三十二話
イゼットの変わらぬ朝は弁当作りから始まる。
職場へ着けばいつもの掃除の確認と、チチウとの訓練が待っていた。
素振りをして体を慣らし、周囲が明るくなるような時間帯となれば手合わせを行う。
相変わらず高貴な武人は毎朝のようにイゼットの訓練に付き合ってくれていた。
滅多とない機会なので、取り入れられる技術は全て盗もうという姿勢で臨んでいた。
剣を構えてチチウと向き合う。
イゼットは下段に構え、剣の先端は地面に向けた。
一方のチチウは両手で持った剣を耳の横まで上げて、切先を相手の心臓に向ける構えを取る。
朝の鐘が鳴れば、それが戦闘開始の合図となった。
チチウの最初の一撃は先手必勝の重たい一振りとなる。イゼットはひらりと回避して、相手の背中に向き直って切り込む。
素早く振り下ろされた剣は、あっさりと弾かれてしまった。チチウは振り向くことなく、剣を背後で受け止めていたのだ。
化け物かと悪態を吐き、イゼットは後方に退避して体勢を整える。
チチウはその場で剣を構え、相手の動きを待った。
イゼットは剣を大きく振り上げてチチウに斬りかかる。
それと同時にチチウも動き、守りではなく攻撃の体勢となって剣を振り上げた。
剣と剣が交わる――と思いきや、イゼットは刃がぶつかる寸前で剣の軌道を変え、チチウの攻撃から避けるように壁のある方に向かう。
再び背後に斬りかかる攻撃かと思いきや、イゼットの姿は後方になかった。
「――ぬう!?」
壁を蹴って体を反らし、くるりと宙を回転したイゼットは、着地をしてすぐに全身のばねを使って飛びかかるようにして斬りつけた。
想定していない方向からの攻撃を、チチウはギリギリで受け止めた。が、イゼットは重なった剣を滑らせてから斜め下に捻って突き払う。
ここで剣が手から離れて宙を舞う予定だったが、経験豊富な老齢の騎士は得物を離さずに、なんとか耐えてしまう。
「――クソ!」
不意打ち攻撃が当たらなければ対チチウ戦での勝機はない。
素早さが売りの攻撃型を得意とするイゼットは、三撃以内に致命的な打撃を与えるようにと指導を受けていた。
残りは一撃。
イゼットは諦めずに、後方へ飛んでからジロリと睨みを効かせる。
しかしながら、このまま剣を振るっても相手に通じるような攻撃が出来るとは思えなかった。
どうすれば一太刀浴びせる事が可能となるのかと考えていたら、突然チチウは剣を地面に落した。
「?」
訝しげな表情を浮かべるイゼットと、己の手の平を見つめるチチウ。
一体どうしたのかと聞けば、手が痺れていると自身の状態を説明した。
「お主の、勝ちだ」
「!?」
初めての勝利は、呆気ないものであった。
訓練後は反省会とちょっとした空腹感を満たす時間となる。
「セネル副官の力量には、たまげたものよ」
チチウはイゼットの成長ぶりを褒め称えた。
剣の一撃も重くなっていたが、素早さも落ちていないと評す。
「ううむ。特に肥えているようには見えぬから、面妖なことよの」
チチウはイゼットの腕の筋肉を叩きながら確認をする。剣戟に変化はあったが、だからと言って体が急に逞しくなった訳ではないと分析しながら、首を捻っている。
それだけ話して、後はひたすらチチウ特製のおにぎりを食べるだけとなった。
◇◇◇
訓練後、身支度を整えてから執務部屋に行けば、渋面を浮かべるアイセルと目があった。
朝の挨拶を交わし、一体どうしたのかとイゼットは尋ねる。
「いや、夜会の招待状が届いていて……」
行きたくないのなら断ればいいと言えば、それは出来ないと落ち込んだ様子で話す。
「第四王女の誕生会らしい」
「ああ、確かに欠席は出来ない」
第四王女アイシェ・トゥリン・メネメンジオウルの九歳となる日に大々的な誕生会が開かれるので、来て欲しいという内容が記されていた。
「二番目の王妃の御子だったか」
「左様」
最初の王妃は若くして亡くなっている。
儚くなった妃は一人の王子を産んだので、国王は長い間独り身だったが、十五年前に隣国の若き王女を娶り、六人の子供を儲けていた。
「実を言えば、私は夜会が苦手だ」
「独身で三十路前だから?」
「ち、違う! ……意味も無く値踏みされるような視線を浴びるからだ」
