終局へ向かう世界
黒髪の青年は、グラウキエ大宗主国の街から少し離れた小高い丘にいた。そこには一つの墓碑があった。
この地でアンセルムスを守り死んだ、シャンクシーションクの墓である。生まれ故郷と言える場所はすでにない。流浪の民であるシャンクシーションクに還るべき場所はない。だが、彼が死んだこの地に、確かに彼がいたのだという証を残したい。それがアンセルムスにできる報いである。
「アンセルムス」
声をかけてきたのは、クロヴェイルである。アンセルムスの最大の敵として何度も立ちはだかった英雄。アンセルムスの劣等感を刺激してきた英雄の姿を見ても、今では憎しみも激情も思い浮かばない。失われた記憶のおかげで、今まで『神』に仕組まれていた輪廻をアンセルムスは抜け出せたのだ。
多くの犠牲とともに。
「俺は逃げないよ、クロヴェイル」
「だとしても、安心はできない。私はまだ、お前を信じてはいない」
そう言う金髪の青年に「それでいいさ」とアンセルムスは言う。アンセルムスはふと英雄の後ろにいる少女を見る。シャンクシーションク同様、白髪で顔に刻印のある少女。シャンクシーションクことスヴェイルの妹であるレイーネである。
レイーネに対して、アンセルムスは感じないものがないわけではないが、表情を崩すことなく、横を通り過ぎた。
少女の嗚咽の声が響く。硬く拳を握りしめたアンセルムスを、クロヴェイルはちらと見た。そして、無言でそのあとに続いていった。
大宗主国を襲った、未曽有の事態より一週間が経過した。世界情勢は変化の真っただ中にあった。
北のイヴリスでの魔族反乱は終結を迎えた。未だ両陣営の緊張はあるが、戦闘はひとまず終了している。
西のファムファート、南のラカークンの各国家はバラル帝国帝都オーフェンにて互いに同盟を結び、二度と大陸間での戦争がないように、と歩み寄りを始めた。各大陸での軋轢も、徐々にではあるが解決の道を模索し始めていた。
とはいえ、これだけで世界が変わるわけではない。世界を支配する、巨悪を打ち倒さない限りは。
当初は世界の混乱の元凶とみられていたアンセルムスが実はただの駒でしかなかった、という衝撃の事実がもたらされたのだ。敵はこの世界で「父なる神」と呼ばれる、異世界よりの侵入者である、ということ。そして、アンセルムスは存在を消された神々の一人であり、その転生者であること。彼を含む神々の力こそが、『神』を打ち倒せる。こういった事実によって、クロヴェイルらもアンセルムスを単純に処罰することができないのである。
事情を知る大宗主は主要な国々に呼びかけ、会合を持つことを提案した。ハンノ=イヴリス、バラル、バーティマ、グラウキエ、アクスウォード、セアノ、シレン、魔族国などといった世界でも力のある国家が会合に参加することとなった。会合の場は、ハンノ=イヴリス連邦の都イスカンブール。
そこに向かう前に、アンセルムスは友に報告しようと思ったのだ。
『無駄にはしないぞ、この命。スヴェイル、アセリア、ナターシャ。そして、俺のせいで死んでいった数多の魂のためにも、俺はもう迷わない。もう、二度と』
再びその決意を固めるために。もう、惑わないために。
アンセルムスを恨む者は多く、大宗主国からハンノ=イヴリスまではクロヴェイルやラトナ騎士団、ハンノ=イヴリス軍の厳重な警備のもと、護送がされた。
大宗主やクィルらとイスカンブールでの再会を約束し、クロヴェイルは陸路を進む。
グラウキエでの勝利の後、世界を変異が襲った。海は荒れ、風は意思を持ったかのように人を拒む。魔物は活性化し、ヒトを襲う。アンセルムスを失った『神』が直接動き出したのだと、直感した。
「厭な風ですね」
ミランダが呟くと、クロヴェイルも「ああ」と返す。不快な魔力の臭いが、鼻孔をつく。思わず眉をしかめる。死臭が微かにして、それによって吐き気を催す兵士も多い。
「彼は平気そうですね」
そう言い、ミランダは馬の上から護送車の中のアンセルムスを見る。アンセルムスはただじっとしている。その顔は、何も感じていない様子であった。
