十話
イゼット・セネルはとんでもない事態になってしまったと苦渋の表情を浮かべる。
ツイていないのは昨日からだった。
休みだったので一日中ゆっくりしようかと、寝台の上で寝返りを打った矢先、母親から店番をしてくれと言われ、渋々と店に出て行けば、運悪く来店して来た上司アイセル・イェシルメンと鉢合わせになってしまったという。
百歩譲って普通にパンを買って帰ったのならば別に気にする事など何もなかったが、母親がイゼットの作ったリエットを勝手に食べさせようとしたので全力で阻止をしたが、奪還には至らずにアイセルに渡ってしまった。
翌日も知らない振りをしておけばいいと思っていたが、上司はリエッタの買った店を教えろと命令してきたのだ。
「なに、お主が、あれをこさえたと?」
「まあ」
アイセルは驚いた顔を見せたかと思えば、綺麗な姿勢で頭を下げた。
「感謝する。肉を、美味しいと思ったのは初の事であった」
「左様で」
イゼットは笑顔でお礼を言うアイセルから目を逸らす。
そんなつれない態度をする部下を見て更に笑うアイセルに、イゼットは気付いていなかった。
◇◇◇
一日の仕事を片付けたイゼットは、さっさと荷物を纏めて家に帰る準備をする。
アイセルに先に帰るという旨を伝え、執務部屋から退室して行った。
アイディンから貰った薬は残り三回分ほど。
思った以上の効果があったので、ここ半月位は普通に過ごす事が出来た。
答えを出さなければならない、というのは分かっていたが、突然の副官就任などがあって慣れない仕事に疲弊し、家に帰ったら食事を摂ってすぐ寝るという生活が続いていた。
それに、アイセルについても大きな問題となっていた。
半月前、アイディンと話をした時はアイセルと個人的に接する事もなかったので、いざとなったらやるしかないとも頭の隅で思っていたが、今となってはそんなことなどとんでもないことだと思うようになっていた。
知り合いでなかったら出来るが、知り合いとは出来ないということは勝手なものだと理解しているが、そもそも淫魔の特性がなかったら、見知らぬ女性と一晩過ごすということをするわけがないと言い訳をする。
頭の中はぐちゃぐちゃで、整理が出来ない状態になっていた。
今日は考えるのを止めよう。
イゼットはそんな風に決めて、家路に着く。
しかしながら、人生とは思うようにはいかないわけで。
「やあ、こんばんは」
「……」
誰とも、と言うよりは、アイディンや公爵家の関係者に出会わないように裏口から出てきたにも関わらず、明るい声で待ち構える会いたくない人物が待っていたのだ。
相手の顔は周囲が暗いこともあってよく見えない。長い外套を纏い、頭巾を深く被っていることも理由の一つと言える。
血統の良い貴族の男がその辺をうろつく訳にはいなかいのだろう。ご苦労なことだと舌打ちをする。
「今日は忙しい」
「またまた~」
イゼットを引きとめる手は、軽い口ぶりとは違って力強い。
アイディンは研究畑の人間なのに、イゼットよりも背が高く、魔術衣の下の体は隆々とした筋肉を持っていた。
「ちょっとお話したいなあって」
「……」
振り切れる相手では無いと諦め、重たい足取りで後をついて行った。
連行されたのは魔術研究所の地下室。薄暗い部屋の椅子を勧められる。
「さてと、何から話せばいいのかな?」
アイディンは様々な場所に密偵を放っており、アイセルの近況については誰よりも詳しかった。
「まずは、君の家のパンについて説明をしようか」
「!? ちょっと待て」
「何かな?」
「どうして、さも、調査が終わったみたいな言い方をする?」
この時になって、アイディンは深く被っていた頭巾を取り去る。そして、机の上にあった角灯を手にとって己の顔を照らした。
「なっ、お前!?」
頭巾の下からさらされた顔は、イゼットの実家のパン屋で一週間前に採用した寡黙な雑用係であった。
全くの別人に見えるアイディンは、顎の線を取り囲むように生えていた髭を綺麗に剃り、髪の毛も黒に染めている。
「なに、してんだよ、お前は!」
「何って、君の家で一週間ほど雑用係として働いていましたが?」
「はあ!?」
本当に本人かと目を凝らすが、陽気に話をする様子はアイディン・イェシルメンしか見えない。
新しく働きに来ていた男は三十二歳で前職は辺境の村の食堂で働いていたと言っていた。生真面目な性格で田舎訛りもあったので、皆その言葉を信用していた。
