十四話
イゼットは混乱をしていた。
アイセルは本当に普段通りの態度で居るからだ。
淫魔だとバレてから一週間ほどが経過していた。
あの日のことは夢だったのではと疑うほどに状況に変わりなく。
アイディンが接触して来る訳もなく、騎士隊内で何か事件が起こることもなく、平和な日々が続いていた。
イゼットはいつも通り仕事をこなし、終業を知らせる鐘が聞えたが、今日は訓練をするというので、広場へと移動する。
相変わらずのやる気の無い者達ばかりで集まりは悪かったが、以前イゼットが叩きのめした五人の若い隊員たちだけは毎回参加するようになっていた。
駄目な人材の寄せ集めと呼ばれる第八部隊も変わりつつある。
イゼットは濡れた手巾で体の汗を拭い、鞄の中の整理をしてから家路に着くことにする。
駐屯地の外門を潜り、角を曲がって下町への小道へ入ろうとすれば、大きな人影が立ち憚っていることに気づいた。
「うわっ、何だよお前!!」
「……やあ」
イゼットよりも頭一つ分大きな長身の男は弱々しい様子で返事をする。
「時間差で現れるなよ!」
「ごめん」
密かに帰り道に出るんじゃないかとここ数日間警戒し、一週間も経ったのでもう出ることはないだろうと安心しきっていた折の邂逅。イゼットはイラつきながら文句を言ったが、いつも飄々としている男、アイディンがしおらしく素直に謝ることを訝しむ。
「なんだよ、気持ち悪い」
「そうだね」
魔術師の外套の頭巾を被り、大人しく俯くだけのアイディンを気持ち悪く思ったイゼットは、別の道から帰ろうと踵を返す。
「待って!」
背後から伸びてきた手を触れる寸前でするりと避ける。
そして、イゼットは全力で駆けた。
一通りの多い商店街をすり抜け、下町へと続く迷路のような小道に入って行く。
アイディンが猛追して来ているのは分かっていた。
大きな図体をしている癖にイゼットの俊足について来ていたのだ。
だが、下町に辿り着いてしまえばイゼットの勝ちとなる。
複雑な通路が入り組んだ小道は一度見失ったら再会は難しくなると言われていた。
アイディンの駆けて来る音が遠のき、ついには聞こえなくなる。
ふう、と息を吐いて、イゼットは家に向かった。
しかしながら、相手の方が何枚も上手だったことを、家に辿り着いてから思い至る。
「おかえりなさい」
「……」
店先でイゼットを出迎えるアイディン。その姿にがっくりと肩を落としてしまった。
「なんだよ、何用なんだよ」
アイディンは既にパン屋を退職している。最初から怪我をした従業員の代わりに期間を定めて雇用していたのだ。
「おかえりなさい」という言葉と共に握られた腕は、何度か振り払ったがびくともしない。イゼットの全力疾走について来たり、魔術師らしかなぬ怪力を持っていたりと、訳の分からない男をせめてもの抵抗だとばかりにジロリと睨みつける。
「腹が減ったから早く用件を言え」
「お腹、減っているって?」
「ああ、だから」
「良かったーー」
「は?」
「今から食事に行こう」
「は、何言ってんだ? 断る!」
なんとか手を放して貰おうと空いている手で胸をドンと強めに打ったが、硬い筋肉に覆われた体にはあまり衝撃を受けていないように見えた。
アイディンと言い合いをしていれば、パン屋の扉が開かれる。
「あんた、何してんのよ」
閉店間際の店の前で騒いでいた男二人を店の中から覗き込んだのはイゼットの母親。
アイディンは握りしめていた手を離し、素早く頭巾も取り去る。
「あら、スナイ君じゃない!」
セリーム・スナイという偽名で働いていたアイディンは、即座に寡黙な青年となる。
そして、今からイゼットと食事に行くことを伝えた。
「あら、そうなの。イゼット、あなた、給料出たばかりでしょう。奢ってあげなさいよ」
「はあ!?」
母親は楽しんできなさいと息子の肩を叩き、手を振りながら店の中へと入って行く。
「あ、ちょ、待て、ババア、こいつは――」
店の出入り扉の鍵を掛けた音と、イゼットが母親を引きとめたのは同時だった。
