セラーナとセリーヌ
幼いころから、彼が好きだった。初めて会ったその時から、彼のまっすぐな目に魅かれた。彼がトローア王の息子であり、将来的に王になるからではない。そんな理由で好きになったのではない。いつか私も恋をし、そしてゆくゆくはどこかの貴族を婿入りするか、自身がどこかに嫁ぐことになる。そう思っていた。だが、彼に魅かれるごとに、次第にそう言った貴族としての義務よりも、自分の想いを伝えたくなっていた。
私を見て、私を選んで。セリーヌはそう思ったものだ。
父が戦争で死んだことはもちろんセリーヌにとって哀しい出来事であった。だが、そのおかげで彼女は王宮に引き取られることとなった。父の死を乗り越えた少女は、セウスやバルドバラスらとともに王宮で学び、そして彼らとともにトローア王立騎士学校まで進んだ。全てはセウスの隣にいるために。
友人もできた。リケン、アノガル、ツェツィーリエ。セウスやバルドバラス、それに自分を加えて、最高の友人だとさえ思っていた。
そしてみんなで誓い合った。騎士学校にある、ひときわ大きな木の下で、夕日を眺めながら。いつか絶対に平和をこのラカークン大陸にもたらそう、と。
ラカークンを取り巻く情勢は複雑であり、その過程では多くの困難があった。騎士学校上級生になったころ、ついに当時ラカークンに存在していたフロイデン帝国がトローアを攻め、そこから四国家による大戦がはじまった。数年にわたる戦争を制したトローア王セウスは、ラカークン国家をその支配下におさめ、ついに悲願の統一を成し遂げた。
統一の後、セラーナは長い間思っていたセウスと結ばれ、王妃となった。三人の子どもにも恵まれ、幸せが続くのだと信じてやまなかった。
だが、再びの戦争が起こり、そのさなかにセウスがどこぞの女と成した子どもまでもが現れてからは、セラーナの人生は狂い始めた。セウスは彼女が求めるときにはいなかった。その間に、セウスは他の女との間に子を作っていたなどと、到底許せはしない。戦争で留守にする夫に対し、不信は積もるばかりであった。愛ゆえに、憎しみは強くなり、やがてそれは自分でも押さえられなくなった。負の感情に囚われたセラーナは、同じくセウスへの負の感情を抱く友のバルドバラスと精神的にも肉体的にも関係を持つようになっていった。互いに依存しあい、セウスにコンプレックスを持つ二人は、闇に魅入られた。『神』と名乗るものに知らず知らずのうちにその精神を蝕まれ、ついに彼女はバルドバラスをけしかけ、セウスとほかの女との間に生まれた王子、エオスの反乱に乗じ、王都トローアを奪ったのだ。
そうして、彼女は故国と愛した男を葬り去ったのであった。
セウスを殺すことはあえてしなかった。それは、永い苦しみをセウスに与えるため。そして、いつか自分に泣いて許しを請う姿が見たかったから。最終的に、彼を愛し、受け入れるのは自分だけと彼女は信じてやまなかった。狂った心を自覚しないまま、セラーナは魔神となった。そして同じく魔道に落ちたバルドバラスとともに、時が来るのを待った。
そして、今。
セウスの隣にいるのは、自分と似た髪の色の少女、そして彼女が隣にいる時、セウスが浮かべる表情。それは、ついに自分には向けてはくれなかった笑顔。嫉妬で心が吹き乱れる。
どうしてどうしてどうして。
がり、と爪を噛んだ。つぅ、と血が流れる。
ユルサレナイ、トウテイ、ユルサレナイコトダ。
壊れたセラーナは、呟く。
そうだ、殺してしまおう。この少女を。そうすれば、セウスはまた私を見てくれる。セウスとバルドバラスと、私。楽しかったあの頃に戻ろう。そうだ、リケンやツェツィーリエやアノガルも一緒に。そしてまた、皆で国を作ろう。そうだ、それがいい。幾千の死体の上に国を築き、そこで子供たちと共に暮らすのだ。『神』の支配する、この箱庭の世界で。
淡々と話す魔神の姿に、セリーヌは憐れみの表情を浮かべる。狂ってもなお、彼女はセウスを思っている。その愛を、鼻で嗤ってあしらうことは彼女にはできなかった。もしかしたら、セリーヌの姿は、明日のセラーナの姿なのかもしれないのだから。
