一章 卒業
一九九九年 (一)
「ヴィト・コルレオーネだって子供の頃は貧しかったんだ。彼が財を成したのは、家族全員がマフィアに殺され、ひとり彼だけがシチリアからニューヨークへ逃れた、そのあとなんだ。だからサラリーマンを逃れ、起業した俺たちが儲けていくのもこれからなんだって。俺たちに失敗なんて絶対にありえないから」なにゆえ『ゴッドファーザー』をたとえに出したのかはまったくの不明だが、隣に座る青木健太は自信満々の口調でそう言うと、箸ですくい上げたままだった麺を豪快にすすった。ずるずるずる。まるで掃除機がゴミを勢いよく吸い込むような音を立てて口いっぱいに麺を頬張る。そしてうまそうに咀嚼しながら顔を上げると、彼は左手の甲で額に滲む汗を拭った。「あーうめえ」
夜中の一二時過ぎだというのに辺りはまだがやがやと賑やかしく、川沿いに均等に並ぶ屋台はどこもたくさんの人で溢れ返っている。
すぐうしろを流れる那珂川には、隣接するホテルや飲み屋の煌々と光るネオンサインがきらびやかに幾重にも反射して映り、昼間はくすんだ緑色にしか見えない水面を色彩豊かなキャンパスのように変えている。同様に、歓楽街の灯りを集めた夜空も、モスグリーンの幕を纏っているような妖しげな雰囲気を醸し出していて、そのところどころに、少しオレンジがかった色をした雲がまるで切り絵のように無機質に貼りついている。仮に上空から眺めれば、この三角州だけが、天に向かって異質なまばゆい光を放っているように映るだろう。僕らを囲むこれらの夜の風情は、下手をすると、曇り空の日中の数倍もの明るさを伴っている。
ふと視線を左に向けると、風俗店のテナントしか入居していないビルが、まるでカジノのような派手な光を輝き放ちながら胸躍るふうに佇んでいるのが見える。反対側に視線を移しても同じようなビルが同じような佇まいで同じような異彩を放っているのが目に留まるだけであった。それらのビルには〝楽園〟だの〝マンゾク〟だのといった、いかにも快楽を連想させるような名前がつけられているのだが、その少し先には、若者のデートスポットでおなじみの「キャナルシティ」の建物の一角を窺うこともできる。まさに対極、としか思えないビルが所狭しと密集しているのも中州の特徴と言ってしまえばそれまでだ。
しかしながら、もちろん中州といえば、こういった風俗産業や商業施設だけではなく、銀座を思わせるような高級クラブの店も多数点在しており、妖艶さと凛々しさを併せ持った美形な女性が数多く存在しているのも事実である。実際にすぐそこの国体道路を横切って中州大通りにひとたび出れば、髪をアップにセットして華やかなドレスを身に纏った綺麗な女性たちをたくさん目にすることができる。今いる場所からは見えないので僕は想像することしかできないが、きっとこの時間帯でも中州大通りは、いろいろな事情やいろいろな思惑に揺れ動く男女の姿で大いに賑わっていることだろう。那珂川沿いから見渡せる中州の街並みを改めて眺めると、つまるところ人間の行動原理というものは、すべて何らかの欲の追及に集約されているのだなという認識に至らずにはいられない。ここにいる僕たちがまさにそうであるように。
ふと春吉橋東の交差点付近に目を向け、ビルの屋上にでんと掲げられている、明太子の看板をぼんやり眺めているときだった。
さあ中州の街はこれからが本番だと、那珂川のほとりを行き来している誰かが声高々に宣言したので僕はつい、後方を一瞥したのだが、すぐに首を戻すと目の前のラーメンに視線を移した。宣言したであろう中年男の頭には水玉模様のネクタイが巻かれていた。ただの酔っ払いのようだ。
「ふうん。青木さんって、もしかして自信家なの?」コの字型をしたカウンター席の角にいる青木を挟み、僕とは反対側に座っている川辺京子が、れんげですくったとんこつスープを飲むために少しだけ首を屈めた。そして小さな音を立ててスープをすすると、ゆっくりとした動作で青木のほうに視線を戻した。本人からすればふつうの仕草なのだろうが青木を見つめるその表情はどこか艶かしい。「それも相当のね」
背景の暗闇から浮き出るように映る京子の胸元の白い肌はとても官能的で、僕たちのいるこの屋台にはまったく似つかわしくないように思えるのだが、周辺のほかの屋台をちらりと見やると京子と同じような格好をした女が意外と多く座っているのが目につく。きっと彼女らも同業者なのだろう。僕たちと同じようにアフターの付き合いで屋台に寄っているのだろうが、楽しそうに歓談しながら実のところ頭の中ではこのあと何を理由に隣のエロオヤジと別れようかと算段しているのではないだろうか。
「自信があるからやってるんだって。それには金がいる。やっぱ世の中金だよなあ。金がないとでかいことなんてできやしないよ」
青木は一息つくと、小鼻を膨らませて隣の京子に視線を送った。彼の表情には、まさに一目瞭然という言葉が当てはまるように虚栄の色がありありと滲み出ていた。アクロス福岡で事業説明会を行った際にも見せた、彼の悪い癖だった。僕は視線を夜空に移すと鼻からゆっくり息を吐いた。
青木がよく使う台詞だった。
女の前ですぐに見栄を張る性格自体もどうかと思うが、気に入った女の前で必ず彼が口にする「俺ってでかいことやってんだぜ」的な物言いに、僕はほどほど呆れている。おまえは謙虚という言葉を知らないのかと。
「それじゃあ」甘ったるい声で京子が言う。「今晩一緒に来ていた人は、もしかしてお金
を出す会社の人?」
青木の先を読んで訊ねたのだろう。彼女の赤い唇は片方だけが少し吊り上がっていた。
青木が目を丸くし、うれしそうに口を横に広げる。
「あったりー! 京子ちゃん、さすがだね。特にお金の話になるとさ」
何日か前に、青木は、京子とは何度か食事に行ったと言っていた。それから、口惜しそうに、それだけだとも言っていた。だから今夜の村本さんの接待場所を彼女のいるクラブにしたのだろう。見栄っ張りな彼のことだ、俺には資金源となり得る人脈がたくさんいるんだと暗に匂わせ、彼女の前で良い恰好でもしたかったに違いない。
「あはっ、京子、当てちゃった?」
京子がはしゃいだ声を出す。彼女は喜びを包み隠そうとはしなかった。豊満な胸の前で指を組んで子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。だけど僕には、とてもそれが本心だとは思えなかった。特にお金の話となるとさすがだねと言われて喜ぶ人間がいるとは思えなかったからだ。いや、それは僕自身の感性であって、京子にとってはうれしいのかもしれない。正直どうでもよかった。
「なあ、京子ちゃん、すごくないか? 村本さんの正体を見抜いちゃったぜ」
青木までもが少年のような笑みを浮かべ、輝く瞳で僕の目を見つめてくる。彼はとくだん京子を煽てているというわけではなく、本心から感心しているようだった。
僕は簡単に正体を見抜かれた村本さんに少し同情を覚え、先ほどまで楽しそうに酒を飲んでいた彼の姿をふと思い返す。僕ら三人はまだ二十代だが、頭髪がやや後退を始めている四十代の村本さんは、実は実業家で、十年くらい前から会社を経営しているのだから人は見かけによらない。詳しい事業内容はよく知らないが、ビルを幾つか所有しているとのことだ。それと現在進行形のITバブルに乗じて、個人の立場で積極的に投資活動も行っている。僕たちの会社以外にも数社出資していると、ちょっと前に本人から聞いた覚えがあった。
「村本さんはいかにも金持ってそうに見えるからね」僕は抑揚をつけずに言う。
「ああ、なるほど。それでわかっちゃったのか」
「それでわかっちゃったんじゃないのかな」
二人の反応を確認することなく、僕はコップに手を伸ばして水を飲もうとしたのだが、そこで京子が突然、「そうそう!」と大きな声をあげたものだから、僕はびっくりしてコップの淵に前歯をコツンとあててしまった。顔をしかめる僕の耳に、「あのおじさん、いい時計してたもんねえ」、京子の弾む声が響いてくる。
カウンターにコップを置き、ふと視線を斜め先に向ける。少女のようなあどけない表情をした京子が、喉から手が出てきそうな粘り気のある声で「あれは多分カルティエね」と青木に向かって言っているところだったが、ちょうどそのときに、彼女の左手でオレンジ色に輝くスーパーオーシャンヘリテージ38の腕時計に屋台の照明があたり、その光がカメラのフラッシュのようにこちらに反射してきたので僕は思わず、目を細めた。なんとなく不快な気分になる。
「だよなあ。時計は幾つも持ってるって、前に村本さん、言ってたからなあ。ひとつくらい俺にくれろっつうの」青木が唇を尖らせて人差指と親指で輪っかを作る。「金ならたくさん、持ってるんだからさ」
「だけど青木さんも社長さんでしょ」横から京子がさらりと言う。
「そうだけど、レベルが違うんだよ」青木が眉を下げて口元を歪める。それから上体を仰け反らせ、ひとつ吐息を挟んでから苦々しく「村本さん」と言った。「ありえないほど金持ちだし」
「それでも青木さんも少しはお金を持っているんでしょ?」言下に京子は訊いた。
そのお金をさっさと私に貢ぎなさいよ。
僕には彼女の台詞はそうとしか聞こえなかった。
「多少はあるけどさ。だけど、村本さんにはまったく敵わないよ」
「インターネットの会社って大変なの?」
「いや、金は集まるよ。なんたって俺たちのいる業界は花形だしね」
青木がだらしなく口元を緩めて鼻息を荒くする。彼の態度は相変わらずわかりやすい。僕は眉を下げ、やれやれといった具合に再び鼻から吐息をこぼす。
青木と僕がITベンチャー企業を立ち上げたのは今から約半年ほど前だ。
僕らはもともと同じホームページ制作会社に勤めていたのだが、ネットバブルで沸く世の中に便乗し、二人で独立してインターネットを駆使した新しいサービスを立ち上げたのだった。アイデアに技術、それと情熱があれば、起業はそれほど困難ではなかった。そもそも二人とも独立志向が強かったから、起業するまでの一連の流れの中で一切の不安を抱くこともなかった。熱意を持ち、怖いもの知らずで突き進んで行くその裏では、まだやり直しのきく年齢だからという考えも働いていた。やる気があれば夢は幾つになってもトライできると言うが、年老いてからの人生ではほとんど保険はきかない。
「そうなんだ。それじゃでかいことを成し遂げれば、そのときは、青木さんも村本さんに負けないくらいお金持ちね」
