三十三話
アイセルは屋敷の誰よりも早く起床をした。
当然外は真っ暗。魔石を放り込んで角灯に火を点し、静まり返った廊下を歩く。
アイセル専用に作った台所行き、本日の弁当を作る為にエプロンを身に着けた。
袋の中に入っている米をいつもの倍以上炊く。
今日はイゼットの家でパン屋の手伝いをすることになっていた。なので、家族の分もと思って昼食の準備をしているのだ。
丁寧に米を洗い、水を張って蒸し器に掛ける。
米が炊ける前の間、中の具やおかずを作ることにした。
米を炊いている時に発生する独特な匂いが苦手なアイセルは、鼻から口元まで覆うように布を当てて、後頭部でしっかりと結んだ。
昨晩下ごしらえをしていた香草と調味料に漬けていた骨付きの肉に小麦粉をまぶし、熱した油で揚げる。
その間、溶いた卵に味付けをして、焼き目を入れてから巻いていく。細長い状態となった卵は一口大に切って弁当の中に詰めた。
茹でた野菜に軽く塩を振り、揚がった肉は粗熱が取れてから弁当の中へ。
米の中に入れる具は三種類。
塩で味付けをして細かく解した魚に、柔らかく煮込んだ肉の角煮、根菜を甘辛く炒めたもの。
それを炊きたてのあつあつの米に混ぜていく。
十分に手を濡らしてから米を握るが、それでも熱い。
アイセルは米の匂いと熱さに涙目になりながらも、米を三角に握っていく。
おにぎりの数はざっと二十個ほど。大きな弁当箱に詰められた様子は壮観としか言えない。四段もある弁当を包んでから、アイセルは身支度をする為に私室へ走る。
準備は侍女がしてくれた。
アイセルはお弁当作りでぐったりしていたからだ。
「お嬢様、お加減が悪いのなら、差し入れだけ持って行って休んだ方がいいのでは?」
「いや、米の炊ける匂いで気持ちが悪くなっただけだ。少し休めば元気になる」
「左様でございましたか」
それに、今日の手伝いはイゼットが夜会について来てくれることの交換条件となる。頑張らなければならないと、己を奮い立たせた。
髪の一房も落とさないようにきっちりと纏め、使用人が来ているような華美では無いワンピーズを着た姿で家を出る。
時刻は太陽が地平線から顔を出した位。
朝日の光で灰になりそうだなと考えながら、アイセルの乗っている小型の馬車は下町へと向かう。
◇◇◇
開店前にパン屋に辿り着いたが、店の前には行列が出来ていた。
アイセルはその様子を横眼で見ながら、弁当を両手で抱えた状態でイゼットに言われていた裏口へと向かう。
「セネル副官!」
イゼットは自宅の裏口で待っていた。
今日は厨房係なのか、公爵家に居るような全身白尽くめという調理人の恰好をしている。
朝の挨拶をすれば、同じ言葉を返す前に「セネル副官と呼ぶな」と言われてしまった。
「そう言う風に呼べば、もれなく全員振り向く」
指摘をされて、ここは家族経営の店だということに気づいた。
何と呼ぼうかともじもじしていたら、手に抱えているものは何かと聞かれてしまった。
「あ、これは、昼食だ。簡単に手で摘めるものを作った。ご家族のみなさんで、どうか」
イゼットはありがたいと丁寧な礼を言ってから、軽い会釈をした。
「そ、それで、あの……」
「?」
「名前は、その、イゼットさん、と呼ぶが、問題ないか?」
イゼットは「別に」と呟くのと同時に背を向けて部屋の中へと入って行く。
アイセルも、その後に続いた。
店の中はどこもかしこも大混乱だった。
そんな中でなんとか母親を捕まえたイゼットは、手伝いに来たアイセルの紹介をする。
「おい、ババア」
「なあに? あら、アイセルちゃんじゃない!?」
「お久しぶりです」
「本当に。会えて嬉しいわ~。最近はお仕事が忙しかったんだって?」
「え、ええ」
思いがけない歓迎を受けて、戸惑うアイセル。
店の手伝いに来たと言えば、大いに喜んでくれたが、果たして未経験者の自分が力になれるものかと不安になっていた。
「大丈夫よ、誰にでも出来る簡単なお仕事だから」
そんなアイセルの任された仕事は、客から注文を聞いて紙に書くだけという作業。
「ご注文の確認をします。白パンが五つに、香草パンが三つ、乾燥果実入りのパンが六つ、ですね」
