夢と魔神と鎌と
イヴリス大陸南部の国イマニエラのとある漁村。
アウラ海を挟んで向こうにある中央大陸。そこにそびえる、世界で最高峰のオリュン山。
その周りを囲むかのように広がる、霧の山脈は、常に濃厚な霧で包まれている。
そんな風景をいつも目にしながら、少年タムズは十数年間生きてきた。
あそこには恐ろしい魔神がいる、というが未だに魔神を見たことはない。
何でも、剣のように鋭い翼をもつ、恐ろしい魔神だそうだが、オリュンの山々はいつも通り平穏そのものだ。
それよりも、タムズが気になるのは戦争の噂だ。
なんでも、イヴリスも面接するファムファート大陸とその隣のラカークン大陸間の緊張が高まっているそうだ。
つい先日まで、革命のあったバーティマ、と言う自治都市とファムファート諸国の対立か、と騒いでいたのに、情勢は一気に変わったようだ。
とはいえ、タムズにとっては対岸の火事。自分には関係のないことであった。
イヴリスには今のところ、火の粉は来ていないので、心配するだけ無駄だろう。
しがない漁師の息子であるタムズにとっては、この退屈で平凡な毎日が待っているだけ。
良くも悪くも、ずっとそう生きていくものなのだ、とタムズは子どもながら悟っていた。
北のイヴリスのように、彼のいる国は豊かではない。
こうした細々とした仕事でも、あるだけまし、と言うものだ。
「タムズ!ぼうっとすんな」
「すいません、船長」
タムズは無表情でそう言うと、船の上からオリュン山を見る。
今日も変わりなし。
特に大量、と言うわけでもなく、今日の漁は終わった。
アウラ海でとれる魚の中には、高級魚もいるが、タムズのいる地域にいる魚は、どこにでもいる魚ばかり。
高値で売れる魚がかかることなど、万に一つもない。
おかげで、漁村は寂れている。
若い者の姿も、タムズを含めて数人のみ。
はぁ、と息をつくタムズ。
別に、物語の主人公のように、優れた力も家柄もなくていいから、もう少しましな生活をしたい。
それがタムズの偽らざる本心であった。
なにか、特別なことが起こることを、心のどこかでタムズは望んでいた。
家ですることと言えば、本を読むことくらいだ。
遊び仲間も大半が仕事をしているし、そもそも遊ぶ気力もない。そのため、タムズは家にある本を読んで暇を過ごす。
幸いなことに、叔父がどこからか持ってきてくれた本のおかげで、彼は退屈だけはしなくて済んだ。円卓の王セウスの物語、翼を奪われた男の顛末、傭兵王クエンティン、逢魔大戦、失われた古の物語。
数々の英雄の物語や歴史は、タムズにとっての楽しみの一つであった。
いつか、自分も、と言う気持ちがないわけではなかったが、それが訪れることはないんだな、とタムズは考えていた。
その夜、タムズはいつもの夢を見ていた。
物心ついた時から、毎夜見てきた夢。
昔はその夢を見たことから、何か特別なことが自分に起きるのではないか、と淡い期待すらしていた。
夢の中で彼は二本の大鎌を駆使し、魔物の軍勢を薙ぎ払う英雄であった。
いくつもの戦場を駆け巡り、不敗であり、屍の上に君臨し、仲間を導く。
英雄としてもてはやされ、栄華の中に存在する。
物語の英雄のように。
しかし、現実はそうではないことを、年を取るごとにタムズは悟り、今では冷めた目で夢を見ていた。
しかし、今日の夢は、いつもの夢とはどこか違うように、見えた。
まず、夢の中での彼がいるのは、いつもの戦場ではなく、どこか落ち着いた雰囲気の宮殿であった。
幻想的な噴水と庭の風景があり、彼はそこに佇んでいる。
いつもの鎧姿ではなく、華美ではない軍服を着ていた。
上を見ると、満月が彼を照らしている。
風が吹き、葉が空を舞うのを、呆然と夢の中の彼は見る。
「お待たせしました」
「・・・・・・・・・・・」
凛とした声が響き、彼は振り向く。
そして、言葉を発しようとした口が動きを止める。
彼の目は現れた女性の姿にくぎ付けになる。
この世のものとは思えぬ、深紅の長い髪の女性。
なぜか、顔だけはみえないが、美しい人なのだと、タムズは感じた。
夢の中の彼も、同じ気持ちだったのだろう。
心臓の鼓動を押さえて、彼は言った。
「思わず、駆ける言葉を忘れてしまった」
「まあ、御上手」
ふふ、と上品に笑う純白のドレスの女性。
彼女は紅い髪を揺らしながら、彼に近づく。
「また、こうして人目を避けて会わねばならぬとはな」
「世が世です。今、私とあなたは敵同士。おおっぴらに、会うわけにはいきますまい」
「もっともだ」
そう言うと、夢の中の彼は女性を抱きしめる。
「明日、全てが決する。お前か、私の命でもって」
「止めることは、できないのですね」
「矢は放たれた。もはや、止まらぬ」
赦してくれ、と言い、胸の中の女性を抱きしめる彼。英雄と言われ、多くのものを震わせてきた将軍の腕は、微かに震えている。
彼の胸の中で、女性も同じように肩を震わせている。
「いつか、いつか争いがなくなった世界が来たら、私たちのような思いをする者はいなくなるでしょうか?」
「わからぬ。だが、その時が来たならば、再びお前と巡り合いたい」
「転生を、信じているので?」
