三十五話
朝、いつも通りに出勤して来てチチウとの訓練をこなし、軽い食事を摂って腹を満たした後は執務室で上司が来るまで待機となる。
汗を休憩所で拭き取ってから、執務室へと向かう。
途中、十代の年若い騎士たちが廊下で騒いでいる声が聞こえる。
何事かと顔を顰めながら近づけば、五人程の隊員達が誰かを取り囲むように固まっていた。
近くに寄れば、彼らが取り囲んでいるのは女性であることが分かる。
しかも、この辺りには現れない貴人に仕える侍女に見えた。
若い騎士達の目にも珍しく映ったのだろう。
俯く女性の周囲を取り囲み、からかうような言葉を掛けていた。
イゼットは呆れながら近づく。
「なにやってんだ、お前ら」
考えるよりも体が先に動いていて、女性の周りに居た騎士の服や肩を乱暴に掴んで、離れた場所に行くように放り出した。
文句を言われたが、知った事では無いので全て無視した。
全ての騎士を離した後で気が付く。騎士に集られていた女性は老齢の、庶民には高価な品である眼鏡を掛けた淑女だった。
――うわ。
イゼットは即座に気付いてしまった。眼鏡の奥にある目元が誰かに似ていることを。
謎の淑女の垂れた青い目は、某魔術研究局の局長(四十代・独身)を思わせる容貌をしていた。
恐らく彼女はアイセルの母親か、違ってもこれだけ容姿が似ているので王族関係者ということになる。
ふざけた態度で絡んで良い相手な訳はない。
そもそも、王弟であるチチウに関しても丁寧な態度で接しなければならないが、相手が気安い態度なので、適当に折り合いをつけているというのが現状である。どうにかしなければならないというのは今後の課題だ。
とりあえず、突如として現れた老齢淑女を逃がそうと、騎士との間に立ち憚った。背後に回した手で逃げるようにと支持を送る。
ぐだぐだと言い募る騎士達を雑にあしらって何とか解散させ、イゼットは執務室へと向かって行った。
◇◇◇
アイセルは既に出勤していた。
様子を見ていれば、普段と同じで特別変わった様子はない。が、念の為、聞いてみる。
「誰かここに来なかったか?」
「いや、誰も来なかったが?」
訪ねて来たのはチチウだったのか。
侍女は女性に仕える世話役という印象が強かったので、てっきりアイセルに会う事を目的としていると思い込んでいた。
「誰か来る予定があるのか?」
「いや……」
言った方がいいのか悪いのか。
イゼットは迷ったが、隠しておくのも面倒だったので、そのまま言ってしまう。
「隊長の兄貴に目元が似ている女性を見た」
「なっ、もしや母上、か!?」
「いや、どうか分からない。黒髪で、眼鏡を掛けた仕着せ姿で居た」
「……黒髪に眼鏡? 母は私と同じ髪色なのだが?」
「はっきりと記憶している訳ではないから」
「だが、兄に目付きが似ている女性と言えば、王族の中でも母上しか居ない」
「……」
アイセルは始業開始時間前だったので母親らしき人間を探しに行ったが、見つけることは出来なかったと言って戻って来る。更に、チチウもその女性は見ていないということも発覚した。
結局、その日はアイセルもイゼットも再び会える事はなかった。
翌日。
アイセルはすっきりしないような表情で出勤する。
「母は知らないと言っていた。他の家族もそういうことをする筈がないと」
「だったら完全にこっちの見間違いかもしれない」
「そう、だろうか?」
「顔を見たのはほとんど一瞬みたいな感じだったから、俺も自信がある訳では無い」
また見かけたら報告をするようにして、とりあえずその話は気にしないようと決めて、簡単に片付けた。
それから数日たって、訪問者について忘れかけていた頃に、思いがけない再会をする事となる。
「――ねえ、あなた」
「!」
背後から呼ばれて振り向けば、先日助けた仕着せを纏う老齢の淑女が居た。
「この前助けてくれたの、あなたよね? 後ろ姿に見覚えがあったから」
「……それは、まあ」
ここで関係ありません、全くの別人ですと否定しても良かったが、同じ部隊の黒髪はのらくら者が多かったので、他を当たらせるには危険だと思った。
「ずっと、お礼を言いたくて」
「……左様で」
よくよく格好を見れば、今回はきちんと下働きの服装で来ていた。髪の毛も櫛を通して結わずに、ふんわりと髪の毛を束ねてから結び目だけしっかりと結ぶという下働きの女性の髪型となっていた。