「だったら、誰か壁代わりになるような相手を連れて行けばいい」
例えば、兄・アイディンとか、という言葉を続けようとしたが、アイセルに発言権を先に取られてしまう。
「ならば、セネル副官が同行してくれないか?」
「……」
まさか自分にお役目が回って来るとは思わなかったので、唖然とするイゼット。
「姫とは顔見知りでもあるし、ちょうど良いだろう」
「いや、無理な話だ」
「どうして?」
まず、貴族たちの夜会の礼儀を知らない。それに、着て行く正装も持っていなかった。
普段着ている騎士隊の制服は戦闘用の衣服で、王族が正式に現れる式典の場では相応しいものではない。騎士の服装にも正装があるのだ。
「だったら、正装を発注すればいい」
「許可が下りるかどうか」
「やってみなければ分からないだろう」
アイセルはその場で申請書を仕上げ、偶然書類を回収しに来た総務部の担当に提出をした。
「確かに受理しました。完成は一ヶ月後となります」
「よろしく頼む」
今度はイゼットが渋面を浮かべる。
アイセルは傍に居るだけで良いと言ったが、果たしてそれで済むものかと警戒していた。
「舞踏をするような催しでもない。ただ、姫に祝いの言葉を言って終わりだ」
祝うべき相手はまだ子供なのでそこまで会が長引く事もないと言う。
そんな風に説明をしたが、イゼットの眉間の凹凸が伸びることもなかった。
「拗ねないでくれ」
「拗ねていない」
「拗ねている」
「……」
貴族社会へ深入りしたくないイゼットは、たちまち不機嫌となった。
その様子を見たアイセルは、すぐさま自分の勝手な行動を反省する。
「あ、あの、今回は無理矢理決めた私が、悪かった。セネル副官の参加は――諦めよう」
招待状を折り曲げ、封筒の中へと戻しながら言う。
「頼んだ正装は?」
「持っていて不都合は無いだろう」
「……」
重ねて謝罪の言葉を口にしたアイセルは、しゅんとした様子で仕事を始める。
貴族が集まる夜会に行ってもイゼットはどういう振る舞いをしていいのか分からない。
それに、過去に所属していた部隊の元上司に会う確率が上がるのも嫌だった。
アイセルは普段の夜会に顔を出すことはないと言っていたが、幼い姫君の誘いを断ることは出来ないようだ。
衆目の視線に晒されるとも言っていた。
独身の公爵家の娘とあれば、野心を抱いた者達が近寄って来る可能性だってある。
そんな事を考えていれば、ふと、思い出す。依然草原に出掛けた時にアイセルに付き纏っていた軽薄な雰囲気のある見目の良い騎士のことを。
盗み見た隊章の意匠は親衛隊のものだった。
しかも、その色は第四王女を示すものであったようなと、おぼろげな記憶を掘り起こす。
その男とアイセルが夜会で顔を合わせれば、その時の事を話のネタにして近づいて来るのではと考えてしまう。
それは、イゼットにとって面白くないことだった。
アイセルを一人で夜会に行かせる訳にはいかないと、考えを改めたので、すぐさまある考えを口にする。
「明日」
「!」
急に声を上げたイゼットに、アイセルはびくりと肩を震わせて驚く。
「あ、明日が、どうした?」
「暇か?」
明日は休日。イゼットはアイセルに一日の予定を伺った。
「休暇は、特に予定など入れていない」
「だったら、うちのパン屋を手伝ってくれないか?」
「それは、構わないが、どうして?」
夜会に参加をする交換条件だとイゼットは言った。
「では、姫の誕生会に一緒に行ってくれると?」
イゼットは重々しい様子で頷いた。
別に交換条件を出さない状態で行っても良かったが、そうすればアイセルが申し訳ない思いをするような気がしたので、このような申し出をしたという訳だった。
偶然にも、明日の休みは年に一度のお客様感謝祭と言う名の大安売りである。
一人でも多くの手を借りたいのは本音であった。
「あの、セネル副官」
「なにか?」
「その、パン屋の手伝いとは、経験の無い私にも出来るのかなと」
「パンを袋に詰めるだけの簡単なお仕事だ」
「そうか。だったら、出来そうだ。協力をしよう」
このようにして話は上手く纏まったが、家族にはアイセルの事をなんと言って説明すればいいのかと、頭を抱えることになるイゼットだった。