二話
「信じがたい話だけと思うけれど、本当なのよ」
「どうして、異界の化け物なんかに」
「むしゃくしゃしていたっていうか、何もかもを諦めていたっていうか、そんな感じかしら」
「……」
パン屋の娘の結婚はとても難しいものだった。
婿入りは確実で、しかも狭い家の中で兄夫婦との同居が決まっているという条件で結婚してくれる人はなかなか現れない。
周囲の娘たちは次々と結婚をするなかで、一人置き去りにされるかのように行き遅れになっている現状に嫌気がさして、自暴自棄になっている時期があったと語る。
「まあ、そんな時にあの人に会って」
「知らないでやったのかよ」
「いいえ。知っていたわ」
イゼットの父なる悪魔は親切丁寧な男だった。自分は異界の淫魔だと名乗り、その辺で暮す者とは異なる存在だと説明していた。
「でも、死ぬほどいい男だったから」
うっとりと思い出に酔いしれた後で、ちらりと息子の顔を見てから表情を曇らせる。イゼットは父親に全く似ていないと溜め息を吐いていた。
「色々あって生まれてきたあなたは、人とは違う姿だったの」
額には角が生え、背中には二枚の黒い羽があった。
「だから、信じられるかっての!」
「おでこと背中に傷があるでしょう?」
「!」
母親に言われてから、イゼットは物心付いた頃からある額の大きな傷を指先でなぞる。背中の二本の傷も、なんどか夜を共にした女性に「その傷はなに?」と聞かれたことがあった。
「あの人はあなたを連れ去ろうとしたのよ。この世界ではきっと生きていけないだろうからって。でも、私が止めたから、角を折って、羽を千切って、人として暮せるように力を封じる耳飾りを付けてから居なくなってしまった」
悪魔は去る前に悪魔が異世界で生き抜く方法を語ったと言う。
耳飾りの力でイゼットをこの世界に留めるようにして、普通の人と変わらない暮らしが出来るようにと術を掛けた。
「最初に、その耳飾りの封印は長くは保たないだろうと言っていたわ」
長くても精々二十年程。それから先は自分で魔力の補給をしなければならないと。
「良かったわね。あなた、女の子とほどほどに遊んでいたから、今まで魔力が尽きずに済んだのよ」
「……うるせえよ」
淫魔の魔力の補給は人の精気より奪い取るもの。その力は性交によって得られる。
「同じ人から何度も魔力を奪ってしまえば、その人は一年もしないうちに死んでしまうと言っていたわ」
魔力は人の血肉の中に溶け込むように存在し、世界と繋がる役目も果たしている。それが尽きてしまえば、死を意味することをイゼットも知っていた。
母親から突き付けられた生き方は、この先一生様々な女性から魔力を補給しつつ暮せという、ある意味残酷なものであった。
「なんだよ、それ」
「ごめんなさい。本当に、申し訳ないと思っているわ」
指摘をされて思い当たる節があったイゼットは母親の話を信じるしかない状況にあった。
数年前より感じていた、吐き気を催すほどの体の疲労感と共にやって来る抑えきれない淫らな欲求。
心のどこかでは、自分はそんな人間ではないと思いつつも、その症状がやってくればぺらぺらと女性を口説き、よく知りもしない人間と寝てしまう。翌朝になれば倦怠感もなくなるが、代わりに自己嫌悪に襲われるということを、何度も繰り返していた。
それに加えて、関係を持った女性たちの一晩の記憶が揃って消えているというのも不思議だった。
その理由が淫魔だからと言う訳だから、母親の言う突拍子もない話を受け入れるしかなくなっている。
「でも、もう一つあるみたいなの」
「なにが?」
「この世界で、人として生きる方法」
「!」
この先、一人の女性を選ぶことは許されない。そういう事実はまだ実感がないので良く分からない話だと思っていたが、淫魔として生きる他の道があると彼の母親は言った。
「それは、どういう」
「魔術師と契約を結ぶのよ」
「は? それって、その契約主の下僕になるってことか?」
「一言で言えばそうなるわね」
「……」
魔術師と契約を結べば日々の生活に必要な魔力は補給される。性交から得なくても、十分な位に与えられるという。
「いや、それって一生そいつの為に労働をしなければならないってことじゃないか!」
「でも、女遊びをしながら生きるよりはいいでしょう?」
「そんな、酷いな話が……」
魔術師と契約を結べば、不可解な体質の悩みも解消される。しかしながら、一生地を這うような生活をしなければならないという事実に愕然とした。
「ねえ、あなた魔術師の知り合いは?」