目尻を下げた京子の視線は妖しい色気を帯びていた。ゆっくりと足を組み替える仕草は青木を誘っているのではないかと思えた。
「ああ、京子ちゃんの言うとおりだよ。俺たちは金持ち予備軍だ」
一瞬間視線を落としてから、青木は、大しておもしろくもない台詞をいかにもおもしろいような口調で言った。
僕は二人の会話を黙って聞く。金持ちというフレーズが何度も虚しく耳の奥で響く。やはり大半の人間は金持ちを夢見ているのだろうか。誰もが豊潤な生活を求めているのだろうか――。
網膜にはまだくっきりと張り付いている。
欲に目の眩んだ人の顔を見たことはこれまでに何度もあったが、戦慄を覚えるほどの悪相を見たのはあのときが初めてだった。経営コンサルティング会社の小暮社長。彼はふだんから穏やかな表情をしているが、あのパーティーのときも笑みを絶やさずにいた。乾杯の申し出に彼は快く応じてくれた。しかし目は合っているものの、相手の涼しげな目はまるでこちらを見ていなかった。そもそも彼の視界には人の姿は映っていないようだった。口元には一見爽やかな微笑を湛えていたが、その笑みに陽性さは微塵も反映されていなかった。
冷や水を浴びせられた気分だった。
事業を成功させる情熱が冷めることはなかったが、知れず周囲を取り巻く過剰なITバブルの狂騒の渦に引き込まれつつあった熱は一気に醒めた。会社の実績、規模は違えど、同じビルに入居している者同志、どこか志を共有しているように思っていた節があったことは認める。だがしかし、その光のない黒々とした瞳を見た瞬間に、無意識に自分は同類ではないと頑なに拒絶した。適当な理由をこじつけ、逃げるようにして足早にその場を去った。
僕は瞬きを繰り返すことで意識を現実に戻し、煙草を吸おうとしてシャツのポケットから箱を取り出す。しかし周りの目を気にしてためらう。そのままポケットに戻す。ふと視線を落とす。
青木が言った金が集まるというのは確かに本当のことだった。IT企業というだけで、個人ないし機関投資家が勝手にわんさか集まってくるのだ。砂糖の塊に数え切れないほどの蟻が密集するかのように。
村本さんもその個人投資家のひとりだ。僕たちが会社を登記した数ヶ月後に彼は数千万を出資してくれたのだが、仮に僕たちの事業が頓挫すれば、村本さんは借金取りの金融屋みたいになるかもしれない。俺の出した金を返せと。
しかし、投資は融資とは違う。
出資をしてくれた人には、元金と利息を払う代わりに株券を発行するわけだが、僕たちの会社が事業に失敗して株式公開ができないままだとその株券はただの屑紙でしかなくなる。裏書きのできるチラシよりも使いない代物と化すのだ。そして、たとえそうなったとしても、僕たちに金を返済する義務が生じることはない。投資する人たちもそのことはよくわかったうえで出資している。銀行が優良企業に融資するのはローリスクローリターンだが、投資家がベンチャー企業に投資するのは常にハイリスクハイリターンというわけだ。そういった意味では、投資をする人たちはどこかギャンブル感覚で金を出しているのかもしれない。もっともITバルブに沸く昨今では、多分に青田買いの意味合いも含まれているのだろうが。
「ITには可能性があるんだよ。なんたって国が力を入れているからね。予算もかなりあるらしいし」
「そもそもITってなんだっけ?」
京子にそう訊ねられると、待っていましたとばかりに青木は顔を輝かせ、君は賢い質問をする優等生だねといった具合に人差し指を京子に向けた。
僕はまたかという思いでげんなりする。とりあえず地蔵のように固まるほかない。
青木が小鼻を膨らませて、語る。「ITというのは『Information Technolog』の略で日本語では『情報技術』っていう意味なんだけど、俺たちはそのITを駆使して新しいサービスを開発しているのさ。アプリケーションと呼ばれるものの一種ね。で、俺たちはそのアプリケーションサービスプロバイダー、つまりはASPを新たな事業モデルとして展開しようとしているわけ。そしてここが重要。拠点が東京じゃなくても、ASPだから、全国展開も余裕でできちゃうんだ」
青木は満足そうな表情を浮かべると、コップの水をごくごくと音を立てて喉に流し込んだ。
無知な者に得意げに話をする者を嫌う僕は、視線を落とし、小さく吐息をこぼす。もしかしたらお地蔵さんも、実は耳が聞こえていて、俗世に蔓延する自慢話に人知れず溜息をついているのかもしれない。自慢高慢馬鹿のうちと。
青木の話をすべては理解できなかったのか、京子はしばらくのあいだきょとんとした顔つきでいたが、やがて目を瞬かせながら唇を動かした。「要はパソコンってこと?」
「うーん、まあ、そういうこと」自己満足したのだろう、青木は京子の不躾な質問にも平然とした様子で答えた。「とにかく、でかいことをやろうとしているんだよ」
「それでまとまったお金が必要なのね」
「でかすぎるからね。俺たちのやろうとしていることは。だから開発費だとか人件費だとか、なにかと運転資金が必要になってくるわけよ」
「だからあのおじさんの出番ってわけかあ」
「さすがは京子ちゃん。察しがいい」青木は京子を小さく指差すと顔中に満面の笑みを浮かべた。「そういうときの出番が、まさにあの村本のおっさんってわけさ」
青木が不意に村本さんを〝おっさん〟呼ばわりした。彼の本心が口から漏れた格好だった。そのうち僕のこともおっさんと呼んだりするのだろうか、などとどうでもいいことをつい、考えてしまう。
「村本さんって個人投資家なの?」
京子の目つきが急に鋭くなったのは、彼女自らがそう口走った直後のことだった。
青木をじっと見つめる京子の瞳には好奇と欲望の光がないまぜとなって宿っている。しかしそれでいて彼女は青木を見ていない。意識はよそに向いている、焦点の結ばれていない目をしていた。村本さんに対する接し方を考えなければならない。名刺はもらっただろうか。独りでお店に来ることはあるだろうか。私を指名してくれるだろうか。目の前で喚くこの男はもう必要ないのではないだろうか。すべては僕の憶測だが、青木のことだけは僕の気持ちを乗せてみた。
鈍感な青木が表情を緩め、バカ丸出しといった感じで「あったりー!」と叫ぶ。「やっぱりさすがだよね、京子ちゃんは。お金の話になるとさ」
青木には無礼な気持ちなど微塵もないようだった。どうやら彼は、それを、「君は可愛いね」と同類の褒め言葉くらいに思っているのだろう。見込みがあるのかどうかはともかく、青木がどういう口説き文句で京子を落とそうが僕には興味のないところだが、そういう台詞を口にするくらいなら、何度も食事に誘わずにせっせと金だけ貢いだほうが早道ではないか、と思う。なんといっても相手はお金に興味を持っているのだから。
「あはっ、また当てちゃった?」京子がまた可憐な少女のような笑顔を作った。「そっかあ。村本さんは個人投資家かあ」
彼女の瞳がより一層輝きを増す。そっかあ、あのおじさん、お金持ちなんだあ。いいこと聞いちゃったあ。そんなふうにでも思っているのだろう。
僕の憶測が確信へと変わる。ふと青木に目をやる。哀れな気持になる。忍びなく、視線を落とす。
多少合わないこともあるし、女に対して軽いところなどは生理的に受けつけられなかったが、僕は青木のことをそれほど嫌ってはいなかった。それどころか、むしろ好きなタイプに入った。特に彼がときどき口にする言葉には共感が持てた。
「年功序列で終身雇用の時代なんてとっくに終わってるだろ? 今立ち上がらずしていつ立ち上がるっていうんだよ」や、「自分の感受性を殺して会社の言いなりになってなにが人生だ」であるとか、さらには「それで社会的に評価される肩書きをもらって円満な家庭を築いてもだなあ、そこにロマンなんてものはねえんだよ。つまらない人生で終わってしまうだけなんだって」といったものに僕は感銘を受けたことがあるのだが、残念ながら先ほども言ったように、彼には性格的なマイナス要因も多々存在しているので、そのへんはうまく消化しながら折り合いをつけて彼とは付き合っている。そもそも僕と青木は、友人というより仕事を通じた同志といった間柄なので、僕から彼にそういったマイナス要因を指摘することはまずない。
そういった具合に、プライベートに関しては、僕と青木は必要な場合のみ最小限で交わっているわけだが、たとえるなら、特別なこと以外はあまり互いに干渉しない熟年夫婦の関係といったようなものだろうか。目には見えないがそれなりの信頼関係は構築できていると双方が思っている。
口元に妖しい微笑を湛えた京子がおもむろにジョッキに手を伸ばし、残りのビールを一気に飲み干す。彼女の白い首筋を、指でなぞるように一粒の汗がゆっくりと伝い落ちていく。ふうと小さく息を吐き出しながらジョッキをテーブルの上に置くと、京子は再び頬杖をついた。顔は少し紅潮し、腹を満たしたためか恍惚に似た表情をしている。大きな瞳が瞼の端からとろりと落ちそうになっている。かなり酒がまわっているようだ。
黒目だけを動かして、不意に京子が僕のほうへ視線を寄越す。とろんとした目つきのまま、「ねえ」と赤い唇を動かす。「あなたって無口でおとなしい性格なの?」
「僕のこと?」虚を突かれた僕の声は少しだけ上擦る。
横から、「そんなわけないってー」、すぐに青木が割って入る。
「そうなの?」
また黒目だけを動かして、京子が青木へ視線を送る。目は相変わらずとろんとしているが、しかしよく見ると、瞳にはしっかりとした光が宿っているのが窺えた。実はそれほど酔っていないのかもしれない。よくわからない。
「そうそう」と言って青木が親指で僕を指す。「こいつ、こう見えて意外とお笑いタイプなんだ。確か、高校時代は演劇部に入ってたんだよなあ」
まるで自分の自慢話でもするような高いテンションで言うと、青木は半笑いのまま遅れてちらりと視線を寄越した。
「演劇部じゃなくて文芸部だよ。非公認だったけどね」
僕はやや視線を落とし、少し冷めた口調で答えたのだが、そういった態度をとってしまったのは、先ほどの動揺を抑え込もうという意識が自然と働いたからだった。別にタイプでもないし、用のない限りはあまりこちらから近づきたいとも思わない京子だが、そこそこ綺麗どころの、しかも酒の入ったホステスにとろんとした目で見つめられれば、男なら誰もが胸に熱いものを感じずにはいられないのではないだろうか。特に奥手な僕などは、ちょっとした油断で取り返しのつかないことになってしまうおそれもある。京子は典型的だが、どの女にも男には到底理解できない神秘的な魔力が潜んでいる。
