十三話
アイセルは黙ったまま、じっとイゼットの顔を見ている。
問い質すわけもなく、得体の知れぬ存在を前に慄くわけもなく。
イゼットは倒れているメルテムを長椅子に寝かせ、アイセルにも座るように勧めた。
ふと、胸の中でうごめいている鳥の存在を思い出し、窓から外に放してやる。窓の鍵までしっかりと掛けたが、入って来る時はどうにでもしてやって来るだろうなと呆れながら、羽ばたいていく鳥を視線で追っていた。
イゼットは決心を固めて振り返る。アイセルの前の椅子にはメルテムが横たわっていたので、その後ろに立ってから、口を開く。
「なにか、聞くことは?」
魔術師メルテムによって露呈された情報。
イゼット・セネルは淫魔であり、人を惑わす邪悪なる眼を持ち、誑かして精力から魔の力を奪う忌むべき悪しき魔だと。
イゼットはそれらのことを否定せずに、また、記憶操作をするアイディンの魔術を施すことを止めた。
咄嗟にした行動をどうしてか、と自問自答をすれば答えはすぐに出て来る。
一つはアイセルへの罪悪感。
イゼットは思い出していた。魔力が尽きかけて、我を失って魅了の魔眼を使ってアイセルの体の自由を奪って襲いかかったことを。記憶を消されたアイセルと普通に接するたびに良心が痛んでいた。
二つ目は、何も知らないアイセルの期待を受けるのが辛かったということ。
自らの騎士としての特性を褒められたのは初めてだった。
今まで大きな志もなく何となく騎士をしていたが、頑張ればもっと認めて貰えるのだろうかと、そんな風に考えたこともあった。だが、己の中に眠る悪魔が、『お前はこちら側の人間ではない』と囁くのだ。
もう、楽になりたいと、イゼットは思っていた。
ところが、アイセルは「聞きたいことは何もない」と平然とした顔で言う。
「は?」
「何ぞ」
「いや、そうじゃなくて、何か聞きたいことがあるだろう?」
「無いと言っておる」
「そこの魔術師から聞いた筈だ。俺は淫魔で、魔眼を持っていると」
「世界には、そういう特異な事情を抱える者も居るであろう」
信じられないと、イゼットは上司の顔を見る。
アイセルは机の上にあった紅茶を淹れて、すでに冷めきったそれを口に含み、二つの意味で美味しいものではないと顔を顰める。
「別に、お主が先ほど聞きおりし存在であっても、日々の生活で困ったことなど無きことではないか。ゆえに、私は気にしないよ」
「困ったことはあった。記憶を消されて覚えていないだけだ」
「……そうか。やはり、そうであったか」
「?」
アイセルは語る。
夜、眠ることが怖かったと。
「私の観る夢は、恐ろしきものばかりであった」
体に走る激痛。
痛みに耐えきれずに泣き叫ぶ少女。
体に文字を刻む男。
業火に焼かれるような行為。
逃げ出すことは許されない。
体はびくとも動かなかった。
男の様子もまた悲惨なものであった。
少女に負けない程に泣き叫びながら、文字が刻んである熱のこもった鉄を押し当てる。
震える声で紡がれるのは懺悔の言葉。
翌朝、目が覚めれば、アイセルの体に夢で観たものと同じものが刻まれていることに気づく。
これが何か、家族に聞くのは悪いことのような気がして、今まで問いかけたことはない。
それにとても現実であったことにようには思えなかった。
痛みは全くないし、辛かった体も比較的楽になっていたからだ。
それに、アイセルに全く関心を示さない兄が、あのように振り乱すわけがない。
深く考えることは止めようと、そうやって夢のことは気にしないように努めていた。
夢にあったのは、消されてしまった記憶の欠片。
だが、今、しっかりと夢の内容と向き合ってみれば、それは家族の愛だったと気付く。
「最近は、黒髪に赤い目を持つ男の夢を、観ることもあった」
「!」
「頭の中に刻まれた記憶というのは魔術の力を借りても、完全に消し去ることは出来ぬのであろうな」
「……」
体内の魔力が枯渇し、我を失ってアイセルに襲い掛かるイゼット。
迎え撃つが、魔眼の力で囚われてしまう。
「普通だったら、滅相もない夢だが、私は――」
