二十一話
困ったことになったと、イゼットは目の前に座ったアイセルを視界の端に入れながら思う。
ここは以前まで通っていた酒場で、アイディンと来るようになって店員に顔を覚えられて行くのを止めた所であった。
だが、それは特筆して気にする事ではなかった。問題は世間知らずのお姫様の扱いについて。
小汚い食堂に連れて行けば「なんて場所に連れて来るのだ!」と怒るかと思っていたのに普通に文句の一つも言わずに食事を終えてしまった。
さっさと支払を終えて解散だと考えていたのに、アイセルは酒を奢ると言い出してしまう。
なげやりな気分で酔っぱらった親父しか居ない酒場に連れて行っても、大人しく座っているだけだという。
どうしてここまでして下町の男に付き合うのかも謎だったが、それ以上に分からない事もあった。
母親のことだ。
先ほど無理矢理アイセルと出掛けるように言った母親にイゼットは問いかけた。
――クソババア、俺の体のことを知っていて知り合いの女と出掛けろと言うのか!?
暗に、淫魔であるのに知り合いを抱けと言っているのか? と聞いたが、彼の母親は何を言っているのかと、きょとんとした顔を見せていた。
その後、「あなたのことはきちんと健康な体で産んだでしょう!?」と言ってのけた。
イゼットの母親は、淫魔に関する記憶を再び失っていたのだ。
誰かが、というか、アイディン・イェシルメンが得意の記憶操作の魔術を使ったのか。それとも、別の力が働いていたのか。
そもそもと仮定をする。
淫魔の話をしていた母親の様子は妙にあっけらかんとしていた。
あの時は誰かに操られるようにして記憶の中の話をしただけだったとか。
もしも、イゼットが淫魔だと知っていたら、今回のような世話は焼かなかったはずだ。
イゼットは様々な推測を立てる。
「――……ネル」
「……」
「イゼット・セネル!」
「!」
名前を呼ばれて我に返る。
視線を目の前の女性に移せば、目を細めて訝しげにイゼットを見ていた。
「具合でも悪いのか?」
「いや、別に」
品目表を渡されたが、一瞥もしないで店員に酒とつまみを注文する。
アイセルはどうするのかと視線で問いかければ、何がいいのか分からなかったのか、同じものをと注文をした。
「普段は、こういう場所で酒を?」
「たまに」
月に一度、同僚の飲み会に付き合ったり、何となく家に居たくないときにふらっと来たり。一杯から二杯程飲んで帰るという冷やかし客だった。
「女性とも、ここに?」
「女は連れてこない」
「どこに連れて行く?」
「街の酒場に」
街の中心にある若者に人気の酒場は若い男女が集まる場所だ。今居る酒場は金の無い中年親父が仕方なく通う所だとイゼットは言った。
「意地が悪い」
「ここに連れて来ればさっさと家に帰るかと思ったからだ」
「尚更、意地が悪い」
アイセルはイゼットに意地が悪いと言ったが、同じ言葉を返させて貰いたいような気分であった。
彼女は教養豊かな貴族の娘で、イゼットは礼儀を知らない下町育ち。
普段から動作の一つ一つで、生まれや育ちが違うことをひしひしと実感していた。
そんな女性とそれなりの場所に出掛けたら、恥をかくのはイゼットの方だ。
なので、これ以上一緒に行動をするのはご免だと思った。
そんな会話をしているうちに、酒とつまみが机に運ばれた。
ドンと目の前に置かれた大きな杯を前に、アイセルはビクリと体を震わせる。
そのような乱暴な動作で配膳をされたことがないのだろうなと考えながら、イゼットは場にそぐわない女性を観察していた。
「これは?」
「麦酒だ」
「上の泡はなんだ?」
「さあ」
麦酒は発泡性のある黄金色の液体と上に浮かぶ白い泡のある酒だ。泡の正体など気にしたことも無かったので、適当な返事をする。
店員の注ぎ方が悪かったのか、半分が泡となった麦酒を飲む。
美味くも不味くもない。安酒なので仕方がない話だった。
アイセルは酒の杯と睨み合いをした後に意を決した様子で麦酒に口を付ける。