「あれっ、文芸部だったっけ?」眉根を寄せて青木が言う。「でもまあ、似たようなもんじゃん。とにかくこいつは無口でもなければおとなしい性格ってわけでもないから。今日は可愛い京子ちゃんの前だから畏まっているだけなんだよ」
途中から京子のほうへ顔を向けた青木は必要以上に微笑んで喋っていた。逸る気持ちを抑えきれないのか、まだ僕がいるというのに、彼は京子を口説き始めているようだった。先ほどから青木の態勢はずっと彼女のほうばかりを向いたままでいる。
「ふうん。別にいいんだけれど」
小さく唇を尖らせている京子は特別僕に関心があったわけではなかったらしく、自分から話を切り出した割には無関心を装っているふうだった。いや、そうではなくて、無関心そのものだった。それに先ほどから褒め言葉を連発している青木にも、彼女はさほど興味を示しているようではなかった。もしかしたら今の彼女の頭の中は村本さんのことだけで占められているのかもしれない。それともただ、眠たいだけなのだろうか。
「そんなことより京子ちゃん」、京子の細かい様子にはまったく気づいていない青木が能天気に言った。「今度の週末だけどさ、俺とデートしない?」
「今度の週末?」
「そう。どこか遊びに行こうよ。俺のアルファ・ロメオで迎えに行くからさ」
「もしかしてオープンカー?」
「そうだよ。一緒にドライブでも楽しもうよ。俺の愛車もさあ、早く京子ちゃんを乗せたがっているみたいだしさ」
僕の存在はもうないものと見なしたのか、青木はいきなり本題に入った。彼は最初からドライブに誘うつもりでアフターの約束を取り付けたのだろう。
僕は京子の反応を窺いつつ、青木の口説きのシフトレバーが次に何速に入るのかを気にかけた。仮にギアチェンジがうまくいけば、もしかしたら京子はデートにも車にも乗る気になるかもしれない。ただの見物人といった心境で僕はお冷を口にしようとする。
そのときだ。
視界の端に映る京子が、不意に意地悪な笑みを浮かべた。
「それって、車が私を乗せたがっているんじゃなくて、青木さんが私を乗せたがっているの間違いなんじゃないのお?」
意表を突いた京子の下ネタに思わず、僕は咳き込み、ちょうど口に含んだばかりの水をおもいきり噴出してしまう。しかしそれと同時に青木が大声で「ええっ!」と叫んだので、僕の失態は二人の意識の中であまり浮き彫りにならずに済んだ。慌てて布巾でこぼれた水を拭く僕の横で、うれしいのか困惑しているのかわからない感じで青木がぎゃあぎゃあ喚き散らしている。
「いやいや、違うってー。もおー、俺じゃなくて車だってばさあ。なんでそうなっちゃうかなあ。でもまあ、俺も京子ちゃんに乗ってみたい気持ちはないこともないけどね。へへっ」
「ふふふ。やっぱり不純な動機で私をデートに誘うわけだ」
「違う違う。そんな気持ちなんてさらさらないって。今のはほんの冗談だよ。まいったなあ、もう。京子ちゃんには敵わないよ」
狼狽を隠そうと取り繕うに必死だ。青木はへらへらしながら何度も手と首を大きく横に振っていた。
京子が、ほんとにぃ? と言って首を少し傾け、上目遣いで青木の顔をじっと見つめる。口角は吊り上ったままだった。さすがは夜の仕事を生業にしているといったところだろうか。このような駆け引きなど朝飯前なのだろう、彼女は男を翻弄する手練手管を心得ている。
それからも青木は、京子の妖艶な圧力に屈することなく懸命にギアチェンジを繰り返したが、やがてシフトレバーはニュートラルに入った模様で、彼の口説きにはそのままエンジンブレーキがかかってしまった。京子自体が減速ないし停止を表す交通標識だったのかもしれない。思えば店で飲んでいるときから、彼女の全身にはすべてを受け止めるオーラみたいなものが漂っていた。
僕は二人から視線を逸らし、そっと夜空に目を向ける。青木の自嘲混じりの笑顔をこれ以上見るのは忍びなかった。ふと脳裏に、先ほどの彼との短い会話が過ぎる。高校時代に属していた文芸部の話だ。
青木はすぐに否定したが、京子の指摘はあながち的を射ていた。小さい頃の僕は確かに無口でおとなしい性格だった。それは紛れもなく育った環境のせいである。僕は常に父親の影に怯え、いろいろな欲求を抑えながら成長してきた。
だから中学までの僕は、自発的に行動を起こすことなどほとんどなく、家では極力、貝のように口を閉ざし、なるべく父親にかかわらないように注意しながら毎日を過ごしていた。限りなく控えめに。そのため友人も少なく、たまにおもしろいことを言ってクラスメイトを笑わせたりすることはあったが、目立とうとする行為は必要以上に慎み、いつもつるむ相手は幼馴染ひとりだけに限定されていた。
ところが高校に入学してから、僕はあることをきっかけに突然変わった。自力で殻を破ったのだった。あのときが僕の人生の分岐点であったことは疑う余地がない。今の人格が形成され始めたのも、きっとその頃であったと認識している。
二人と少しだけ距離をとると、僕はポケットから煙草を取り出して火を点け、ゆっくりと煙を吐き出しながら夜空に散らばる点のような星々をぼんやり眺めた。そうやって独りの世界に入ってしまうと、懐かしい日々の情景が、まるでアルバムを捲るように次々と脳裏に蘇ってきた。
青木たちの会話は上の空で聞き流し、僕は、文芸部に入ることになった動機について思い返す。自然と当時の旧友たちの顔が思い浮かぶ。それは今から約十一年前、高校二年に進級したばかりの春の日のことであった。
一章 卒業
「うわっ、すげえ人だ」
「四百人以上はいるからな」
「やべえよ。さすがに緊張してきたぜ」
生徒会主催の新入生歓迎会当日。
「それはそうと、演目でこれやって大丈夫なのか」
「今さらそんなこと言ったってしょうがねえだろ」
「キューティーハニーにすればよかったかもなあ」
「あれはまだ振り合わせが途中だから無理だって」
僕たちは出番に備え、新体育館のステージ脇で待機していた。
「もう決めたんだから仕方ないだろ」
「それはそうだけどさ。でも、派手なのはやっちゃまずいんだろ?」
「ああ。座長が外尾のハゲに念を押されているからな」
「外尾に? 生徒会が主催なんだから先生は関係ないじゃん」
「新入生が相手だから、きっと用心してのことなんだろうよ」
「なるほどね。うちの学校らしいや」
もう一度ステージを覗こうとカーテン幕にそっと手をかけたところで、周りに合わせるようなまばらな拍手が館内のほうから聞こえてきた。
どうやら文化部で最後だった軽音楽部の部活紹介が終わったようだ。
「終わったか。おまえら、準備はいいか?」
「いっちょ気合入れていくかあ」
「俺らが最後だし、とりあえずやりきっちまおうぜ」
「そうだな。そのあとのことはなんとかなるだろ」
「よっしゃ、みんないくぜ」
――二日前。
春とは思えない朝だった。
暖かい、という表現を通り越して若干暑く感じる日差しを背中に受けながら、僕は田舎道に自転車を走らせていた。
学校の手前にある急勾配な坂に差しかかったところで一瞬、考え込む。だけど結局はいつものように立ち漕ぎをして一気に坂道を駆け上がっていった。道の両脇にそびえ立つ杉の木が陽光を遮ってくれてはいたけど、それでも額に滲んだ汗が引くことはなかった。
僕が通っている豊山高校は県北東の山間部に位置しているため交通の便が非常に悪く、生徒のだいたい七割が自転車通学で、残りはバイクが二割、徒歩が一割といったところだった。一応、JRの沿線が近くを通ってはいるのだけれど、極端に本数が少ないため、登校に電車を利用する生徒は皆無だった。ちなみに全校生徒の数は千二百人ほどで、一学年あたり十クラスあり、そのうち一クラスは女子生徒のみが在籍する被服科となっている。県内における我が校の偏差値は中の上といったところだった。
また、この豊山高校は、創業二百二十年を誇る伝統校でもあった。なんでも九州内で豊山高校よりも古くに設立された学校は一校だけとのことらしい。そしてそういった伝統校であるせいか、校内における規律や校則は大変厳しく、「うちは伝統校なんだから」というのが先生たちの口癖で、生徒を抑えつける常套句だった。つまり、行儀良くおとなしい学校生活を送りなさいというわけだ。生徒に言うことを聞かせるために「伝統」という言葉だけで片づけるのは、先生たちからすればさぞかし楽な方策であったに違いない。
花弁が散ったばかりのソメイヨシノの一本桜を正面に見据えながら、僕は坂道を上がりきる。そのまま左折してしばらく進む。やがて前方に校門が見えてくる。そこには二名の先生が立っている。登校してくる生徒らに向かって「おはよう」と大きな声を出している。
僕は学帽を取り、先生たちに小さく会釈しながらゆっくりと校門を通り過ぎる。何事もなかったので安堵の息を吐く。それから、所定の自転車置き場へ向かい、いつもの場所あたりに自転車を停める。クラスメイトから声をかけられたので軽く手を上げて応じる。
昇降口で上履きに履き替え、教室のある第一校舎へ向かう。廊下を歩いている途中、青いスポーツバッグを手にした、入学したばかりの一年生の姿をちらほら見かけた。彼らの姿はとても初々しく、当然のことながらまだ高校生活には馴染んでいないようだった。ふと一年前の記憶が脳裏を過ぎる。入学当時のことを思い出した僕の口元は自然と綻んだ。
口元を緩めたまま教室に入り、まっすぐ自分の席に向かっているときだった。
「チッチー、大事な話があるんだけど」
不意に、後方から声をかけられた。
この声は室山くんだなと思いながら立ち止まり、僕は何気なくうしろを振り返る。けれどそこで突然、「バーン!」という音とともに目の前で何かがぱっと光ったものだから思わず「うあ、びっくりした」、僕は情けない声を発してその場で身じろぎしてしまった。僕が振り返った瞬間に、タイミング良く、室山くんが手を大きく叩いたせいだった。
不覚にもうろたえてしまった僕は、眉根を寄せ、いったいどういうつもりだというふうに室山くんに怪訝な視線を投げつける。けれど、にやついたままでいる彼を見てすぐに状況を把握し、吐息を漏らしながら眉間に作った皺を崩した。どうせそれだけのことなのだろう、室山くんは、勉強よりも真剣になるほど大のいたずら好きだから、ただ僕を驚かせて喜んでいるだけに違いなかった。