今日はどこから見てもどこにでも居る下働きに見える。ただ、ぱっと見た印象だけであるが。
よくよく確認をすれば、育ちの良さが全身から滲み出ていた。アイセルやチチウと同じような、生まれ持った高貴な雰囲気があるのだ。
完璧な変装をしていると思い込んでいる人物を前に、イゼットは眉間に皺を寄せた。
顔はアイディンにそっくりだし、声を聞いてみればアイセルによく似ている。
彼女が誰であるかは一目瞭然であった。
一体、夫や娘に黙って何をしようとしているのか。
全く理由を想像出来ないので、駄目もとで目的を聞いてみる。
「ここには、何の用事で?」
「少しだけ、見学をしに」
「ここは、ガラの悪い騎士が多いから、親衛隊とかの訓練を見た方が……」
「わたくしは末端の者達の振る舞いに、興味があるの」
「……」
隊の端くれ者の実態は、この前見かけた騎士のような訓練以外の日常になれば躾もなっていない集まりだ。これ以上関わって何を確認したいのかと、突っ込みたい気持ちを我慢する。
イゼットは差し障りのない程度の質問を投げ掛けた。
「誰かに勧められて、ここに?」
「いいえ。わたくしの判断で」
廊下の壁に片手を付いて、少しだけ項垂れるイゼット。
アイセルの母親らしき女性は、きっと夫や娘がどういう場所で過ごしているのか監査をしに来たに違いないと判断した。
更に、まだ情報が少ないので、まだまだ見て回る必要があると言っている。
「誰か、知り合いの騎士とかと一緒に来た方がいい」
「そんなことをしたら、目立ってしまうわ」
「……」
一人でも余裕で目立っていると指摘したかったが、女王のような尊大な雰囲気のある人物に大きな口を叩ける訳もなく、イゼットは壁にもたれ掛る力を強めてしまった。
「そういえば、あなた、お名前はなんというの?」
「……」
深入りしたくないイゼットは、名乗る事を躊躇う。
「ねえ」
「いや、名乗るほどの者では――」
「いいから教えなさいよ」
「……」
ぐっと詰め寄られたイゼットは、どんどんと壁側に寄っていく。
もう少しで壁を這うような体勢になる寸前に、女性はピタリと動きを止めた。
「ああ、そうだわ。わたくしもまだ名乗っていなかったわね」
女性は左右のスカートの掴み、軽く膝を折り曲げてから名前を名乗った。
「――ヒュリム・イェシルメンよ」
公爵姓を名乗ったので、名前も本名だろうと推測する。
偽名を使うだろうと思い込んでいたので、イゼットは驚いてしまった。
「あなたは――イゼ?」
「!?」
「イゼ・ネル? 短くて、変な名前ね」
どうして中途半端な名前のバレ方をしたのかと驚いていたら、彼女はイゼットの剣の柄に彫られていた文字を名前だと思って読み上げていただけだった。
長年使っている剣だったので、文字が薄くなって名前の一部が消えていた。
「そう、イゼ・ネル、というの」
「……」
イゼットは問い掛けられた言葉に否定もしないし、肯定もしない。
だが、ヒュリムは沈黙を肯定と受け取ったようだ。
ヒュリムはイゼットに助けてくれたお礼を言い、更に、何かあった時は連絡をするようにと公爵家の家紋入りの封筒を手渡してくれた。
「別に、ここまで、しなくても」
「いいから受け取ってちょうだいな。受けた恩を返さなければならないのは当たり前のことなのよ」
「……」
イゼットは気付く。
ヒュリムの言葉や振る舞いの中にアイセルやアイディンを思わせる欠片が詰まっていると。
彼女は間違いなく彼らの母親なのだ。
「それでは、ごきげんよう」
「!」
この場から去って行こうとするヒュリムを、イゼットは腕を取って引き寄せた。
「きゃ!」
「あ、すま、ない」
「な、何なの!?」
「いや、案内を」
「なんですって?」
「色んな意味でここは危ないから、安全な道のりを教えようと」
世間知らずな箱入り貴婦人を放っておけば大変な事態になりかねないと思ったので、イゼットはヒュリムの案内を買って出る。
「でも、騎士と歩いている使用人なんて不審じゃない?」
「訓練とかで人通りの少ない時間を、指定するから」
「あら、そう?」
結局、後日に騎士隊の中を案内することになった。
自分から面倒なことに頭を突っ込んでしまい、イゼットはひっそりと落ち込む事となる。