イゼットはすぐに行為に至らず、アイセルの頬や髪に優しく触れて回った。
どうしても、その行動が彼女の中で引っ掛かったままになっていた。
今なら分かる。
アイセルは、今まで誰にも触れて貰った事が無かったのだと。
誰かに、分りやすい態度で愛して貰いたかったのだと。
「魔眼で感覚がおかしくなっているんじゃないか?」
「それは否、と言えよう」
アイセルは言う。
イゼットは魔力の使い方を知らないので、魅了の魔眼を最大発揮することが出来ないと。
体の自由は奪えても、心まで支配出来るものではないと語って聞かせた。
「――と、まあ、このように、特異な体質を持っているのはお主だけではなきこと。私は、家族が私を助けてくれたように、お主のことを助けることが出来たら、と考えておる」
アイセルの言葉を聞いて、イゼットは愕然とする。どうして他人にそこまで出来るのかと疑問に思った。
「どうした?」
「い、や……」
「まさか、懺悔でもして許しを乞おうとでも考えておったか?」
「……」
アイセルはイゼットに近づき、顔を覗き込む。
「魔力は足りておるか?」
「え?」
「その、魔技巧品に魔力を貯めておるのであろう?」
「まあ」
魔術師でもあるアイセルは魔術の歴史や魔力についてなど、あらゆる知識を叩きこまれていた。悪魔の事についての知識もあるという。
イゼットは自棄になって暴露する。
アイディン・イェシルメンが裏で暗躍をしていたことを。
「なるほど、な」
アイセルは兄の愛は伝わりにくいと笑っていた。
兄が冷たいだけの人間ではないと分かってので、今日は大きな収穫があったとも言う。
再びイゼットと向かい合えば、またしても彼女はとんでもないことを口にした。
「これからは、お主のことは私が危ない存在ではないと見張ることにしよう。然し、だからと言ってこれらを口外することは無きことゆえ、安心するとよい」
イゼットは瞠目をする。
込み上がって来る感情は、困惑の一言。
「まだ納得いかぬか」
「……」
「ならば、そうだな。頬でも打ってお相子としようか?」
イゼットはその言葉に頷く。
今現在、それ以外にどうすればいいのか思いつかなかったからだ。
アイセルは左の革手袋を脱ぎ、手を高く振り上げた。
すぐに勢いよく振り下ろされる手の平。
イゼットは己の罪を噛みしめながら、瞼をぎゅっと瞑る。
「――!?」
想定していた衝撃は襲いかかって来なかった。頬に触れたのは素早く仰がれた手によって生じた風だけ。
瞼を開けば、手の平は頬のすぐ傍で止まっていた。
アイセルの顔を見れば、真面目な顔でイゼットの顔を見ている。
何がしたいのか分からずに目を凝らせば、突然頬を軽く摘まれた。
「!?」
驚きで見開かれる目を見て、アイセルは噴き出す。
「間抜けな顔よ」
「は?」
続けて、これでお相子だとアイセルは言った。
イゼットは未だ、状況が掴めずにいる。
「ま、待て、頬を抓ることのどこがお相子なんだ?」
「よいではないか。私は癒された」
「はあ!?」
納得がいかないイゼットは、上司の謎の主張が理解出来ないと食い下がる。
「ならば、私は好きな時にお主の頬を抓ることにしよう」
「な!?」
「何か腹が立つ事があれば、関係のないお主の頬を掴んで憂さ晴らしをさせて頂こうぞ」
「なんだ、それ!? ただの八つ当たりじゃないか!!」
「それだけでは足りないと申したのはそちらであろう?」
これで話は終わりだと、アイセルは執務椅子に座って何かを書き始める。
イゼットは何か別のものがないかと頭を捻るが、妙案は浮かばない。
「これを魔術師団の医術局に持って行ってくれ」
アイセルが渡した書類はメルテム・バジェオウルが倒れたという旨が書かれたもの。
イゼットは命令に従い、メルテムを運ぼうと手を伸ばす。
「待て!」
「?」
「メルテム・バジェオウルは、置いていけ」
「何言ってるんすか、連れて行った方が効率が」
「い、いいから、彼女はそのままにしておけ。動かすと、良くぞぬ、かも、しれぬゆえ」
「……」
良く分からない命令であったが、イゼットはその言葉に従うことにした。