くすり、と涙を浮かべながら女性が笑う。
「鬼の将軍閣下が、と言いたいのか?」
「いいえ、でも、案外ロマンチストだな、と」
「ふん、俺がこんなことを言うのはお前だけだ」
彼は再び強く、強く彼女を抱きしめる。
「ああ、いつまでもこうしていたい。叶うことならば、永遠に」
「だが、それはあり得ない。俺もお前も、覚悟していたはずだ」
「ええ、でも、いざとなると、愛おしくて悲しくて、たまらない」
女性はそう言うと、彼の頬に手を添える。
目前に、彼女の唇が迫る。
「愛しています、―――――――――。永遠に、たとえ、何度生まれ変わろうとも」
「俺もだ、――――――――――。何度生まれ変わっても、必ず、見つけ出す」
たとえ、神が定めた運命だとしても、その鎖を引き千切り、必ず。
言葉は音にならず、消えていく。
それと同時に、タムズは夢から醒めた。
夢の続きが気になって、タムズは眠れなかった。
登場人物の名前も背景もわからないから、何の物語なのかも判断しようがないし、それが自分とどう関係するのかもわからない。
だが、微かに彼は何かを感じていた。
その夜、また、夢を見た。
戦場。
ひしめく戦場の中で、彼は倒れていた。
右腕は引き裂かれており、もはや動かないし、心臓は弱く鼓動をしている。微かに、傷口から動く心臓が見えた。
まだ死んでいないのが、不思議なほどだ。
彼の横には、紅い髪の、昨日の夢の女性が倒れていた。
口から血を流し、倒れる彼女。
最期に交わした口づけは、冷たく、もはやその熱も去っていた。
ああ、彼女は死んでしまったのか。
ほかならぬ、自分の手で殺してしまった。
だが、お前だけを、逝かせはしない。
彼はそう思い、わずかに身体を動かし、感覚のない脚を無理やり鞭打ち、立ち上がると、天を見て叫んだ。
「神よ、俺はお前に屈しない。決して。いつか再び、貴様を殺しに来るぞ!!」
そして、彼の心臓はついに鼓動を止めた。
漆黒の鎧に覆われた肉体が大地に伏し、視線が暗転する。
そして、魂は天に跳び、魂を亡くした彼の肉体がひとりでに動き出す。
そこで、夢は終わった。
タムズは一人、静かにオリュンの山を見る。
なんとなしに、彼は見ていただけであった。
夢の内容は、今でもはっきりと覚えている。
なにか、この夢に意味はあるのか。
タムズはぼんやりと考えていた。
そんなタムズの耳に、悲鳴が聞こえた。
「なんだ・・・・・・・・・?」
不審に思ったタムズは悲鳴の方向に向かって走る。
小さな漁村だから、皆で敵底辺を確認しに向かっていた。
村の入り口で、たむろする人々。タムズもそこに駆け寄ろうとした瞬間。
人垣が崩れ、漁村の人々は肉塊へと一瞬で変わった。
タムズの頬に、先ほどまで人だったものの欠片が当たり、ずり落ちる。
「うわぁあああああ?!」
夢で見たことはあるが、現実の、熱を持ったものとしては初めて触れた。
恐怖が、背筋を走る。
「ここに、奴はいるのか・・・・・・・・・」
そう呟くのは、村人たちを吹き飛ばしたと思われる、一人の、魔神であった。、
「あ、あ、ああ、あぁ・・・・・・・・・・・・・・」
恐怖に震えるタムズは、ゆっくりと魔神を見る。
成人男性を容易く超える長身の、狼の頭を持つ魔神。黒い体毛に覆われ、その手には彼の身長以上の銀色の刃の鎌があった。柄や装飾は漆黒で、夜を思わせるそれに、なぜかタムズは既視感を覚えた。
それで、足元のごみを払うかのように、肉片を薙ぎ払う。
「・・・・・・・・・・・・・むぅ」
タムズを見ると、魔神はその黄色い目で少年を見る。
「なんだ、人の子か。貴様に用はな、い・・・・・・・・・・・・・・っ!?」
そう言い、踵を返し、村の中へ歩み始めた魔神は、歩みを止め、目を見開いてタムズを見る。
「そうか、そうか、貴様か。貴様が・・・・・・・・・・・」
魔神は低い声でつぶやく。
「その魂の鼓動は、間違いない、貴様なのだな?」
「何を言って・・・・・・・・・・・・」
タムズが後ずさると、魔神は笑う。おかしそうに、大きな口を開けて。
「自分が何者か、お前も気づいてはいないか。しかし、ちょうどいい」
魔神はその手に持った鎌を不気味に構える。銀の光が血を求めるかのように煌めく。
「・・・・・・・・・・・来るなぁ、来るな!!」
タムズは必死に走り出す。
そのタムズを、鬼のような憤怒の表情で負う魔神。
魔力が黒い霧のように覆っている。魔神の憤怒を表すかのように。
何故、自分が、と言う思い。
そして、死にたくない思いでタムズは走る。
だが、ただの人間と、魔神。差は、歴然としていた。
「う、あぁ」
転び、立ち上がろうとしたタムズの背に、魔神の鋭く伸びた爪が生えた足が押し付けられる。
ごり、と骨が鳴る。
「他愛ない、脆弱!」
そう言うと、魔神は右手で持った鎌を、少年の首の皮一枚を挟んだ位置に置く。
「なぜ、僕を狙う・・・・・・・・・・?」
「なぜ、だと?ふん、忘れているようだな。だが、教えてなぞやらん。決してな。冥界でなぜ、と問いながら、メギドに焼かれろ」
魔神はそう言うと、鎌を大きく振った。
「『月光』のダウクの名を、刻むがいい」
殺される!
