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四十話

 ヒュリムとの約束の日。

 イゼットは周囲の目を避けるようにして、第八騎兵隊の内部の案内をする。

 アイセルに申告したことによって以前よりは動きやすくなっていた。


 窓の外を覗きこめば、隊員達の訓練風景が広がっている。

 チチウが次々と隊員達の相手をして、その様子を見ていたアイセルが個人の癖や悪手の原因となる動きを指摘していた。


「何だか、楽しそうね」


 夫と娘の姿を見ながら呟く。

 普段不真面目な隊員たちも、訓練の時ばかりは真面目な態度で参加するようになっていた。

 誰もが自らの剣の上達を実感しているからだ。


 その後、ヒュリムは訓練の様子を飽きることなく眺めてから帰ると言った。


「あなたには迷惑を掛けてしまったわね」

「いや、別に」

「そう? 良かったわ」


 ヒュリムは垂れた目を細め、穏やかな顔で微笑んでくる。


「もう、今日で最後にしようかしら」


 末端の者達の振る舞いを見たいと言ったヒュリムの監査は今回で終わりだと告げられた。


「わたくし、分ったの。人は身分とか生まれた境遇に関係なく、互いに理解を深めたら楽しく過ごせるということに」


 ここで過ごす者達の間には壁など無かった。

 その代り上下関係なども多少はあやふやになっているものの、互いに影響し合って切磋琢磨をしていることが窺えたという。


「最初、ここに来た時に騎士たちに囲まれたのも、悪い事をしようとはしていなかったのね。彼らなりの親切を、わたくしが知らなかっただけで不快な気分になってしまって」

「いや、あれは、あいつらも悪い」

「そんなことないわ」


 貴族社会という小さな鳥籠の中のような世界で生きてきたヒュリムにとって、平民が多く所属する騎士隊の日常は驚きの連続だった。それ以上に目を見張ったのは、その環境の中で生き生きと仕事をする娘の姿。


「ここに来て、良かったわ。なんだか、視界が広がったような気もするの」

「そう、か」


 お礼を言いながら優雅な礼をするヒュリムを、イゼットは静かに見下ろす。


「ああ、最後に一つだけ質問を」

「?」

「あなた、イゼット・セネルという騎士を知っているかしら?」


 ついにこの時が来たと、覚悟を決める。


 ヒュリムは平民生まれの者達を理解したような言動をしていたが、娘の結婚相手としてはまた別の話だということをイゼットも想定していた。


 幸い、今までは他人を疑う事を知らないヒュリムのお陰で上手く誤魔化せていたが、今度こそ本当の事を言わなければならないと考える。


 この場では適当に「そんな騎士など知らない」と言っても、後で家に招かれるという一大行事が待ち構えていた。公爵家の訪問を断っても、夜会に行けば顔を合わせることになる。


 逃げ道などどこにもなかった。


「彼の特徴はなんだったかしら?」


 鞄の中の手帳を取り出して調べる。


「短くて黒い髪に、赤い目は吊り目で三白眼……」


 イゼット・セネルの特徴を読み上げ、目の前の騎士と目があった瞬間に気づく。


「あ、あなた、もしかして――!?」

「……」


 イゼットはこの時になって初めて自らを名乗る事となった。


「どうして、本当の名前を言わなかったの?」


 わざわざ名乗って覚えて貰うような大きなことをしていないと思っていたからで、その当時は他意もなかった。それを主張しても仕方がないことなので、黙ったままヒュリムの顔を見下ろす。


