1章 卒業②
「俺たち怒られるのかな」
「頭が固すぎだよな。先生たちもさ」
「少しくらいは大目にみろって」
新入生歓迎会後の職員室前。
「しかしよ、演目くらいは自由にやらせてほしいよな」
「ほんと、そのとおりだぜ」
「そもそも怒られるような内容か?」
「あれはやっぱり怒られるんじゃないかな」
僕たち座員一同は先生に呼び出されていた。
「だってよ、行儀よくまじめなんてできないんだぜ?」
「夜の校舎窓ガラス壊してまわるもんな」
「信じられぬ大人との争いだし」
「入学早々、この歌はないって」
「ははっ、言えてる。この歌じゃあな」
「そりゃあ新入生だって、いきなりじゃ戸惑うよなあ」
軽い洒落のつもりだった。僕たちザザが、新入生歓迎会の場で披露した演目は、尾崎豊の「卒業」だった。
僕たちはおもしろおかしく、ウケ狙いでその演目をやったわけだけど、新一年生はともかく、演目を見ていた先生たちにはどうも不快に映ったようで、あろうことか、ある先生が、僕たちのことを生活指導担当である外尾先生に報告していたのだった。
「おっ、呼んでるな。おまえら、準備はいいか?」
「ああ。いっちょ気合入れて怒られるかあ」
「俺らに非があるとは思えんが、とりあえず先に謝っちまおうぜ」
「そうだな。そのあとのことはなんとかなるだろ」
「よっしゃ、みんないくぜ」
――三十分後。
人目のあった廊下から教室へ戻ると、僕たちは固まって早速愚痴をこぼした。
「いやあ、痛かったよな」
「まさかビンタを食らうとは思ってもみなかったぜ」
「外尾にチクったのは島袋だったんだね」
「でもさ、ビンタされるようなことか?」
「あいつのことだ。きっと外尾の前でアピールしたかったんだろうよ」
「なるほど、そういうことか」
ことの始まりは、新入生歓迎会が終了した直後だった。
部活アピールを兼ねた演目を無事に終えた僕たち座員は、ステージ脇の小部屋で待機しながら、新一年生が体育館から退場するのを待っていた。すると、生徒会のある生徒が僕たちのいる部屋へやって来て、不躾に、外尾先生が呼んでいるからこのあと職員室に行くように島袋先生から言われた、と告げてきた。しかしそれは、島袋先生が僕たちを職員室に呼ぶ口実に過ぎなかったのだった。
生活指導の外尾先生は学年主任も兼務していて、二年の各クラスの担任はもとより、学
校中の先生に対して大きな影響力を持っている。
島袋先生は、その外尾先生の前で生徒を指導する姿勢をアピールしたかったのだろう。そのため大したこともない理由で僕たちを呼びつけたというわけだ。実際に島袋先生が僕たちを怒る際、外尾先生は後方から、なにかあったのかというふうにぼんやり眺めているだけだった。つまり、僕たちザザは、世渡り上手な島袋先生にうまく利用されただけなのである。
「しかし島袋の奴、むかつくよな」
「体罰でくるとはさすがは体育教師だぜ」
「脳みそも筋肉だもん。仕方がないだろ」
「外尾の腰巾着だっていう噂は本当だったんだ」
「それはどの先生にも当てはまるけどな」
「それはまあ、そうかもしれないけどさ」
「だけどあいつが一番腹黒いよな」
「ああ。それは間違いないぜ」
島袋先生からビンタを受けたのは、有賀くん、室山くん、竜平くん、僕、の四人だけではなく、三年生の広瀬座長を含め、座員の八人全員だった。
演目で「卒業」をやっただけなのにこの仕打ち。
外尾先生に良いところを見せようとした島袋先生のワンマンプレイに、僕たち座員は腹の底から怒りを覚えた。しかし、こういった先生によるビンタなどの体罰は、少なくとも僕たちの学校ではごくふつうのことだった。だから体罰を受けるたびに頭には来るのだけれど、慣れのせいか、体罰そのものに関して僕たち生徒が強く疑問を抱くということはほとんどなかった。みんなの愚痴だけが延々と続く。
座員でないギーくんとユキくんは、僕たちの話を神妙な面持ちで聞いていた。やはり仲間が教師から体罰を受けることは気分が悪いのだろう、二人とも表情を歪めて感情を露わにしている。
「そもそも伝統伝統うるさいんだよな」
「伝統を守るだけじゃなく、新しいことをやるのも大事だよなあ」
「そのとおり。古いからなんでも守るっていうのは大間違いだ」
「伝統校でも改革は必要だよね」
「ああ。俺たちゃ別にふつうのことをやっているだけだ。それなのにザザだけが特別に目をつけられるのはお門違いってなもんだぜ」
学校の体質を非難するみんなの口調は強いものだった。
僕は、何度も小さくうなずきながらみんなの話を聞いていた。確かに、うちの学校は伝統という言葉に囚われすぎていて、目には見えにくいいろいろなことに翻弄されている節があるように思う。
「伝統で思い出したけどさ、そういえば、竜平も大事な伝統を守っているよな」
みんなが憤慨している中、不意に室山くんが意味不明なことを口走った。
僕は眉を寄せ、咄嗟に彼の言いたいことを推し量ってみる。けれどいまいちよくわからなかった。しかし僕の隣にいた有賀くんはすぐにピンときたようで、彼は室山くんに続いて「そうだな」と声をあげると意味深な視線を竜平くんのほうへ投げた。「どうせなら、一生大事に守ってほしいところだぜ」
有賀くんのこの発言で僕もやっと理解することができた。思わずにやりとし、彼の視線の先を追う。
ほかのメンバーも室山くんの言う伝統が何のことかわかったらしく、いきなり、失笑を漏らしはじめた。そして次々と便乗して竜平くんをからかいだした。
「伝統を守るのはいいけどさあ、しっかり手入れだけはしろよな、竜平」
「そそ。いざってときに最悪だぜ」
「ちゃんと鍛えておくことも忘れずにな」
「お、俺の兄貴なんて濡れタオルで鍛えたって」
「まあ、たとえ手入れして鍛えたとしても、一生未使用のままじゃ意味ねえけどな!」
一同。「わははははは!」
みんながいつもの調子で竜平くんをやり玉に挙げる。彼以外の全員が腹を抱えて笑い声をあげた。
するとこれまたいつものパターンで、顔を赤くしながらもうれしさでつい、口元を綻ばせている竜平くんが、「おい、おまえら!」と語気を強め、「それは伝統って言わないから!」と叫んだ。
つっこむところが違うのでは?
ふと疑問に思ったけれど、そんな矢先、室山くんが「ごめん」と謝ったかと思うと、すぐに「訂正するわ。一生童貞を守ってくれよな!」と露骨に叫んだものだから、みんなのあいだから再び、大きな笑い声が起こり、僕の抱いた疑問はその笑い声に呆気なく飲み込まれてしまう。
「ほんと、おまえら、むかつくなあ」
ひとり取り残された感のある竜平くんがみんなの顔を見回しながら嘆く。いじってもらってうれしい半面、当然ながら怒りもあるのだろう。かなり羞恥を伴うネタを餌に、みんなからよってたかってバカにされたのだから。
しかしながら、竜平くんが嗟嘆しているときにはもう、誰も彼を相手にする素振りは見せなくなっていた。なぜならみんなの関心は既に別のほうへ移っていたからだ。
みんなはひとしきり大笑いをしたあと、急にまじめな顔つきになってユキくんを取り囲んでいたのだった。
「なあ、ユキ。濡れタオルでどうやって?」
「そうだそうだ。どうやるんだ?」
「俺にも方法を教えてくれよ」
「と、とりあえず叩くらしいぜ」
「叩くって、あれをか?」
「めちゃくちゃ痛そうだね」
「それって帽子を脱いだ状態で?」
「お、おう。血が滲んだって」
「うはあ、マジかよ。ありえんわ」
「だよなあ。ちょっと俺には無理っぽいぜ」
所詮僕らは高校生。伝統を守っているのはなにも竜平くんだけではなかった。この手の話になると、必ずみんなは真剣になるのだ。
その真剣さを少しくらいほかのものに向ければいいのにと、吐息交じりに思ったりもするけど、言わずもがな僕も同じ穴のむじなだったりするからそんなこと言えるわけもない。僕はずっと貞操を守っています、なんて自ら告白するようなことは決してないけど、熱い議論を交わすみんなの輪の中に僕もどっぷりと漬かっていた。
「ユキの兄貴って勇者だな」
「ああ。町一番の勇者だ」
「俺、鍛え方を教えてもらおうかな」
「じゃあさ、今度みんなでユキんちに遊びにいこうぜ」
「そうするか」
「そうだな。前途ある将来のために」
濡れタオルの勇者とは、ユキくんとは三つ離れている兄の謙吾くんのことで、ユキくんと同じく、僕とは幼馴染だった。
そして僕は、小さい頃からいろいろな面でこの謙吾くんに影響を受けたのだけれど、新たにまたひとつ、大きな影響を受けそうな流れになっている。僕の中の謙吾くんに対する尊敬の念は、濡れタオルの効果への期待も相まってさらに膨らんでいった。
表向きはユキくんちへ遊びに行くという、極めて重大な議題を取り決めると、不意に室山くんが「そうだ」と言って話題を変えた。「なんか仕返しでもしようぜ」
全員の視線が室山くんに集まる。その際のみんなの表情は、最初はどれも趣旨を掴み切れていないといった、ぼんやりとしたものだったけれど、「仕返し」という単語を読み解くことでじわじわ意味を理解したのだろう、次第にみんなは目つきを険しくし、表情を怪訝なものへと変えていった。
「仕返しって、まさか島袋にか?」
みんなが共通して抱いていた疑問をギーくんが口にした。
すると室山くんは「そう」と即答してからみんなの顔を順番に見回した。「どうよ、おまえら」
室山くんの提案にみんなが一斉に戸惑いの色を浮かべる。
「うーん、仕返しねえ」
「どうよって言われてもなあ」
「すぐには答えられないよね」
「ちょっと難しいよな」
途端にみんなの歯切れは悪くなった。なぜなら先生に目をつけられるとのちのち困るからだ。しかも僕たちはつい先ほど怒られたばかりだから、ただでさえ彼らに与えた心証は悪いというのに。
