慟哭
グラウキエ教国が大宗主国に名を変える二百年ほど前。
ロイフォル・オーギュナント司祭が祖国ベレフォールの司祭となって、二年が経った。
ベレフォール公国におけるレアレス教布教は、彼の尽力により急速に広がっていった。
ベレフォール生まれの彼の言葉は人々の心にうまく反応していた。
もともと信仰心は強い人々であり、信仰する神が変わっただけで、生活そのものが変わったわけではない。
レス=グラウキエ寺院としても、このロイの活動を評価しないわけにはいかなかった。
最年少の司祭であり、才能も人望もあるロイに司祭以上の権限を、と言う動きはあった。
ロイの直属の上司エザヤ枢機卿や、彼の指導に当たり一年前枢機卿となったバートラ枢機卿などがそうであった。
しかし、今現在、グラウキエ教国の内部は権力闘争に塗れていた。
前教皇の突然の死。
これにより、ここ数か月、教皇の位は空席である。
本来ならば、前教皇在任時に指名式典が行われ、枢機卿会議で承認されるが、今回はそれすら行う前に教皇が死んでしまった。
10人の枢機卿は、それぞれ三人の候補を立てている。それを話し合いで決めようとしているのだが、それは一向に決まらない。
前教皇の息子であり、枢機卿の一人、ウィンゲル。
教皇の弟弟子である、大枢機卿タナートス。
そして三人の中では若手だが、教皇の弟子であり退魔局の長であるエザヤ枢機卿。
この三人で、枢機卿の意見も、教会内部の意見も対立している。
ウィンゲル派は、古くからの教会主力勢力である。老害、とさえ言われているが、その影響力は大きい。
タナートス派は、反ウィンゲル派であり、これも大きな力を持つ。タナートスはつい最近までウィンゲル派であったが、今では真っ向から彼に対抗する頭となっていた。
エザヤ派は、第三勢力であり、教会の若者を中心に台頭してきた派閥である。
民の間からの支持、という面で見ればエザヤ派だが、教会内部としてはエザヤのような若造に、と言う思いが強い。
だからと言って、ウィンゲルかタナートスか、と言うと決めることができない。
このような情勢化であり、常にグラウキエ寺院では駆け引きが行われていた。
ロイの権限が強大化することは、エザヤ派の力が強くなる、と言うことにつながりかねない。
ロイ自身はどこにも属していないが、傍目から見ればエザヤ派であり、警戒されていた。
こういった事情もあり、数か月前から検討されたロイの処遇は未だ決まっていなかった。
ロイ自身は、権力と言ったものには興味がなかった。
ロイは良くも悪くも「司祭」であり、レアレス教徒であった。
彼は俗世のこと、とばかりに無関心を貫き通した。たとえ教皇が誰になろうとも、彼の信仰が変わるわけではないのだから。
そういうわけで、今日もロイはいつもと変わらず、ザクティンにある教会でレアレス神に祈りをささげていた。
「恵みを、そして愛と、光を」
熱心に文言を唱える司祭の後ろでも、同じように祈る信者たち。
豊穣のレアレス神は、農民や商人にとって縁起のいい神である。
貴族たちとは違い、こういった人々は本気で祈っている。
宗教では何も変わらない、とはよく言われるが、それでも誰かにとっての光であれば、それは意義のあることだ。
ロイ自身、そうやって生きてきた。神にすがらなければ、乗り越えられなかったことがあった。
毎朝の礼拝を終え、人々が帰る中、一人の人物がこちらを見ていることに気づく。
ロイは、目をそらし、自身の部屋へと急ぎ足で向かおうとする。
だが、その人物は即座に彼に追いつくと、その司祭服の裾を掴んだ。
ロイは、その人物を見て、吐き出すような声でつぶやく。
「何のつもりですか、モンフォート伯爵夫人」
そう言い、ロイはかつての幼なじみを見る。
二年前、再会した、身分違いの友人。
彼の初恋の相手であり、彼の心に大きな傷を残した少女。
彼女は昔に感じさせた天真爛漫、と言う印象を拭い捨て、どこか妖艶であった。