飲み干したあと、不快そうな顔で口元についた泡を拭い、周囲の親父達はどうしてこれを美味しそうに飲んでいるのかという疑問を頭に浮かべながら眉間に皺を寄せていた。
イゼットはつまみの揚げた魚を摘んで一口で食べる。それから追加で麦酒と肉の串焼きを注文した。
そんな様子を見ていたアイセルは、先ほどイゼットが食べていた揚げた魚に視線を移す。
キョロキョロと机の上を見るが、フォークやナイフといった食器の類は用意されていない。
兄妹で同じ反応を示したので、イゼットは笑い出してしまう。
「何を笑っている!」
「いや、同じ反応をしたから」
「誰とだ! 誰とここに来た?」
アイセルは食器がない困惑と怒りをイゼットに質問をする形でぶつける。
イゼットは笑うだけで、回答を口にしない。
アイセルは再び周囲の親父を観察する。
どこを見ても食事は手掴みでしていた。先ほどのイゼットも魚を手で摘んで食べていたことを思い出す。
皿の上にあったのは、揚げた魚。からっと揚がっていて、油っぽくはない。周囲を見渡しても、指先を洗う水の入った器も用意されていないし、手や口を拭う布や紙さえも無かった。
だが、ここで食べなかったらイゼットに負けるような気がして、魚を手先で掴んで頭ごと一口で食べきる。
「美味いか?」
「うるさい!」
先ほどから一人で楽しそうにしているイゼットをじろりと睨み付け、すっかり泡がしぼんでしまった麦酒で口の中に残っている魚の苦味を流した。
その後もイゼットが酒を飲めば自分もと言い、運ばれてくる下町料理も挑むように食べ切った。
「もう飲むな」
「まだ飲める」
「もう家に帰れ」
「まだ外は明るい」
顔を真っ赤にしているアイセルにイゼットは言う。時刻は夕暮れ時だったが、酒を飲み始めて数時間となっていたので、夜の客で混雑する前にお開きにすることにした。
イゼットは目があった店員を呼び寄せる。
「勘定を」
「はい」
店員は伝票を取り出して計算をしている。そして、示された金額をイゼットは払った。
「おい、代金は私が!」
「出世払いで返してくれよ」
「何を言っている!」
すでに呂律が回っていない口調のアイセルをイゼットは軽く諌めるように言った。
「あの~」
そんな二人の間に割って入って来たのはお代を握りしめていた店員だ。
一体何だと、イゼットは店員の女の顔を見上げる。
「今日は、あの方は、いらっしゃらないのですか?」
「あの方?」
「はい。あの、黒髪の――」
「誰だ、それは!?」
アイセルは誰と来ていたのかと問い詰める。
一緒に来ていた黒髪と言えば、アイディンしか居ない。
染めた黒髪を気に入っていたからか、髭などは魔術で元通りにしていたが、髪色だけは何故か黒いままになっていた。
店員はどうして最近二人で来ないのかなどと質問を重ねていたが、その度に反応を示すのはアイセルだけだった。
「あんなに仲良さそうにしていたのに、最近来ないから、心配していまして……」
「おい、店員、この男は誰と一緒に酒を飲んでいた!?」
「誰って、いやだ、もしかして、三角関係!?」
「分かった! あいつだろう!? あの、パン屋の、おい、答えろ!」
「うるせえよ……」
訳のわからない状況にイゼットは頭を抱える。
とりあえず店員は客に呼ばれて去って行ったので、立ち上がって店から出ようと言った。
「イゼット・セネル、逃げるな! 質問に答えろ!」
「いいから一旦外に……」
イゼットが先に行くので、その後を追おうと席を立ったら、視界がぐらりと歪んで机に手をつく。
「お~い、姉ちゃん大丈夫かい~?」
酔っ払いがふらついたアイセルに手を伸ばしたが、それが届くことはなかった。
間に入ったイゼットが制していたからだ。
肩を抱きよせ、歩きやすいように導きながら外に出る。
店先には公爵家の使用人達が何人か来ていた。往来の邪魔にならないような小さな馬車も近くに止まっている。
アイセルの身柄を使用人に任せてイゼットは帰宅をする。