おまえがはっきり言えよというふうに互いが目配せで牽制する中、「そんなことすると内申書に響くぜ」、冷静な口調で言ったのは有賀くんだった。
彼がそう言うと室山くん以外の者は小さく顎を引いた。考えていることはやはりみな同じだった。
とりわけレベルが高いというわけではないけれど、僕たちの学校は田舎にあるにもかかわらず、一応進学高の部類に入った。同じ地区だと上から二番目の偏差値順位となる。
そして、先生たちは、ときとしてこの「内申書」という言葉をちらつかせ、僕たち生徒にプレッシャーを与えてくることがあった。まさに言葉による抑圧だ。ひとたびその単語を出されれば、どの生徒も否が応にもおとなしくせざるを得ない。誰だって無駄に自分の評価を落としたくはないのだ。
「内申書ねえ」吐息をついてから室山くんが言う。「おまえら、そんなに気にかけてんのか?」
「いや、俺自身は進学するかどうか決め兼ねているからそこまではないんだけど」ギーくんが眉を下げて応じる。「かあちゃんのことを考えるとやっぱりな」
「そっか。じゃあさ、内申書に響かない程度だったら?」
「えっ、どういうことだ?」
室山くんが発した「内申書に響かない」という言葉を境に、みんなの表情に変化が表れる。好奇と戸惑いの入り混じった瞳で、みんなは室山くんをじっと見つめた。
「うーん。ちょっと時間をくれよ。これから考えてみる」
眉間を寄せて目を閉じると室山くんは腕組みをした。それから岩のように微動だにせずしばらく押し黙った。
僕たちは視線に手持ち無沙汰を感じ、なにかの答えを探し求めるように互いに顔を見合わせた。しばしのあいだ、沈黙が僕らを包んだ。
事態は予期せぬ方向へと進んだ。
確かにみんなは先生たちへ大きな不満を抱いている。けれど常に内申書が頭につきまとっているのも事実だった。そんな状況で、室山くんはいったいなにをやらかそうと考えているのか。しかしほかの者がそのことに思考を巡らせたところで何もわからない。ここは一旦、言い出しっぺである彼に下駄を預けることとなった。
しかし翌日、ちょっとした問題がきっかけで、僕たちはこの室山くんの提案にどんどん気持ちが傾いていくことになる。
「ところでさあ」不意に竜平くんが静寂を裂いて声をあげた。「ユキんちに俺も一緒に行っていい?」
「だめえ」
みんなの反応は早かった。全員が口を揃えた。
竜平くんが悲しそうに眉を下げて「どうしてさ」と嘆く。
「だって竜平の伝統はもう、国の重要文化財に指定されているんだぜ」珍しく軽快な口調で言いながら有賀くんは周りを見回した。「そうだよなあ?」
彼から振られると、みんなは薄笑いを浮かべてそのあとに続いた。
「そういえばそうだったね」
「そうそう。国宝もんだぜ」
「迂闊に手も触れられない状態だ」
「それって、ひとり上手もできないってことだよな」
「ははっ、それはそれでかわいそうだ」
まるで申し合わせていたかのように僕たちは歩調を合わせた。竜平くんをいじる際のコンビネーションは既に僕らのあいだでは確立されている。
「おまえらっ、いい加減にしろ!」
いつものように竜平くんが声を荒げる。しかし今回は本気で怒っているようで、こめかみあたりがぴくぴく引き攣っている。しつこい僕らにさすがに業を煮やしたのか、ふだんはこぼれる微笑がまったく口元に表れていない。逆に唇は彼の本気度を示すように大きくへの字にねじ曲がっている。
「そうかっかするなよ」取り繕うのかと思いきや、有賀くんは冷静な口調で言い返した。もしかしたら彼は竜平くんが本気で怒っているとは思っていないのかもしれない。そして、まあまあといった具合に両手を前に出すと、有賀くんはなぜか自信あり気な顔つきで「竜平もさ」と続けて言った。「すぐに怒らずに伝統を守りながら、でーんと構えてればいいんだよ」
ええっ、ここで駄洒落かよ、と僕は苦笑する。
ほかの連中も呆然としている。
怒鳴った竜平くん自身も、眉を大きく下げて呆れ返っている。
そんな中、ただひとりギーくんだけが、大きく手を叩きながら爆笑していた。
「はははっ、有賀、うまい! 九五点!」
*
翌日。
いつもより少し早めに登校した僕は、既に教室にいたギーくんとユキくんの三人で他愛もない会話をしていた。
するとそこへ、竜平くんが珍しく独りで入室してきたのだった。
「竜平、おはよ。あれっ、室山は?」
「それが校門のところで島袋に捉まってさ」
「えっ、なんで?」
「髪型に文句をつけられて」
「髪型に? あいつの髪、なんかおかしかったっけ?」
「いやほら、室山って天然パーマじゃん。それでだよ」
伝統校である僕たちの学校はとにかく校則が厳しい。その中でもとりわけ髪型にはうるさく、原則、パーマは全面禁止で、襟足や前髪に対しても口うるさかった。ちょっと長いだけですぐに注意されるのだ。独身の三十路女教師が女子高生のスカート丈に注文をつけるのと同じように。
そして取り締まりを目的に朝から先生が校門に立ち、怪しい髪型の生徒の頭を虱潰しにチェックしていくわけだけど、天然パーマの生徒に対しても彼らはなかなか疑念を拭おうとはしなかった。そもそもほとんどの先生は最初から生徒の主張など聞く耳を持っていないのである。
また、髪型と同じくらい遅刻に対しても厳しく、時間になると問答言わずに校門を閉めることも多々あり、そのせいで、門に挟まれて怪我をした生徒がこれまでに何人かいた。けれど、もちろんそのことで先生たちが咎められるということはない。あくまでも生徒に非があるというのが彼らのいつもの言い分だった。遅刻ぎりぎりで登校してくる生徒のほうが悪いのだと。
「ふうん。そっか。運悪く室山が犠牲になっちまったのか」ギーくんが神妙な面持ちでうなずく。けれど彼の視線はずっと上を向いたままだった。「それより竜平、なんだよ、おまえのその髪」
ギーくんが訊ねなくても、学帽を脱ぎながら教室に入ってきた竜平くんを見た時点で僕もすぐに気づいていた。なぜなら彼の髪の艶が異常に黒光りしていて怪しかったからだ。しかも帽子を被っていたせいでぺったんこになった髪は頭皮にへばりついて真ん中分けになっていたので、彼の髪型はまるであの気持ち悪い昆虫のようにしか思えなかった。竜平くんが微妙に頭を揺らすと、そのたびにカサカサという音が聞こえてきそうな気がするほどに。
すると、ギーくんもやはり僕と同じような感想までは抱いていたようで、すぐに続けて「まるでゴキブリみたいだぜ」と言い放った。「おまえ、整髪料つけすぎ」
「なっ、なにっ!」竜平くんが目を剥き、ギーくんに詰め寄る。「ちょっと、ギー! ひどいぞ、おまえ!」
「うわわ。こっちに来るなよ。ばい菌がうつる。このばいきんまーん!」
好きな女子をからかう小学生のように、大げさに騒ぎ立ててギーくんがその場から逃げ出す。
僕とユキくんはにたにたしながら様子を眺めていた。声を荒げる竜平くんの姿が脳裏に浮かぶ。このあとの展開はほぼ、読めていた。
しかしながら、いつもであれば顔を真っ赤にして竜平くんがうれしそうにギーくんを追いかけていくはずなのに、どういうわけか今回は違った。竜平くんは、「ばいきんまんだと!?」と繰り返すと、なんと「それならギーはドキンちゃんじゃないか!」と反撃に出たのだった。彼が声を発した直後、ギーくんは動きをぴたりと止め、肩を怒らせながらゆっくり振り返った。
以前から僕も知っていたことだけど、坊主頭のギーくんの頭頂部には小さなコブがあった。竜平くんは、そのコブを誇張して言い返したのだっだ。彼のドキンちゃん発言に思わず納得してしまった僕はつい、鼻を鳴らし、慌てて手で口元を覆った。そうしていないとおもいきり噴き出してしまいそうだったから。
ギーくんが目を吊り上げ、つかつかと竜平くんのもとへ近づいていく。
「あっ、このやろう。人が気にしていることを。早くばいきん星へ帰りやがれ!」
竜平くんは微動だにせずに、ギーくんが近寄ってくるのを待ち構えていた。
「なんだあ? その言い草は。手下の分際でこの俺に逆らうとは生意気だぞ!」
二人が低次元の言い争いをする。どっちもどっちだった。僕は呆れ顔で二人のやり合う姿を眺める。竜平くん、おまえ、何気にばいきんまんだと認めてないか? そんなことを脳裏の片隅で思いながら。
それにしても朝からこの騒動はうるさすぎた。
ふと周りを見ると、相変わらず男子ってバカよねえ、とでも言いたげな冷めた視線をこちらに向けている女子のグループが目に留まった。怪訝な表情で遠巻きにこちらの様子を窺っている男子生徒の姿もちらほら確認できる。彼らもきっとうるさいと思っているのだろう。
いつもならここらあたりで、「おまえら、そろそろやめろって」とギーくんが笑顔で仲裁に入るところだけど、今は彼自らが騒いでいる。
仕方がない。ここは僕が場を鎮めるとするか――。
やれやれといった具合に小さく首を振りながら、僕はおもむろに二人に近寄っていった。
「二人とも悪者同士なんだからさ、喧嘩せずに仲良くしなくちゃ」だからこれ以上は騒ぐなよ。双方に目で訴える。
言い争っていた二人がほぼ同時に振り返り、僕を睨んだ。
「なんだとっ! チッチなんてホラーマンのくせに!」
そして謝るどころか竜平くんが僕を罵倒すると、「ホラーマン! ははっ、竜平、ナイス!」、ギーくんは途端に笑顔になって明るい声を発した。「六十八点!」
なぜか二人は注意を促した僕に矛先を向けてきた。つい先ほどまで敵対していたはずなのに、今は従来の関係――ばいきんまんとドキンちゃん――のように結託している。
ホ、ホラーマンだと!?
