楽園の追放者
魔族国を長年見守ってきた最長老ハズメット。羊頭のこの老人は、実に2300年近い時を生きている。魔族国建国に立ち会った一人である彼は、実はゾドークの66魔神の一人に数えられる魔神、バフォメットである。常識的には考えられないその長命も、ひとえに魔神の力あってのものである。
魔族国が現在まで存続できたのは、この魔神の存在も大きなものであった。
魔神とはいえ、ハズメット自身はさしたる攻撃手段があるわけでもない。長生き故に知恵は多くあるし、並以上の魔力は持っていたが、それだけである。ハズメットにできるのは教え、導くことだけである。
それに、彼と言えども世界を変えることはできない。魔神であろうとも、動かせない節理がある。それをこの何千年もの生で彼は学んだのだ。
彼はトローアの王であった頃のセウスのこともよく知っており、彼とも一度だけ会ったことがある。その当時、ハズメットは魔神として覚醒しておらず、今とも風貌が違うためにセウスも憶えてはおるまい。
そのセウスと連れがトロントからの言伝を持ってやってきたとき、ハズメットはこれも運命か、と思った。
そして、破滅の足音が近づいてきていることに、ハズメットは気づいたのだ。
これでも長く持ったものだ。永遠は存在しない。この魔族国もまた、然り。
とはいえ、彼とて長年庇護し、見守ってきた同胞を見捨てるつもりはない。この時のために彼は遺物であるアルトリザリコンを研究してきた。
魔術でさえ到底理解しきれない複雑な構造。書物などでは失われた機甲大戦時代の遺物。神代の時代に等しい古代遺物であるために、何千年の時を経ても、その機能のすべてを把握するには至っていない。
しかし、ハズメットはこの四方を森に囲まれ、逃げ場のない魔族国の民を逃がすための策は用意していた。
アルトリザリコンに搭載された浮遊機構。これを修復するのだ。
要塞であった頃は、浮遊機構のほか、大砲、多重結界、自動迎撃などの機能があったようだが、ハズメットが修理できたのは浮遊のみ。もとより兵器としてではなく、箱舟として使うつもりであったハズメットにとって、他の機能など問題ではなかった。
とはいえ、欠点もある。アルトリザリコンを常時浮遊状態にするわけにはいかない。魔導装置、という半永久機関があり、それの充填などの問題があるのだ。そのために、いざと言うとき以外は眠らせておくべきだろう、と歴代の族長たちとも話し合ってきた。
そして、その時がやってきた。トロントの手紙は、敵の数の膨大さを物語っていた。押し切ることはできない。楽園を捨て、箱舟で新たな地を目指すべし。トロントの言葉はそれだけであった。
住み慣れた故郷とともに死ぬ、と言うものもいるかもしれないが、命あっての物種。ここで死してしまえば、それで終わりだ。魔族は、ここで滅びるわけにはいかないのだ。
魔導装置の充填や要塞の操作には問題があり、優秀な魔術師が必要となる。敵の攻撃で魔術師が不足していたが、セウスの連れであるセラーナ、そしてクィルとともにやってきたエノラが協力を申し出たために、計画の遅れは最低限に抑えることができた。
あと少しで。そう思った羊の獣人は要塞頂上より、魔族国を見回す。
しかし、敵は易々と逃がしはしない。
無数の人間兵。石弓やゴゥレム、攻城兵器。埋め尽くさんばかりの敵に対し、こちら側はもはや戦う戦力はほぼない。
要塞の結界はわずかなものであり、攻撃されればものの数分でだめになる。要塞で逃げる前に、沈められてはたまったものではない。
そんなハズメットを仰ぎ見るように要塞を見ていたのは、魚人の長トライトン。