恨みがましくアイディンの顔を見上げる。店先の街灯に照らされた中年男の表情は、心底困り果てたようなものとなっていた。
「実は、妹に食事に誘われて」
「なんだと?」
「それで、何を話していいか分からないから、一緒に」
「一人で行けよ!」
「でも、妹と食事なんて、今までしたことがなくて」
「食事って、隊長は食べられないじゃないか」
「いや、食事はこの店で作ったパンを」
「……」
質素な食事会だとイゼットは吐き捨てるように言う。
結局、このまま家に帰っても食事は用意されていないと思い、アイディンの食事会に嫌々ながら付き合うことにした。
下町を抜けて、大通りに止めていた馬車で連れて来られたのは、イェシルメン公爵家。
もっとささやかな会場で開催しろよと文句を言う。
使用人によって食堂まで案内をされる。
幸い、アイセルはまだ来ていなかった。
「帰りたい。今すぐに」
「そんなこと言わずに」
アイディンは給仕係に目配せをして、イゼットに最高級の酒を振る舞うようにと命じる。
「食前酒でございます」
細長いグラスに注がれたのは辛口白葡萄酒。
食事の前に飲む度数の強いそれは人の舌先を饒舌なものにするとも言われている。
イゼットはアイディンがどうぞと勧める酒に口を付ける。
よく冷えた酒はキリリとしていて爽やかな喉越しがあり、しなやかな風味が舌先に残る。ぐびぐびと飲むよりはちびちびと楽しむような酒だった。
終業後に訓練をして、街中を全力疾走したからか、喉が渇いていたことを今更ながらに思い出す。
「酒はいける口かな」
「まあ、それなりに」
下町出身の貧乏騎士は高い酒など飲める機会はない。
羽振りの良い上司が居れば飲みにつれて行って貰って高級な酒の味を覚える機会もあるかもしれないが、あいにくイゼットはそういう上司に恵まれることもなかった。
まだアイセルは来ていないというのに、つまみの盛り合わせのような皿が出され、様々な種類の酒を給仕が注いで来る。
アイディンが普通に飲んでいたり食べていたりしているので、イゼットも遠慮なく頂いていた。
それから数分後、食堂の扉は勢いよく開かれる。
「兄上!!」
「!」
大声で呼ばれ、肩を震わせるアイディン。
開かれた扉の前には、美しく着飾ったアイセルの姿があった。
「セネル副官を誘ったなど、如何申す事であるか!?」
「いや、そ、それは」
アイセルの登場により、途端に挙動不審になるアイディン。
荒ぶる姫君と目があったイゼットは、手にあった杯を掲げて反応を示す。
「セネル副官」
「なんすか」
「兄に、無理矢理拐かしされて、参ったのではないのか?」
そうではないと首を振るイゼット。
初めこそ嫌々やって来たが、美味い酒を振る舞われて気分が良くなっていた。
思いもよらぬその態度に、アイディンはとりあえずホッと胸を撫で下ろす。
それから食事の席は無言の状態で進む。
皿の上に置かれるのはイゼットの家のパンと手作りジャムだけ。
アイディンは居心地悪そうな顔でパンをもそもそと噛んでいた。
イゼットは炙った肉や炒った豆などのつまみばかりに手を伸ばす。
途中、アイディンは執事に何かを耳打ちされる。
研究所から呼出しがあったようで、そのまま席を外してしまった。
二人きりになれば、アイセルが声を掛けて来る。
「セネル副官、終業後の貴重な刻限であったのに、すまなかった」
「いや、別に」
気づまりな空気を醸し出す兄妹を無視して極上の酒を楽しんでいたイゼットは気にしていないと返事をした。
「やはり、長年の溝は埋まるものではなきことよの」
妹の負担を増やしてはいけないと、家族の中で一人冷たく接していた兄。
アイセルはそんな状況から脱却出来たらと思っていた。
「まあ、最初から上手くいくことなんてないし」
「そうか。そうであったな」
アイセルはイゼットが美味しそうに飲んでいた酒に口を付ける。
相変わらず美味しいものでは無かったが、我慢をして飲み干した。