最初は戸惑った。
まさか怒号を浴びるなんて思ってもいなかったからだ。
それから次第に身悶えした。
それは竜平くんが吐いた言葉があながち嘘ではなかったからだった。
僕は怒りに打ち震え、歯ぎしりする。
確かに僕はガリガリに痩せているし、頬骨も多少は浮いてはいるけれども、だけど言うにことかいて骸骨そのままのキャラであるホラーマンというのはあんまりではないだろうか。これではほぼ、キン骨マンと言われているようなものだ。どうしても『それ行け! アンパンマン』の登場キャラでたとえるというのなら、せめて比較的スリムなキャラである、しょくぱんまんあたりで呼んでもらいたい。
したり顔で僕を見つめている竜平くんの視線がふと、教室のドアのほうへ向いた。何かが目に入ったようだ。
僕は怒りを抑え込んでから首を捻り、斜め後方を見やる。するとちょうど教室へ入ってくる室山くんの姿を捉えた。
室山くんは、僕たちの視線に気づくと、笑みを浮かべながら「いやあ、まいったぜ。島袋のやつがさあ」と言って近寄ってきた。けれどそこから先の言葉を飲み込むと、彼は目を丸くして竜平くんの頭部を指差した。「ああっ! ゴキブリがいる!」
「むろーやま! おまえもか!」
竜平くんが声を裏返しにして叫ぶ。まるでブルータスのそれのように。
それから、竜平くんは、顔を赤鬼のように紅潮させて室山くんに詰め寄った。またしてもゴキブリ呼ばわりされたので再び怒りが湧いたのだろう。
すると、少し前のギーくん同様、なんと室山くんまでもが「うわわ。近寄るな。ばい菌がうつる」と言って逃げ出したものだから、僕は再現テープでも見せられているような感覚に囚われてしまう。「この、ばいきんまんめ!」
幸か不幸か、みな思考回路は同じだった。というより、誰が見ても今の竜平くんの髪型は、そう連想せざるを得ないほどそっくりだった。彼の髪は蛍光灯の光も受けて気色が悪いほどに黒く艶光りしている。
僕は噴き出してしまわないようになるべく視線は上げず、興奮している竜平くんをなんとか宥める。「竜平、落ち着けって」彼の髪を直視しようものなら間違いなく僕も「ゴキブリだ!」と叫んでいたと思う。「それより、室山の話を聞こうよ」
ようやく竜平くんが落ち着きを見せたところでみんなが輪になる。
「それで、室山、なんともなかったのか?」
ギーくんが改まって訊ねると、室山くんは指先で毛先をつまみながら言った。「天然だしな。どうしようもねえもん」
室山くんの髪質は天然パーマなのでかなりもじゃもじゃっとしている。それだけに彼は校門での髪型チェックの常習犯であった。しかし意図的にパーマをかけているわけではないのでいつもお咎めなしだった。そして今回もどうやら無事で済んだようだ。
「そりゃそうだよな」ギーくんが安堵混じりの声をあげる。
室山くんは苦笑しながら「でもよ」と言ってこめかみのところに手をあてた。「代わりにここをやられたぜ」
そう言われ、すぐさま僕たちは、室山くんが手で示した側頭部を注視した。地肌が見えるほど随分と短く刈り上げてある。
「え、やられたっておまえ、まさか……」
ギーくんが訊き返すや、すぐに室山くんは渋面を作り「ああ。そのまさかだよ」と言った。「耳に髪の毛がかかっているからって言われてさ」
「えっ、島袋に刈られたのか?」
「そうだぜ。問答無用にな」
一瞬、みんなは言葉を失った。誰もがショックを受けている。
ややあって、「マジかよ」とギーくんが口を開いた。「ひっでえなあ、おい」「これじゃ体罰と変わらないね」僕は眉根を寄せて彼に続く。竜平くんは唇を噛み締めて親友の頭をじっと見つめていた。
室山くんの話を聞いて僕たちは色めき立った。
しかしここから先、僕たちはさらに興奮することになる。
発端はここでもこの人だった。
「でもよ、俺はまだいいほうだぜ」不意にそう言ったかと思うと、室山くんは苦しげな表情をしながら言葉を吐いた。「有賀なんてもっとひどいぜ」
「もっと」と聞いて驚かないわけがない。それは室山くんのとき以上の悪い結果を示唆している。
「もしかして有賀も髪型のことで島袋に捉まったのか?」
ギーくんが驚いた顔つきのまま訊ねると、室山くんは「あいつも俺並みに天然パーマだしな」と言って、また毛先を指先でいじくった。「ちょうど俺が校門で髪型チェックを受けているとき、運悪くあいつがそこにやって来たんだよ」
室山くんに言われ、僕ははたと膝を打つ。有賀くんも室山くんに負けないくらいの天然パーマの持ち主なのだ。それから、はっと息を呑み込む。瞬時に嫌な予感がしたからだ。
「あのあとに有賀が来たのか」目線を落として呟くように言うと、竜平くんは真顔になって室山くんのほうを向いた。「でもさ、有賀って今学期からバイク通学じゃないか」
「いやだから、止まれと腕で制して、メットを脱げって言ったんだよ」室山くんが早口で説明する。
「えっ、島袋が?」
「そう」
「そうか」横で話を聞いていたギーくんが指をパチンと鳴らした。「そういえば、バイク通学の生徒もチェックしていたよな」
「ああ」室山くんがうなずく。「自転車とスピードが違うから、バイクの連中はみんなエンジン切ってメットを脱いで、バイクを押して通っているあいだに先生のチェックを受けるんだけど、たぶんまだ慣れていなかったんだろうな、有賀の奴、バイクに乗ったまま校門を通過しようとしたんだよ。だから余計に怪しいと疑われたのかもしれない」
「それで、もっとひでえことってなんだよ」
ギーくんが話の先を促すと、室山くんは小さく息を吐き、「もうすぐ来るからわかるって」と言って眉を下げた。「自分の目で確かめるがいいさ」
有賀くんの身にいったいなにがあったのだろう。そう案じたけれど、室山くんの口ぶりでだいたいのことは察しがついた。僕は眉を寄せ、視線を落とす。嫌な予感は外れてほしいと願う。仮に僕がそんな目に遭ったなら、きっとしばらくは立ち直れないほどひどく落ち込むに決まっている。
ふと室山くんが俯く。有賀くんに降りかかった災難を知っているだけに心苦しいのかもしれない。
ギーくんが不意に「あれっ」と呟いたのはそんなときだった。「室山、ちょっと帽子を被ってみてくれ。浅くね」
「帽子?」訝しげな表情で顔を上げると、室山くんは右手に持ったままだった学帽を頭の位置に持っていった。「浅く? こうか?」
ギーくんの真意がわからなかった僕は、眉を顰めたまま室山くんの様子を窺う。
室山くんは、言われるがまま菱形の学帽を頭の上にちょこんと乗せると押し黙ってギーくんの反応を待っていた。
僕は改めて彼の頭全体を眺める。刈り上げられたサイドの部分はすっきりしているのに、おでこのほうはもじゃもじゃの天然パーマが帽子からはみ出ていたので、妙にアンバランスな感じがした。なんとなく何かに似ているような気がするけど、それが何であるのか具体的にすぐには思いつかなかった。
ギーくんは帽子を被った室山くんをじっと見つめている。彼は頬に手をあててしばらく思案顔でいたけれど、不意に「ははっ」と小さく笑うと愉快げに声を張った。「まるでジャムおじさんみたいだなあ、室山」
彼がそう言った瞬間、ちらりと室山くんを見やってから、僕と竜平くんは同時に「ぷぷぷ」と噴き出してしまう。室山くんの頬はとても肉づきがよい。ずうずうしいところだけではなく、実際に彼の面の皮は厚いのだ。言われてみれば確かに似てないこともなかった。髪の色を除いては。
丸みを帯びた室山くんの頬がみるみる赤く染まっていくのが見て取れる。恥ずかしいのか怒っているのかは定かではないけど、いずれにせよそれは、見る者によりジャムおじさんと思わせる結果にしかならなかった。だから僕たちの笑い声は次第に大きくなっていった。
「う、うるせえ!」と叫び、室山くんが勢いよく帽子を脱ぐ。笑われたことに彼は憤怒している。そして手に持った帽子のつばをギーくんに向けると、彼は気色ばんで「俺がジャムおじさんなら」と強い口調で言い返した。「ギーなんてドキンちゃんじゃねえか!」
その直後、僕はぱっと両手で口元を覆って首を竦め、横を見る。同じような仕草で笑い出してしまうのを堪えている竜平くんと目が合った。なぜこうも、みんなの思考回路は似ているのだろう。僕らのあいだには共通の遺伝子が存在しているとでもいうのだろうか。
さてさて、室山くんにまでドキンちゃんと言われたギーくんは、もちろんこのままおとなしく黙っているはずもなく、すぐに「おまえに言われたくはないんだよ!」と声を荒げると、目の前に突き付けられた室山くんの帽子を邪険に手で払った。そしてなぜか竜平くんまで巻き込んで、彼らはこのあと醜い罵り合いを繰り広げるのだった。
「おまえはばいきんまんだろうが。このドキンやろうをちゃんと教育しとけって」
「うるさい! おまえこそおとなしくおいしいパンでも作っていればいいんだよ」
「だいたいさあ、おまえは部下のドキンちゃんにいつも舐められすぎだろうがよ」
「なんだとっ!? そんなこと言うと、ドキンちゃんを変装させて襲わせるぞ!」
「さっきからドキンドキンうるせえなあ。今度また俺のことをドキンちゃんって呼んでみろ。そのときは二人ともかびるんるんを使ってカビカビにさせてやるからな」
どこまで本気で腹を立てているのかはわからないけど、朝から騒々しく声を張り上げるバカ三人。周りから刺すような視線が幾つも向けられているのを彼らはなんとも思わないのだろうか。とりわけ女子たちは先ほどから露骨に嫌悪を表情に出しているというのに。
男子ってほんと、バカな生き物よね。
彼女たちの顔にははっきりとそう書いてあった。
だから朝から騒がしいんだって。
僕は小さく首を振りながら溜息をつく。大人げないにも程があるだろう。
「おまえら、みんな、幼稚園児か」面倒ではあったけど、ちょっぴり周りの目が気になった僕はそこで再び仲裁に入った。「いい加減、止めろって」
三人がぱたりと争いを止め、険しい表情のまま僕を睨んだ。
「うるせえ! このホラーマンが!」
そしてこの台詞だ。
声を揃えて吠えるバカ三人衆と対峙しながら、僕はまた途方に暮れる。もしかしてという予感がなかったと言えば嘘になる。わかっていたうえで注意して怒鳴られるなんて、これではとんだ骨折り損だ。あれ、有賀くんの影響だろうか、ガイコツキャラだけに骨折り損とは――ははは。
自虐的な笑みを浮かべ、ふと三人の背後に視線を向けたときだった。
唐突に僕は、それを目撃する。
口にはしなかったけど、噂をすれば影、といった具合に、彼のことをふと考えたところでタイミングよく視界の中に、教室へ入ってくる有賀くんの姿が飛び込んできた。そして彼を認めた瞬間、僕の目は点になった。
みんなが僕の視線に気づいたのはそれからしばらくしてからだった。
だけどそのときには、既に有賀くんは室山くんやギーくんのすぐうしろにまで近寄ってきていた。
みんなが振り返った途端、有賀くんは「いやあ、やられたぜ」と言って頭をごりごり掻いて苦笑したのだけれど、みんなの視線が上を向き、驚きの声をあげるよりも先に、彼は一点を見つめて急に表情を強張らせるとピンと指を差し、「ああっ!」と大声を発した。「ゴキブリがいる!」
二度あることは三度ある。
いや、僕も含めれば四度目か。
有賀くんは竜平くんの頭を指差していた。眉間に驚愕と嫌悪を乗せて。
何度も同じことを言われて辟易したのだろう。竜平くんはこれまでと違い、苦虫を噛み潰したような表情で「あーりが! おまえもか!」とブルータスよろしく言い返したけれど、しかし彼もすぐに有賀くんの異変には気づいていたくちで、だからそれ以上咎めることはせず、目を丸くしながら、おそるおそる指先を有賀くんの頭に向けたのだった。「おい、なんだその頭!?」
そして全員が固まったまましばらく有賀くんの頭を凝視した。
なぜなら、彼は、坊主だったからだ。
そんな気がしていたのは確かだった。しかしながら実際にその姿を目にすると、驚きよりも不快が胸中を占めた。天然パーマなのになぜ、有賀くんは髪を切られなければならないのだろう。それもよりによって坊主。いくら先生の立場が強いとはいえ、さすがにこれはあんまりではないか。
有賀くんの坊主頭を眺めれば眺めるほど、なんともやりきれない気持ちが際限なく増幅していった。なんだか胸やけのような感じがして、少し、嘔吐く。灰色の靄のようなものが頭の中に広がり、中から圧迫していく。