ほんと、ガキだよなあ、と僕は再び吐息をこぼす。
ほんと、バカだよなあ、とでも言いたげに室山くんはしたり顔だ。そして白い歯を覗かせ、「今、びびっただろ?」とうれしそうに訊いてきた。
「ううん。ぜんぜん」せめてもの意地だった。僕は平然と答える。
「よく言うぜ。今、おもいっきり驚いてたじゃん」室山くんはおどけながらそう言うと、大げさに僕の驚いた表情のまねをした。「うわわわわあ。び、びっくりしたあって」
いつのまにか周りに集まっていた仲間たちのあいだから、遅れて笑い声があがる。
僕は頬を膨らませて室山くんを睨みつける。そんな変な顔なんてしてないだろとむかついたけれど、いちいち本気で相手にするのは面倒だった。
「はいはい。驚いた驚いた」抑揚をつけずに言って僕は適当に彼の相手をする。「思わず、口から忍者ハットリくんの弟が飛び出るかと思ったよ」
「えっと、だからびびっただろ?」室山くんは無表情で繰り返した。
僕はきゅっと唇を結び、憎たらしい友人の顔をしげしげと眺める。そして彼の単純な思惑を理解する。とりあえず「びびった」と僕に言わせたいのだ。
彼が何か企んでいることは百も承知だった。どうせくだらないことだ。とはいえ、室山くんはしつこい性格なので、面倒臭いけどここは合わせておいたほうがよさそうだと、僕は少しの時間内で考えた。このまま適当に相手をしていればそのうちおとなしくなるだろう。
「はいはい。びびったびびった」棒読みで言ったあと、僕はわざとらしく大きく溜息をつく。「これでいい?」
直後、室山くんの表情が急変する。瞬時に彼の瞳に明るい光が宿った。「へへーん、びびった罰!」
満面に笑みを浮かべてそう叫ぶや、室山くんは、さもうれしそうに僕の左肩をどんどんと拳で叩いてきた。
僕は右手で左肩を押さえながら眉を下げ、狐につままれたような顔つきで喜ぶ室山くんの姿を見やる。やがて合点がいき、なるほどねとうなずく。しかしだからといって気分がよくなるなんてことはない。はあ。やっぱりくだらなかった。
僕は呆れ顔で「おまえさあ」と訊く。「それがやりたかっただけだろ?」
室山くんが今まで以上のうれしそうな顔をしてうなずく。「うん。やりたかっただけ」
僕は言葉を返さずに、また大きく溜息をつく。子供のように喜んでいる彼を、呆れながらも若干、おまえはいつまでも子供のままでいいねと羨ましく思った。と同時に、映画の中の無邪気な子供たちの姿が脳裏に浮かんだ。どうやら室山くんは最近ビデオで「スタンド・バイ・ミー」を観たようだ。
僕もこの映画は大好きで、映画館で初公開されてからこの二年間に何度もビデオで観たことがあった。だからすぐにわかったのだった。室山くんは、相手をびびらせ、びびったらその罰として相手の肩を叩くという、映画の中の有名なワンシーンを、単純に自分がやってみたかっただけなんだと思う。根っからのいたずら好きの彼がこんなふうに周りの友達にすぐにちょっかいを出すことは日常茶飯事だった。
「なあ、ギー」満足げな笑みを浮かべたまま室山くんが横を向く。「今の何点?」
「ん? チッチの?」ギーくんは少し考えてから、ふだんのにこやかな笑みを浮かべた。「三十点。チッチだから大目にみて」
野球部に所属しているギーくんは、スポーツマンらしくさっぱりした性格をしている。また誠実な人柄なので人望が厚く、何かしら問題が生じるといつも彼が僕たちのまとめ役となっていた。ギーくんの言うことにはみんなは素直に耳を傾ける。ちなみに、彼の本名は〝藤本ゆうき〟だけれど、直木賞作家の藤本義一と同じ名字だからという理由だけで、そのうちみんなから〝ギー〟と呼ばれるようになっていた。もし彼が〝山田〟という苗字であったなら、野球部所属というのを理由に〝ドカベン〟とみんなに呼ばれていたかもしれない。
「妥当だな。だって今のはつまんねえもん」室山くんがわははと笑い飛ばす。
僕はまた室山くんを睨みつける。彼につまらないとか言われたくない。
ふと横から「ギー、相変わらずチッチには厳しいね」と有賀くんが言った。ギーくんが笑顔のまま「ふつうだって」と答えると、すぐに有賀くんも「それはそうだけどさ」と言いながら苦笑し、蔑むような視線を僕に寄越してきた。
僕はやれやれといった具合に首を振ってその視線を受け流す。有賀くんといい、ギーくんといい、単に僕をからかっているだけであることはわかっている。
有賀くんとは一年のときも同じクラスだったけれど、直情的な室山くんと違って理論的に人を笑わそうとする彼のことを、僕は案外好ましく思っている。ただ、彼はどうも僕に対抗心を抱いているらしく、僕の言ったことがちょっとでも誰かにウケようものなら、そのあとに決まって彼はむきになって、僕以上にウケようと行動に出る傾向があった。たまに毒を吐くこともあればくだらない駄洒落を口走ることもあるけど、今はそれも、もう慣れた。小太りなところや丸い顔は彼の愛嬌の一部だ。
ちなみに、「今の何点?」「三十点」というのは、僕が言った「口から忍者ハットリくんの弟」に対する採点だった。仲間内の誰かがしょうもないことを言うと決まってギーくんに採点を求めるのだけれど、なぜいつも彼に訊ねるようになったのかは覚えていない。仲間内でいつのまにかそういうルールになっていた。もっとも僕が今言ったのは、しょうもないかどうかは関係なく、あくまでも室山くんを適当にあしらうために口走ったということは念のために補足しておく。
「えっ、今のはつまんないから三十点?」好きに言わせておくのも釈然とせず、僕はわざと声を大にして三人に抵抗した。「ということは、いつもは高得点?」
「はあ? チッチ、今までに高得点とかあったっけ?」すぐに言い返してきたのは室山くんだ。「ごめん、訂正するわ。今のもね」
嫌味たらしく言った室山くんの口元には意地悪そうな笑みが浮かんでいた。人をおちょくる際に見せる彼のいつもの表情に、僕は腹立たしさを覚える。しかし、彼はいつもこんな調子なので、相手にするだけ無駄だということはわかっている。吐息をこぼし、相変わらず嫌な奴だとでも言うように、僕は何度も首を小さく横に振った。
それはそうと、僕は周りから〝チッチ〟と呼ばれている。
それは、高校に入ってからそうなったのだけれど、僕にあだ名をつけたのは有賀くんで、その由来は至ってシンプルなものだった。
中学の校則が坊主だったため、高校入学時の僕の髪型は、坊主が少し伸びた程度だったのだけれど、そのときの見た目が「モンチッチ」みたいだからというのが理由だった。しかしモンチッチでは長すぎるからと、すぐに「チッチ」に変更されたのだった。僕としては自分がどう呼ばれても平気だったので、いきなり「チッチ」というあだ名がついても特に変に思うことはなかった。そもそも、僕はもともと猿顔で、小さい頃から猿みたいと周りから言われ続けてきたので、それに関連する新しいあだ名がついてもまったく違和感はなかった。むしろ、またか、と思ったくらいだ。これでまたひとつ称号がついたな、といった程度の感想だった。
とりあえず室山くんの相手はするまいと、僕は視線を落として肩の力を抜いた。
すると、僕の肩に力強く自分の手を置きながら、室山くんが「おい」と言った。「二十点くらいでそんなに落ち込むなって」彼は僕がいじけているとでも思ったようだ。
ちょっとしてから、点数が減っていることに気づく。室山くんはわざと言ったのだろう。途端に彼に対する憎たらしさが増大する。けれど、目を輝かせている室山くんの表情はやはり純粋な子供のようで、彼に対して怒ること自体が次第にバカバカしく思えてくる。僕は眉を下げて訝る視線を彼に向け、何も言わずにふんと鼻を鳴らした。
しかしいくら僕が冷たい態度をとっても、室山くんは鈍感なのかそれともまだまだ絡み足りないのか、僕の肩に手をかけたまま目をきらきらと輝かせ、「それに、高得点が出ても」と続けて言ってきた。「チッチは煽てると、すぐに木に登るじゃん」
僕は眉を顰め、首を捻る。僕は豚? 猿の間違いじゃないの? といった疑問がふと湧く。認めるようで癪ではあったけど、そう疑わずにはいられなかった。
ややあって室山くんが快活に言った。「よく言うじゃん。チッチも木から落ちるって」
そう言い放った彼の表情には自信が漲っていた。
僕は鼻から息を吐き、眉を下げて彼を見つめる。計算なのか勘違いなのかはわからないけど、結局のところ室山くんは猿って言いたかっただけなのだ。単純で、相変わらず自分勝手な奴だ。煮ても焼いても食えない奴だ。ただ、それにしても、彼は本当に煩わしい。
なんだか今朝だけで一年分の溜息を吐いたような気持ちだったけど、僕はもう一度吐息をこぼすと、室山くんを小さく指差した。本当におまえはくだらない奴だなと面と向かって言ってやろうとした、そのときだった。
「うまい!」横から不意に、ギーくんが感嘆混じりの叫び声をあげた。「六十点!」
僕はたまに思うことがある。ギーくんの採点基準はいったい何なのだろうかと。
*
「そんな五点のチッチのことよりちょっとみんな、俺の話を聞いてくれよ」
改まって室山くんが話を始める。
とりあえず僕は耳を傾ける。点数のことはこの際、放っておこうと思う。
みんなが注目するのを確認しながら、室山くんは「昨日さ」と話を続けた。「姉ちゃんから『スタンド・バイ・ミー』のビデオを借りて観たんだけどさ」
それは知っている。
心の中で返答しながら僕は適当に相槌を打つ。
「それでさ、子供たちがお互いを驚かせて、びびった罰! って言いながら肩パンチをするシーンがあるんだけど」
痛さまで知っている。
僕はまた内心で呟く。
「その中にクリスっていうのがいてさ、その子役が俺みたいにめちゃくちゃかっこいいんだよなあ」
それは知らない――というか認めない、と渋面を作ったところで、「それ、違うから」とギーくんが異を唱えた。もちろん、かっこいい、のところを指してだ。それに反応してみんながうんうんと大きくうなずく。
しかしながら、室山くんは平然と「違わないって。クリスだって」と言い返すと、「ええっと、その子役の名前は何だったかなあ」と目を閉じ、考え込んだ。だけどすぐに「あっ、確かそう、あれだ!」と小さく叫ぶや、いかにもといった具合にオーバーに指を立てて「ラバーズ・フィニッシュだ!」と声高々に言った。
ラバーズ・フィニッシュ?
