三十六話
「ねえ、あれ、なにをしているの?」
アイセルの母・ヒュリムは隊員達が隊列の確認をしている訓練風景を指さす。
「王都周辺を巡回する時にあの形に並んで歩く」
「そうなの」
隊列は綺麗に整っていたが、今日はチチウが居ないので雑談が多い。
しかも、行きつけの酒場に綺麗な娘が入ったとか、全く関係の無い話で盛り上がっていた。
隊員達に大声で注意をするアイセル。
「まあ、嫌だわ。あんな乱暴で大きな声。はしたない」
「……」
貴族の令嬢らしからぬ声を上げるアイセルを見ての一言。
彼女も第八部隊に配属された当初は上品にやんわりと注意をしていた。
だが、それでは隊員達に伝わらないと思って、今のように声を張り上げて指示を送るようになった。
「そういえば、あなたは訓練に参加しないの?」
「今日は備品の補充を任されて」
「あら、そう」
後は適当にアイセルの執務室を見せてから監査は終了となった。
「では、これで」
「待って」
「?」
呼びとめられて何事かと思いきや、ヒュリムは前掛けのポケットの中から包みを取り出す。
「……」
「?」
包みを両手で持ったまま、イゼットを睨みつけるヒュリム。
無駄に流れる時間がもったいないので、質問をする。
「それ、俺に?」
「!」
「もしかして、お菓子?」
「ほ、報酬です!」
そんな風に言って、何故か怒りながらイゼットの手に小さな包みを押し付けて、ヒュリムはそそくさと帰って行く。
「あ、そっちは出口じゃない」
無計画に進むヒュリムをイゼットは連れ戻す事になった。
◇◇◇
ヒュリムを騎士隊の玄関まで送り届け、執務室に戻って来たイゼットはどっかりと椅子に座って眉間の皺を解す。
貴人の相手をするのはなかなか骨の折れる作業であった。
このように騎士隊の中を案内するのは三回目になる。
毎回のように翌日には丁寧な手紙と、次回監査の予告が記されたものが届いていた。
先日はその手紙がアイセルに見つかりそうになり、大変焦った事を思い出す。
しかも、空気を読めない隊員が女性からの手紙だと言って渡すので、余計に誤魔化す作業に苦労する事となった。それに加えて宛名の名前を間違っていると言う隊員の指摘にも、ヒヤリとしてしまう。
何をやっているんだと自分自身に呆れながら溜め息を吐いた。
色々と決心を固める前に、イゼットはイェシルメン公爵家の者達と関わってしまった。
ヒュリムには偽名を名乗ってしまったので、更に首を絞める行為となっている。
アイセルと夜会に行くと決めた時に答えを出すべきだったのかもしれないと反省。
「――あ」
夜会でヒュリムに会ったらどうすればいいのか。
本当の事を打ち明けることが正解に思えるが、何だか騒ぎになりそうで不安になる。
考え事をしていれば、アイセルが訓練から帰って来た。
「なんだ、それ?」
大きな荷物を持って帰って来たアイセル。イゼットは何となく気になって、だらしなく座った姿で問い掛けた。
「セネル副官の正装だ」
「!」
アイセルの発言を聞いて、慌てて立ち上がるイゼット。ずっしりと重い箱を取り上げてから机の上に置く。
「なんだ、待ちわびていたのか?」
「違う」
箱の中身は女性が運べるような重さでは無かった。
戦闘用では無い騎士隊の制服は、動きやすい構造で作ってはいるものの装飾過多で重い。
「総務部の人間に押し付けられたのか?」
「いや、早くセネル副官と中身を見たかったから、取り上げて持って来た」
「……」
力はあるから気にするなと言うが、イゼットは気にする。
全身筋肉質の屈強な女騎士であれば安心して任せるが、彼女はか細く儚いような令嬢の姿をしていた。
「中を見たい」
「勤務中だ」
「勤務中にだらしない姿で座っていた副官殿の発言とは思えないな」
「……」
その通りだと思ったので、素直に正装の入った箱を開けた。
中にあったのは黒い詰襟の上着。肩や胸には金糸を織り込んで作った飾緒が付いている。ボタンは全て銀という豪華絢爛な衣装だった。
「当日は全身真っ黒になる」
「目が赤いから映えるだろう」
それにズボンは白だと、上着の下の衣服を確認しながら言う。
当日が楽しみだとアイセル言った。
その発言に渋面を浮かべるイゼット。
「本当に、俺を連れて行くというのか」
「ああ、当然だ。私はすでに対価を払っている」
アイセルは楽しそうにパン屋の手伝いをした思い出を語り出す。