「なあ、有賀。おまえ、まさにそれ……」
けれど、急に体調がおかしくなったにもかかわらず、僕は猫背の姿勢のまま有賀くんの頭を小さく指差すと咄嗟に声を発していた。不憫に思いつつも、どうしても言い出さずにはいられなかった。なぜなら背が低く、ぽっちゃりとした体形の有賀くんは、ただでさえ満月のようなまんまるい顔をしているというのに、そのうえ今は丸坊主だから彼の顔の輪郭は大きな縁のようにしか見えない。まさに彼こそ、それだった。
すると、どうやらみんなも同じことを思っていたようで、僕が切り出すと一斉に全員が前のめりの姿勢となり、そして、揃って指を差して自然と声を合わせたのだった。
「リアルアンパンマンだな!」
それからあとの室山くんの行動は早かった。
彼は、みんなで叫ぶやすぐに音頭をとって、「ア、ア、アンパンマーン」と突然、即興の替え歌を唄った。「なっかみは、あっりっがっ」
するとみんなもふざけて肩を組み、ごく自然な流れで大合唱を始めた。「いーけ、みんなのかーみ、まーもるたっめー」
それにしてもなんという光景だろう。
僕は不本意だけど、こうもアンパンマンの登場キャラクターが一堂に揃うなんていったい誰が予測できただろう。あれ、でも、なんか一人だけ忘れているような気が――。
僕は唄いながら眉間を寄せる。
するとそのときだった。
「おっ、俺は? なあ、俺はあ?」
なんとなく仲間外れっぽくなって寂しかったのだろう。ぽつねんとひとり佇んだまま、みんなのふざける姿を眺めていたユキくんが、不意に、誰ともなしに無理やり命名を促してきた。
「あっ、ユキはさ」応えたのは室山くんだった。彼は短く唸ったのち、ぱっと顔を輝かせると、「ああ、あれだ」と言ってユキくんを指差した。「デカパン! 温厚で優しいキャラなんだぜ」
「お、おう。俺にぴったりだな。ヘヘへ」
「ちなみにデカパンの口ぐせは〝だス〟。うれしいだス。こんな感じで語尾のところな」
即興で思いついた割にはなかなか良い〝パン〟ではないか。そんなふうにでも思っているのか、室山くんはとても満足げな表情で大きくうなずいている。
そんな彼を見つめながら僕は苦笑せざるを得ない。内心で苦言を呈す。
おい、室山くん。
ユキくんがなにも知らないと思って適当に言ったな。
デカパンっておまえ、『おそ松くん』のキャラじゃないか。
「で、でも、デカパンって知らないだス。なにパンだス? もしかして正式にはデカパンマンだス? チッチ知ってるだス? ど、どうだス?」
これで自分も仲間入りを果たしたと思ったのだろう。命名されたことがよほどうれしかったようで、ユキくんは早速、デカパンの口癖をまねて、きらきらした瞳で僕に訊ねてきた。
僕は小刻みに体を震わせて身悶えする。ちらちら視線を送ってみたけど、室山くんは硬い表情を崩そうとしない。だんまりを決め込んでいる顔だ。
僕は天井を仰ぎ、悲嘆にくれたくなる。
おいおい、僕に言わせる気か。
裸にデカいパンツだけ履いている、肥満体のオヤジキャラだということを。
――これはさすがに言えないよ。
「うーん、知らないなあ」なにも知らずに喜んでいるユキくんを不憫に思った僕は、彼とは一切、目は合わさず、とぼけることに徹した。「ごめん、ユキ。僕、アンパンマンはそんなに詳しくないんだ」
人と違うとはおそろしい。知らない勇気を知った僕。
*
「それで、なんで坊主にされたんだ?」
ギーくんが話を本題に戻したのは、場が少し落ち着いてからだった。不貞腐れた有賀くんと浮ついたユキくんを同時にあやす作業は思いのほか時間がかかった。ホームルームが始まるまでは多少まだ時間がある。
有賀くんが「ああ」と言って口元を歪めた。「島袋の奴につい、指摘したんだよ」
「指摘? 島袋にか」
「そう、島袋に」
有賀くんが繰り返すと、全員が眉を顰めて気難しい顔を作った。生徒が先生に何かしら指摘すること自体、あまりあることではないけど、うちのような、常に生徒に対して高圧的な態度をとる先生たちに指摘することはかなり非現実的としか思えなかった。というか、無謀だ。そんなことをしたって彼らが襟を正すとも思えないし、そもそも心証を悪くするだけである。すると当然ながら内申書に響く。けれど有賀くんは指摘したと言う。しかも相手は一筋縄ではいかないあの島袋先生。彼はいったい何を指摘したのだろう。
みんなが注視する中、有賀くんは小さく吐息を漏らしてから口を開いた。
「俺さ、偶然にも一週間くらい前に聞いちまったんだ。島袋と白鳥先生が立ち話している会話をさ」
「白鳥先生って、あの?」
「そう。メーテルの」
有賀くんが口にした白鳥先生とは、髪が長く、綺麗な顔立ちをした、二十代後半の女性の先生のことだった。また彼女の全身からは、大人の女性特有の癒しのオーラが溢れ出ていて、学校中の男子生徒たちに大変な人気があった。もちろん僕たちも例外ではなく、全員が白鳥先生の大ファンだった。
そして、そのまばゆいばかりの美貌と柔らかい物腰が、テレビアニメの『銀河鉄道999』に登場する〝メーテル〟にどことなく似ていることから、僕たちは密かに彼女のことをそう呼んでいた。確か言い出しっぺは有賀くんだったと記憶している。ちなみに彼女が受け持っている授業は日本史だった。
「で、どんな会話だったんだ?」
急かしたのはギーくんだった。けれどみんなの関心も一致していたのだろう、全員が興味津々といった顔つきでじっと耳を澄ましている。
有賀くんはゆっくりとみんなの顔を見回してから視線を伏せると、なにか汚いものでも目にしたかのように表情を醜く歪めながら言葉を吐いた。
「それが、島袋の奴、メーテルをナンパしていたんだよ」
「なっ、なんだとっ!?」
みんなは揃って大声をあげると顔中に驚きの色を浮かべた。
ある程度みんなの反応は予測していたのだろう、有賀くんは唇を尖らせて視線を落したままでいる。
先生が先生をナンパする。少し冷静になって考えれば、それは間違いだと気づく。なぜなら同じ学校の先生同士、面識がないわけがないからだ。街中で見知らぬ女性に声をかけるのとはわけが違う。
しかしながら、対象があこがれの的である白鳥先生であったから、また、相手があの、自分勝手で軽薄そうな島袋先生であったから、言った有賀くんも、聞いた僕らも、思考よりも気持ちが先走って、その言い回しは誤りだという認識には至らなかった。目の周りをぴくぴく痙攣させ、誰もが拒絶の反応を示している。有賀くんの話を受け、みんなは互いに顔を見合わて急にざわめき始めた。
「おい、島袋って既婚だったろ?」
「ああ。そうだな」
「確か離婚歴があったよな」
「あったな。今の嫁さん、二人目のはずだ」
「とんでもねえ女ったらしじゃねえか」
「島袋の奴め、なんて不貞やろうだ」
島袋先生の女性遍歴もさることながら、手出ししようとしている相手が相手なだけに、みんなは眉を吊り上げ憤慨した。
そんな中、水を差すつもりはなかったのだけれど、僕はみんなの様子を窺いつつ、「いや、あいつ、バツ2だよ」、そっと口を挟んだ。「今の奥さんは三人目のはずだね」
僕は知っていた。なぜなら島袋先生はバスケットボール部の顧問だからだ。僕がまだバスケ部に所属していた頃、そういった話はよく耳に入ってきたのだった。
さりげなく言った僕の発言は、予想どおり、火に油を注ぐ結果となった。
みんなの感情はさらにヒートアップし、その場には怒りの声が充満した。
「さ、三人目だと!? 今の嫁さん、三人目なのか」
「うおおっ! なんて羨ましいやろうだ!」
「マジかよ。三杯もおかわりだなんて贅沢すぎるだろうがよ」
「し、しかも、愛人まで作ろうとしているぜ、だス」
「なんてこった。ラバーズ・フィニッシュで帝国が築けるじゃねえか」
「くっそー、島袋の奴め。独り占めなんかしやがって。チクショウ!」
怒り任せの怒号は確かに飛び交ったものの、そのほとんど妬みだった。
そんな彼らの様子を眺めながら、僕は口をぽかんと開けて固まってしまう。非難はどこにいったのだと。
けれどみんなは、ひとり醒めた空気を醸し出している僕のことなどまったく気にも留めずにさらに感情的になっていった。
「おい、ばいきんまん。島袋をバイキンメカでやっつけろ!」
「それよりアンパンマンだろ。アンパンチをかましてやれ!」
「転んで顔が汚れたらどうするんだよ。俺、力が出なくなっちゃうんだぜ」
「そんなときのためのジャムおじさんだろうが。余計な心配をするんじゃねえ!」
「お、おまえら、一斉にかかれ、だス。俺は優しいからこの場で見ている、だス」
「うるせえぞ、デカパン。おまえはチョロ松やハタ坊の相手でもしてろ!」
島袋先生への悪口雑言は、途中に妬みや嫉妬を挟み、最終的には仲間内での罵り合いへ変わっていった。
だからあ、と僕は大きく溜息をつく。朝から騒がしいんだって。
「おまえら、みんな、赤ちゃんか」僕は三度仲裁に入る。「ギャーギャー言うの、止めろって」
全員が一斉に僕のほうを向き、叫ぶ。
「うるせえ! この、ホラーマン!」
「だス」
くどいほどに同じ展開となった。
僕は再び、深い溜息をつく。
はあ。こいつらをまとめるのも骨が折れるよ。あれれ、また有賀くんだ。
そのあともみんなは、しっちゃかめっちゃか言いたい放題に喚き散らしていたのだけれど、槍玉に挙がった対象は一致していたのでそのうち騒動は収束し、怒りの矛先を確認し合うのだった。
「くっそー、あいつだけは許せねえな」
「ああ、絶対に許せねえ」
先日のビンタのこともあり、みんなの胸中で島袋先生への敵対心が増長していく。誰のものかはわからない歯ぎしりの音が辺りに不気味に響いた。
「そうだ」不意に声をあげてギーくんが室山くんのほうを向いたのは、未だみんなが静かに怒りに打ち震えている最中だった。「おまえ、昨日言っていたあれ、何かアイデアは出たのか?」
「ああ、仕返しのことか」室山くんが眉を顰める。「それがまだなのよ」
「無茶はよせよ。先生の反感を買うのは避けたほうがいいぜ。おまえのためだ」
それはそれ。あれはあれ。
ギーくんはわけて考えているようだ。
白鳥先生のことで島袋先生に怒りは覚えているようだけど、だからといって仕返しをすることには気持ちは乗らないらしい。ギーくんは昨日に続いて反対の姿勢を示している。ただ、今回は身内に対する憂慮ではなく、友人の将来を案じての提言だった。
それでもなお、「しかしなあ」、室山くんは眉根を寄せて言い返した。「俺は刈り上げだけで済んだけど、有賀なんて坊主だぜ?」
「それはそうだけど、だからって先生に仕返しだなんてバカげてるだろ」
「気が収まらないんだよ」
「まあ、室山の気持ちもわからないこともないけど、あのゲーテだって言ってるじゃねえか」
「え、なんて?」
「おまえ、知らない? 『人生とは二つのことから成り立っている。したいけどできない。できるけどしたくない』って」
「ううむ。俺にはよくわかんねえな」
「ときには我慢も必要だってことだ」
「ふうん。あのゲーテさんがねえ」
室山くんが顔をしかめ、考え込む。全員が一目置くギーくんから何度も諭され、彼もさすがにためらっているようだった。ゲーテの言葉以前に、ゲーテが何者かわかっているのか怪しいところではあったけど。
なんとか室山くんを言い聞かせようとしていたギーくんの視線が、ここでふと、有賀くんへ移った。「そういえばおまえ、島袋に何て言ったんだよ」
ギーくんの問いに、みんなが一斉に、ああ、そうだったと声を揃える。白鳥先生のことばかりに気がいき、誰もがすっかりそのことを失念していた。
有賀くんが再び表情を歪めて「島袋の奴」と話し始める。「あまりにも俺の髪質のことをしつこく訊くんだよ。これは天然じゃなくてパーマをかけたんだろうって。何度も違うって言ってもぜんぜん信じてもらえないんだよな。そうしたらあいつ、かあちゃんのことまで言い出しやがってさ」
「有賀のかあちゃん?」
「そう。どうせおまえのおふくろもパーマ頭なんだろう。想像がつくとかさ」
「言いたい放題だな」
「余計なお世話じゃねえか」
「だろ? でも、ひでえのはここから先でさ、あいつ、嫌味な顔して、『おまえのおふくろもおまえと同じようにふくよかな体型だろうから、きっとテリー・ゴディのような容姿をしているんだろうな』って言いやがったんだ。しかもそのあと、わはははっておもいきり笑い飛ばしやがった。くそっ。思い出すだけで頭にくるぜ、あのやろう」