「なにが三十二歳独身だ!」
「はは、うちってどうにも若く見える家系でねえ」
実年齢より十も若い設定で働きにやって来た男を、家族もイゼット疑わないで受け入れていた事実に頭を抱え込んだ。そう言えばと思い出す。上司であるアイセルも、二十八歳なのに十八の少女のような容姿をしていたと。
「ねえ、そろそろ話を戻してもいい?」
「勝手にしろ!」
アイディンはアイセルが美味しく食べることが出来るパンの謎について、早い段階で動いていた。
「いやあ、アイセルがパンを食べて美味しいって言っていた場面は感動をしてね」
「ちょっと待て」
「またかい?」
「どこでパンの話を知った」
「使い魔の目から見ていただけだよ」
そう言ってから口笛を吹けば、どこからか茶色の小さな鳥が飛んで来て、主人の肩に座って小首を傾げていた。
「疑問は以上かな?」
「……」
執務室の中を常に監視されていたことになんとも言えない気持ちになったが、これ以上反抗する元気も無くなっていた。
「それで、君の実家に入り込んで調査をさせて貰った」
驚くべきことが発覚したと言う。
「あの家には、不可解な術式が敷かれていた」
「は?」
「私も、よく仕組みを理解は出来なかったが」
「?」
イゼットの家には魔力吸収の魔法陣が敷かれているという。
「まだ、はっきりとした研究結果は出ていないが、この世に存在するものには全て魔力がある。家畜にも、野菜や果物にも。人は、魔力の力で生きているが、食べ物とも繋がりがあると私は思っている」
「これ以上摂取出来ない隊長には食事が出来ないと」
「その通り」
だが、イゼットの家で作られたものに関しては例外だと言った。
「魔力を吸引する魔術が組み込まれているために、君の家の食べ物に関しては魔力が完全に抜けたものとなっているのだよ」
しかしながら、不思議なことに吸引して集めた魔力の行き先はイゼットの耳飾りには無いという。
「魔力はどこに行っているんだよ」
「さあね。一週間程度の調査では解明出来なかった。まあ、君のお母さんが予想以上に油断ならない人物であったことも理由の一つだけれど」
「……」
散々こき使っていた雑用係の男が公爵家及び王族の一員であることを知れば、顔面蒼白にしてからひっくり返ってしまうのでは? と一瞬思ったが、息子が淫魔の子だということをあっさりと受け入れてしまった母親なので、案外笑って流すかもしれないと考え直す。
「まあ、それで、私にも色々と思う所があってね、考えを改めようかと」
「左様で」
どうせ碌な事でもないと、イゼットは目を細めながら聞く。
「やっぱり、妹には綺麗な体で嫁いで貰いたい」
「そりゃそうだろ。貴族の世界ではそれが当たり前だ」
家と家の繋がりを強くする為の結婚を強いられる貴族の令嬢は、当然のように生娘であることが求められている。
「記憶を消すとはいえ、知らない間に犯されているというのは、可哀想だと」
「……」
「兄としては、人としての喜びをもっと知って貰いたい。君と過ごす妹を見て、そんな風な考えが浮かんで来てね」
美味しいものを食べれば、人は自然と笑顔になる。アイセルもそうだったと、アイディンは静かに呟いた。
「だから」
「?」
アイディンはちらりとイゼットを見る。
淫魔の特性と魅了の魔眼を持つ青年は、案外真面目な男だった。家族との仲も良く、魔力切れを起こさない限り女遊びもしない。
それだったら、とある願いを口にした。
「アイセルを嫁に貰ってくれないか!?」
「はあ!?」
「戦うこと以外なにも知らない娘だが、案外良い体をしているから!!」
「な、何言っているんだ、馬鹿兄貴が!!」
「ありがとう、早速お義兄さんと呼んでくれるなんて!」
「違う! そういう意味じゃねえよ!」
がっしりと両手を掴まれたので、慌てて引き抜こうとしたが、ぎゅっと握りしめられていたのでなかなか緩むことはない。
自由な脚で脇腹を蹴りあげたのに、びくともしなかった。
「こいつ、さっさとくたばれ!!」
「ははは。これでも王族の一員でね。精霊に愛されているわけさ」
「くそが!」
面白いほどに口汚いイゼットの手を離し、解放をする。
「もう少しだけ、見守らせて頂くよ」
「……」
イゼットの手には、魔力を補給する錠剤の瓶が押し付けられていた。
とりあえず、答えを出すまで時間が出来た。
しかしながら、アイディンの見守るということが何年と続くわけではないと言い聞かせながら家路に着くこととなる。