「また、忙しい時は手伝いに行ってもいい」
「それは、母が喜ぶかもな」
「休みの日はいつでも行ってくれ」
それから話題は夜会当日の話に戻った。
「礼儀のなっていない貴族が絡んでくる事もあるが、それはまあ、気にするな」
「そっちは恥ずかしくないのか?」
「別に、行き遅れなのは本当だから、色々言われるのも――」
「違う」
「?」
下町出身の、パン屋の息子を連れて歩く事は恥ずかしくないのかと、イゼットは聞いた。
「何を言っている?」
「貴族社会における一般論だ」
「そういう考えを持った事は一度もない」
「だったら、今まで居なかった珍しい境遇の人間を前にして、面白く思ったか?」
「それも違う!」
イゼットはアイセルやその家族は他の貴族と違い、差別をするような者達ではないことは分かっていたが、それでも思う所があった。
アイセルについても、どういう人物であるかは十分に理解しているのに、それでも明確な言葉が欲しいと、望んでしまう。
「私は、軽い気持ちで誘った訳では無い」
「夜会で特定の人物を連れ回せば、周囲は勘違いをする」
――下町の身分が低い男なんか連れて、公爵家の姫は気でも狂ったか。
「セネル副官、自分を卑下するな」
「だが、今までそういう風に貴族から馬鹿にされてきた」
「そうやって、個人の生まれを馬鹿にする方が馬鹿だ」
残念ながら、貴族の全てがそういう考えを持っているとは限らない。
「私は、セネル副官が一緒に居てくれるのであれば、何を言われても気にしない」
「……」
夜会の様子は安易に想像出来る。
身分が低く、貴族社会の礼儀を知らないイゼットに優しい世界ではないだろう。
それに、恥を掻くのはイゼットだけではない。共に参加をするアイセルにも被害は及ぶ。
「他に、いい相手は居ないのか?」
「――私には、あなただけ」
はっきりと、アイセルはイゼットの目を見ながら告げた。
変わった娘だと、まっすぐに向かい合う娘を見ながら思う。
その想いに応える事は苦難の道を示していた。
イゼットは瞼を閉じて開く一瞬の間に決意を固め、ずっと考えていたことを話した。
「残念ながら、俺には野望がある」
「?」
剣の腕は大したことはなく、育った環境は恵まれているとはいえない。
けれど、そんな彼にも思う所があった。
――騎士になったら、将来は団長になってやる。
それは、騎士に憧れて、将来の目標とする少年ならば誰にでも持つような、夢物語でもある。
先日発表された新たな騎士隊長は、平民生まれで会ったが類稀な実力があった。実力主義の騎士隊では、当然の結果だと誰もが祝福をしていた。
一方で、騎士隊の中で上り詰めて行く方法が他にもある。
それは、ほどほどに実力があることを前提とするが、よくある手法でもあった。
それは、大貴族の後押し。
騎士団を支援する貴族の力を利用して昇格をするというものであった。
都合が良いことにアイセルの実家、イェシルメン公爵家は騎士団を支援する筆頭でもある。
イゼットはアイセルに言った。自分を選べば、もれなく家の力を利用してやると。
「最悪だろう?」
「……」
この時になってアイセルの表情に動揺が浮かんだ。
そういう風になるのも仕方がないと、イゼットは思う。
しかしながら、彼女の口から出て来たのは想定外の言葉だった。
「それは、実家から出て行く、ということなのか?」
「実家?」
「下町のパン屋だ」
アイセルと共に貴族社会を選べば、当然家を出て暮らす事となる。母親一人を残して大丈夫なのかと、申し訳なさそうに聞いて来た。
「別に、子離れは出来ているだろう」
「だが――」
「同じ王都に住んでいるし、会えなくなる訳でも」
「そ、そうか」
どうして今、実家のパン屋の話をしているのかと、イゼットは気付く。話を戻さなければと口を開いたが、アイセルの言葉に遮られてしまった。
「ならば、いくらでも利用するがいい」
「は?」
「ん?」
信じられない言葉が聞こえた気がして、イゼットは思わず聞き返してしまう。
「だから、公爵家のコネでも、父や伯父の権力でも、何でも使うといいと言っている」
アイセルの発言に、言葉を失うイゼット。
「野望があると言ったのはセネル副官であろう? どうしてそちらが驚いている」
「……」
しっかりしろと肩を叩かれたイゼットは、嘘だろうと呟いた。