有賀くんが歯を食いしばって顔をしかめる。沸々と湧いてくる怒りを噛み殺しているのだろう。誰だって自分の母親をバカにされれば腹が立つというものだ。
そして彼の話を親身に聞いていたみんなはというと、最初こそシリアスな表情で話に聞き入っていたけれど、テリー・ゴディの名前を耳にしたあたりから少しずつ様子が変わっていき、最後のほうは誰もが目を大きく見開いて驚きの色を浮かべていた。しかしそれは、母親をバカにしたという、島袋先生の無礼な態度にはでなく、彼が途中に発した名前に反応したからであった。
「えっ、マジ? 俺、有賀のかあちゃん、見てみてえよ」
「テリー・ゴディかよ。すげえな。人間魚雷じゃねえか」
「やっぱり必殺技はパワーボムなのかな?」
「そりゃあそうだろ。十八番なんだからよ」
「チクショウ。生で見てみたいぜ」
「島袋もうまいこと言いやがるな」
テリー・ゴディとは人気の外国人プロレスラーのことをさした。非常に体躯がよく、髪は金髪のソバージュヘアをしている。また、その巨体にものを言わせて豪快に技を繰り出すことから「人間魚雷」という異名がつけられている。
それはさておき、みんなの興味はあっという間に有賀くんから彼の母親へ移っていた。
僕もつい、有賀くんのお母さんの風貌を頭の中で想像してしまった。リングの中を所狭しと吼えながら動き回る屈強なレスラーの姿が脳裏で跳ねる。僕は身震いしながらゆらゆらと頭を振り、頭の中にこびりつきそうになった映像を振り払った。
「おまえら、誰も俺のかあちゃんを知らないくせにひでえな」
有賀くんがぼそっと言って唇を尖らせる。露骨に嫌悪を表に出している。
咄嗟にみんなが「ごめんごめん」と謝る。「有賀、冗談だってばあ」
しかし、そう宥めながらも、僕らは自然と肩を組んで有賀くんを囲むと、それから、テリー・ゴディの入場テーマソングを口ずさんだ。
「ウォウォウォ、ウォーウォー。ウォウォウォ、ウォーウォー」
そのふざける僕たちの様子を蔑んだ目で見つめていた有賀くんは、ひとつ吐息をこぼしてから「おまえら、もう知らん」と言ってそっぽを向いた。「みんな、絶好な」
抑揚のない湿った口調が彼の本気度を物語っていた。有賀くんは完全に怒ってしまったようだ。
みんなが慌てて「ごめーん、有賀」と取り繕う。必死になって彼の機嫌の回復に努める。みんなの悪ふざけは明らかに度を超えていた。僕も反省しながら有賀くんを宥めた。
「それで、島袋にかあちゃんのことをバカにされて、おまえはなんて返したんだ?」
有賀くんの機嫌が少しだけ戻ったところで再びギーくんが訊ねると、有賀くんは恨めしげな目つきでみんなの顔を見回し、そして、少ししてから鼻から息を吐くと、「くやしくてつい、白鳥先生をナンパしていたくせにって言ったのさ」、今度は悲しげな目をして言った。
「なるほど。図星だったものだから腹いせに坊主か」
「そんな感じ」
「……ひでえな」
改まって坊主にされた理由を聞くと、僕たちは途端に静かになった。さすがにもう、ふざける気分ではない。誰もが眉間に皺を寄せて厳しい表情をしている。あまりにも身勝手で横暴な島袋先生に対するやるせない怒りが腹の底から込み上げてくる。
これを職権の乱用と言わずになんと言うのだろうか。抑えつけるにも程がある。そもそも有賀くんはパーマをかけていたわけではないのだ。こんなこと、とてもじゃないけど赦せるわけがない。
何にも縛られずに自由に高校生活を送ることはかなり非現実的なこととしか思えなかった。
僕はやり場のない怒りを胸に抱え込み、唇をぎゅっと噛み締めた。
「そういえば、今日の二限目は体育だったよな」
ふとギーくんが静寂を破って声を発した。
「そうだったな」
「顔を合わせたくねえな」
「奴の顔を見るだけでむかつくもんな」
遅れて、みんなはぽつりぽつりと口を開いた。
僕たちのクラスを受け持っている体育教師は二名いた。しかし不運にも今日の二限目の授業は島袋先生が担当だった。そのことを思い出したみんなの口からは嫌悪が溜息となって何度も吐き出され、辺りの空気をより不快なものとし、一層重苦しくした。
そろそろホームルームが始まるから席に着くか。
その場の空気同様、控えめな口調でギーくんが呟くように言った、その直後だった。
「あっ! いいこと思いついた」
沈んだ空気を裂いて、突然、室山くんが、切れ味鋭く叫び声をあげた。
全員が目を見開き、一斉に彼へ視線を送る。
「いいことだと?」眉を顰めて有賀くんが訊ねる。「何だよ、室山」
すると室山くんは、ぜんまい仕掛けのような遅鈍な動きでにたあっと笑った。瞳には企みを秘めた怪しい光が煌々と輝いている。
「気持ち悪いな。早く言えよ」
有賀くんが急かすと、果たして室山くんは快活に「どうせならよ」と声を張った。「開き直ってパーマをあてようぜ」
「あてる? パーマをかけるってことか?」
「そう。やってやろうぜ」
「バカなのか。坊主にしてくださいって言っているようなもんじゃねえか」
「だから違うって」
「何が違うんだよ」
「パーマはパーマだけど、あれは絶対にパーマだって気づかないって」
「そんなパーマなんか知らないって」
「あるよ。中学の頃、流行っただろ」
「中学? あっ、もしかして、それ」
「そう。アイパーな」
アイパーとはアイロンによるパーマネント技術のことで、平型アイロンなどを使用し、ストレートな状態の髪を方向づけしていくことをいう。髪の根元から直角に折り、オールバックのようにうしろに流すのだ。僕たちがまだ中学生だった頃、人気漫画「ビー・バップ・ハイスクール」の影響で巷に広く知れ渡り、もっぱら〝イカしている〟と認知された髪型だった。
「アイパーねえ。確かにあれはパーマってわかんないかもな」
「違和感はあるけど、基本、ストレートだもんな」
「だろ? 怪しいと思いながらも、パーマと断定できない島袋の困った顔をさ、おまえら、見たくねえか?」
「あははっ、それはおもしろそうだ」
「なるほど。島袋への仕返しってわけか」
「ちょっと見てみたい気もするな」
「島袋の間抜け面が拝めるわけだ」
「どうだ、ギー。絶対にバレないだろうし、仕返しってほどでもないしさ。島袋のやろうにいっぱい食わせてやろうぜ」
「アイパー作戦か。うーん、それくらいなら悪くないかもな」
「だけどバレるかもしれないよ」
「いや、大丈夫だろう」
「パーマ=ウェーブって概念だろうしね」
「とりあえずお手並み拝見だな。ウェーブだけに」
「有賀。まさかとは思うけど、おまえ、〝なみ〟をかけたのか?」
「あ、ああ」
「三十五点な」
「まあ、室山にしては上出来な策だな」
「へへっ、もっと褒めやがれ」
「どうするみんな。やっちゃう?」
「や、やっちゃおうぜ。あ、だス」
「そうだな。やってみっか」
「それじゃあ早速、今日にでもアイパーをかけてこいよな、室山」
話は意外な展開となった。
室山くんの閃きが発端だった。
いつも抑えつけられている先生たちへの小さな反抗といったところだろうか。島袋先生がどんな反応を示すのかはまったく予想がつかないけど、少しおもしろそうではある。
しかしここで、みんなの盛り上がりに水を差すように、室山くんが指先で自分の前髪を軽く引っ張りながら、「いや、俺はだめだ」ときっぱり言った。「天然パーマがストレートになるんだぜ? そいつはやばいだろう」
「あっ、そっか」すぐに言葉を返したのは有賀くんだった。「何かしてる、ってのはバレバレだな」
室山くんの主張は的を射ていた。確かに彼の言うように、逆に怪しまれることになるだろう。室山くんが天然パーマであることは、既に大多数の教師が知っているはずである。なにしろ彼は、髪形チェックの常習犯であるのだから。
となると、アイパー作戦を遂行するには、必然的に室山くん以外の誰かということになる。けれど既に有賀くんとギーくんは坊主だ。そうなると、自然と対象は絞られていく。デカパン、ばいきんまん、あとは――えっ、ホラーマン? もとい、しょくぱんまん?
彷徨わせていた室山くんの視線がふと、僕の頭上に向いた。瞬間、彼の瞳に光が宿ったように感じられた。
「ひとりだけうってつけの奴がいるじゃん。髪の長さといい、丁度いい」
室山くんが軽快に声をあげたのと、僕が咄嗟に視線を落としたのはほぼ同時だった。無意識に脳が危険信号を発している。
「ちょっとトイレに行ってくる」
ここは席を離れたほうがいいと直感が働いた。僕は自然を装って席を立つと、そそくさと廊下へ向かう。室山くんと目を合わせないように気をつけ、先を急ぐ。このままここに居れば彼は間違いなく僕を指名してきただろう。一度もパーマ経験のない僕が、よりによっていきなり特殊なアイパーをかけるなんてありえない。しかもクラスで、いや学校中で、僕だけが意図的にパーマをかけるという行為そのものが受け入れがたかった。いくら仕返しの案だとしても校則違反には違わないのだ。まさか自分に火の粉が降りかかってくるなんてこれっぽっちも思っていなかったから、僕は悠々とみんなに話を合わせていただけだというのに。それなのに、よりによってこの僕がアイパー。とんでもない。なんとしてでもそれだけは絶対に避けなければ。
俯いたまま、僕は一目散に廊下を目指す。
しかし後方からすぐに、「あ、チッチ!」、室山くんの焦った声が飛んできた。「待てって。なあ、チッチしかいねえって」
やばい。きた。
室山くんの声を合図に僕は足の運びを加速させる。加えて、遠まわしに拒否を知らしめようとする。咄嗟の反応だった。
「あれ、何も聞こえないぞ。まるで音のない世界にいるようだ」
ぶつぶつと独り言を言いながら教室を出ると、僕は小走りでトイレに向かった。ホームルームの予鈴が鳴ったけど、気にせずに廊下を走る。
室山くんが慌てて教室を飛び出てくる。
「おい、聞こえているだろ!」背後で叫ぶ。「この役はおまえしか」
「わわわ、何も聞こえない」僕は走りながら両手で耳を塞ぎ、彼の言葉に被せるように言葉を発する。「室山の声なんて聞こえない」
「聞こえているじゃねえか」室山くんが語気を強めて「おいっ」と呼ぶ。「待てよ、チッチ」、なおもしつこく追いかけてくる。「逃げるなって!」
僕は彼の声を無視してトイレに駆け込む。
絶対にアイパーなんてやるものか。
人と違うとはおそろしい。
聞かない勇気を知った僕。
*
体育の授業を受けるため、僕たちは今、旧体育館にいる。
二年前に新体育館は完成していたけれど、現在も旧体育館は使用しており、今日の実技内容は鉄棒であったため、器具が保管されている旧体育館で行われることとなっていた。
隊列を組んで待つこと数分。
体育教師の島袋先生が姿を現す。
先生の姿を確認するや、すぐに体育委員が元気よく号令を発した。先生への挨拶、ラジオ体操の順に速やかに授業が始まる。ラジオ体操が終わり、体育委員が列の中へ戻ると、島袋先生は腰に手をあてて隊列全体をさっと眺めた。
「よし。今日は全員に鉄棒の蹴上がりをやってもらうからな」
島袋先生の首はまだゆっくりと動いている。隊列の右端から左端へ視線を巡らせている。そして何かを発見したのか、不意に首の動きを止めた。口元に微笑を浮かび上がらせながら。
少し弾んだ声で島袋先生が「おっ、有賀」と言う。「おまえ、その頭、すごく似合っているじゃないか」微笑は嘲笑に変わっている。
おまえがやったんだろ! とは言えない有賀くんは、唇を固く結び、黙ったまま目を伏せていた。
僕は三白眼でじろりと島袋先生を睨みつける。
周りの生徒はちらちらと有賀くんに視線を向けている。
島袋先生は嘲笑したまま腕組みをすると、一泊置いてから「なんだ」と続けて言った。「よく見るとおまえ、まるでアンパンマンみたいだな」
島袋先生は「アンパンパン」を強調して言うと「はははっ」と笑い声をあげた。それに追随するように生徒のあいだから失笑が漏れた。
有賀くん以外のメンバーは浮かない顔つきで互いを見やった。島袋先生と同じ思考回路にみんなは複雑な心境に陥っていた。
ウケて気分を良くした島袋先生は笑顔のまま首を動かして生徒たちの反応を窺っていたけれど、しかし途中にまた何かに気づいたらしく、あるところで首の動きを静止させると、今度はほかの生徒たちにわかるようにひとりの生徒を指差した。
