四十三話
イゼットの実家で目覚める初めての朝は、窓枠に止まっている鳥達の騒がしい囀りの中で迎える事となった。
公爵家の屋敷や魔術研究局外で眠るのは初めてだったが、珍しく深く眠る事が出来たので不思議に思う。
カーテンを端に寄せて窓を開放すれば、羽を休めていた鳥達が大空へと飛んで行った。
昇ったばかりの陽の光を、心地よいと思いながら目を細める。
「――あ!」
そして、今更ながらに気が付く。出遅れた、と。
既にパン屋の朝の営業時間は始まっていた。耳を澄ませば一階の店舗の賑やかな様子が聞こえている。
店番でも手伝おうと思っていたのに、一日目からこの体たらくである。
まずは昨日シェナイに借りたシャツと袖無しのワンピースを着る。
残念なことに慌てているのでなかなか上手く着る事が出来ない。
なんとかシャツのボタンを閉じてワンピースに手を伸ばした瞬間にぷつりと糸の切れる音が鳴る。
「……」
胸付近のボタンが二つ程飛んでいた。
その事実に衝撃を受けていたものの、落ち込んでいる暇はない。
素早く身支度を整えて、パン屋の手伝いに行かなければならなかった。
黒のワンピースも寸法が合っていなかった。だが、諦めるしかないと、圧迫感を我慢する。
部屋には鏡の置かれた机があった。これが化粧台の代わりなのだろうと、アイセルは気付く。周囲には化粧水のようなものと髪を梳く櫛しか置かれてしない。
とりあえず髪だけ結ぶことにする。
当然、自分で髪を結ぶのも初めてだった。
いつも侍女がしてくれるような三つ編みにして後頭部で巻きつけるという形には出来ない。髪を一つにまとめて紐で結ぶというものを、苦労の末に仕上げた。
顔と歯を洗うために風呂場に併設されている洗面所へと向かった。
洗面台の使い方はシェナイに習っていたので問題は生じなかった。
買い置きしていたという歯ブラシもありがたく使わせて貰う。
タオルで洗った顔を拭い、鏡に自身を移す。
上半身を見ただけで、服の寸法が合っていない事が分かった。
化粧をしていない顔は、いつも以上に幼く感じて落ち込んでしまう。
アイセルは童顔なのを気にしているというよりは、年相応に見えない事をなんとなく嫌だと思っていた。若作りの遺伝子は公爵家に代々伝わるものなので、血には抗えないと諦める事にしているのが現状だった。
準備が完了したので階段に向って走って行ったが、上の階から降りて来た人物により、進行を妨げられてしまう。
「!」
階段の降り口で鉢合わせとなったのはイゼット。まさかの邂逅に、心の準備が出来ていなかったので、アイセルは恥ずかしくなって顔を逸らす。
「どこに行こうとしている?」
「パン屋の、手伝いを、と」
そう言ってからイゼットの脇をすり抜けて行こうとしたが、手を掴まれてしまった。
「な、なにを!?」
「こっちを手伝え」
「は?」
手を引かれて辿り着いたのは、二階にある食堂兼台所。
イゼットはアイセルの手を離し、片手に持っていた包みを机の上に置いた。
「これは?」
「米」
包みの中の箱は三段あり、その全てに樽型のおにぎりがぎっしり詰まっていた。
「この形は、もしかして父が?」
イゼットは微かに頷いた。
「ど、どうして、父上は、おにぎりをこんなに?」
「混乱していたのだろう」
「え?」
「娘が家出したから」
「……」
三段にもなる大量のおにぎりはアイセルの父が、心を落ち着かせる為に作ったものだった。
イゼットは昨晩アイディンから預かって来ていた手紙を渡した。
中に書かれてあったのは「今日、父親と話をしろ」という一文だけ。
場所は街の喫茶店となっていた。
イゼットは背中を丸めながら手紙の紙面に視線を落とすアイセルの背中を軽く叩く。
「朝食を作る手伝いをしてくれ」
「わ、分った」
鍋の中に水を入れて、ふつふつと沸かせる。
中に入れるのは野菜と卵白を混ぜた挽肉。
これらは出汁を取るだけの材料である。煮立てば卵白が灰汁を含んで浮かび上がるようになっていた。
しばらく煮込めば、中の具を濾して取り除く。
その後、アイセルの切った野菜と燻製肉を入れて、家畜の乳も投入した。最後に香辛料で味を整えればスープの完成。
チチウ特製のおにぎりは表面に焼き目を入れてパリパリの状態にする。