「どうだろうな」
「え?」
クロヴェイルがポツリと言うと、ミランダは聞き返した。何でもない、と首を振ったクロヴェイルに疑問を感じながらもミランダは馬を進めた。
ミランダの言葉は間違いである。何も感じないわけがないのだ。この風に含まれる魔力は、そのものの罪の意識を強くする作用を含んでいるのだ。死臭、とはつまり、それまで彼らが殺した人々のものであり、人を殺したことが多いものほど、それは強くなる。単純にそう言った魔力を受け付けないクロヴェイルや、ミランダとは違い、魔力の才能はないアンセルムスは、彼らが考える以上の苦痛を味わっている。だが、叫ぶわけにはいかなかった。これは彼の罪であり、彼が受け入れねばならない痛みだからだ。
『神』が仕組んだとはいえ、アンセルムスが直接または間接的に殺したものは数え切れない。心を蝕む怨嗟の声は、数多い。男も女も老人も子供も、皆が叫ぶ。アンセルムスに怨みの声を。
その中には、アセリアやシャンクシーションク、それにナターシャすらいた。
幻覚だ、と分かっていても、無視できるはずもない。それでも、アンセルムスはそんな様子をおくびにも出さなかった。
首に下げた指輪を弄りながら、イヴリスにいるキアラを思う。
キアラ・フォクサルシアは魔族反乱軍とともに潜伏中であったが、そこにハンノ=イヴリスのユグルタ・ヌマンティウスが訪れていた。
アンセルムスが降伏したことを伝えると、キアラは静かに戦闘中止を受け入れた。ドラッヘなどと言った将軍たちを押さえ、彼女は戦闘の中止を言うとアンセルムスのことを尋ねた。
「アンセルムス様は、どうなされている」
「イスカンブールに移送されている。そこで、今後の対策が話し合われる。アンセルムスより、君たちの参加も要請されている」
「人間どもの街に我らが行くと思うのか?」
ドラッヘが言うと、ユグルタは自分より頭二つ大きなオークの将軍を見る。
「我らは魔族国の方々やあなた方とも共存の道を探していきたいと思っている。そのためにもまずは、重要な問題がある。それを話し合いたい」
「信じられん」
「ドラッヘ将軍」
キアラが声をかけると、将軍は「は」と答える。
「アンセルムス様の判断です。なにか、あるのでしょう。あなたがアンセルムス様のことも、私のことも信用していないことも知っていますが、どうか押さえてください」
その言葉にドラッヘは黙る。キアラはユグルタを見ると頷いた。
「わかりました。反乱を起こした者たちは、どうなりますか?」
「・・・・・・これ以上の戦闘をしない限りは、こちらも手を出しません」
「信じましょう、その言葉を」
そう言い、キアラはユグルタに従い、イスカンブールへと向かうことになった。ドラッヘも代表の一人として向かうことになった。
イスカンブールにて会合のために集結した者たちの中には、再会を喜ぶ者たちもいた。
「ネフェリエさん」
「タムズか。見違えたな。いや、外見は変わりないが、纏う雰囲気が」
「ネフェリエさんも、旅をしていた時よりも女性的で威厳に満ちていますね」
事情により、シレンの王になったネフェリエは美しい薄緑色のドレスを着ていた。華美過ぎず、エルフの美しさをより一層引き立たせるそれを、ネフェリエ自身はあまり好んではいない。
「ふん。それで、後ろの女性が」
「ええ、クローリエです」
そう言い、タムズは紅い髪の少女をネフェリエの前に出す。クローリエはネフェリエに挨拶した。ネフェリエは二人の様子を見て、微笑ましく思った。
「もう、離すんじゃないぞ」
「ええ。ネフェリエさんも」
ネフェリエの生き別れた娘ネルグリューン。同じような思いを味わった二人は、強く握手した。
ゼル・マックールも会合への参加を要請され、この場に来ていた。
「バーティマはこんなことをしている暇はないのだがな」
「重要な話、ということだ。話を聞かない限り、そうも言えまい」
ゼルと話しているのはアクスウォード第一王子カッシートである。オーフェン同盟などで何度か交友を持った二人は、こうしてイスカンブールでもたびたび顔を合わせていた。