僕の表情はみるみる曇っていく。そんな名前なわけがなかった。
「それ、おまえんちの近くにあるラブホテルの名前じゃないか!」
間髪入れずにそう指摘したのは竜平くんだ。彼が叫んだ直後、僕たちのあいだから大きな笑い声があがった。
「あれれ、そうだっけ?」ごめんごめんと頭を掻く室山くんは心底うれしそうな顔をしていた。「俺としたことが間違えたわ。わはははは」
どうやら確信犯のようだ。彼はみんなにウケようとわざと言い間違えたのだろう。室山くんは満足そうな笑みを湛えたままみんなの顔を見回していた。
そんな彼に、即座にツッコミを入れた竜平くんは、室山くんとは同じ中学出身で、二人は幼馴染の関係だった。また竜平くんは、子供の頃より視力が悪かったらしく、いつも四角い黒ぶち眼鏡をかけている。そして彼は、僕たちの仲間内ではいじられキャラとして定着していた。からかうと単純におもしろいからというのがそうなった理由だった。ちなみに竜平くんにはかずまくんという名前の双子の弟がいるのだけれど、僕たちとはクラスが違い、彼は隣の組に在籍している。
興奮が少し鎮まってから、それにしてもすごい名前のラブホテルだなあとふと思う。意外と奥が深いのかもしれないな、とくだらない考察をした、そのときだ。不意に横から、「意外と奥が深いな。そのラブホテルの名前」と有賀くんが口走ったものだから、僕は目を見開き、まん丸い彼の横顔を凝視した。おお、同志。心の友よ。
「え、どこが?」即答したのは室山くんだった。彼は真顔で有賀くんに言い返した。「超、適当じゃん」
「だよな。ぜんぜん浅かったわ」有賀くんも即答し、自らの発言を否定した。「チッチのギャグ並みに浅かったぜ」
その瞬間、有賀くんを見つめる僕の目に陰りが生じた。前言撤回。さらば友よ。
「えっ、並みじゃないだろ。チッチのギャクのほうが浅いだろ」
僕を一瞥してからそう言うと、室山くんはバカにするように含み笑いをした。
僕は目を吊り上げ、視線を室山くんに移す。体が熱くなっていくのがわかる。思わず、うっ、と声が漏れる。言わせておけばなんだとこのやろう! ぶるると体が打ち震える。
いちいち相手にしたくはなかったけど、室山くんの人を食った表情にさすがに怒りを覚えた。彼は人を怒らせることにかけては天下一品だ。僕はかっと目を見開き、きりりと室山くんを睨みつける。
「あっ、うそうそ。ごめんごめん。そんな怖い顔するなって、チッチー」
大きく開かれた僕の目を覗き込みながら、室山くんが平謝りする。だけど目は笑ったままだった。
僕はぎゅっと唇を噛む。
くっそー。なにか仕返しできないものか。
これ以上何か言っても火に油を注ぐだけなのはわかっている。とりあえず表情は戻したものの、内心は穏やかではなかった。僕は唇を噛み締めたまま視線を斜め上に向ける。彼と目を合わせている限り怒りは収まりそうにない。
そんな僕の胸の内など知る由もない室山くんは、何事もなかったかのように「それよりさ」と切り出すと、先ほどの話の続きを始めた。「ああ、なんだったかなあ、その子役の名前」さっきはそのあとに冗談を口にしたけど、それは実際の名前に似ていたからぽんと思いついただけだったらしく、本当に名前は思い出せないようだった。「なあ、おまえら、誰か知らない?」
「知らなーい」と竜平くんが答える。
「知ってても教えなーい」ギーくんは意地悪く笑った。
「室山だから教えなーい」と真顔で言ったのは有賀くんだ。
みんなはいつものようにとぼけて室山くんをからかった。実際に名前もわからないといった様子で。
「おまえらっ、いい加減にしろ」声を張る室山くんもにやにやしている。
僕たちはみな、一様に笑みを浮かべ、それぞれの反応を楽しんだ。ふだんと変わらない光景だった。
「そうだ。ビデオケースのラベルのところに子役の名前が載っているかも」突然そう言ったかと思うと、室山くんはすぐに自分の席に向かった。「ちょっと確認してくるわ」
室山くんの背中に向かって有賀くんが呟くように言う。「ラベルだけに調べるのか」
「有賀っ、うまい。九十点!」ギーくんがにこやかな表情で叫ぶ。
思わぬ高得点に僕は目を丸くしてギーくんの横顔を眺める。
室山くんは、一瞬だけ有賀くんを睨んだけれど、すぐに手元に視線を移すと鞄の中身を弄り始めた。僕は気を取り直し、その様子を怪訝な視線で見守った。
こいつ、「スタンド・バイ・ミー」のビデオを学校に持ってきているのか。そういえば友達と交換するとかで、たまにアダルトビデオも学校に持ってきているよな。今日も持っていたりしてな、アダルトビデオ。ははっ、まさかな。
しばらくして、鞄を小脇に抱えて中身を確認しながら室山くんが僕たちのところへ戻ってくる。冴えない表情だった。
「あー、残念。子役の名前は書いてなかったわ」開口一番そう言うと、室山くんは落胆した様子をそれ以上見せることなくおもむろに鞄の中から一本のビデオテープを取り出した。「こっちのには小林ひとみって書いてあるのにな」
「バカッ、おまえ、それ、AV女優の名前じゃないか!」
竜平くんがすぐに叫ぶと、周りから再び、大きな笑い声があがった。そんなみんなの笑顔を眺めながら室山くんは満足そうにうなずいていた。
僕もそこでつい、みんなと同じように笑ってしまったのだけれど、それはおもしろかったからではなく、本当にしょうがない奴だなと呆れたから苦笑したに他ならなかった。いくらエロ好きな室山くんだとしても、なにもわざわざ頻繁に学校に持ってくることはないだろうにと思う。抜き打ちの持ち物検査があるかもしれないと危惧したことはないのだろうか。
みんながまだ笑っている最中、不意に「なあ、室山」とギーくんが声をかけた。視線を向けると彼はにこやかな笑みを浮かべて右手を室山くんのほうへ差し出していた。「それ、貸して」
僕はふっと口元を緩め、瞳を輝かせているギーくんを見やる。いつだったかはもう忘れたけど、以前、彼が、「俺は小林ひとみの大ファンだ」とみんなに公言していたことを思い出した。
「ラバーズ・フィニッシュをか?」
室山くんがとぼけ顔で訊き返す。性格上、からかわないわけにはいかないようだ。ギーくんを見つめる彼の表情に、次第に嫌味な色が醜い笑みとなって伴い始めていく。
しかしギーくんも黙ってはいなかった。彼はすぐに「そう。ハーレム帝国を築くから」とやり返した。
そしてそれからの二人のやりとりは、互いに意地を張り合うだけの、くだらない言い争いに発展していった。
「いいよ。賃料は前払いで百万円ね」
「たったの百万? 小切手でいい?」
「却下。キャッシュで払ってくれよ」
「あいにく今、現ナマはないんだよ」
「そっか。それじゃあ貸せなえなあ」
「チッ。おまえって意外とケチだな」そう嘆くと、ギーくんは渋い表情を作った。「貸してくれるくらい、いいだろうに」
二人がおもしろおかしく掛け合いをするのを、僕たちは慣れた感じで微笑ましく見守っていた。仲間内でのこういった意地の張り合いはいつものことだから途中に口を挟むようなことはしない。
「ああっ、有賀!」と突然、室山くんが叫んだのは、みんながまだ余韻を楽しんで気を緩めている最中のことだった。だからみんなは一斉に表情を強張らせてから室山くんのほうへ視線を向けた。そしてすぐに、彼が声を荒げた理由を知った。
室山くんが急に叫んだ原因は、言い合いをしている二人の隙をついて、有賀くんがこっそり小林ひとみのアダルトビデオを持ち去ろうとしていたからだった。もしかしたら彼も彼女のファンなのかもしれない。
「黙ってビデオを持って行くなって!」室山くんが声を荒げ、有賀くんの手から強引にアダルトビデオを奪い返す。そして僕たちのほうへ振り向くや否や、なぜか突然、「だから竜平っ」と彼は続けて叫んだ。「さっさと百万円払えって!」
いつも唐突に起こる、室山くんの竜平くんいじりの始まりだ。
もはや習慣と化したその行為に気がつくや、みんなの口からは再び笑い声が漏れた。
「なんで俺がギーの代わりに払わなきゃならないんだよ!」
竜平くんは怒った口調ですぐに言い返したけれど、表情はとてもうれしそうだった。
室山くんがにやりとして「だってさ」と言う。「そろそろ竜平のいじりどきだろ?」
「別にいじらなくてもいいから!」
「またまたあ」室山くんは口を大きく横に広げながら竜平くんを指差した。「本当はいじられるのを待っていたくせに。無理するなって、竜平」
きっと中学のときから、いやそれ以前から二人はこんな感じだったのだろう。息の合った掛け合いからそのことは容易に想像がつく。そしてこんなふうに話の途中に、不意にわけもなく竜平くんを的にすることは、室山くんの尽力により既に僕らのあいだでは日常のごくあたりまえの儀式として浸透していた。だからみんなは、まるで示し合わせていたかのように、このあとすぐに自然と口を揃えることができたのだった。
「早く払えよ、りゅうへーい」
「早くしないと利子がつくってよ、りゅうへーい」
「ちゃんとキャッシュで払えよな、りゅうへーい」
「おまえの髪型、前から気持ち悪いと思っていたんだよ、りゅうへーい」
みんなは竜平くんをからかうことには慣れている。わざと名前を間延びさせたのは一つの応用に過ぎない。どさくさ紛れに悪口を言うのもよくやる手だった。
「おまえらっ、いい加減にしろ!」
竜平くんは顔を紅潮させて尖った声を出したけど、それでもやはりうれしさは隠しきれないといった様子で口元は綻んだままだった。そんな彼に僕は内心で優しく声をかける。やっぱり待っていたのね、りゅうへーいくん。
「竜平をいじるのも最近飽きてきたな。いっそ沈めるか」
突然、室山くんが軽い口調で重い台詞を口にした。
今まで散々いじっておいていきなり沈めるだなんてまるで鬼だな、室山くん、と僕は思わず、噴き出しそうになる。こういったきつい冗談をぽんと言えるのも二人が親友である証拠だった。それだけ二人は仲が良い。
「あっ、忘れるところだった。そうだよ。子役の名前だよ」不意に言葉を改めながら、室山くんは、ビデオを持った手を喉元近くまで上げた。「ここまできているんだけどな」
眉根をきつく寄せているその険しい彼の顔つきは、まさに思い出しそうで思い出せないといったジレンマを抱えている苦悶の表情だった。ここまで思い出そうとしているのだからなにがなんでも思い出したい。作られた眉間の皺には彼の執念が刻まれていた。
周りの者も、名前はわからないといった具合に小さく首を傾げている。今度はふざけることなく誰もが真剣に考えている様子だった。
ただ僕だけは、至ってふつうの顔つき、及び態度でいた。なぜなら最初から僕はその子役の名前を憶えていたからだった。ずっと名前を言わなかったのは、室山くんにむかついていたから意地悪をした、というわけではない。そんなことで仕返しをしてもさほど僕の気は晴れない。どうせ仕返しするなら、もっとギャフンと懲らしめるようなものがいい。それにはこんな、名前を知っているのにわざと教えないといった些細なことでは、望むような効果なんて期待できない。
それではなぜ、名前を言わないのか。
それはその子役本人の名誉のためにほかならなかった。
まだ子供とはいえ、僕はこの俳優が大好きだった。それなのにだ。いくら笑いをとりたかったからといって、なにもラブホテルの名前と間違えることはないだろう。失礼にもほどがある。だから最初はすぐに名前を教えてあげようと思っていたけれど、彼がふざけた瞬間、言う気が失せたのだった。リバー・フェニックス本人も、まさか自分の名前がラブホテルの名前と間違えられるなんて夢にも思っていないに違いない。
みんなの会話がぴたりと止んだ。
聞こえるのは小さな唸り声だけだ。
「ところでさ」不意に竜平くんが声を発し、やがて沈黙の時間は破られた。彼は室山くんに向かって「おまえの姉ちゃん」と指差した。「めっちゃくちゃ怖いのに、借りたものを勝手に持ち出したりして大丈夫なのか?」
竜平くんがそう言った瞬間、室山くんに狼狽の色が浮かんだのを、僕の目は見逃さなかった。
「だ、大丈夫だって。それに姉ちゃんは今、仕事中だしさ。俺のほうが先に帰宅するからぜんぜん余裕だって」
言 葉とは裏腹に、室山くんの口ぶりにはまったく余裕が見られなかった。明らかに動揺の色を隠せずにいる。よほど姉のことが怖いのだろうか。
これは――。
僕はさりげなく窓際に移動すると、おもむろに校門のほうへ視線を送った。閃いたときには行動に出ていた。そして漠然と外を眺めながら、僕は「あれ」と小首を傾げる。それから、「校門のところにいるのは、もしかして室山の姉ちゃんじゃないか?」とおもいきって口にした。
すると「えっ、うそだろ、おい」とすぐに室山くんが反応を示したので、僕は確信しながら「なんかすごい剣幕でこっちを見ているんだけど」と捲し立てた。「絶対にあれ、怒っているよな」
途端に目を丸くし、「ええっ、ちょ、マジで? どこだよ」と慌て始め、室山くんが急いで僕の隣へやってくる。よほど姉が怖いのだろう、彼の声は上擦っていた。
そんな彼のうろたえぶりを十分に堪能したところで、僕は耳元で「嘘だよ」と優しく言う。「あれ、びびっちゃったね」
室山くんがはっとした表情で「あっ、やべっ」と小さく叫ぶ。
「へへーん、びびった罰!」
僕は満面に笑みを浮かべ、室山くんの肩をどんどんと二度殴る。言うまでもなく、彼のお姉さんには一度も会ったことはない。
*
「くそっ、今のはやられたな」
悔しそうな表情で室山くんが口走る。
はい。やりました。
僕は目だけで答える。
「しかし肩パンチって痛いな」
はい。やられましたから。
そのまま僕は目でものを言う。
「痛い思いをさせてごめんな、チッチ」
僕は目を見開き、悪友の顔を見つめる。
お、懲りたのか?