「おっ、室山。おまえ、カリフラワーみたいな頭だな」
嫌味な笑みを浮かべて島袋先生は言った。
てめえのせいだろうがよ! と室山くんが呟く。
口の動きでわかったのだろう、室山くんが呟いた途端、島袋先生の顔からすっと笑みが消えた。
「今、何か言ったか?」眉を顰めて島袋先生が訊く。
「いえ、何でもありません」ぶっきら棒に室山くんは返答した。
一瞬、辺りには不穏な空気が漂ったけど、島袋先生が「そうか」と言って顎を引いたので、それ以上危険な状況に陥らずに済んだ。
僕は鼻から息を吐き、横目で室山くんの様子を窺う。彼の腕はぷるぷると震えていた。
不意に島袋先生が「おまえ、キノコにも見えるな」と言ったのはそれからすぐのことだった。彼はまだ室山くんの頭を凝視していたらしく、そしてまたウケでも狙おうと思ったのか、目を細めてさらに、「いや、キノコよりかめあたまに近いな。男のシンボルみたいだ」と声高らかに言った。やや遅れて、はははっと再び、島袋先生の高笑いが館内に響く。
まさか「ジャムおじさん」と言うとは思っていなかったけど、そんな卑猥な言葉が出てくるなんて想像すらしていなかった。これはあまりにも屈辱だろう。先生としてモラルを問われる失言ではないだろうか。いくらなんでも男のシンボルはひどすぎる。
しかし、そこでもまた生徒のあいだから失笑が漏れたので、島袋先生のこの発言は、客観的に、肯定な意味合いを持ってしまった。
島袋先生がウケたのを確信し、再び、「ははははっ」と笑い声をあげる。「スポーツマンらしくていいじゃないか。すっきりして。ははははっ」
自分が刈り上げたのだから明らかに皮肉だった。島袋先生は、自分のやったことを善行だったと思っているのだろう。目を細めていつまでも余韻を楽しんでいる。
ちらりと再び様子を窺うと、室山くんは顔も目も赤くしていた。無理もない。彼からすれば島袋先生の行為は悪行なのだ。震える腕の先では握り拳が作られている。
僕は視線を島袋先生に戻すと、溜まっている鬱憤をぶつけるように強い眼力で睨みつけた。彼に対して頭にきているのは、なにも今回の室山くんをバカにした行為や、先日のビンタのことだけが理由ではない。網膜に焼き付いていた過去の場面が映像となって脳裏を慌しく駆け巡っていく。
僕がまだ中学の部活でバスケットボールをやっていたとき、顧問同士の縁で今通っている高校とはよく練習試合をしたものだった。そして練習試合を重ねるごとに、当時の高校バスケ部顧問であった高井先生と親しくなっていったのだけれど、いつしかそこに慕う気持ちが芽生え、僕は高井先生から直接バスケの教えを請うためにこの高校に入学したのだった。しかし入れ替わるように、僕が入学した年に高井先生は別の地域の高校へ異動してしまった。
その後、顧問不在となったバスケ部は、たまにOBの方たちが練習をみてくれてはいたけれど、ほんの数週間で活動自体の存続が危ぶまれるようになった。理由は管理者の不在だった。けれど、この年に赴任してきた島袋先生が、どういった経緯があったのかはわからないけど正式にバスケ部の顧問に就いたので、バスケ部はなんとか廃部を免れ、明るい未来が開けたように、そのときは思われたのだった。大好きなバスケットボールをまだ続けられると心から喜んだことは今もはっきりと覚えている。しかし学生の頃はラグビー部員だった島袋先生は、実はバスケットボールに関してはまったくのど素人で、ルールすらよく知らないといった按配だった。そのため、当然ながら僕たち部員に何も教えることなどできず、毎日姿は現していたものの、彼はコートの隅で練習風景をじっと眺めているだけであった。ただ、そんな素人体育教師が顧問となっても、部員たちは特に不平不満を言うことなく、自分らで練習メニューを決めて熱心に部活動に励んだ。全員バスケが好きだったから、少しでも上達する道を目指した。顧問がいないと部としての体裁を保てないので、形だけでも顧問がいてくれるのは良かったと誰もが思っていた。だから暇を持て余していた島袋先生が、昔の青春よろしく勝手にラグビー同好会なるものを突然立ち上げても、さほど気にかけることはなかったのだった。
ところがある日、僕たちバスケ部員に、突如として災いが降り注いでくることとなる。
いつものように新体育館の半面を使ってバスケ部が練習をしていると、勝手に立ち上げたラグビー同好会の生徒を数名、島袋先生が連れてきて、残りの半面を使っていきなりラグビーごっこをやり始めたのだった。そして、それはその後、しばらく続いた。最初こそあまり気にしていなかったバスケ部員ではあったけど、横で連日おふざけを続けられるとさすがに無視できなくなり、やがて島袋先生の存在を疎ましく思うようになっていったのだった。
そういった島袋先生の勝手な行動はそのうち鳴りを潜めたけれど、楽しみにしていた夏の一年生大会を理由もなく勝手に辞退したり、戦術なしでひたすら走力のみを鍛える練習方針を独断で打ち出したりしたものだから、その後、僕のバスケに対する情熱は急速に薄れていった。そして、一年も経たないうちに、僕はついにバスケ部を退部したのだった。退部の決定的な理由はほかにあったけれど、これら島袋先生絡みのことも大きな要因となっていたことは否めない。それ以来僕と島袋先生とのあいだには、理由ははっきりしないけど目に見えない溝みたいなものが存在している。それは、今も継続中だと、僕自身は勝手に思い込んでいる。
室山くんを〝かめあたま〟呼ばわりした島袋先生は、得意げな顔つきで周りをぐるりと見渡していたけれど、その途中、不意に僕の視線とぶつかった。その瞬間、島袋先生の表情が少しだけまじめなものになったように見受けられた。気まずさを感じ、先に目を逸らしたのは僕のほうだった。
再び島袋先生が声を発したのはそれからすぐのことだった。
「ん? おまえの髪、随分とテカってるな」視線を戻して確認すると、彼はまたひとりの生徒を指差していた。「それは整髪料か?」
誰のことなのかはすぐにわかっていた。けれど本人のいる場所はうろ覚えだった。僕は急いで島袋先生の指差す方向に首を伸ばした。
「はい。整髪料です」まじめに答えたのは竜平くんだった。対象はやはり彼だ。「ちょっとだけつけすぎました。すみません」
「そうか」と言って島袋先生が顎を引く。しかし彼は、それまでの二人の生徒ですっかり味を占めたようで、「それにしてもおまえ、その髪はまるで」と、たとえをまた、口にした。
島袋先生はまじまじと、黒光りしている竜平くんの髪を見つめている。そんな彼の様子を窺いながら僕たちが内心でうきうきしたことは言うまでもない。このあとに続く島袋先生の台詞に期待したからだった。僕の、島袋先生に対するわだかまり及び、みんなが抱いていた敵対心は、このときだけは意識から消えていた。
果たして、僕たちが注目する中、島袋先生は平然とした顔つきで言った。「まるでカラスだな」
その瞬間、メンバー全員の口から大きな溜息が漏れた。
するとそこで、肩を落としたみんなの気持ちが伝わったわけではないだろうけど、すぐに島袋先生が「いや」と続けて前言を撤回し、「カラスというより、まるでゴキブリみたいな髪だな」と訂正して言った。
その瞬間、僕たちの溜息は歓喜の嘆息に変わった。みんなは喜びを噛み締め、小さくガッツポーズを作っていた。
敵対心どころか、まるで島袋先生を称賛しているように映り、果たしてこれでいいのだろうかと疑問に思ったけれど、かくいう僕も、知らず、小さく拳を握っていた。やはり彼の髪の艶は異常なのだ。
その後、鉄棒の実技練習が始まり、ほどなくして体育の授業は終了した。
着替えを済ませ、みんなで教室に戻る。
部屋へ入り、おのおのがスポーツバッグを片づけ、全員が顔を揃えたときだった。
室山くんが眉を吊り上げていきなり「くっそー!」と叫んだ。「島袋のやろう、すげえむかつく!」
室山くんが怒るのも当然だった。彼は島袋先生から〝かめあたま〟や〝男のシンボル〟呼ばわりされたのだ。僕がもし、男性器で呼ばれたなら、きっと今の室山くんと同じように怒り狂うことだろう。
心から同情し、そして慰めようと思い、僕は室山くんの肩に手をかけようとする。しかし続けて彼が「なんでジャムおじさんって言わないんだよ!」と叫んだものだから、僕の手は室山くんの肩の上数センチのところで止まってしまい、そのまま行き場を失ってしまった。
え、むかついたのは――そこ?
「おまえ、体育の授業中、顔も目も真っ赤にしていたけど、まさかそれが原因か?」
呆然としている僕の脇から、驚いた様子でギーくんが訊ねる。
すると室山くんは、ギーくんに襲いかからんとする勢いで、「ほかに何があるって言うんだよ!」と吠えた。よほど悔しいのか、こぼれ落ちそうになるほど彼は目を剥いている。
言われててっきり怒っていたと思いきや、どうやら室山くんは「ジャムおじさん」を相当気に入っているようだ。思えばギーくんから初めてそう言われたとき、彼は口元を若干綻ばせていた。そのあとに怒鳴り散らしたのは、いつまでも僕たちが笑っていたからだ。
みんなが唖然とした表情で固まる。無理もない。彼が怒りを覚えた理由が理解できないのだから。
なんとも弛緩した空気の中、ようやく本来ぶつけるべき怒りに気づいたのか、室山くんが「それによー」と続けて言った。「ドキンちゃんにも触れやがらねえ!」
しかし今回も的外れな内容だった。
僕は吐息をこぼし、無茶苦茶言うなよ、室山くん、と呆れる。
しかし、室山くんは止まることなく「あとよー」とさらに続けると、怒気から一転、今度は悦に入ったような表情で「ゴキブリどまりはよかった!」とほざいた。
こりゃまたひどいことを言うもんだ。
僕は口を大きく開けたまま再び呆れる。そんなことを言ったら本人がかわいそうだろ、と今度は竜平くんに同情した。
だけど、そんなふうに思っていたのはどうも僕だけだったようで、みんなはこの室山くんの発言に嬉々として食いついたのだった。
「確かにあれはよかったよな。ばいきんまんじゃかわいいから、ゴキブリのほうがより、インパクトはでかいぜ」
「コンパクトだから言い回しもいいよな。ゴキブリ! って」
「おまえらダイレクトすぎだって。見ろよ、竜平の顔を。今にも泣き出しそうになってるじゃねえか」
「ほんとだ。竜平の心にピンポイントで突き刺さったってか」
みんなが冷ややかな目を竜平くんに向け、からかう。
竜平くんは表情をぐっと引き締めると、目を見開いて「おまえらっ」と声を荒げた。しかし威勢がよかったのはそこだけで、みんなの冷たい言葉がよほど堪えたのかすぐに泣きつく始末だった。「ばいきんまんで頼む!」
頼まれていいのか? と思ったけれど、竜平くんがそれで良いのなら僕から言うことは何もない。小さく吐息をこぼしながら状況を見守るほかない。
「竜平、いろいろと名前があっていいな」
「カラスにゴキブリにばいきんまんか」
「クラスで唯一の三冠王だな」
「ばっちい三冠王だけどな」
「お、俺のデカパンもあげよっか? だス」
「いや、それはばっちくないからダメだろ」
「それにデカパンは優しいユキにしか似合わないぜ」
「そ、そうだった。だス。へヘヘっ」
みんなはおもしろがって竜平くんをからかい続けていた。
僕はみんなのふざける様子を静かに見守りつつ、ちらりと横目で竜平くんに視線を送る。彼はぐうの音も出ないといった感じに首を折り、打ちひしがれている。これはちょっと行き過ぎだろうと思い、口を開きかける。だけどギーくんが先に、「おまえら、言いすぎだぞ」とみんなをたしなめ、「悪かったな、竜平。俺もひどいこと言って」と謝ったから、僕はそのまま黙っておくことにした。反省したみんなが次々に、竜平くんに対して謝罪の言葉を口にする。それにしても、ユキくんの「だス」はこのまま放置なのだろうか。
全員が謝ったところで、室山くんが微笑を浮かべ、「しかし、かめあたまとは島袋のやろうもうまいこと言いやがるな」と話を戻した。
室山くんにとってそれは評価対象のようだ。
僕には彼の考えはまったく理解できなかった。かめあたまと言われて喜ぶ人間は、彼を置いてほかにはまず、いないだろう。
笑顔のまま室山くんが続けて言う。「ジャムおじさんを無視したことは絶対に許せないけどな」
それを根に持つのか?
