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四十一話

「別に、彼が平民だから反対をしている訳ではありません。野望を持ってあなたに近づき、騙していた根性が気に入らないのです」


 ヒュリムは考える。

 この短い間でアイセルは大きく変わった。毎日楽しそうにしていた。

 辛い宿命を背負った子供の結婚など、とうの昔に諦めていた。

 娘の幸せを願う母の立場からしたら、平民との結婚も許すしかない。


 だが、イゼット・セネルは、何も知らない初心な娘を言葉巧みに誑かし、公爵家の財産を狙って近づいて来た。

 アイセルは初めての恋に浮かれている状態。目を覚ますように諭さなければと決心していた。


「ねえ、騎士隊には沢山の男性は居るでしょう? 他の人ではいけないの?」

「……私には、彼しか居ない」

「あなたは、恋に恋をしている状態なのよ。少しだけ、冷静になって」

「冷静になるのは母上の方。一ヵ月ちょっとと短い間だったが、セネル副官と接して、そういう人物ではないと、分らなかったのか」

「それは――」


 イゼット・セネル。

 見知らぬ男達に絡まれている時に、偶然助けてくれた平民の騎士。

 お金を目的に近づいて来た事を考えれば、案内は雑でヒュリムに対する態度もぶっきらぼうだった。


 しかし、彼はヒュリムに本当の名前を名乗らなかった。

 アイセルの母親だと気付いていたのに、知らない振りをしていた。


 信じるには怪しい点があると、疑う気持ちの方が勝ってしまったのだ。


「彼は自分の感情はあまり語らない、不器用な人だから」

「……」

「だけど、毎日作って来てくれる食事を見れば、分かる」


 誰かの為の料理は、その人への気持ちが詰まっている。

 お弁当を作り始めてから気づいた感情であった。


「母上も、分るでしょう? 料理は、簡単に出来るものではないと」


 料理には面倒だと思う工程もある。だが、食べてくれた人が美味しいと感じてくれたら、苦労も吹っ飛んでしまうとアイセルは考えながら作っていた。


「でも、アイセル」

「分かった」

「!?」


 アイセルは立ち上がって、固まった気持ちを口にした。


「私は、この家と縁を切ろう」

「え?」

「母上。生まれてから此の方、世話になった。あなたの愛情のお陰で、私は随分と救われた。深く、感謝をしている」

「な、なにを、言っているの?」


 立ち上がって、頭を下げるアイセルに縋るヒュリム。だが、固まった心を溶かす事はない。


「まさかイゼット・セネルと駆け落ちするつもりでは?」

「それはありえない。私は第八騎兵・王都警護隊の隊長。国王より拝受した任を放棄して、逃げるなど不届き者の所業だ」


 生まれながらの貴族令嬢が一人暮らしなど出来る訳がない。自分を追い詰める事はするなと引きとめたが、困るような事態になれば使用人を雇えば問題ないとヒュリムの提案を切って捨てた。