「これからは先に竜平で試すぜ」
僕は眉を下げ、渋面を作る。
げっ、懲りない奴。
「最初はやっぱり竜平だな。礼儀として。わはははは」
竜平くんにとっては傍迷惑な礼儀でしかない。
僕はやれやれといった具合に小さく首を振る。
周りのみんなも呆れた顔つきをしている。不遜極まりない奴だなと思っているのだろう。
そこで不意にギーくんが、室山くんの話を遮るように「あのさ」と声を発した。みんなの視線がゆっくりと彼のほうへ向く。「俺の話を聞いてもらっていいか?」
ふだんの穏やかな笑顔はそこにはなく、いつになくギーくんは神妙な面持ちをしていた。なにか深刻な話だろうかと全員が感じたのだろう、ほぼ同じタイミングで、みんなの顔から笑みがすーっと消えていった。
僕たちの周りに幾ばくかの緊張が走る。
みんなの顔をひととおり見回してからギーくんは唇を開いた。
「俺さあ」
「うん?」
「実はさ」
「うん?」
「小林ひとみだけはゆずれんわ」
えっ、と思わず、声が漏れた。それからしばらく僕の口はぽかーんと開いた状態のままだった。遅れて思考が働く。僕は瞬きするのも忘れて彼の顔をまじまじと見つめた。ギーくん、まじめに言ってるのか?
少しでも真剣に聞き入ろうとした僕らがバカだった。まさかそんな話をまじめな顔つきでしてくるとは思ってもいなかった。冗談じゃないよ、まったく、と僕は溜息をつく。ギーくんへの抗議の同意を求め、周りにふと、視線を送る。
しかしながら、僕はそこで、再びあんぐりと口を開けて呆然としてしまうことになる。
なぜならほかのみんなが、ギーくんと同じように真剣な表情で深くうなずいていたからだった。これはいったい、どういうことだと僕の頭は混乱する。
ひとりうろたえる僕を尻目に、おのおのが重い口調で口を開き始めたのはそれから少し経ってからだった。
「ああ、ゆずれないぜ」
「ゆずるわけにはいかねえよな」
「こればっかりは絶対にゆずれないだろ」
「小林ひとみ以外なんてありえないからな」
みんなは噛みしめるように言った。
僕は疑問を胸にみんなの顔をきょろきょろと見回す。しかし冗談で言っているようには微塵も感じられなかった。誰もが険しい表情を崩そうとしない。ギーくんはともかく、みんなにとってもそれは重大なことであるようだった。
はっと我に返ると、急に気が重くなった。
僕は視線を落とし、考え込む。
みんなは小林ひとみのファンだったのか。まいったな。どうしよう。僕ひとりだけが愛染恭子ファンではないか。公表すれば格好の餌だ。きっとみんなから村八分にされるに違いない。それは嫌だ。なんとしても避けたい。ううむ、困った。ここはやはりおとなしく黙っておくのが得策か――。
人と違うっておそろしい。
合わせる気持ちを知った僕。
年ごろの僕たちは、言わずもがな、エッチ系の話題には誰もが興味津々だった。道端にエロ本が落ちているだけでみんなのテンションは上がってしまう。エロ本だけでもそうなのに、今はアダルトビデオが話の種。あっちの種も反応しているかはともかく、否応なくみんなの食いつき具合は増していった。
「だからさあ、その小林ひとみ、俺に貸してくれよー」
ギーくんが突然、AV女優の名前を強調して声をあげた。周りにいる女子にまで聞こえているであろうと思うには十分過ぎる大きさの声だった。
途端に室山くんが目を剥き、「シーッ! ギーのバカッ」と小さく叫んだ。「声がでかいって!」
わかったというように微笑んでギーくんが指でOKサインを出す。かと思ったら間髪入れずに、「その室山のアダルトビデオ、俺に貸してくれよー」と、今度は室山くんの名前を強調して繰り返した。
「ちょっ、こらっ、ギー!」室山くんが一層、取り乱す。「とりあえず落ち着け。ってか黙れって!」
うろたえる室山くんの姿は僕らの目に滑稽に映った。女子の目を気にしたのだろう、彼は忙しなく四方へ首を向けていた。けれど、こういった流れになると誰もが同じことを考えるわけで、お約束のようにみんながギーくんに便乗したのは言わば必然だった。
「その室山のアダルトビデオ、早くギーに貸してやれよー」
「あっ、有賀! てめえ、殺す!」
「その室山のアダルトビデオ、早く俺に貸してくれよー」
「だからしつこいって、ギー!」
「その室山のアダルトビデオ、早くギーに貸してやれよー」
「おい。チッチまで言うなって!」
「その室山のアダルトビデオ、早くギーに貸してやれよー」
みんながふざけて畳み掛ける。日ごろ室山くんが責められることはあまりないので、誰もがここぞとばかりにしゃしゃり出た。
しかし、室山くんが慌てふためいたのも僕のときまでで、最後に竜平くんが乗じた瞬間、彼の態度は急変した。それまではあたふたしていたのに、いきなり態度を硬化させたのだった。竜平くんが発言した瞬間にある程度予測できたことではあったのだけれど。
「竜平には言われたくねえ」
室山くんは表情を歪めて吐き捨てるように言った。
すると今度は、みんなは一斉に室山くんに追随したのだった。
「僕も竜平には言ってほしくない」
「変な髪形の竜平には言ってほしくねえ」
「竜平に言われたアダルトビデオなんか借りたくもねえ」
呂布も驚く手のひら返しだった。全員が竜平くんに冷めた視線を送っている。
「うるさいっ」と声を荒げ、竜平くんが顔を紅潮させる。「本当は俺だって言いたくなかったんだよっ」と唾を飛ばすと、「最初からこうなるのはわかっていたから!」と机を叩いた。
最後のオチで使われるのはもはや彼の宿命だった。かわいそうなくらい、毎回竜平くんはいじられる。
僕は、ときに、四苦八苦する竜平くんの姿を眺めながら、損な役回りだなあと同情したりもするけれど、いじられると決まってうれしそうに顔を綻ばせて反論する竜平くんはおそらく、心の中では役得だと思っているのだろう。今もそうだけど、口調や言葉とは裏腹にいきいきしている彼の表情が如実にそれを物語っている。
その後も僕らは、アダルトビデオの話題を中心に雑談を続けたのだけれど、何度も拝み倒し、ギーくんがついにビデオを借りることになったときなどは全員がガッツポーズを作って盛り上がった。中でも、有賀くんと竜平くんの二人が、まるで志望校に受かった友人を祝福するようにギーくんの背中を激しく叩きながら、「ほんと、よかったなあ」と声を弾ませ、自分のことのように喜びを表現したので、余計に場はやんややんやの盛り上がりを見せた。そんな彼らの様子を、僕と室山くんは微笑ましく見守った。
不意に誰かが口を挟んできたのは、そんなふうに、ギーくんを囲んで盛り上がっている最中のことだった。そしてその声は今までのどの声質とも違うものだった。
「な、名前だけどよ」
そう切り出してきたのはユキくんだった。ここにきて今日初めての発言だ。一応、彼もずっとこの場にいたのだけれど、心ここにあらずといった状態でぼうっと佇んでいるだけだった。それが急に、みんなの会話に入ってきたのだった。
このユキくん。女の子のような名前だけどれっきとした男の子で、しかも大男だ。身長は百八十センチをゆうに越えている。
また、ユキくんは、僕とは小・中学が一緒で、小さい頃から僕たちは親友の間柄だった。口下手で鈍感だけど、彼はとても純粋な心の持ち主で、しかも天然だ。そんなユキくんには昔から多くの人が惹きつけられる。ないものねだりというやつなのかもしれない。
みんなの注目を浴びながら、ユキくんは室山くんのほうを向いて「な、名前な」と繰り返した。「さっき、言ってたやつ」
一寸悩んだ顔つきをしてから、「おおっ、 さっきのやつか」、室山くんは興奮して激しく唾を飛ばした。「ユキは知っているのか?」
「お、おう。たった今、思い出したぜ」
ユキくんは照れ臭そうに頭を掻いた。
どうやらユキくんはずっと気になって思い出そうとしていたようだ。みんなはとっくに別の話題で盛り上がっているというのに。
天然で口下手なせいか、こういった具合に、ユキくんとみんなとの会話はたまにずれることがある。もっとも、ほかのメンバーはみんな頭の回転が速く、話の展開もどんどん変わっていくので、余計にユキくんの天然ぶりが際立ってしまうといった側面もあるのだけれど。
それにしても「スタンド・バイ・ミー」の子役の話は随分と前の話である。それを今さら掘り起こすなんてと、僕は眉を下げて親友の様子を窺った。
「それで、ユキ、何だったっけ? 早く教えてくれ」
言われて急に気になったのか、室山くんがユキくんを急かす。
子役の名前を知っている僕としては注目の瞬間だった。
ほかのメンバーも黙り込んでユキくんの発言に耳を傾けている。全員、心の隅に引っかかっていたのだろう。
みんながユキくんの口元を注視し、固唾を呑んで成り行きを見守る。
みんなの視線を一身に浴びながら、果たして、ユキくんは真剣な表情で口を開いた。
「し、しんぞうじゃなかったっけ? ハットリくんの弟の名前」
思考が一瞬固まる。
――えっ、そこ?