今なお彼は魚人の精鋭を率い、人間の侵攻を遅らせていた。セウスやクィルと言ったものを要塞内に押し込むと、若者たちも押し込み、自分ともはや年老いた老兵以外は戦場にいることを許さなかった。
祖国と散り、死んでいくのは年寄りの役目である、と言わんばかりに。
トライトンからはハズメットは見えていないはずである。けれど、トライトンは静かにハズメットを見て頷いた。ハズメットはトライトンへの感謝で胸がいっぱいであった。彼が時間を稼いでくれるおかげで、何千、何万の民が救われる。それが、魔族の未来へとつながる。
自分の代わりに礎となって散っていく戦士たちにハズメットは誓う。必ず、救ってみせる、と。
トライトンは自身の最後にして、最大の戦場を見る。
「敵の数は千か、それとも万か。もはやわからぬな」
黄金の三つ又に分かれた槍を構え、トライトンは言った。身体は傷だらけであり、疲弊もしていたが、彼は戦死した仲間の分まで戦わねばならぬ、その気力だけで立っていた。
ここにいない、と言うことは死んだであろう三人の戦友。一番の親友、ヨトゥンフェイム。戦闘技術の死、トロント老。共に狩りをし、酒を飲みかわしたグラール。そのほか、大勢の魚人の兵と魔族たち。
今日散った多くの英雄と、明日の魔族の子どもたちのためにも、トライトンはまだ倒れるわけにはいかないのだ。
「父上!」
半生を振り返るトライトンの背に、声がかかる。トライトンは槍を持ち、敵を睨みながらちらりと目を向けた。
「なんだ、リクター。まだいたのか」
「父上、俺も戦います」
青年はそう言い、父の隣に立とうとした。だが、父はそれを首を振り、止めろ、と言った。
しかし、とリクターは抗議をした。敵を前に逃げることは恥ずべきこと。それに同胞のために死ねるなら、リクターには迷いはなかった。生き恥をさらすつもりなど、彼にはない。あるのは勝利か、死か。笑止なければ、最後の最後まで戦うのみ。
そんな息子の心情を理解していたが、トライトンはそれを赦さなかった。
「お前が死ねば、誰が魚人を、魔族を導くのだ」
「それは、父上が死んでも同じです」
「いいや、違うぞ、リクター」
トライトンは顔を向けた。その瞳に宿る焔に、リクターは武者震いした。
「これからお前たち若者が魔族を引っ張るべきなのだ。この滅亡は終わりではない、始まりなのだ。停滞し続けていた時計の針を、今、動かすのだ。それができるのはリクター、お前だ。お前やクィル、それにあの人間族の娘だ。私は希望を託せるからこそ、逝けるのだ」
「父上・・・・・・・・・・・!!」
「泣くな、息子よ。さあ、行け。お前はこのトライトンの息子だ。我が誇りよ、さあ、行け」
リクターは父に敬礼をした。そして、すぐに顔を背け、奔っていく。
息子の姿が要塞に消えると、トライトンは周囲の老兵に微笑んだ。魚人のみならず、生き残った百戦錬磨の兵たちはニカッと笑う。
そして、彼らの最後の戦いは始まった。
「何をしている!?相手はたかだか百人程度!我が軍はその何倍の戦力がある!?あんなゴミを早く蹴散らして、要塞を攻略せよッ!!」
前線まで出てきたアレスターはそう喚き散らす。戦争を理解できていない彼には、あのトライトンたちの恐ろしさがわかっていなかった。だが、将軍や参謀たちはその恐ろしさが身に染みてわかっている。
死を受け入れた兵士はもはや一片の迷いはない。ただただ、目的のために動く。
窮鼠猫を噛む、などとはよく言われる言葉だが、今まさにこの状況はそれだ。
ゴゥレムを破壊し、攻城兵器を壊し、危機となる魔術師を捨て身で排除していく。
その姿は魔族ながらにあっぱれであった。
魔族の恐ろしさはここにある。その気になれば、人間が何人いようと平気で刃向い、目的を達する。
