所だから、誰が来るか、分からないから」
「それもそうだ」
初めはアイセルの部屋で話し合おうと言っていたが、結婚前の女性は男と二人きりになってはいけないのだろうとイゼットが言いだしたので、台所を占拠しての話し合いとなっていた。
「――だから、続きは部屋で」
「……」
アイセルが目も合わせずに言う。
こういう事を言うのが恥ずかしいからか、頬を真っ赤に染めていた。
この時ばかりはお言葉に甘えたいような気もしたが、ふとした瞬間にチチウの顔が浮かんでしまった。
まだ彼女に触れてはいけないと、軽く首を振って我に返る。
「その前に、呼び方をどうにかして欲しい」
「ん?」
「前に言っただろう? この家の人間は全員セネルだと」
「……」
以前店の手伝いをしに来た時に名前で呼ぶと宣言してから、なんとなく一度も実行出来ずにいた。一緒に住むにあたって、その辺は徹底して欲しいとお願いする。
「……イゼット、さん」
「なんでさん付けなんだよ」
「呼び方なんてなんでもいいだろう!?」
今まで男性を名前で呼んだ事も無かったので、勝手が分からないとアイセルは主張した。
「まあ、いいか」
「上から目線だな」
イゼットもさん付けで呼んだ方がいいか訊ねたが、アイセルは年上だと言う事が強調される気がしたので丁重にお断りした。
◇◇◇
翌朝、イゼットは二人分の弁当を作ってから、職場へと向かう。
アイセルの父はまだ仮面の騎士を続ける気らしい。
老後の楽しみになっているので、どうか気付かない振りをして欲しいとお願いされた。
休憩室に行けば、一心不乱に床拭きをするチチウの姿が。
驚いたイゼットはそんなに部屋が汚かったのかと聞けば、今日は当番だったと話す。
「何かしておらぬと、落ち着かぬ故」
「……左様で」
そんな会話を交わしてから、再び掃除を始めるチチウ。
床は全面ピカピカと輝いていたが、まだ綺麗になると言って掃除を続けていた。
以上が第八部隊で本当にあった怖い話である。
掃除が終わればいつも通りに訓練の時間となった。
アイセルを連れ去ってしまったので、二度と剣を交えては貰えないと思っていた。
想定外の誘いを光栄に思うイゼット。
まずは素振りをして体を解し、それから手合わせをする。
合図にしている鐘が鳴り響けば、互いに構えていた姿勢から地面を蹴って相手に向って斬り掛った。
イゼットは自らの素早さを生かした戦い方をせずに、チチウへと立ち向かった。
イゼットが振るうのは両手剣。
チチウの教える剣術を最大限にまで行かせる得物である。
騎士になってから今まで片手剣を使っていた。最初に上司となった騎士が、イゼットの体型や動きを見て、内に秘めた能力を生かせるように決めたものだった。
長年使っていた軽い剣から長く重い剣に替え、チチウより習った必殺の剣術を揮う。
周囲には、剣戟の音が響き渡っていた。
チチウの重たい一撃を、イゼットは全力で切り払う。
息吐く間もないほどの激しい打ち合いの最中、先に息切れを起こすのはイゼットだった。
だが、ここ数ヵ月の食生活から考えた体作りが功を奏していたのか、動きについて行く事を可能としていた。
そんな状況の中、振り下ろした剣の一撃はチチウをも凌駕する。
チチウの掲げた剣は切っ先が相手に届く前に払い飛ばされて宙を舞う。
イゼットはチチウの喉元に剣を向けて壁側に追い詰めた。
「――我の、負けだ」
チチウは負けを認めた。
今日は調子が悪かったのではないかと聞くが、そうではないと答えるチチウ。
「いつもより動きが鈍かった」
「……我は齢六十も過ぎている。そう、長い時間を縦横無尽には動けまい」
脱力したかのように地面に片膝を着くチチウを見下ろしながら、イゼットは思う。
早朝からの気合の入った拭き掃除が体にきているのではないのかと。
この勝負は無かった事にと言おうとすれば、イゼットより先にチチウが発言をする。
「しばし、ここで待たれよ」
「?」
お手製のおにぎりを渡され、食べながらその場で待機するように言われた。
数分後、戻って来たチチウは布に包んだ細長い何かを持って帰って来た。三個目のおにぎりを食べているイゼットに、差し出す。
「これは?」
「我が長年家族を守るために振るっていた剣だ。受け取られよ」
「……」
あたかも自分を凌いだ弟子に大切な剣を渡すような素振りを見せるチチウに、イゼットは本当に貰っていいものなのかと考える。
今日の勝利はまぐれだ。まだまだ学ぶべきことは山のようにある。
だが、チチウの思いは別にあった。
「これで、大切な存在を守れ」
「!」
その言葉を聞いてイゼットは気が付く。
チチウは暗にアイセルを頼むと言いたいのだと。
差し出された剣を、イゼットは受け取った。
チチウも安心したのか、微笑んでいるように見えた。
「――ん?」
「なんぞ?」
チチウが微笑んで見えたのは気のせいでは無かった。
「いや、仮面……」
「!?」
イゼットに指摘をされて、チチウは顔に触れる。
「ぬ、ぬう!?」
「……」
チチウは仮面をしていなかった。
恐らく剣を仕舞っていた場所に入る為に仮面を外して行き、その後着けるのを忘れて来たのだろうと想定する。
「顔、見ていないから」
「……う、うむ」
チチウは両手で顔を隠し、じりじりとその場から去ろうとする。
イゼットはその姿を見ない振りをする為に、澄んだ青空に視線を移した。
◇◇◇
イゼットは普段よりも遅い時間に執務室へとやって来た。
始業前なので何の問題もなかったが、時間通りに現れる男なので、アイセルは少しだけ不思議に思う。
朝の挨拶をした後に、アイセルはイゼットの手に握ってある布の包みに気付いた。
「セネル副官、それは?」
「隊長の親父さんから貰った」
「父上から?」
アイセルは近くに寄ってイゼットが包みを開くのを待つ。
はらりと広げられた布の中に入っていたのは、一振りの純白剣。
鞘も柄も白く、剣を引けば刀身も真っ白であった。
「これは」
「聖剣・アイタジュ!?」
「!?」
聖剣の名前には古い言葉で月の冠という意味があり、公爵家の当主となる者に代々受け継がれる宝でもあった。その事実について、イゼットが知ったら重たく受け止めるのではと思ったので、アイセルは黙っておく。
しかしながら、美しい聖剣はイゼットにも世界で唯一の物に見えていた。
本当も貰って良いものかと、首を捻っている。
「その聖剣と私のこの魔剣は同じ刀匠が作った品だ」
アイセルは壁に掛けてあった鞘も柄も刀身も黒い剣をイゼットに示す。
「意匠も全く同じだろう?」
「まあ、そうだな」
「そういう訳だから、遠慮なく使うといい」
「どういう訳だよ」
お揃いの剣を並べて、アイセルは嬉しそうにしていた。