負け犬のアンセルムス
逃げることに慣れてしまった。
辛いことや哀しいことから、常に逃げ続けてきた。
幼いころから感じていた、親や周囲の期待。そして、失望の目。
同じ血を分けた優秀な兄弟たちとは違い、何の才能もない俺は、それでも努力さえすれば、いずれは両親も周囲も認めてくれるとそう信じていた。
だが、ある時、俺は挫折した。それまで経験したことのない大きな壁。そこで初めて、俺は「逃げる」ことを覚えた。
それから俺は逃げ癖が体に染み付いてしまった。
剣術も魔術も、教養程度にしかできなかった。
兄たちは騎士団長や魔術師長に匹敵する腕なのに、なぜお前は。
弟たちも妹たちも、お前より知識も才能もある。なぜ、お前だけ。
周囲の失望の目。兄弟たちの嘲笑うかのような視線。
俺は逃げた。
期待から、嘲笑から、生まれ育った環境から、国から。
逃げ出した。ただ、辛い現実から逃れたくて。
でも、逃げた先に、安息など待ってはいない。
希望の先には、常に絶望があった。大きな口を開けて、俺を絶望は飲み込んだ。
結局のところ、俺を待つのは、抗うことのできない「現実」だけなのだ。
だから、俺は。
イヴリス大陸北部に広がる大雪原地帯を、長い戦士の行列が進んでいた。
厚い外套の下には、鎧を着こみ、白い息をつきながらも彼らはしっかりとした足取りで、白い大地を進む。雪の上に無数の足跡がついては、降り積もる雪にかき消される。
兵士たちの中には凍傷や病気で苦しむものもいたが、そんなものは脱落していき、誰にもみとられずに死ぬ。
兵士たちはそれを承知でこの進軍に参加していた。
彼らはいわゆる傭兵だ。住む土地もなく、忠誠を誓うべき王も国もない。
彼らが信じるのは己の腕と、生きるために必要な金だけだ。
闘うしか能がない彼らはそうやって生きてきた。自分の身一つで。
今も、脱落した兵士が倒れている。彼の身体は降り積もる雪に包まれ、体温を失っていっている。
歯をガチガチと鳴らし、痙攣する彼は、救いを求めるように手を伸ばす。吹雪と突風が、彼の腕を払いのける。
集団は目くばせもせずに、静かに進軍する。
そんな中、一人の青年が倒れた男の前にかがみこむ。青年は、兵士の瞳を覗き込む。
命が散りゆこうとしている兵士の目には、生への渇望が見えた。
このまま生かしておけば、やがて死に、彼は死者となることだろう。
強い負の感情は、闇の魔力を取り込み、魂を変質させてしまう。
このまま放っておけば、彼は生ける屍となってしまうだろう。
青年は、男に手を差し伸べる。男がそれを希望に満ちた目でつかんだ瞬間。
兵士の首が、鮮やかな赤を撒き散らしながら、周囲の雪を染め上げる。
首を失った胴体の血は、瞬時に凍りつく。ボトリと落ちた首は、すぐに雪に埋もれて見えなくなるだろう。
左手で持った剣の血を払うと、青年は剣を鞘にしまう。そして、何事もなかったかのように、進軍する群れの中へと戻っていった。
イヴリス大陸北部に広がるラーシュ大雪原。そこに国を構えるのは、商業国家パラメスである。
大商人によって興された街で、高い工業技術と、商業知識、そして古くからの各国とのパイプを持つ。
造船技術は非常に高いが、元が商人の集まりでしかなく、国としての軍隊を持っていない。いかに周囲が大雪原であり、他国からの侵攻がない、とはいえ、それではいろいろと問題があった。
この国において武力とは、内部からではなく、外部から調達をするしかない。
そこで、傭兵たちが登場する。
幸い、パラメスの商人は金だけはある。国の安全、自身の安全を惜しむものはいない。金はぶりは非常にいのだ。
そう言う事情もあり、パラメスに流れてくる傭兵は多い。世界を見渡しても、ここほど傭兵のいる国はそうそうないであろう。
だが、だからと言ってパラメスが楽園、というわけではない。
むしろ、パラメスは地獄のようなところである。
街の中心はしっかりした施設や魔術の処置が施されているため、寒さや雪の心配は皆無だ。だが、中心を離れるに従い、様相は変わってくる。