僕は眉根を寄せ、怪訝な視線を室山くんに投げる。すると彼もちょうど僕のほうを向いたので、二人の視線は宙でぶつかった。
「ということで、アイパー、よろしくな。ホラーマン」
軽快な口調で室山くんは言った。
なんだ。根に持つのかよ。
僕は呆れて眉を下げる。というか、ホラーマンはやめろって。せめてしょくぱんまんで頼む。そう心の中で嘆願しつつ、僕はゆっくりうなずいた。
「わかったよ。やればいいんだろ。アイパーにするよ」
室山くんが起案したこのアイパー作戦。
今朝、室山くんから振られそうになったときはさすがに抵抗があった。絶対に受けるものかとトイレの中にまで逃げ込んだのだ。だけど何度もせがまれるうちに葛藤が生まれ、次第に気持ちが移り変わり、最終的にやってみようかなと前向きな思考に傾いたのだった。島袋先生への個人的な当てつけなのか、それとも教師全体へ対する反抗なのかはよくわからない。ただ、僕のことを大人たちは何もわかってくれないという被害妄想なジレンマが、僕をそういった思いに駆り立てたような気がする。むろんしつこい室山くんのことだから、僕が首を縦に振るまではずっと頼み続けてくるんだろうなと、諦観の境地になっていたことも僕に決意させた一因でもあった。純粋に、引っかかった島袋先生の様子を見てみたいという思いはずっと抱いていたから、ついでに頼まれた感のあった竜平くんとユキくんが断った時点で、もしかしたら僕は腹を括っていたのかもしれない。僕しかいないなら仕方がない。じゃあ僕がやってやろうと。
「よし。明日が楽しみになってきたな」
室山くんが僕の頭を見つめながら笑い声をあげる。
明日が楽しみということは、今日中にアイパーをかけてこいということか。
お金の持ち合わせはあったかなと考えていると、室山くんが笑いながら続けて言った。「とりあえず島袋、もとい、たまぶくろに仕返しができるぜ」
自分でうまいことでも言ったと思っているのだろう、下品でベタなだけなのに、室山くんは得意顔だった。
みんなは呆れた顔つきで、室山くんの品のない笑顔を見守っている。
僕は室山くんの戯言を無視し、財布の中身を確認する。大丈夫。これなら足りるだろう。
不意に有賀くんが「あれっ」と声をあげて、「おまえ、仕返しどころじゃねえよ」と言ったのは、室山くんが高らかに笑い声をあげている最中のことだった。有賀くんは何かに気づいたといったように顔を少し綻ばせてから、「島袋とは仲良くしなきゃ」と続けて言った。
途端に室山くんの表情が曇る。「はあ? なんでだよ」
「なんでっておまえ、島袋とは兄弟みたいなもんじゃねえか」
有賀くんの声は若干弾んでいた。いったい彼は何が言いたいのだろう。そこにいる誰もがそう思っていたに違いない。室山くんを含めた全員が眉根を寄せて訝っている。
「兄弟? なんでそうなるんだよ」室山くんが眉を吊り上げ、声を荒げる。「意味わかんねえって!」
有賀くんは一瞬、不敵な笑みを浮かべてから、室山くんにずばり言った。
「だって〝かめあたま〟に〝たまぶくろ〟だろ? だから仲良くしろって言ってんの」
*
夕方の課外授業を終えると、僕とユキくんは一緒に帰途についた。時刻は五時半を過ぎている。自転車で校門を出ると辺りの景色は少しだけ茜色に染まっていた。
だけど僕たちはこのまままっすぐ家には帰らない。今からアイパーをかけるべく、床屋に寄らなければならないからだ。
高校生の僕は、美容院などという洒落たところとはまったくの無縁で、散髪はもっぱら近所の理髪店で済ませていた。そもそも美容院は女性しか行かないところという認識でいたから、近寄ることすらしなかった。なんというか、近寄ってはいけないオーラみたいなものを、僕は常々感じていたのである。
変な話だけれど、こんなふうに感じるのには少しだけ理由があった。
僕は三人兄弟の次男で、ともに二つ違いで上には兄、下には弟がいるのだけれど、この男だけの兄弟というのは、年頃の女性の心理を知ることをかなり遅らせた。なぜなら女の兄弟がひとりもいないからだ。若い女性に対しての免疫がないから、乙女心を理解することなど到底無理な話であった。
ゆえに、僕は、女性がいる場に行くとすぐに恥ずかしい気持ちになり、黙り込んでしまう傾向があった。女性に対して臆病な面を持ち合わせているから、女性がいそうな場所からは自然と足が遠のくのである。その傾向は、男女共学の学校に通っているからといって改善されることはなかった。
「い、意外とチッチは、アイパー、似合うんじゃね? だス」
「うーん、どうだろう。パーマをかけること自体が初めてだからなあ」
僕らは自転車を並べ、会話をしながらゆっくり走っていたのだけれど、ふつうに会話をするのがだんだん辛くなってきた。そろそろ「だス」は止めようよと伝えたくて、僕は寂しげな目をユキくんに向ける。
すると僕の配意に気づいたのか、ユキくんは口を大きく横に広げると、はっきりとした口調で「かっこよくなると俺は思うぜ」と言った。お、もしかして「だス」は止めたのかな、そう思ったのも束の間、彼は広げた口を慌てて戻すと眉を下げて「ごめん」と謝った。「思う。だス」
「あのな、ユキ。その、〝だス〟なんだけどさあ」堪らずに僕は口走る。
しかしユキくんは僕の言葉に被せるように「デカパンだからな」と言うと、今度は無邪気な笑みを浮かべて僕を見つめてきた。「お、俺は正義の味方だぜ。だス」
どういった解釈なのだろう。僕は小首を傾げる。もしかしたらユキくんは、デカパンの〝デカ〟をあぶない刑事の〝刑事〟とでも勘違いしているのかもしれない。もし仮にそうだとしたら、このまま〝だス〟と喋り続けるほうがよほどあぶないのだけれど。
それにしてもこのユキくんの屈託のない笑顔は罪である。この笑顔を裏切ることなどいったい誰ができるというのだろうか。
人と違うとはおそろしい。
言わない勇気を知った僕。
「い、家の中でもかあちゃんにデカパンって呼ばせるかな。だス」
照れ笑いをしながらユキくんが言った。
僕は表情を強張らせて彼を見つめる。
なんですと? これは阻止せねば。いろんな意味であまりにも不憫だ。
たった今、言わずにいようと思ったばかりだったけど、さすがにすぐに考え直した。
僕は短く「ユキ」と呼び、指を差す。「おまえ、室山に騙されているんだって。デカパンはおそ松くんに出てくるキャラクターの名前なんだよ」
「えっ、お、おそ松くん?」泳いだ目でユキくんが僕を見つめ返す。「デ、デカパンじゃなくて……イヤミ?」
「そう。イヤミとかチョロ松とかハタ坊のおそ松くんな。アンパンマンじゃないんだよ」
僕は眉を下げて小さく溜息をつく。大きな仕事を終えて肩の荷が下りたような、そんな安堵や解放感があった。
このまま帰すのはおそろしい。
伝える勇気を知った僕。
それからしばらく自転車を走らせる僕たち。
ほどなくして馴染みの床屋である「バーバーTAKAHATA」に到着した。
ユキくんは僕の生アイパーが見たいと言ってそのまま店までついてきた。僕と同じく、彼もこの理髪店の常連客だった。
入口の戸を開け、そっと中を窺う。カランカラン、少し重たい鈴の音が鳴る。床掃除をしていたおじさんが振り返る。
「おっ、にいちゃんじゃないか。久しぶりだなあ」
「こんにちは。ご無沙汰しています。まだやってます?」
「にいちゃんたち二人ともか?」
「いえ、僕だけです」
「そうか。じゃあ、にいちゃんで最後にするよ」
ちょうど閉店の時間だったようだ。おじさんは僕を気遣ってくれた。
僕は小さく会釈しながら椅子に座る。
ユキくんは雑誌を手にし、入口付近のソファーに腰を下ろした。
「にいちゃんもいつのまにかもう高二かあ。月日が経つのも早いもんだなあ」
鏡越しに映るおじさんの顔には微笑が浮かんでいた。
僕はそこでまた小さく会釈し、「そうですね」、取り留めもない返事をする。そして正面の鏡を見据え、やや緊張している自分の顔を眺めた。
僕は床屋のおじさんに「にいちゃん」と呼ばれている。このおじさんには僕の弟と同級生の息子がいるので、いつしかそう呼ばれるようになった。
おじさんが僕の両肩に手をかけ、鏡に映る僕と目を合わせた。
「で、いつもと同じ?」
「いえ。今日はちょっと、パーマを」
鏡の中のおじさんが眉を顰める。
「校則でパーマは禁止だろう」
「そうなんですけど、ある理由でどうしてもかけないといけないんですよ」鏡の中のおじさんに向かって僕は愛想笑いをした。「アイパー、お願いできますか?」
「なにっ、アイパーだって?」
おじさんが目を見開き、それまでの静かだった様子とは打って変わってぱっと表情を輝かせたのはその直後だった。
おじさんが笑顔で僕の肩をぐいと掴む。
「ほほう。にいちゃんもとうとう色気づいてきたか。よしっ、わかった。おじさんに任せておきな!」
僕の両肩をぱんと叩くと、おじさんは早速、準備に取りかかった。遅い時間にもかかわら
ず、嫌な顔ひとつ見せずに時間のかかるパーマを受けてくれた。ふと耳を澄ますと、食卓を囲んでいるのだろう、奥の部屋から家族の団欒の声が聞こえてきた。
背後で直立し、おじさんが僕の髪をしげしげと眺める。職人らしい真剣な表情だった。
「先に少しだけカットしよう。ちょっとこれじゃ長いな」
お任せします、僕が言うと、おじさんはすぐに髪を切り始めた。キャベツを千切りするような小気味良い音を響かせ、全体的に髪をカットしていく。目の前をぱらぱらと髪が落ちる。そのたびに少し視界が悪くなる。
「そうそう。おじさんな、中学のPTA会長になっちゃってさ」
髪を切りながらおじさんが話しかけてきた。
僕は動かずに、「そうなんですか」と応じる。「それはまた大変そうですね」
不意に髪を切る手を止めたかと思うと、おじさんは「そうなんだよ」と声を張り、鏡の中の僕に向かって驚いた表情を見せた。「これがまた大変でよお」
うっかり僕は失念していた。
このおじさんは話し出すと止まらないのだった。
「いやっ、このあいだもね」、カットするペースを落としながらおじさんが喋り続ける。「意見の食い違う教頭先生と安田くんの親御さんとのあいだで板ばさみになっちゃってよお」
「あらら。それはまた大変ですね」
「いくら俺が床屋だからって、板ばさみじゃあ髪は切れねえよ、なんつってな」
もうひとつ失念していた。
このおじさんは有賀くんと同じ類いで、一度言い出すとオヤジギャグも止まらなくなるのだった。
おじさんが話を続ける。「そして終いにゃ、教頭と安田くんの親御さんが喧嘩をおっぱじめてよお」
「あらら。それはまた大変ですね」
「ああ。あれは目も当てらんねえ光景だったな。パーマに熱ならあてるけどよ、ってかあ。わははははは!」
おじさんは再び手を止め、自分のギャグに心酔して高笑いをしていたけれど、すぐそばにいる僕の心中は穏やかではなかった。
ねえ、おじさん。こっちはハサミが目に当たりそうで危ないんだけど?