そう思ったタムズの目に、空が見えた。
蒼い昼の空に、なぜか光り輝く月が見えた、気がした。
その時。
あの夢の中の女性が脳裏に浮かんだ。
そして、彼女が何事かを呟いた。
『―――――――――――』
その瞬間、何かが奔った。
高速で振り下ろされた鎌は、空中で止まった。
「!?」
魔神ダウクは驚愕する。
自身の鎌を止めたのは、大きさこそ違えども、同じ外見の鎌。
突如現れたそれは、タムズを守るかのように宙に浮かんでいる。
どれほど力を込めても、押しのけることはできない。
序列十位の、魔神ダウクをもってしても。
ダウクは足に力を込めて、跳躍し後ろへと着地すると、鎌を構えてタムズを見る。
立ち上がったタムズは、呆然と宙に浮かぶ鎌を見る。
そして、それを手に取る。
なぜか、懐かしい気がした。
そしてそれを握った瞬間、タムズの中から死の恐怖が消えた。
「なぜだ、なぜ・・・・・・・・・・」
魔神は呟きながら、じりじりとにじり寄る。
タムズは鎌を持つと、華麗に振り回し、構える。
持ったこともないのに、手になじむ。そして、なぜか自分の身体のようにさえ、感じる。
「俺は、死ぬわけにはいかない」
なぜか、そう思った。
夢の中のあの女性のことを知るまで、死ぬなんて、できない。
「思い上がるな、小僧。たとえ、貴様が何を思い出そうとも、この俺の想いを否定はさせぬ」
そう言った狼頭の魔神は再び、タムズに迫る。
恐ろしいスピードで放たれた斬撃を、鎌の腹で受ける。びり、と手がしびれ、身体がのけぞる。
底をつくかのように、鋭い攻撃が放たれる。
「うぉお!」
タムズは鎌を回転させ、魔神の脚目がけて刃を向ける。
砂を斬り、魔神の足元から現れた刃は、魔神の表皮を薄く切りつけた。
魔神は威嚇の雄たけびを上げると、タムズの腹にその長い脚による攻撃を叩きつける。
胃液を吐きながら、タムズは飛ばされる。
近くの家の木の壁を突き破る。
埃を吸いながらも、タムズは立ち上がり、鎌を構える。
そして、後ろに向かって斬撃を放つ。
屋内より放たれた一撃は、間一髪で避けられたが、当たっていれば、魔神の首を両断していただろう。
魔神は牙をぎりぎりと鳴らし、タムズを見る。
「お前は何で、僕を狙う?」
息をつきながら、タムズは問う。
だが、魔神は答える気などなく、威嚇するように喉を鳴らした。
タムズは、鎌を握りしめる。
魔神が跳びかかってくる。
今まで以上のスピードで向かう刃。
目でとらえることはできない。
だが、なぜかタムズにはその攻撃が見えた。
タムズはわずかに身体をそらすと、魔神に向かって刃を振り上げた。
魔神の攻撃はわずかにタムズの髪を切っただけに終わり、タムズの攻撃は魔神の前の牙を一本、切っただけに終わった。
魔神は瞬時にタムズの懐から離れると、苦々しい目でタムズを見る。
「今日は月の巡りが悪いようだ。だが、必ずや貴様を殺してやるぞ、貴様が、記憶を思い出したとしても、必ずな」
そう言うと、魔神ダウクは天に向かって吠える。
そして、その姿は空間に紛れ込み、見えなくなった。
敵が去ったことで、タムズの身体の緊張は解け、今になって恐怖が蘇る。
そして、鎌を振り回した反動によるものか、身体が急激に痛みに襲われる。
筋肉の悲鳴が聞こえるようだった。
自分に何が起こったかはわからないが、確実なことが一つだけあった。
望む望まぬにかかわらず、もう、自分は今までのように暮らしていくことはできない、ということだ。