それに、パラメスは隣接する国々が攻め込む心配がない代わり、魔物の存在がある。
ときたま、門を超えて魔物が街の外円部に迫ることもある。
極寒の地の魔物は、イヴリス内でも上位に当たる魔物ばかりだ。
経験を積んだ傭兵と言えど、この環境と魔物相手に戦うのは無謀だ。
傭兵のうち、およそ二割が毎月死亡する。
魔物による怪我、過酷な寒さ。それは容赦なく、傭兵たちを殺す。
それでも、彼らがこの地にとどまり続けるのは、金が必要だからだ。
金がなければ、生きてはいけない。
それに、彼らのようなならず者を受け入れてくれる場所など、そうそうない。
だから、彼らはここにいる。地獄のようなところでも、ここにいるしかないのだ。
雪の進軍を続ける、総勢二百人の傭兵の部隊。
彼らは魔物の軍勢に襲われた商人たちの捜索の人を受けていた。
何でもパラメスでも重要な外交文書を極秘で運んでいたのだが、運悪く魔物の軍勢に遭ったらしい。
本来ならば、商人如きにこれほどの軍勢は送られないが、今回は事情が事情だけに、急きょ部隊が編成された。
金はぶりもよく、四百近い傭兵が参加した。
だが、度重なる凶暴な魔物の襲撃と、近年まれに見る突風と豪雪で、半数がすでに死亡か、行方不明となっていた。
傭兵たちを指揮する、壮年の髭面の男は、手を挙げて軍勢を止める。
彼は、壊れた馬車の形跡を見つけ、周囲を調べるように命令する。
彼の近くの傭兵たちが馬車の跡を調べる。雪に埋もれ、すでに襲われて時間は経っているようだった。
「外交文書は発見できました」
「そうか、ならば帰還するぞ」
隊長はフン、と鼻息荒く言う。生存者がいるなど、状況からしてもあり得ない、との判断だった。
その判断を非人道的だ、という人間はここにはいない。皆、さっさと帰り、酒や女を楽しみたかった。
今日の天気は異常だった。これ以上、ここにいては手だれと言えど、凍え死ぬ。
隊長は軍勢に言った。
「野郎ども、帰還するぞ」
そう言い、隊長が指示した時、馬車のあった下の雪が盛り上がり、白銀の大地から巨大な生物が現れる。
傭兵たちが、外套の間から顔を出し、その生物を見上げる。
ゆうに人間の四倍ほどの大きさの、醜い青色の獣。吐く吐息は、強烈な悪臭を放っており、寒さで感覚のなくなった嗅覚を、鋭く刺激する。
雪原の主、とも呼ばれる危険種指定の魔物。魔神にも及ぶ、突然変異種。
「ウソだろ」
「バンダースナッチ・・・・・・・・・・・」
その名は遥かな昔、この雪原に魔王が封印されて以降、多くの人間を喰らった怪物として、イヴリスでは知られている。
巨大な狼のような獣は大きく吠えると、軍勢に向かって顎を突き出す。
狼はその口で哀れな人間を飲み込む。ぼりぼりと鋼を砕き、人肉を喰らうその姿に、怯えた傭兵が逃げ出す。
だが、そこにバンダースナッチの眷族であるレアウルフの大軍が押し寄せる。
「くそぉおお!!」
「全員、突破しろぉ」
隊長は叫ぶと、彼の得物である大きな斧を振り回し、目前のレアウルフの首を薙ぎ払う。
バンダースナッチに構わず、彼らはパラメスの街を目指すのだ。
パラメスには、危険種といえど攻め込めない結界が張ってある。そこまで逃げ込めば、彼らの勝ち、だ。
英雄でもなければ勝てぬ化け物に、挑もうと思うものなどいはしない。
次々と、死者が出る中、青年は走り続ける。
腰から抜いた剣は、レアウルフの血で染まっている。彼の後ろには、隊長や生き残りの傭兵たちがいる。
バンダースナッチは、今なお、追いかけながら、哀れな脱落者を貪っている。
「クソッタレ、どうしてこんな日に、よりによってあれが」
隣で走る傭兵が愚痴を言う。
「神はよほど、俺らを嫌ってるんだろ」
その隣の傭兵が言う。はぁはぁ、と息が切れかかっている。
それは、青年も同じであった。この雪と、突然の襲撃。それは体力を奪っていった。
魔物の体力は、一向に尽きてはいない。理不尽なまでの戦力の差。