今も各国から来た旅人をもてなすパーティーで話をしていた。
「アンセルムスは降伏した、と言う話ではないか。なんだ、ここで国際裁判にでもかけるのか」
ゼルの言葉に、さあな、とカッシートは返す。
「その前に一度、アンサズと話をしたい。我々きょうだいは、あまりにもあいつに無関心だった。悔いても悔いきれることではない」
カッシートの言葉に無言で返したゼルは、会場に連れてきた恋人のエレナを見る。彼女はどうやら同年代の友人を得たらしい。エノラやリナリー、セラーナと話していた。
そんな彼女を見ているのは、ゼルだけではない。
「・・・・・・娘だと言わないのか、姉上」
彼女を見ている魔女アテナにセウスが問う。
「私のことは、憎くはないの、セウス」
「もう、昔のことです」
そう返したセウスに、そう、と言う魔女。
「そうね、大切なのは今。過去に囚われることは愚かなことだわ」
魔女の言葉に、セウスは沈黙を返す。
「いつか、私が私を許せるようになったら、その時は言うわ」
そうか、とセウスは言う。魔女はセウスに背を向けて去っていった。セウスはそれを見送ると、彼も風に当たりに外に出ていった。
そこらかしこで話し声のしていた会場がいきなり静かになった。なぜならば、その会場に本来来るはずのないものがいるのだから。
今はもう存在しない国家の正式な礼装をした麗人。彼女の名はレヴィア=ツィリア。史上最強の剣聖にして、魔神の一角。その隣には、獅子顔の魔神が立っている。こちらは正装も何もなく、不敵な笑みを浮かべている。
あたりの静けさに、魔神ハウシュマリアはクックと笑う。
「ふん、ハトが豆鉄砲を喰らったような顔だ」
「それも当然でしょうね」
レヴィアがそう返し、前に出てきた大宗主とかつて魔神キュレイアと呼ばれた女性を見る。
「ようこそ、御二方」
ひるむことなく言う大宗主に、ほう、とハウシュマリアが息を吐く。レヴィアがキッと睨むと、笑ってハウシュマリアは口を閉じた。
「大宗主殿、それと、今はルルベリアー、だったか」
レヴィアがキュレイアに問うと、「キュレイアでいいわ」と彼女は返した。なら、とレヴィアは親しみを込めて「キュレイア」と呼んだ。
レヴィアの知るキュレイアは、無邪気で残虐な子どものようであったが、今ではそんな印象はない。満たされた顔。もはや、魔神としての彼女は死に、本来の自分を取り戻したようだ。
それを羨ましく思う。
「それで、まだ彼は来ていないのか」
「そのようですね。クロヴェイル殿も万全を期したい、とのことですから」
そうか、と返し、レヴィアは久しぶりの人間の社交の場に歩き出した。ハウシュマリアは大宗主と二言三言話すと、不敵な笑みを浮かべて会場を後にした。
不気味な沈黙に包まれた会場だが、レヴィアが何もしないこととハウシュマリアがいなくなったことで徐々に活気が戻ってくる。
レヴィアは歩き、目的の人物を見つけた。辿ったであろう世界の弟子である、ミアベルを。
「ミアベル」
「レヴィア=ツィリア」
虹色の髪の少女は、魔神を見て呟く。魔神は笑い、少し話をしようか、と誘う。ミアベルは頷くと、二人で会場の外へと向かっていった。
「私は君を知らないが、君は私をよく知っているのだろう?」
レヴィアの言葉にミアベルは静かに頷いた。夜風に当たりながら、噴水の前を歩く二人。
「『私』は、君にとってどういう存在であった?ちゃんとした師であったか?」
レヴィアの問いに、ミアベルはその様子を語った。ミアベルの語る具体的な話に耳を傾け、レヴィアは目を閉じ頷く。
「私にとって、第二の母でした」
そう言ったミアベルに、そうか、とレヴィアは呟いた。
「私に剣を教えてくれたのはあなたでした。勇気を教えてくれたのも」
だから、共に戦えたことは光栄でした。そう語るミアベルに、なぜかレヴィアはありがとう、と伝えたくなった。
「この世界で生まれるであろう私にも、そのことを教えていただけますか?」
「勿論だ」
二人の剣聖を、月光が照らした。