「あなたが、アイセルの好きな人、よね?私が、誰か分かるかしら?」


 イゼットは重々しい様子で頷く。すると、今までの穏やかな雰囲気はなくなり、警戒の色を表情に浮かべるヒュリム。発せられる声色は硬く、震えていた。


「私に親切にしてくれたのも、点数稼ぎだったの?」


 そういうつもりは無かった。

 ただ、単独で歩き回りって好奇心だけで近寄って来た騎士に絡まれたら気の毒なので、案内を買って出ただけである。


 それに、ヒュリムの声はアイセルによく似ていた。なので、他人のようには思えなかったのだ。


「ねえ、何か目的があって夫や息子、娘に近づいたのかしら?」


 アイセルにははっきりと言えた。

 公爵家の権力やお金を使って出世したいと。


 成り上がる事を全く考えていないと言えば嘘になるが、それが現実的なものでないも分かっていた。


 意地汚い野望を抱いていると言えば、アイセルが二度と近づいて来ないと思ったからだ。


 だが、アイセルはそれでも良いと言った。彼女には、イゼットだけしか居ないという言葉と共に。


 貴族とパン屋の息子の結婚など今までに聞いたことのない話であった。

 どうして周囲の反対もなく、上手くいくかもしれないと考えていた事を不思議に思う。


 更に、イゼットが半淫魔だと言えばこの場でひっくり返ってしまいそうだと考える。


 浮かんだのは自らへの嘲り笑い。


 この瞬間に、淫魔ではなく普通の人のように生活出来るという希望も、アイセルとの将来の事も、何もかも砕けて無くなったように感じていた。


「な、なにが、可笑しいの?」

「……別に」


 身を竦めて厳しい目を向けるヒュリムはある願いを口にした。


「もう、わたくしの家族に近寄らないでくれる?」

「……」

「うちの人も、ここには来ないように言うわ」


 騎士団の長を務めていた者には、相応しい場所があるからと言った。


「娘も、あなたのような人が居る部隊では無くて――」


 これ以上ヒュリムと話す事もないと思い、イゼットはその場から立ち去る。

 背後から引きとめる声が聞こえたが、追って来ることもなかったのでそのまま無視した。


 ◇◇◇


 アイセルは仕事を言えて帰宅をする準備をした。

 職場でのイゼットは普段通り素気無いもので、次の休みにどこかへ行こうと誘っても忙しいと言って断われてしまう。


「いつならいい?」

「いつかな」

「それを聞いているのに!」


 腹を立てた振りをして帰ると言えば、手をひらひらと振って見送る。

 早く行けという意味に見えたので、覚えていろと捨て台詞を吐いて執務部屋から去って行く。


 門を出ればすぐに公爵家の馬車を操る御者がやって来る。


「お嬢様、おかえりなさいませ。馬車を持って参りますので、しばしこちらでお待ちを」

「分かった」


 今日は珍しく早く帰れたので、イゼットの実家のパン屋にでも寄ろうとかと言えば、馬車の中で待機をしていた侍女に止められてしまう。


「お嬢様、それはなりません」

「何故?」

「奥様が、お嬢様にお話があると」

「母上が?」


 一体何の話があるのかと考えたが、今日は騎士隊へやって来る日だった事を思い出す。

 何か問題でもあったのか。それともイゼットの事か。


 アイセルの副官は普段通りの様子を見せていたので、騎士隊から帰る途中でなにかあったのかもしれないと推測しつつの帰宅となった。


 屋敷へ戻れば一番に母親の元へと急ぐ。

 執事に居場所を聞いてから、教えられた場所へと向かった。


「――母上、失礼いたします」

「あらアイセル、おかえりなさい」


 声色は普段と変わらなかったが、表情は不機嫌だと言わんばかりに歪められているヒュリム。

 そんな母親の表情を伺いながら、向かい合うように長椅子へと座った。


「それで、お話とは」

「イゼット・セネルの事です」

「え?」


 アイセルの推測は外れた。

 ヒュリムはイゼットについて話をしたいを言う。


「彼が、何か?」

「あなたが夜会に連れて行きたいと言っていたのも、最近一緒に出掛けていたのも、彼で間違いはないわね?」

「え、ええ」

「でしたら、今後一切イゼット・セネルと仕事以外での付き合いは禁じます」


 母親の口から発せられたのは、金槌で頭を撃たれるような辛辣な言葉だった。


「お父様とアイディンにも、同様のことを命じます」

「は、母上、どうして、そのような」

「あの者は、あなたに相応しくありません」

「!?」


 今日、騎士隊に行って何かあったのかと聞けば、イゼットが秘密を守らないでアイセルに監査の事を喋ってしまったことが露呈してしまう。気持ちが動転して言ってはいけない事を口にしたと、即座に後悔が押し寄せていた。


「彼が平民だから、そういうことを?」

「それは違うわ」

「だったら、他に理由が?」


 ヒュリムは「残酷な事を言うけれど」と前置きをしてから話す。


「あの騎士が近づいたのは、公爵家の権力とお金が目的で、あなたを誑し込んだの」


 アイセルは、それは違うとふるふると首を振る。

 確かに、以前イゼットはそういう風に言ったが、本心ではないことは分かっていた。


「今まで、公爵家の金をあてにするような素振りは一度も――」

「小さなお金を消費して相手を安心させるのは詐欺師の常套手段よ」


 話は平行線のまま。

 母子の睨み合いだけが続く。


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