艶めかしい唇、こちらを誘うかのような目。吐く息は、どこか香しい匂いで・・・・・・・・・・・。
そこで、ロイは正気に戻る。
そして、自分の顔に迫る彼女の顔から離れる。
「やめろ、ルルー!」
そう言い、引き離す。そして、この様子を誰も見ていないことをロイは確認する。
そんなロイをおかしそうに見て笑う女。
「ふふ、やっと私の名前を呼んでくれたね♪」
「ルルー、何のつもりだ・・・・・・・・」
怒るロイを、何の反省もなく見つめるルルー。
何時からだろう、彼女がこんな風に迫るようになってきたのは。
二年前、おとなしく夫の側に立っていた彼女は、少なくともこんな風ではなかった。
おそらく、変わったのは夫であるモンフォートの死、であろう。
彼の死後、モンフォート家はルルーの手で繁栄をしていた。
その時から、ルルーはロイに誘惑を仕掛けてきた。
神への誓いが、ロイを誘惑から守っていたが、それでもかつての初恋を思い出さずにはいられない。
ロイにとって、苦行の一年であった。
「何度も言っているはずだ、ルルー。こんなことはやめるんだ」
「どうして?」
「私はもう、神にその身を奉げたのだ。俗世に、興味はない・・・・・・・・・・・・」
そう言い切ったロイの目を覗き込み、ルルーは怪しく笑う。
「嘘ね」
「!!」
ロイは驚き目を開く。彼の頬に手を添えるルルー。
「あなたは何時だって、私のことしか見えていない。そうでしょう?私も同じよ、ロイ。愛しているの、ずっと、ずぅっと」
「・・・・・・・・・・・もう遅い、ルルー。もう、遅いんだ。何もかもが」
ロイは強い言葉で言うと、彼女に背を向ける。
ルルーはもうロイに迫ろうとはしなかった。だが、その目は決してロイを諦めてはいない。
「ロイ、あなたは私のところに戻ってくるわ、絶対にね」
そう言うと、彼女は去っていった。
背後で閉まった扉の音が、重く響く。
ロイは思い溜息をつく。
ルルーの連日の行為に彼の精神はだいぶ追い詰められていた。
その鋼の意思で思いとどまっているが、彼女の漂わせる肉欲に負けないとはいいきれない。
「今更、遅いのは君だって知っているはずだ、ルルー・・・・・・・・・・・・・!」
そう言うと、ロイは引出しから一つの封筒を取り出す。
それは、エザヤ枢機卿から彼に向けて当てられた文書である。
それによると、ロイを再びグラウキエ教国レス=グラウキエ寺院に戻し、自身の退魔局に入れたい、とのことだった。
これも教皇選出のための権力争いの道具とされており、ロイも随分と悩み、返事の期日ギリギリまで粘っていた。
だが、この故国に未練はないし、このままルルーとの逢瀬を続けるなど、我慢ならないのも事実。
ロイは、静かに筆を執ると、エザヤ枢機卿への返事をしたため、自身の伝書鳩にそれを持たせ、放つ。
「これでいい」
ロイはそう呟き、どさりと椅子に倒れ込む。
もう、何も考えたくはなかった。
数日後、エザヤからの返事が届いた。
枢機卿の喜びは手紙の文面からも明らかであった。
早急に後任を送り、引き継ぎを済ませて帰還せよ。端的に言えば、それだけのこと。
ロイは、そうと決まれば、と公王や主だった貴族、それに教会の信者に対し、自身が教国に戻る旨を告げた。
王や貴族は大した反応はしなかったが、平民は違った。
この人が良く、真面目な司祭を皆慕っていた。
教会のことだけでなく、農業や家族関係の話など、幅広い相談に乗ったロイ。
そんな司祭がいなくなることを残念に思わずにはいられなかった。
そして、人々は口々にこのことを惜しんでいた。
モンフォートの屋敷で、噂を聞き怒りに肩を震わせているのはルルベリア―・モンフォート伯爵夫人であった。
騒ぎ立てるわけではないが、彼女の目は静かに怒りの炎を燃やしていた。
怯える使用人を前に、彼女はただただ自身の爪をかじる。
がり、と大きな音が立ち、女たちがびくりと震える。
「どうして、どうして、どうして、どうして・・・・・・・・・・・・・」
ただただ小さく繰り返される言葉。