「でも、あなたに私を殺させないし、あなたにセウスも渡さない」
セラーナの言葉に、ぎょろりと目を向けるセリーヌ。
「生意気な小娘。私のセウスをたぶらかした悪い女。殺してやる、殺してやる。殺してやるぅ!!」
叫んだ魔神の足元から無数の茨の鞭が飛び出てくる。セラーナのすぐ近くの地面も盛り上がり、這い出てくる。セラーナの張った魔術障壁を突き破ってくる無数の茨を即時展開した魔術で破壊するが、何分数が多く、一つ破壊している間に新たに三つ襲い掛かってくる。
魔神セリーヌの力は、空間を自身の支配下とし、その空間内部の魔力を常に吸収し、自分のものとすることができる。地獄の魔力は未だ豊富であり、彼女の使用する茨を無尽蔵に作り出してくれる。
嬌声を上げる魔神は、次々と茨をけしかけてくる。不可蝕の杖を握り、セラーナは叫ぶ。
「下がれ!」
魔力のこもった声で一瞬茨の触手が動きを止めるが、それも数秒でしかない。わずかな時間稼ぎしかできなかったセラーナは、舌打ちをする。いくらセラーナと言えども、これほどの妨害がっては魔術を組み立てる余裕はない。障壁だけで手いっぱいであった。
「頑張るわね、けれどね御嬢さん。あなたの思いが強ければ強いほど、裏切られた時の失望は強くなるものよ」
魔神が言う。
「そうやってあなたも、期待し、そしていつか裏切られる」
「それが、どうしたというの?」
セリーヌが言う。
「私はセウスを信じている!」
「若いわね」
魔神は目を伏せた。一瞬、彼女の瞳に理性が戻る。だが、暗い目でセリーヌを見る。
「だけれども、あなたも私と同じようになるわ。同じ血をひいているのだから。私が駄目で、あなたならばいいという保証はどこにもないのよ」
魔神は拳を握り、開いた。掌から迸る電撃の魔術をセラーナに放つ。魔術がセラーナの障壁をすべて破壊すると、茨どもがセラーナの身体を傷つける。茨の棘が、容赦なくセラーナの柔肌を傷つける。
「フフ、ダンスは苦手のようね。レッスンをつけてあげましょうか?」
「はぁ、はぁ」
息を上げるセラーナを見て、魔神は美しい唇から声を出す。
「そうじゃないわ、そこのステップは」
魔女はそう言い、セラーナに近づいていくとその頬を握りこぶしで殴った。そして、セラーナの杖を握る手をギリギリと締め上げた。
「あぁ!」
「諦めなさい、何もかも。滅びに身をゆだね、そして永遠の安息を・・・・・・」
『神』と戦って敵うはずがない。セウスとともに生きるとしても、セラーナと彼とでは、生きる時間が違う。甘美な諦めの誘惑が、少女の耳に響く。
賢い彼女は、その甘い誘惑に耳を傾けた。そうだ、わかっていることだ。『神』に挑んだとして、勝ち目がどれほどある?セウスの言葉が、誓いがすべて真実などと誰が言える?人は変わる。変わらないものはない。
杖を手放そうとしたセラーナだったが、ふと脳裏に浮かんだ光景が見えた。
力なく横たわる彼女を抱きしめ、共に力尽きる彼の姿を。それは、『前の』世界での二人の辿った、最期であった。
これでいいのか。最期を迎えるならば、私はこんな最期だけはごめんだ。最期は笑って死にたい。どんな結末であろうとも。
かつて女神であった頃から、セウスと魂を同じくする彼を彼女は愛していた。けれど、その愛すら伝えることはできなかった。
また、同じことを繰り返したくはなかった。
「私は諦めない」
「!?」
杖を握る手を強くし、目の前の魔神をセラーナはキッと睨む。
「私は諦めない、私はセウスを信じる!」
「裏切られると知って、なお」
「信じることを辞めたら、私は私ではなくなる。私は私であるために、彼を信じる!」
セラーナの言葉に反応するように、不可蝕の杖が光り、魔神の肌を焼く。きゃああ、と叫び、魔神は離れた。肌の修復は始まり、すぐに傷は治るが、魔神の怒りは強くなっていく。
「小賢しい小娘・・・・・・!大人しく、死ねェ」