「父上と兄上には後日、挨拶を」

「アイセル!」

「騎士隊の宿舎に移り住むので、何かあればそこに連絡を」


 アイセルは母親の掴んでいた手を優しく離し、もう一度頭を下げる。

 そのまま自室へ行って宝石箱の中からイゼットより贈られた腕飾りだけ掴むと、早足で家を出る。

 生活に必要な物はある程度騎士隊に揃っている。服や下着なども支給品があるので問題はなかった。


 使用人の制止を振り払いながら家を出た。

 騎士団の駐屯地までは徒歩で行ける距離なので、公爵家の門まで走って行ってそのまま馬車にも乗らずに向かう。


 騎士団自体は一日中誰かが待機している状態なので建物全体に灯りが付いていたが、宿舎に入る申請をする部署に夜間担当は居ない。

 アイセルは以前イゼットから夜勤の時に長椅子で寝たという話を思い出たので、執務室に向かう。そこで過ごすしかないと、上手く働かない頭の中で考えながら。


 執務室は鍵がかかっていなかった。

 だが、今は鍵を持っていなかったので都合がいいと思う。

 素早く中へ入って閉めた扉を背にした状態で、その場に座り込んでしまう。


 今まで我慢していた涙は、暗い部屋の中では止め処なく溢れ出てきた。

 好きな人を分かって貰えなかった悔しさと、今まで迷惑を掛けた家族を裏切ってしまったという申し訳なさが、涙となってこみ上げている。


 ガタリという物音が聞こえて、アイセルはハッと息を呑み込んだ。


「どうした?」

「!?」


 慌てたように問い掛けられた声は、彼女が今すぐ会いたいと思っていた人物のもの。


「……セネル、副官?」


 アイセルは我を忘れた状態で執務室へと飛び込んで来たので、人の気配にも気付かなかったのだ。

 取り乱している事を恥ずかしく思い、ハンカチを取り出して涙を拭うが、気持ちとは裏腹にどんどん眦から滴が溢れ出て来る。


 なんとか震える声を振り絞り、帰っていなかったのかと聞けば、疲れていて立ち上がる元気がなかったと、イゼットは静かな声で言う。


「早く、家に、帰れ。母上が、心配をしている」

「……」


 アイセルは忘れ物を取りに来ただけと言った。

 イゼットはそうかと呟き、彼女が泣き止むまで話し掛けることもなかった。


 鳴咽が聞こえなくなると、イゼットは角灯に火を点してからアイセルの近くに行く。


「家まで送ろう」

「いや、それは大丈夫だから」

「そういう訳にはいかない」


 夜間になってからの四度目の鐘が鳴り響く。

 申し出を断り続けるアイセルに、街の中は酔っ払いも徘徊する時間帯になった事を伝えるが、首を振ってなかなか了承しない。


「だったら、兄を呼ぶぞ」

「!」


 イゼットは緊急連絡用に渡されていた腕輪型の魔技巧品をアイセルに示した。呪文をなぞるだけで直接アイディンを呼び出す事が出来るという品だと語って聞かせた。


「仕様もない事に兄を呼び出すな」

「仕様もない事ではない。このまま言う通りに、一人置いて帰れる訳がないだろう」

「……」


 このままでは埒が明かないと思い、アイセルは折れることにした。


「……実を言えば、家を出てきた。これから私は宿舎暮らしをする。すぐに、という訳にはいかないから、しばらくは執務室で休む事になるだろう」

「!」


 他の部隊ならば隊長には個人部屋が割り当てられるが、第八騎兵隊が使える部屋に上官用の部屋は存在しない。しかも、夜勤の無い部隊なので宿直室なども無いという。


 なので、唯一鍵のある執務室で眠るしかない。


 その話を聞いたイゼットはアイセルの手を取って立ち上がる。


「帰るぞ」

「ど、どこに」

「パン屋」

「は?」


 執務室から出て鍵を閉めるとアイセルの手を握ったままで廊下を進む。


「ま、待て。誰かに見られたら」

「警護隊は夜勤がないから誰も居ない」

「だが――」


 イゼットの言う通り裏門から出る為の道を進めば、門番以外の誰ともすれ違う事はなかった。


 夜の街を抜け、薄暗い下町まで歩いて行く。

 アイセルは戸惑いながらも、引かれる手に続いた。


 辿り着いたのはイゼットの実家のパン屋。


「あの、セネル副官、これは」

「ここで暮せ」

「え?」

「贅沢な暮しは出来ないが、それでもいいのなら」


 アイセルはそんなことなど望んでいないと首を振る。


「だが、この先、公爵家の支援は」

「そんなものはどうでもいい」

「!」

「貧乏な暮らしに耐えられるのであれば、ここに居ろ」


 信じがたい言葉を聞き、目を見張る。


「うちのパンが好きなんだろう?」


 アイセルはイゼットの言葉にゆっくりと頷いた。


 それと同時にパン屋の扉が開かれる。


「あら。もしかして、お取り込み中?」

「……」

「……」

「ごめんなさいねえ、オバさん、空気が読めなくって」


 顔を出したのはイゼットの母親だった。

 慌てて扉を閉めようとしていたが、イゼットはそれを制する。


「母さん」

「や、やだ、母さんだなんて、恥ずかしい」


 十何年振りに息子から正しい呼び方をされたので、照れてしまう母。

 そんな様子など無視してイゼットは話を進める。


 アイセルをイゼットの実家で暮らすようにしたいと言えば、あっさりと了承してくれた。


「シェナイの隣の部屋を使えばいいわ」


 パン屋の上に連なる家の構造は、二階は兄家族が使い、三階はイゼット親子が使っている部屋となっている。空き部屋多いので、遠慮なく使ってくれとイゼットの母は言った。


「本当に、迷惑では」

「そんなことないから大丈夫よ」


 こうして、アイセルはイゼットの家の居候の身となった。


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