「やっと、やっと、邪魔するものは全部なくなったのに、どうして、どうしてなの?ロイ・・・・・・」
自身の愛する男の名を呟くルルベリア―。
狂気に駆られた女は静かに立ち上がる。
まるで、血のように真っ赤なドレスを着た彼女はそのまま屋敷を出ていく。
制止する侍女の手を振りほどいた女性は、教会に向かう。
教会での引継ぎを終えたロイは、少ない荷物を持って都の門のすぐそばに止めてある馬車に乗り込む。
「よろしくお願いします」
御者の男に頭を下げる司祭を、人のよさそうな御者は笑う。
「ロイ!」
そんなロイの耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。
しかし、ロイはその声の主を見はしない。
誰かは、わかっている。
「ロイ・・・・・・・・・・!」
涙を含む声。
「出してください」
「しかし・・・・・・・・・・・」
御者が戸惑った声を上げる。
そうしている間に、彼女は近づきつつある。
ロイは、声を強くしていった。
「出してください!早く!」
穏やかなロイの強い言葉に、御者は静かに頷き、馬に鞭を討つ。
馬車が、がらがら、と音を立てて進みだす。
「あっ」
女性の声。
そして、どさりと倒れる音。
その音を聞いたロイは、わずかな隙間から後ろを見る。
真っ赤なドレスを纏った女性が、地に伏せていた。
彼女は半身を起き上がらせると、ロイを見る。
必死に手を伸ばし、恐らく彼の名を叫ぶ女。
涙がその美しい顔を伝う。
「赦してくれ、ルルー。俺には、こういう生き方しかできない。君の望むことを、してはやれないのだ」
一人称が昔に戻っていたことすら、ロイにはわかっていない。
ただ、彼は自分の初恋の相手に別れを告げていた。
二度目の、おそらくは最後の別れを。
遠ざかる馬車の影を、座って眺めていた女性は、嗚咽を漏らす。
ああ、どうして、どうしてあなたはまた、私を置いていくの?
こんなにも、こんなにも愛しているのに。
身分の差、親の決めた婚約者。それが、幼い二人を引き裂いた。
そして我慢し続けてきた。
好きでもない、醜い男に。
毎日のように、その欲望にさらされながらも、ただただ彼との再会だけを信じて。
そして、再会できた。
更に都合のいいことに、不健康な生活をしていた夫も死んだ。正確には、ルルベリアーが毒を盛り、それを促進したのだが。
そうまでして自由を手に入れ、誰も邪魔はしないのに。
なのに。
「どうしてあなたは私を捨てていくの?」
あの時のように。
助けを求める少女に背を向けたロイ。
彼はそして消えた。彼女の前から。
また。
また。
また。
厭だ。
厭だ。
厭だ。
い や だ。
「ロイ、そんなにも、あなたは神が大事なのね?」
地に膝をつき、泥がつくのすら気にもせずに、彼女は言う。
誰に言うわけでもない。いや、しいて言うならば、その言葉は遠く離れてしまった愛おしき男に向けられていた。
「なら、ロイ。あなたのその神様も、ここも、全部、ぜーんぶ、壊してあげるわ」
狂気を宿した女性の瞳。
「ウフフ、ウフフフフ。フフフフフフ・・・・・・・・・・・・・・・・!!」
血の涙を流しながら、泣き笑う女。
音は空気を震わせる。
その声は、ベレフォール中に響いた。
窓のガラスは砕け散り、その不協和音を聞いた人々の脳は破壊された。
血を流し、悶える人々の中を、一人の女が進む。
女の姿は、霞み、その身体は少女の姿へと変わる。
彼女が最も幸福だったときの姿に、無意識に彼女は自身を作り替えていた。膨大な魔力がそれを可能とした。あふれ出る力は、彼女に快楽を与える。
残忍な笑みを浮かべた、一人の少女がそこにはいた。
亜麻色の髪をなびかせ、少女は死の街と化したザクティンを歩く。
ベレフォール公国の都ザクティンを襲った悲劇。
誰がそれをもたらしたのかを知る者は少ない。
後に『慟哭』のキュレイア、と呼ばれ恐れられる魔神が、その日、誕生した。