(兄上たちならば、この危険種と言えど、簡単に倒すのだろうな)
青年は逃げながらふと考えた。
捨て去った故国。そこにいるであろう、彼の兄妹たち。才能に恵まれず、傭兵にまでやつした彼とは違い、国の将来を背負うものとして過ごしているだろう。
くだらない。青年は頭を振り、考えを払い、生き残ることだけを考える。
「ぐヴぉぉ!!」
後ろで、隊長が転ぶ。
だが、誰も彼のことなど、気にはしない。
皆、死にたくはないからだ。
迫るレアウルフに、隊長は武器を振ろうとするも、彼の斧は厚い氷に突き刺さり、抜けなくなっていた。
死を覚悟した隊長の目の前に、青年は滑り込むと、その手にした剣でレアウルフの喉を裂く。
レアウルフは白目をむき、雪の大地を血に染めて転げまわる。
「あ、危なかったぜ、助かったぞ、小僧」
そう言い立ち上がった隊長は、青年に歩み寄り、礼を言おうとした。
幸い、バンダースナッチはまだ見えない。逃げ遅れた犠牲者を襲っていて、脚が止まっているのだろう。
隊長は青年に歩み寄った。その瞬間、彼は血を吹き出す。
「な、ん・・・・・・・・・・・・・?」
隊長は自身の腹を見る。見ると、銀に輝く刀身が、彼の腹を突き破っていたのだ。
その剣は、青年が握っていた。ニヤリと笑う青年の瞳は、邪悪な闇を宿らせている。
彼は、右手のものをちらちらと見せつけるように振る。
「お、前・・・・・・・・・・・・・」
「悪いね、これは俺がもらっていくよ。だからあんたは安心して死にな」
「重要な文書」を持ちながら、青年は笑う。
「悪いね。だが、賞金もらうにしても、頭数は少ない方がいいんだよ」
「てめえ、この、クズ野郎、が・・・・・・・・!!」
吐き出すように言った髭面の男を見て、青年は歪んだ笑みを浮かべる。
「は、同じ穴のムジナが。俺たちはクズ野郎だ。その通り。だから、いついかなる時も安心しちゃあいけない」
そう言い、止めとばかりに力を入れて、剣で腹を抉る。内臓が抉られ、悲鳴を上げる男。
剣を引き抜き、男が倒れる。だが、青年はそれを興味ないとばかりに背を向けて走り出す。
「ま、待て、待って、くれ・・・・・・・・・・・」
手を伸ばした男は、しかし、雪によって視界を遮られる。そして、じわじわと背後に迫る気配に恐怖する。
「クソッタレ」
そして、仰向けになった男は、自身を襲わんとするバンダースナッチの牙を見た。
雪原に響く断末魔を聞きながら、青年はほくそ笑みながら進む。周囲の傭兵たちをおとりに使い、自分はその陰に隠れ、身を潜めた。
そうして彼は、何とかバンダースナッチと眷族が肉を喰らっているうちにその場を抜け出すことができた。生き残っているものは、彼の周りにはいなかった。
「なるほど、生きて帰ったのは、君だけ、か」
領主の館で、豪華な椅子に座る禿げ頭の男はそう言い、外交文書を青年より受け取る。
青年は後ろに手を組み、休めの姿勢で立っている。
「文書に目は?」
「一切見ておりません」
青年は間髪入れずに答える。「よろしい」と領主は呟く。
そして、近くにいた召使に目くばせする。
「褒賞を与えよう」
「は、ありがとうございます」
「次も、期待しているぞ。アンセルムス」
青年は召使に連れられて、褒賞を受け取りに行った。アンセルムスは静かに、後ろをちらりと見た。
文書を見ていないわけがない。青年は嗤う。これは使えそうだな、と。
青年の名はアンセルムス、という。
パラメスの街の傭兵の中ではさして知られている名ではない。これと言って目立った戦績もない、二十前後の若者である。
傭兵、と言うわりには身体は貧相である。身長こそそれなりにあるが、肉突きは言い、とは言えない。
おまけに顔は整った顔であり、どこか商人や貴族のお坊ちゃんを思わせる。
黒髪黒目と、この地域の出身ではないようである。ここに流れてきたのは、一年半前ほどのことだ。
装備品は粗末な外套と使い古された鎧。剣だけは一丁前に高価なものではあったが、それもここ最近の戦いで刃こぼれしていた。