しかし文句は言わず、僕は「喧嘩なんて大人気ないですね」と話を合わせた。楽しそうに話すおじさんに遠慮したというのもあったし、遅い時間に来店したことで引け目を感じていたというのもあった。
「確かに大人気ないよなあ」、おじさんが、鏡の中の僕に向かってハサミの刃の先を向ける。「でもなにいちゃん。別に大人が大人気なくても、それはそれで構いはしないんだよ」
「大人なのに、ですか?」
「そう。にいちゃんも大人になりゃちったあわかるかもしれねえけどよ、大人から大人気ないってやつを取っちまったら、そりゃあつまんねえ生活しか残らないぞ」
「え、そうなんですか?」
「俺なんて年中、大人気ないけどな」
「そんなことないじゃないですか」
「おかげで毎日のようにかあちゃんから怒られてっけど」
「PTAの会長を務めているし、しっかりしているじゃないですか」
「だけど大人気はないけど、あっちの大人の毛はふさふさってかっ。わっはっはっはっはっ!」
おじさんはまた陽気に高笑いをしていたけれど、間近にいる僕はいてもたってもいられない。
だから、オヤジ! ハサミが目の前で危ないっつうの! それと髪だけではなく、途中から僕との会話もカットですか?
今に始まったことではないとはいえ、会話をしながら髪を切るおじさんは相変わらず危なっかしかった。下の毛の話をしながら怪我人でも出たらどうするのだろう。毛があるないどころの話ではない。髪を切りに行ったはずなのに、身を切る結果となってしまっては洒落にならない。
しかしながら、そんな僕の心配をよそに、おじさんは平然と散髪を再開した。
僕は小さく吐息をこぼしておとなしくする。キレたら終わり。切り終わったらおじさんのオヤジギャグも終わり。そんなことを頭の中でぶつぶつ呟きながら。
やがてカットが終わり、ついに人生初のパーマをかけることになった。
ハサミの役目が終わったことで僕は安堵の息を吐く。
大量のパーマ液に髪が覆われると、すぐにパーマ液の独特な匂いが店内に充満した。そのまましばらく、髪に熱をあてる。十分にパーマ液が髪に浸透したところで、いよいよコテの出番となった。
おじさんが右手にコテを持って僕の頭に顔を寄せる。コテは既に電気で熱くなっているらしく、指先で軽くコテに触れたおじさんは「アチッ」と小さく声を出すと慌てて指を引っ込めた。
その様子を鏡越しに眺めていた僕は緊張で身を硬くする。
「このコテを扱わせりゃあ、おじさんの右に出る奴はいねえよ」
調子に乗って言っている割におじさんは涙目になっていた。
よせばいいのに僕はつい、そこで「コテだけに」と言ってしまう。「出てきても、コテンパンにやっつけちゃうんですね」
「おっ、にいちゃん、うまいこと言うねえ。わっはっはっはっ!」
僕の冗談におじさんが爆笑する。その拍子に、おじさんの手元が震え、熱くなっているコテの先が僕の頭皮に直に触れた。その瞬間、ジュッ、という嫌な音とともに焦げ臭い匂いが鼻についた。
アッチ! こら、オヤジ、今、髪が焦げただろ!
アイパーはコテの熱で髪の根元から直角に折っていくのでただでさえ熱いのにこれだ。そのコテのあまりの熱さにハートまで熱くなり、僕は思わず、叫びそうになった。鼻息を荒くし、唇をぎゅっと噛み締める。
ここは迂闊に喋らないほうがいいな。しばらく黙っておくことにしよう。使い方は違うけど、喉元過ぎればなんとやらだ。
身の危険を感じた僕は貝になろうと意を決した。薄く目を閉じ、寝たふりをする。これが一番の安全策だ。
ずっと笑みを絶やさないおじさんは、悪気など一切、感じていない様子で、ひとりで話をしながら作業に入った。
「おじさんも若いときは横浜銀蠅みたいなリーゼントでよお、そりゃあ町一番の不良と呼ばれていたもんだ。ついでに頭も悪いから、親からは〝不良品〝なんて言われていたけどな。わっはっはっ!」
僕はおじさんの話を聞き流しながら、先ほどの言葉をふと、思い出していた。それは、大人から「大人気ない」を取ったらつまらない生活しか残らないというフレーズ。
どういうことなのだろう。いつまでも子供心は忘れるなということだろうか。大人とはそういうものなのか? いや、そんなことは絶対にないはずだ。
おじさんはああ言ったけど、僕はいまいち同意できなかった。なぜなら、僕の父は自衛隊員という職業柄のせいか大変頭が固く、僕を厳しく叱ることはあっても褒めることなどほとんどなかったからだ。そんな父に、子供のような一面があるとは到底思えない。父に大人気ないという言葉はまず、当てはまらない。いつも怒ってばかりいる父は、大変大人気のある、まさに大人の中の大人でしかなかった。
僕は思う。おじさんが言う、「大人気ない大人」というのは、甘い自分に目を瞑る、ただの言い訳ではないだろうかと。自分を厳しく律することのできない子供のような大人の戯言に過ぎないのではないかと。いや、そうに決まっている。自分に甘い人間は、いつだってすぐに逃げ道を作るのだから。
おじさんの吐いた台詞を自分なりに考察し、僕はそういう結論に至る。弱くてだらしのない自分を正当化しているだけなのだと。ただ、つまらない生活しか残らないという部分だけは、庭の日陰に残る雪の塊のように、心の隅にぽつんと置き去りにされたままだった。
アイパーの作業が始まってからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
薄く目を開け、壁時計に目をやると、来店してから既に一時間以上が経過していた。
そのあいだ、おじさんの話は止むことなくずっと続いていた。
「それで、渡辺先生があまりにも遅いからよお、そこで俺がいいことを教えてやったんだ。先生よお、早くするにはここの作業をこういうふうにやるんだ、ってな。そうしたら、渡辺先生は俺になんて言ったと思う? いやあ、さすがは高畑さんだ。髪も頭も切れますな、だってさ。わっはっはっはっ!」
自分がした話に、おじさんが踊るように爆笑する。そしておじさんの動きに合わせて、コテが指揮棒のようにゆらゆらと弧を描き、僕の髪を容赦なく、ジュッ、ジュッ、ジュッ、と焦がしまくった。
アチャチャチャ! こらっ、オヤジ! 燃やす気か!
結局のところ、黙っていても被害に遭ってしまった。
髪が切れるのか頭が切れるのかは知らないけど、その場でついに僕がキレてしまったことは言うまでもない。たまたまBGMで流れていた長渕剛の「ろくなもんじゃねえ」に被さるように、「熱いってもんじゃねえ!」と叫ぶ僕の声が店内に響き渡った。
多少の犠牲を払いながらも、その後なんとかアイパーは終了した。
焦げた髪と今後の客入りを僕は心から心配する。パーマだけに客足に波が出始めるかもしれない。髪は元に戻るだろうけど、遠のいた客足はそう簡単には戻らない。
席を立つと、僕は鏡の前で直立し、頭の角度を変えながら、アイパーの出来映えを確認した。幸いにも焦げ跡はわからなかった。髪はそれなりにまとまっている。自分のことながら随分と凛々しくなった印象を受けた。
「おっ、にいちゃん。いい感じじゃないか」背後から快活におじさんが言った。「なかなか似合ってるぞ。焦げ臭いけど」
焦げ臭いのはあんたのせいだ。
僕は鏡の中のおじさんを睨むことで訴え、溜息をつく。
まあまあと宥めるようにおじさんが僕の肩をぽんぽんと叩く。
「実はアイパーをやるのは数年ぶりでな。いい小手調べになったよ。コテだけに。わっはっはっ!」
僕は脱力し、鏡に映っているおじさんの姿をじっと見つめる。満面の笑みだ。はあ、と溜息すら出ない。
今日も最後までおじさんのペースは変わらなかった。
――なるほど。これも大人気ないというやつか。
僕は、自分を貫き通すおじさんをある意味で認め、そして、大人気ない大人は嫌だなという認識に至る。鏡に映るおじさんの、子供のような無邪気な笑顔を眺めながら、大人気ある大人は近寄りがたいけど、大人気ない大人よりかは幾分ましだなと思った。大人としての責任感のようなものを、目の前にいる大人からは微塵も感じ取れなかった。だからといって、大いに大人気のある大人の父を、今さら頼りにしたりするようなことはないのだけれど。
気を取り直し、帰るために僕は入口へ向かう。視界の端が、床に転がっている雑誌を捉える。その先には、ソファーに座ったまま眠りこけているユキくんの姿があった。僕はふっと笑みをこぼし、雑誌を拾い上げて棚に戻すと会計を済ませた。
アイパーが思いのほか時間がかかったせいか、ユキくんは完全に熟睡しているようだった。僕の怒号にも彼は目を覚まさなかったようだ。
僕は口元を緩めたまま、あどけない寝顔をしているユキくんを揺り起こした。「おい、ユキ。起きろよ。帰るぞ」
「おっ」ユキくんが寝ぼけまなこで辺りを見回す。「ごめん。ね、寝てた。終わった?」
僕は小さく首肯し、控えめに自分の頭を指差す。面映い気持ちと安堵感が胸中で交差している。面映いのはもちろん、アイパーのことで、安堵感はユキくんの口調に対してだった。デカパンのことはもうすっかり忘れているようだ。
ユキくんが目を丸くして僕の頭を凝視する。「おおっ、チッチ、ア、アイパーじゃん」
彼は再度「おおっ」と叫んで立ち上がると、きらきら輝く瞳で僕の髪型をしげしげと眺めた。
僕はにこりと笑って小さくうなずく。
よし。完全にふつうのしゃべりに戻ったな。どもるのはいつものことだ。さて、帰るとするか。
そう思い、店を出ようとしたときだった。
ほんの少し前に沸き起こったばかりの安堵の気持ちが一瞬にして脆くも崩れ落ちてしまう。
僕からのユキくんへの指摘が、どこか間違っていたとでもいうのだろうか。
わからない。
なぜそうなってしまうのだろう。
出口に向かおうとする僕に向かって、ユキくんは前歯を突き出して高らかに叫んだ。
「な、なかなか決まっているザンス!」