「展開、照射!!」
セラーナの言葉が空気を揺らす。空中に魔法陣が無数に浮かび、四方八方から光が打ち出される。それは、無数の茨を焼き尽くす。
「無駄よ、私の茨は無尽蔵にあるわ!」
「ならば、それをすべて焼き払うだけよ!」
「無理よ!」
「押し切る!」
セラーナが叫ぶ。
「風よ、雷鳴よ、火よ、水よ、土よ、光よ!」
次々と展開され、茨を蹂躙する魔力の嵐。それに、魔神セリーヌは目を見張る。あり得ない。自分が押されている、などとは。此方の再生速度をはるかに超えて、セリーヌの魔術は展開されている。
何だこの力は、なんだこれは?!魔神はセラーナの目を見る。決意に満ちた目。ゆるぎないその瞳は、セリーヌが持っていない光であった。
必死に抵抗するセリーヌだが、押されていた。
「何故!?神の魂を持とうとも、身体はヒトのはず・・・・・・私が、なぜ負けているの!!」
強い眼差しでセラーナを見る。
その時、セリーヌはわかってしまった。その彼女の姿を見て、かつての自分を思い浮かべた。果たして自分は、あんなに強かっただろうか、と。
セウスが去っていったのではない。私が彼から去っていっただけなのだ、と。
セウスの言葉も聞かず、ただ自分の思い込みに奔った。そう、ただ、心が弱かった。セウスを愛していると言いながら、彼を信じることができなかった。
自分さえ信じていれば、きっと、死ぬまで彼は彼女と共にいてくれたのに。
魔神は涙を流した。やっと、気づいたのだ。離れたのは、自分。そう、たったそれだけのこと。強くなかった、自分の心。
馬鹿ね、と女は呟き、抵抗を辞めた。吹き荒れる魔力の嵐にまるで飛び込むように両腕を広げた魔神を、セラーナは見た。魔神は笑ってセラーナを見る。「倒しなさい」と口が動いた。セラーナは祖rネイ師違うように、魔力を限界まで高めた。
光が周囲を覆い、茨と魔神を包み込んだ。凄まじい魔力の放出を受け止めたセリーヌは、その光を暖かいと思った。
倒れた魔神の下半身は吹き飛んでおり、上半身も痛々しい体となっていた。右腕は消滅しており、美しいオレンジの髪も無残なものである。だが、どこか彼女は晴れ晴れとした顔をしていた。
「・・・・・・死を間近にしているのに、心は妙に落ち着いているわね」
魔神は呟き、自身の側に片足をつくセラーナを見る。
「あの人を頼むわ」
「・・・・・・ええ」
哀れな自分の祖先を見て、セラーナは頷く。その弱弱しい左手を掴み、うん、ともう一度返事をした。
「さあ、行きなさい。そして見届けなさい。二人の決着を、ね」
そして目を閉じた魔神。セラーナは杖を掴むと、魔神から離れ、セウスとバルドバラスがいる門へと向かっていく。
その足元を耳にしながら、セリーヌはうっすらと目を開いた。
蘇るのは、幸せだったころの思い出。セウスがいて、バルドバラスがいて、友がいた。他愛もない日々と、激動の時代。けれども、確かに幸せだった。
「本当、馬鹿ね・・・・・・」
両の眼より滴を溢し、彼女は呟いた。セウスと、バルドバラスに対し、彼女は謝罪した。
セウスを信じられずに、彼からすべてを取り上げてしまった。バルドバラスには自分への想いを利用し、ついにセウスを裏切らせてしまった。幸せを崩壊させたのは、自分なのだ。
おそらく、バルドバラスも敗れるだろう。そう、もう自分たちはこの世界にいるべきではない。この世界を本来の所有者たちの手にゆだねる時が来た。偽りの神の時代が終わり、真の世界が作り出されるのだ。
その世界で、セラーナとセウスが、自分たちが作れなかった幸福な未来を過ごすことを願って。
女魔神は静かに、その生命を終わらせた。
消えゆく意識の中で、セラーナが最後に見たものは彼女を出迎える、三人の友の姿であった。
2000年以上も前に死んだ彼らが、今もこうして自分を迎えてくれる。そのことに、彼女は感激して涙を溢した。
『ええ、行きましょう』
そして、彼女は仲間ののばしてくれた手を取り、一足先に光の向こうへと姿を消していったのだ。