客が問題ないと頷けば、パンが入った展示ガラスの前でしゃがみ込んでいる従業員に注文書を手渡して、パンを紙袋に詰めて貰う。
慣れない敬語を駆使しながら、アイセルは人生で初めての接客に奮闘していた。
「おい、そっちの娘さんは息子の嫁か?」
「可愛いでしょう~!?」
店の端では常連とイゼットの母の間でそんな会話が何度も飛び交っていたが、接客に夢中のアイセルの耳には届いていなかった。
目まぐるしい朝から昼までの時間は、あっという間に過ぎて行く。
昼の鐘が鳴り響けば、一旦閉店となる。
店のパンもほぼ完売状態であった。
「お疲れ様、疲れたでしょう?」
「いえ、それほどでも」
朝のおにぎり作りに比べたら、なんてことのないものだと考えていた。
そこで、持参していたお弁当の存在を思い出す。
「あ、あの、昼食を作って来たので、よかったら、一緒に」
「え、本当に!? お弁当を作ってきてくれたの!?」
聞けば、彼らの昼食は売り物にならないパンを侘しく齧る予定だったと言う。
「米という穀物を炊いて握ったものなので、お口に合うかどうか」
腹持ちがいいからという理由だけでパンではなく、米を選んできたが、果たしてそれで良かったのかと、今になって気にする。が、それも杞憂に終わった。
作って来たおにぎりは概ね好評であった。
ホッと胸を撫で下ろしたアイセルである。
午後からも店は客で大賑わい。
途中から、身なりを整えたイゼットも店の接客に回る。
それからパンは二時間ほどで完売した。目標売上を遥かに上回る結果となる。
だが、仕事はこれで終わりでは無い。
大量の洗いものに、荒れた店の掃除、明日の仕込みなど、作業が数多く残されていた。それらのものが全て片付いたのは辺りも暗くなるような時間帯だった。
「あなたたち、食事にでも行ってきなさいよ」
イゼットの母は、仲良く並んで皿を拭いていた二人に言う。
「あ、いえ、私は家に帰るので」
「そういう訳にはいかないわ。食事位ご馳走しないと」
アイセルは渡された給金を断った。押し問答をしている母親に、イゼットも無理に渡すなと言ったのだ。
「ほら、お店が混まないうちに行きなさい」
イゼットとアイセルの背中をぐいぐいと押し、厨房に会った裏口から外へ導いた。
「じゃあ、ごゆっくり~」
「……」
「……」
疲労困憊していて抵抗する力も無かったイゼットとアイセルは、エプロンを付けたままの姿で、閉ざされた扉を前に呆然とする。
「……腹は?」
「空いている」
だったら食事を摂りに行こうと、エプロンを外して店の小麦入れの箱に放り込んだイゼットは歩き出す。
下町を抜け、辿り着いたのは赤い屋根とレンガの可愛らしい外観のお店。
「ここは?」
「よく来る店」
「へえ」
店の中へと入れば、席はほとんど埋まっていた。
「不思議な店だな」
周囲を見ながらアイセルは言う。
たくさんの人で溢れているのに、各々黙って食事をしているのだ。
その理由は食事が運ばれた後に判明する。
アイセルが注文をしたのは日替わり定食。
丸いパンに、野菜と豆のシチュー、魚の香草焼きという品目が運ばれた。
「――これは」
どの料理も素晴らしく美味しい。
以前、大衆食堂で食べたような雑な味付けではなく、長時間手間を掛けて作られた料理ばかりであった。
曰く、ここの料理は安くて美味い。
街の中でも分かりにくい場所にあるし、知っている人は少ないとイゼットは話す。
聞けば、給金の少ない従騎士時代からちょこちょこ通っていたという。
だが、客が今以上に増えれば料理が間に合わない為、仮に流行ってしまうようなことがあれば店を畳むしかないと店主が言っていたので、イゼットは長い間一人で通っていた。
「誰かを連れて来たのは初めてだ」
「!」
その言葉に、アイセルは胸をぎゅっと掴まれたような気分となる。
食事を終えて店を出れば、公爵家の馬車が迎えに来ていた。
別れ際にイゼットは、今日は助かったと、頭を深く下げる。
「夜会に参加する事と見合わない労働になってしまった」
「いや、いい。私も色々と勉強になった」
だから気にするなと言って馬車に乗り込む。
こうして、アイセルの忙しい一日は終わりを告げた。