アンセルムスは、久々街の酒場にて酒を飲んでいた。
報奨金は、非常に多かったが、召使が三割ほどを自分の腹のうちに収めてしまっており、また、これまでのツケや宿代で半分が消えた。
クソッタレ、と内心でつぶやくと、アンセルムスは酒を仰ぎ、カップを机に置く。
そして、酒場の親父に向かい、銀貨を投げつけると、そのまま酒場を去っていく。
街を歩き、宿に戻ろうとしたアンセルムスだったが、彼をガラの悪い傭兵たちが囲む。
「よぉ、アンセルムス。また、お前だけ戻ってきたのか?」
そう言ってきたのは、ことあるごとにアンセルムスに絡む男である。
無視しようとしたアンセルムスだったが、男の取り巻きがその華奢な腕を掴み、鳩尾に拳を叩き込む。
「かはっ」
唾を吐きだし、地に倒れたアンセルムス。彼の懐から、金貨銀貨の入った袋を、男は取り出す。
「クソッタレめ」
アンセルムスの頭に足を押し付け、唾を吐き捨て、男は去る。
取り巻きたちも悪態をつきながら、男の後について行く。
「畜生どもめ」
アンセルムスは、怒りのこもった瞳で男たちの背中を見続けた。
別に、こんな風に報酬を奪われることは珍しくもない。むしろ、殴られるだけで済んでよかったものだ。
長くこういう世界に身を置いていれば、自然に仲間内では名を知られていく。
アンセルムスは「コソ泥」「能無し」「卑怯者」という枕詞がつけられている。
コソ泥や卑怯者、というのは今回のように自分だけ生き残り、報酬を受け取る姿から揶揄された言葉である。
能無し、とは端的に彼の特異性を言い表している。
この世界に住む人間もエルフも、魔物も「スキル」と呼ばれる特殊な技能や才能を持っている。
ある者は魔力への高い適正だったり、剣術のスキルであったりする。
誰にもスキルはあり、それを生かしてこの世界の森羅万象は生きている。
だが、ごくごくまれに、スキルを一切持たない「無能力者」が生まれることがある。
それが、アンセルムスなのだ。
どこから彼が無能力者だと発覚したのかはよくわからない。だが、見るものが見ればわかることだった。
傭兵の元締めである斡旋所か、ともに仕事をしたことのある同業者か。
だが、そんなことはアンセルムスには関係ない。
彼は無能力者であるがために、卑怯な生き方をしてきた。そうしなければ、生きていけなかった。
汚泥を啜り、時に奴隷のように尊厳を踏みにじられながらも、彼は生き続けてきた。
逃げて逃げて、逃げ続けた先で、ついに彼が見つけた結論は、人間のクズにいたる、と言う答えであった。
宿についたアンセルムスは汚れた外套を脱いで、鎧を外し床に置いた。鞘に入った剣を寝台に放り投げ、窓越しに外を眺める。
吹雪は今はやみ、闇に浮かぶ月が鮮明に見える。
紅い月は、運命の女神アテンシャの化身だという。
真紅の月を睨みつけるアンセルムス。
彼は神なんて信じてはいない。
この世界に神はいない。
この世界を作ったという十二人の神々。そんなものは、存在しない。
もしいたとしたら、俺が殺してやる、とさえ彼は思っていた。
スキルはどんなに努力をしても得ることはできない。
努力を重ねたところで、最後に物を言うのはスキルである。
そんな残酷な現実を作り出した神を、認めるわけにはいかない。
「クソッタレ」
アンセルムスはそう言うと、静かに寝台に横たわり寝息をつき始めた。
その日、彼は夢の中で懐かしい人を見た。
手を伸ばし、彼女の手を掴もうとした。
けれど、その手が届くことは永遠にない。
「・・・・・・・・・・・・ナターシャ」
夢から起き、彼は彼女の名前を呟いた。けれど、そこに彼女はいない。あるのは粗末な宿の部屋。忌まわしいほどに、クソッタレな世界だけ。
首から下げた鎖。そこに通してある、一つの黒焦げの指輪を弄り、アンセルムスは無造作に髪を掻きあげ、立ち上がった。
あの時の想いを、絶望を、忘れたことはなかった。
さあ、始めよう。青年は歩き出す。
全てを終わらせるために。