当てはなくもない。先ほどイゼットの腐れ縁男が紹介すると言っていたことを思い出す。
「……寝る」
これ以上話をしても得るものはないと思い、部屋から出て行こうとしていた。今日も一日中の労働で酷く疲れている。
否。
己の体の中から魔力が尽きかけているのだろうと思いなおす。
イゼットの母は何度も謝り、一人で悩まないでくれと背中を優しく叩いていた。
だが、魔術についての知識もない母親に相談してもどうにもらならいことは分かっていたので、伸ばされていた手を振り払う。
その晩は、なかなか眠りにつくことが出来なかった。
◇◇◇
朝。
早朝訓練があるというので、重たい体を引き摺りながら一階に下りていく。
家族は全員起きていた。今頃はパン焼きで一番忙しい時間帯である。
適当に昨日の残り物を食べ、水風呂に入って目を覚まし、身支度を整えてから騎士隊の駐屯地へと向かった。
驚くべき事と言うべきか、想定通りと言うべきか、指定された場所に居たのはたったの三人だけだった。
隊長であるアイセルと、副官である大柄な男、ギヴァンジュ・チェリクとイゼットのみという。
「ふむ」
アイセルは見事なまでにがらんとした広場を見渡しながら頷く。
それから唯一集合時間に間に合っていた部下を見た。
「イゼット・セネルよ」
「なんすか?」
「何奴も居ぬという事の由を、申して貰おうか」
早朝訓練は今日が初めて。アイセルは何度も集合時間を隊員達に伝えていたが、いざ来てみれば無残な結果となっていた。その理由をイゼットに求める。
「まだ、寝ているんじゃないすか?」
「なぬ?」
もう一度言えと聞き返されても、同じ事を言うしかない。
ここは第八騎兵隊。総勢二十名程の、素晴らしくやる気のない小隊である。勤務時間前の訓練なんぞにやって来る人間など居る訳がなかった。
「まあ、良い」
「?」
「最初から上手くやらるることなどなきに、というからな」
アイセルは腰の剣をすらりと引き抜いて、イゼットに切っ先を向けた。
「お相手願わくば!」
威勢良く剣を向けるアイセルに、イゼットは半眼で首を少しだけ動かす会釈をする。
それを了解の合図だと了承したアイセルは、抜いた剣をなでるように触れてから、地面を蹴った。
「おっと!」
まっすぐに振り下ろされる一撃をイゼットは即座に剣を抜いて受け止める。
このまま押し返そうと思っていたのに、どうしてかイゼットの方が押し負けていることに気が付いた。
「!?」
踏ん張っている踵がじりじりと後方に下がっていき、ついには剣を弾かれてしまった。
くるくると宙を舞っていた剣は地面に突き刺さり、イゼットは痺れを覚えていた手の平を不思議そうに眺めたあとで、アイセルの顔を見る。
「何故に? という顔をしておるが、別に、面妖なことではない」
アイセルは近くに突き刺さっていたイゼットの剣を抜いて手渡すと、左手に持っていた己の剣も目の前に示した。
「これは?」
「魔剣よ」
長剣の表面には古代文字のようなものが刻まれていた。アイセルはこの剣を魔剣だという。
「表面の文字をなぞれば術式が完成し、使い手からしたら驚くほど軽い剣となり、受ける側からすれば驚くほど重い剣となる」
公爵家の宝だとアイセルは言った。
魔力が織り込まれた糸で作られた騎士服は普通の布製の服のように見えるそれは鎧よりも強い強度をもっているが、アイセルが着用をしているものはその辺の隊員達が纏っている品と違うことは一目瞭然だった。布の質感からして違う。
彼女を取り巻く恵まれた環境が、自身の実力をも大きく上げていることを面白くないと思う人間も多い。
それに加えて容姿も一つの問題と言える。
齢二十八歳となるアイセルだったが、十八かそこらの少女のような柔らかな顔つきをしていた。意志の強そうな眼差しを持っていたが、だからと言って下に人を従わせるような威厳は欠片もなかったという。
性格は堅苦しく、口調もどこか古めかしい。剣の才能はあるが、力は家の宝と魔術頼り。
それに、年若い女性ということが、従う者達の忠誠心を削いでしまっていたという訳である。
気の毒な人だというのがイゼットの認識であった。
他の隊員同様に訓練をさぼっても良かったが、なんとなく目が覚めてしまったし、昨晩のことを考えたくないから体でも動かそうと思ったので来てしまった、という事情もある。
「さて、休憩はこの位にて良きか。――二回戦をするとしよう」
一対一の訓練はみっちり時間いっぱい行う事となった。
休憩室では遅れてやって来た先輩隊員に、顔に似合わず真面目な奴だと冷やかされたが、適当に無視してその場をしのいだ。