底の深い器におにぎりを入れて、その上からスープと粉末にしたチーズを掛ける。
白米のままだと食べ慣れていない人間には癖があるので、申し訳ないと思いつつもこのように手を加えた。
「一階に居る従業員に持って行ってくれるか? 厨房に居る四十代位の親父と若い男の二人分」
「分かった」
アイセルは作ったばかりのおにぎりスープと匙を盆の上に乗せ、慎重な足取りで台所から出て行った。
その後も四名分のスープを作り、アイセルは二階から一階へと上り下りをして給仕をする事となる。
最後に作ったのはアイセルとイゼットの分。
机の上に皿を置き、向かい合うようにして座った。
カップには花の香りがするお茶が注がれる。傍には砂糖の入ったポットも添えられていた。
軽く祈りを捧げてから、匙を手に取って食事を戴く事にした。
まずは乳がたっぷり入ったスープ一口。
こってりとした濃厚な味わいは、前日からの疲れを引きずった体に優しく沁み渡るようだった。野菜は歯を立てずとも、口の中でほろりと解れる。
おにぎりは匙の背で軽く潰してから掬う。スープと共に食べれば、米の独特な風味は飛んで無くなっていた。米の外はパリっと、中はふっくらという食感も舌を楽しませてくれる。
乳のスープと米は驚くほど相性が良かった。
「これは、実に美味しい。よく、思いついたな」
「穀物屋でこういう異国料理があるって聞いたことがあったからな」
実際の作り方は香味野菜を炒めた鍋に生の米を入れて、肉の出汁を投入し水分が無くなるまで煮込み、最後にチーズや香辛料で味を整えるという料理だった。
チチウがせっかく握ってくれたので、異国料理の着想を元に形を崩さないような料理を作ったという訳である。
朝食を終えて片付けなどをしていたら、父親と会う時間も間近となっていた。
「場所は分かるか?」
「心配は要らない」
とりあえず父親に事情を説明しなくてはいけない。
アイセルは決心を更に固めながら、立ち向かうことにする。
店番をするというイゼットに見送られながら、アイセルは一人で街に出かけた。
指定された喫茶店は、ごく普通の庶民御用達の場所だった。
アイセルの父、アイバクは腕を組んで座っている。
店の中には供の一人も連れておらず、ただならぬ気配を漂わせていたので明らかに浮いていた。
店内を覗きこめば、客は誰も居ない。
このような人物が店の窓辺に座っていたら、誰も入りたくないだろうなとアイセルはひっそりと思う。
カラン、と出入口に吊るしていた鐘が鳴る。
そして、父親の方を向けば、すぐに目があった。
「……父上」
「……座られよ」
注文を聞きに来た店員に飲み物を注文して、しばし沈黙の時間を過ごす。
これから怒られるのだろうと想定していたが、今まで剣術を習う時以外で激しい言葉をぶつけられた記憶が無い事に気が付いた。
先に口を開いたのは、アイセルの父。
「何故、家を出た?」
「母上と喧嘩をして、どうしても譲れない事だったので……」
「……」
アイセルは全て話した。
イゼットの事、自身の気持ち、これからについて。
淫魔について兄から口止めをされていたが、このまま黙っておくのも良くないと思った。
アイバクはヒュリムのように頭の固い人間では無い。イゼットが淫魔だからと言って国に突き出すような真似はしないと信じていた。
アイセルは、全てを父親に打ち明ける事を決める。
◇◇◇
同時刻、下町のパン屋にて。
ちょっとした買い物から帰って来たイゼットの母は、アイセルの所在を訊ねた。
「父親と話をしに行った」
「あら、そうなの」
軽い返事をしていたが、その表情は険しくなっている。
聞くべきかどうか迷っていたがアイセルの事を思って、ある疑問点を口にしてしまう。
「ねえ、イゼット」
「なんだ」
「あなた、アイセルちゃんと一緒に行くべきではなかったの?」
「どうして?」
「どうしてって、色々考えてここに連れて来たのでしょう? だったら、お父様に許しを乞うとか、謝りに行くとか、そういうのをしなきゃいけないんじゃないの?」
イゼットは母親の言葉に首を振る。
「まだ、そういう事を言える立場にはない」
「……そう」
息子は息子なりに考えて行動をしているのだと分かったのでその判断に任せようと、追及をすることは止めた。