だからこそ、殲滅しなければならない。人間がこの世界の支配者であるためには。
「殺せ、あの魚人間を殺せ!」
喚くアレスター。仕方がない、と肩を竦めた将軍は全軍に命じた。
決着をつけるぞ、と。
動力が動き始め、要塞内に魔力が満ちる。
トライトンのおかげで、浮遊まであとわずか。敵はまさかこの要塞が浮くとは考えていないから、早期決着を考えてはいない。とはいえ、敵はすぐにでもトライトンたちを倒し、要塞を沈める戦力を持っている。
ハズメットは内心びくびくしながら作業を進める。
「・・・・・・・・・・・!!行けるか」
魔神はそう呟くと、要塞内部の者たちに向かって告げた。
「これより、我々は永く住み慣れた故郷を捨て、新たな新天地を目指すため、旅立つ。多くの犠牲があった。今なお、戦士たちは戦っている。だが、この犠牲を我らは決して忘れない。流れたちの分、我々は彼らの分まで生きねばならない。魔族国国民よ、強くあれ。胸を張り、恥じ入るな」
ハズメットがそう言うと、アルトリザリコンは静かに、だが確実に浮遊を開始した。
地響き。大地がわれ、地中に埋もれていた大遺跡が姿を露わにした。
人間たちはその巨大さに驚いた。クライシュ大陸に損じするレス=グラウキエ・コンクード。それに匹敵する巨大要塞が現れ、宙に浮いたのだから当然であろう。
指揮官アレスターが逃がすな、潰せと声高に叫ぶが、魔術師も大砲も攻城兵器もゴゥレムも、まともな兵器は何一つ残ってはいなかった。すべてトライトンたちに破壊されつくした後であった。
地割れの影響で兵士の損害も大きい。魔族を倒しきれなかった、とアレスターは屈辱に歯噛みする。
浮遊する要塞は、静かに森を越え、空へと向かっていく。
「ええい、逃がすな!!」
叫ぶアレスター。彼の周囲にいた兵士の多くは地割れに巻き込まれ、今彼の周囲はがら空きであった。参謀たちは無能な指揮官に代わり、各隊への連絡と指揮を行っていたからだ。
その隙を、トライトンが逃すはずはなかった。
生き残った最後の一兵トライトンは冥途の土産に指揮官の首を持っていこう、と考えた。
確かに魔族国は滅びた。だが、だからと言って奴らの勝利で終わらせるわけではない。
トライトンはもはや身を隠しもしなかった。堂々と彼は真正面からアレスターのいる陣地目指して走る。止める者はいなかった。
一陣の風が、ちっぽけな第三王子を殺すのは容易であった。
一撃でアレスターは心臓を突き刺された。
トライトンは会心の笑みを浮かべた。そんな彼を、遅れてやってきた警備兵が見つけ、弓矢で射る。
闘いに疲れ、もはや動けなかったトライトンは避けることもなく、弓矢をその身に浴びた。
青銀の鱗の隙間から血を流し、倒れたトライトン。死してなお、その顔は会心の笑みを浮かべたままであった。
黄昏の中、巨大な城、アルトリザリコンは進む。
離れ行く故郷を、遠く見つめる若者たち。
父や仲間を失った。信じるべきものを見失いながらも、彼らは生きていた。
「父上、ギーゼラ」
クィルは要塞のバルコニーから、紅に染まった魔族国を見る。炎が燃え、煙が立つ故郷を。
「クィル、大丈夫かい」
「ああ、大丈夫さ。エノラ・・・・・・・・・・」
そう言ったクィルであるが、その顔は無理をしていた。クィルを後ろから抱きしめ、エノラは目を閉じる。クィルは無言で泣いた。
しばらくして、彼は口を開く。
「やってやるさ。誰もが幸せに生きれる世界ってやつをな」
明日の魔族のために。今日の同胞たちのために。昨日の仲間のために。
固く誓ったクィルを支えるように、黒髪の少女は支え、頷いた。
やがて夕日は沈み、闇が訪れ、また朝が来る。
朝日は昇る。何度でも。諦めない限り、光は差すのだから。