彼の言わんとすることは少し遅れて理解することができた。
辺りはまだ水を打ったように静まり返っている。
みんなは口を開けたまま呆然とユキくんを見つめていたけれど、時間が経つにつれて少しずつ脳が働き出したようで、ぱっと表情を作ると、押し寄せる波のように一斉に噴き出した。
「はははっ、それ、いつの話だよ」
「ちょっ、腹いてえ。ユキ、最高」
「おまえ、そのことを考えていたからずっと黙ってたの?」
「なあ、ユキの天然、さらに磨きがかかってねえか?」
「ほんと、いつもユキは笑わせてくれるよなあ」
「ユキは特別、百点満点!」
みんなから矢継ぎ早に言われ、ユキくんが狼狽の色を見せる。目は完全に泳いでいる。いくらこれが彼の専売特許とはいえ、会話がずれるにしても程度というものがあるだろう。
僕は、天然のおそろしさというものをまさに今、改めて思い知った。いやはや、すさまじい。
しかしユキくんの天然ぶりはここからが本領発揮だった。
「あれっ!? こ、子役って、ハットリくんの弟のことじゃないのか?」
動揺しつつもユキくんは主張し、周りを見回した。自信がないのだろう、表情は硬いままだ。
「は? 意味わかんねえよ」
「どうしてそうなるんだよ」
「もうね、ユキ、最高!」
みんながやんややんやと囃し立てる。
ユキくんはふっと表情を緩めると、「よせよ」と言ってはにかんだ。「て、照れるじゃねえか。へへへっ」
「別に褒めてねえから!」
ギーくんが大声で叫ぶと全員が一斉に腹を抱えて笑い転げた。
一同。「わははははは!」
今日もユキくんは絶好調だった。みんなのハートをわし掴みだ。それなのに彼は、みんが笑っている理由はいまいち理解していない様子だった。とりあえずみんなに合わせて一緒になって笑っている。誰の目にも彼の様子はそのように映った。
目尻に溜まった涙を指先で拭いながら、僕は微笑ましくユキくんを見つめる。昔も今も、きっとこれからも、彼の天然は僕の心を癒してくれるだろう。滑舌が悪く、すぐにどもってしまうのはご愛嬌だ。
ふとユキくんが、「だ、だけどな」と言って僕に視線を寄越してくる。笑いたくなるのを我慢しながら僕が「なに?」と訊ねると、彼は少し表情を曇らせてから言った。「な、なんでハットリくんの弟が口から?」
「えっ、ユキ」と言ったところでどうにも我慢できなくなって、僕はぷぷっと噴き出してしまう。そこからまたなんとか笑いたくなるのを堪え、「頑張って名前は思い出したのに、意味はわかってないの?」と震える声で訊いた。
「えっ? く、口からしんぞうくんが……」再び、ユキくんがうろたえる。「なっ、あ、あれっ!?」
僕は深呼吸して落ち着きを取り戻すと、優しい眼差しでユキくんを見つめ、一から説明
してあげる。口から心臓が飛び出るほど驚いた。そう言いたかったということを。
「あっ、ああー。心臓ね」説明を受けるとようやく合点がいったようで、ユキくんは急にぱっと顔を輝かせると白い歯を僕に見せた。「なるほど! チッチ、おまえ、おもしろいな!」
「いやいや」僕は半分笑いながらぶんぶんと手を横に振る。「僕なんかよりユキのほうが百倍はおもしろいな!」
「そ、そんなんでもねえよ。へへへっ」
ユキくんが照れて頭を掻く。
「だから褒めてないから!」
横から叫んだのはギーくんだ。
直後、「わははははは!」、みんながまた一斉に大笑いをした。
素朴で天然って素敵なことだと思う。いつだってユキくんはみんなのハートを羽交い絞
めだ。この先一生、僕は君の虜だよ。
このように、ユキくんを中心に笑いの輪が広がるのもいつもの僕らの習慣だった。そう、習慣だ。なぜなら毎日のようにユキくんは、他意はなくとも自然とみんなを笑顔にさせる
のだから。全員、そんなユキくんのことが心から好きだった。
「あっ、そ、それからよ」
みんなが大笑いをしている中、またもやユキくんが不意に話を切り出した。
おいおい、今度は何と言って笑わせてくれるんだい?
僕は期待に胸を膨らませ、きらきらした目を親友に向ける。けれど今回はどうも勝手が違うようだった。これまでのように動揺している素振りは一切なく、むしろ重大な発表でもするような緊迫した雰囲気をユキくんは醸し出していた。まじめな話なのかもしれない。頬の肉がすーっと下がっていく。
口元は緩んだままだったけど、みんなのあいだから笑い声が消えた。全員がユキくんの態度の変化に気づいている。
少しだけ重苦しさを孕んだ空気の中、ユキくんは低いトーンで続けて言った。「お、俺は同じ中学だから知っているんだけど」
刹那、僕は眉を顰め、若干身構える。同じ中学と言われたから、体が自然とそのように反応してしまった。彼と同じ中学出身といったら、この中では僕以外はいない。
ユキくんが一旦口をつぐみ、間を溜める。
じわじわと僕の心に不安が芽生えはじめてくる。
「何の話だ?」
ユキくんが大きく息を吸い込む気配を感じたのは、焦れた様子で室山くんがそう訊ねた直後のことだった。
急に耳なりがした、と思ったらそれは僕の心音だった。少しだけ動悸もする。なんだこの息苦しさは――とても嫌な予感がした。
やがてユキくんは僕と目を合わすことなく、真顔で「チッチって」と言った。「昔から愛染恭子の大ファンなんだぜ。当然、俺は小林ひとみ派だけどな」
目の前がぴかっと光った感覚を覚える。
すばり、嫌な予感は的中した。
彼の口が秘密を暴露したその瞬間に、僕の全身からは一気に力が抜けていった。それをここで言うか、と咎めたところでもう遅い。僕はだらりと肩を下げ、深く首をうなだれた。
どうやらユキくんは、みんなとは違うことを考えながら、それでいてそこのくだりだけはしっかりと聞いていたようだ。しかもここだけなぜか饒舌。まったくどもっていない。
なんとなく気まずい状況になった。
みんなが懐疑的な目をこちらに向けているのを肌で感じる。
僕は天井を仰ぎ、虚ろな視線を宙に浮かべ、藁にもすがる思いで、神様、どうかこのことは白日夢であってください、と心の中で嘆願する。脳裏にふと、とあるアダルトビデオのパッケージが浮かぶ。ポルノ女優、愛染恭子のデビュー作、「白日夢」だ。
「そうなんだ。チッチだけタイプが違うんだな。まっ、人それぞれだし、いいと思うぜ」
冷めた口調で有賀くんが言った。
僕に向けたみんなの視線は冷ややかだ。
愛染恭子のことよりも、僕が小林ひとみのファンでないことにみんなは驚いている様子だった。
人と違うっておそろしい。
疎外の気持ちを知った僕。
*
ここに集まっているメンバーたち。
お調子者でいたずら好きな室山くん。
いつも冷静沈着な有賀くん。
誠実で明るい性格のギーくん。
いじられキャラの竜平くん。
みんなのアイドルユキくん。
そして、僕。
この六人はことあるごとに集まるメンバーだった。それぞれに別の交流グループもあったのだけれど、だいたいいつも、自然とこの六人は集まっていた。
室山くんと竜平くんは同じ中学出身で、僕とユキくんは別の同じ中学出身だった。ギーくんと有賀くんはそれぞれまた違う中学の出身だったけど、二人が帰る方向は同じだった。
最初こそ互いに遠慮がちだったけど、僕たちがそれぞれ打ち解けるまでにそれほど長い時間は要しなかった。そして、このメンバーと過ごす日々のおかげで、僕の高校生活がいちだんと楽しいものになったことは間違いない。憶測だけど、それはほかのメンバーにとっても同じだったのではないだろうか。
また、みんなは人知れず様々な悩みや問題を抱えていたのだけれど、僕が銘々の現実を知るのは、そう遠くない未来のことだった。そして、仲間内のそれらを通じ、僕には学ぶことも多々あったのだった。
朝のホームルームが終わり、午前の授業が始まる。
やがて午前の授業も終わり、昼休みとなった。
昼休みになると、メンバーはそれぞれに食事を済ませ、それから、ぽつりぽつりと、いつものように窓際の僕の席の周りに集まってくる。まるで古くから伝わっている習わしのように。
「あっ! 俺、チッチに大事な話があったんだった」
ちょうど六人全員が集まったところだった。
不意に、室山くんが大きな声をあげた。
もしかして今朝、僕に声をかけてきたことと関係しているのだろうか。そう思いながら、僕はそっと室山くんの表情を窺った。
すると、室山くんは僕と目を合わせるや、「いやあ、すっかり忘れてたぜ」と言って指先でこめかみあたりを掻いた。「朝に言おうと思っていたのにさ」
おまえがはしゃぎすぎるからだろ。僕は冷めた目で彼を見つめ直す。
「それで、話は急なんだけどさ」
室山くんは僕の目を見つめたまま平然と話を進めた。心なしか彼の瞳に真剣な光が宿っているように見受けられたので、僕は少し表情を引き締めて話の続きを待った。
一拍置いてから、「チッチさ」と室山くんが言う。「ザザに入座しない?」
えっ、ザザ?
虚を突かれた思いの僕は瞬きを繰り返す。それから、眉根を寄せ、頭の中で彼の言葉を反芻した。さっと思考を巡らすと、やがてそれに思い当たった。
ああ、あの、「THE座」のことか。
思い出すと、急に室山くんの放った台詞が重みを伴って胸の内にすとんと落ちた。僕は小首を傾げ、今度は室山くんの心理をふと、洞察する。しかしながら理由はどうあれ、やはり腑に落ちなかった。まったくイメージが重ならない。この僕が、あろうことか、あのザザに?
この学校に昔から存在する非公認の文芸部であること。文化祭や三年生を送る会などで歌に合わせて踊ったりしていること。そしてコミカルな踊りというか振り付けが、意外と生徒たちのあいだで評判が良いこと。事実、去年の文化祭では黄色い声援もあがっていたほどだ。
僕が「THE座」について知っていることは、その時点ではその程度だった。
「そういえば室山は座員だったよね」
「まあね。でも、活動自体が少ないから、放課後はかなり自由だけどな」
――なるほど。
僕は小さく顎を引いてから、「しかしほんとに急だなあ。だけどなんでまた僕に?」、核心に触れる。
「いや、なんて言うかその」そこで一旦言葉を区切ると、室山くんは鼻の下を指でこすりながら照れた表情を見せた。「チッチさ、最近、元気なかったじゃん。だからザザに入座すれば少しは元気になるかもしれないと思ってさ。へへ」
彼の言葉を受け止めると、僕は体の奥のほうから息を吐いた。
室山くんが僕のことを気にかけてくれていただなんて――。
俯き、眉間に小さな皺を作る。少しずつ胸が熱くなっていくのを認める。指先は無意識に、なぞるように唇を軽く触れていた。
室山くんの推察は極めて的を射ていた。
彼が言ったように、この頃の僕は少しだけ元気がなかった。
それには理由があった。
手短に話すとこうなる。
僕は、高校入学と同時にバスケットボール部に入部したのだけれど、わけあって三ヶ月ほど前に退部していた。それからの数ヶ月間、僕は、一心に打ち込める目標を失ったことにより、なんとなく寂しい気持ちを胸にただ漠然と毎日を過ごしていたのだった。室山くんは、そんな元気のない僕に気がついていたようだ。
室山くんが少し声を落とし、「それにさ」と続ける。「ちょっと今、困っていることもあるんだよ」
視線を戻すと室山くんは苦笑していた。
「困っている? 何に?」
「うん。それがさあ」
懇願するように、室山くんが目を少し見開いて僕を見つめる。
室山くんによる説明はこうだった。
先月、卒業に合わせて三年生の座員が卒座したため、座員自体が極端に減ったらしい。なんでも現在は新三年生が二名、室山くんを含めた新二年生が三名の計五名しかいないとのことだ。そのため、もうすぐ行われる新入生歓迎会の場で出し物をやるには、あまりにも今の座員数だと物足りないとのこと。だから日々、座員を増やす努力をしているそうだ。僕が知らないところで、彼は目ぼしい人材に声をかけているらしかった。確かに去年の文化祭では十人くらいで派手に踊っていたのを記憶している。
「そうなんだ」と返しつつ、僕は室山くんの目を見つめたまま思考を巡らせる。おそらく僕のことを気にかけていたというのはあとづけで、単純に人数集めがそもそもの目的なのかもしれないなと思った。「ところで、室山はなんでザザに入ったんだ?」
「そんなの決まってるじゃん」僕が訊くと、室山くんは揚々と即答した。「そこにザザがあったから」
瞬間、僕は眉を顰める。
……。
登山家の類いか? そこに山があったからみたいではないか。
訝る僕を尻目に、室山くんは軽やかに「それに目立つしさ」と続けて言った。
僕は、ああ、やっぱりそれかと、今度は表情を崩して眉を下げる。わかりやすい理由に心底納得した。いかにも目立ちたがり屋の彼らしい。
「あとさ、おもしろいこともあるのよ」室山くんはさらに言うと、不意に気持ち悪い笑みを肉付きのいい頬に浮かべた。「マジであのときも最高だったなあ」
どうも室山くんは思い出し笑いを堪えているようだった。視線は宙に浮き、口元はなんとも締りがなくなっている。
僕は再び眉根を寄せ、「おもしろいことっていったいなんだよ」と訊ねる。
「まあ、入ってみたらわかるよ」気持ち悪い笑顔はそのままに視線を戻すと、室山くんは僕の肩をぽんぽんと気安く叩いた。「だから、なっ、チッチもザザに入ろうぜ」
おもしろいことはちょっと気にかかるけど、人前で踊ったりするのはかなり恥ずかしい。
僕はザザに入ったときのことを考えてみた。だけど、やはりいまいちピンとこない。それもそのはずだった。自分が控えめな性格であることは自分が一番自覚している。
室山くんの誘いにあまり気が乗らなかった僕は、戸惑いを眉間に乗せたまま、首を縦に振らずにいた。視線を落とし、どうしたものかと思い悩む。
僕がなかなか結論を出せずにいると、どうしても入座させたいのか、室山くんは僕の機嫌をとるように明らかにそれとわかる作り笑いを浮かべた。
「ギーは野球部だから無理だけど、有賀も竜平もユキも入るみたいだしさ。だから、頼むよ、チッチ」
――えっ?
寝耳に水だった。
僕は顔を上げ、室山くんの顔をしげしげと眺める。それからすぐに周りを見回した。すると彼から名指しされた三人が、揃って顔中に困惑の色を浮かべている様子が目に留まった。
「おいおい、勝手に俺を入れんなって」
「なんで俺までしれっと入ってんだよ」
「な、なんのこと? ザ、ザザって?」
室山くんの告白は、どうも僕をザザに誘い込むために咄嗟に出たアドリブだったようだ。その証拠に、三人、もとい、二人は、猛反発している。ユキくん、君は室山くんの話を聞いていなかったのか。
ごめんごめんと平謝りしながら、室山くんはみんなの顔を見回したけれど、「でもさ」とすぐに続けると、それから、「どっちみち人数が足りないから入ってくれよ」と開き直り、結局はそのまま頼み込んだ。「おまえら全員、俺様の家来なんだからさ」
室山くんの無礼な申し出に、予想どおり、みんながまた反発する。
「おまえのその顔がむかつくから断る」
「おまえはいつも俺をからかうから断る」
「おまえ! 俺! おまっ、おまーえ……、俺!?」
いきなり家来扱いされた三人は、約一名を除き、目くじらを立てて室山くんを責め立てた。
だけど、みんながいる前で切り出したからちょうど都合が良いとでも思ったのか、室山くんは執拗に説得を続けると、半ば強引にではあるけど、ザザに引き込むことに成功した。僕が入るならという条件付けで、有賀くんと竜平くんの二人から承諾を得たのだった。何度目かの説明でようやく事情を把握したユキくんだけ、放課後はバンドの練習があるからというのを理由に辞退を申し出た。「というわけで、すまんな。む、室山」
予想もしていなかった展開に、僕はまた眉間に困惑を乗せ、真剣にどうしたものかと悩んでしまう。僕が入るなら入るという、有賀くんたちの他人任せの考えには疑問符がつくけど、どうせ放課後は暇なんだし、それならみんなで入ったほうがおもしろいじゃないかとでも思っているのだろう。確かに僕にしろ、彼らにしろ、何も部活動はやっていないし、用もないのに放課後は教室に居残っているのだから、はっきり断る理由は何もない。
僕 はみんなから視線を逸らすと宙にそれを彷徨わせた。おい、おまえはどうしたいんだと心の中で自問する。
僕はほかの奴とは違う、なんてことをいつも思っているくせに、実際に大したしたことをやっているわけでもない。このままだと僕はつまらない男になってしまうのではないだろうか。バカなことでもいいから、今はなにかに情熱をぶつけたほうが良いのではないか。この際、あとづけだったことは置いとくとして、わざわざ僕のことを気にかけてくれたのだから、ここは室山くんの顔を立てるべきではないか――。
小さな葛藤だった。
僕は現状維持と新たな環境を天秤にかけて思い悩んだ。時折薄く目を閉じ、同じ質問を何度も自分にぶつける。しかし気持ちははっきりしない。少し前向きに傾いても、どうしても、人前に出る行為、が胸に引っ掛かってしまう。やはり引っ込み思案な僕にザザは務まりそうにない。だけどみんなは僕が入るなら入ると言う。困った。どうしよう。なかなか結論を出せないまま時間だけが過ぎていった。
そんなときだった。
不意に「チッチ」と呼んだかと思うと、ユキくんが「あ、相変わらず考え過ぎだ」と苦言を呈してきたので、僕は思わず、どきりとし、彼の目を見つめたまま固まってしまった。間抜けな表情をした僕に向かってユキくんが微笑んで言う。「たまに、こ、この世の不幸を全部背負っているような顔をしてるし」
「いや、そんなことはないけど……」
僕は言葉に詰まり、ふと視線を落とす。親友の言葉は重かった。
そんなふうに見られていたのか――。
きつく口を閉じ、そのまま黙り込む。
さすがに幼馴染だけあって、ユキくんは僕のことを本当によくわかっている。なんでもすぐに考え過ぎてしまうのは小さい頃からの僕の悪い癖だった。つまりは優柔不断なのだ。もっとも、自分の意見を持たなくなったのは父親のせいではあるのだけれど。
「まあ、チッチもさ、軽い気持ちで今を楽しんでいこうぜ」
横から室山くんがそう言って、僕の背中をぽんぽんと叩いた。
彼のこの言葉に、僕の気持ちはふわっと軽くなった。背中を叩いてくれたことでなにかこう、変な憑き物でも落ちたような、そんな感覚を覚えた。ふっと周りを見れば、笑顔を浮かべて僕を見ている仲間がいる。自然と気持ちが前向きになる。今度は後退する兆しはない。
僕は息を大きく吸い込み、決意する。
ザザに入っても構わないよな。有賀くんや竜平くんも、僕が入れば入るって言っているのだから。
あまり深く考えないようにしよう。そう思うと、それまでもやもやしていた気持ちは一気に晴れ渡っていった。入座という結論を導くに至り、なんとなくだけど、全身を流れる血が騒ぎ出したように感じられた。
「それもそうだよな」僕は顔を上げるなり快活に言った。「うん。わかったよ。ザザに入るよ」
「おおっ、マジで?」途端、室山くんが目を剥き、少ししてから顔中に笑みを浮かべた。「やったあ! チッチ、ありがと。サンキューな!」
まさに子供のようだった。室山くんはおもちゃを買い与えられた幼子のように飛び上がって歓喜の声をあげると、そうかそうかといった具合に僕の肩やら背中やらを容赦なく何度も叩いた。心から喜びを表現している。さらには、彼の無邪気な笑顔からはほっとした気持ちも汲み取れた。ザザの人数が増えることがよほどうれしいのだろう。
自分のことのように喜ぶ室山くんを見つめながら、僕はふっと目尻を下げた。こんなにも喜んでもらえるなら、最初からすぐに承諾すればよかったなと今さらながら思う。
しかし、僕の緩んだ表情はこのあとすぐに硬いものとなる。
「じゃあさ、急いで演目を決めないといけないからさ、チッチ、今から一緒に隣の教室まで来てくれよ」
喜んだのも束の間、すぐに素に戻って早口にそう言うと、室山くんは僕の両肩に手をかけた。その彼の突飛な言動が僕の顔から笑みを消した原因だった。
「は? 演目? 急ぎ?」
急な申し出に僕は面食らう。
室山くんはさもありなんといった表情だ。
「さっき、新入生歓迎会の話をしたじゃん。それ、明後日なのよ」
歌に合わせて踊るパフォーマンスのことをザザでは「演目」と呼んでいるらしい。
それはさておき、いきなり明後日だからと言われても心の準備というものがある。そもそも、二日後にデビューなんてこと自体、僕の中ではありえなかった。おいおい、無茶言うなよな、と思ったところで、あれ、ちょっと待てよ――ふと大事なことを思い出した。
無理やり手を引こうとする室山くんを制し、僕は「なあ、有賀と竜平は連れて行かないのか?」と訊ねる。なぜならその二人がその場からまったく動く気配を見せなかったからだ。室山くんからも、彼らを気にかける様子は一切見受けられない。
これはどういうことだ?
疑問が脳裏を占めたところで室山くんがさらりと言った。「ああ。断られたからな」
すぐには意味がわからず、僕はきょとんとした顔つきで室山くんの横顔を眺める。
気配を察したのだろう、「いやね」と言って室山くんが振り向く。真顔だった。「有賀と竜平には先に断られているからさ」
「はあ?」僕は驚かずにはいられない。当然だった。「ちょっと待て。意味わかんない。僕が入れば二人とも入るっていう話は、もしかして嘘?」
「うん。嘘。外堀を埋めるために協力してもらっただけ」
室山くんの口調は淡々としたものだった。とても事務的だ。顔つきも無表情に近いものがある。
将来勧誘ビジネスを始めても君なら成功間違いなしだとつい、感心しそうになったけど、まんまと騙された僕の気持ちがこのまま収まろうはずがない。
「だめ。却下。許可しない」僕はきっぱり言うと、眉を吊り上げ、みんなの顔を順番に睨みながら声を荒げた。「有賀も竜平もザザに入れ!」
「やべえ。チッチが怒った」
「わかったよ。入ればいいんだろ、入れば」
「おっ、マジかよ。二人とも入ってくれるのか。ラッキー」
「仕方ないだろ。チッチが怒るんだから」
こうして、僕を含めた三人が、誰ひとりとして異を唱えることなく自主的にザザへと入座した。
強制などという言葉は僕の辞書にはない。そして、ザザでの活動を機に、僕は自分の中で何かが変わっていくのを自覚していくことになる。