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第5話 名前

 その夜、俺は孤児院の硬いベッドの上で、天井を見つめていた。

 外はまだ雨が降り続いている。窓を叩く不規則な雨音が、日中に経験した『出来事』の余韻をかき消そうとしているように思えた。


(……やってしまった)


 暗闇の中で、自分の掌を見つめる。

 モブとして、透明人間のように生きるはずだった。誰の記憶にも残らず、ただ背景の一部としてやり過ごす。それが、この弱肉強食の『ヤンキー漫画の世界』で平和を勝ち取るための、唯一の最適解だったはずだ。


 なのに、俺は彼女を助けた。


 合理的に考えれば、放置して立ち去るのが正解だった。彼女が何らかの抗争の渦中にいるのは明白だったし、関われば間違いなく『物語』に引きずり込まれる。


 だけど。

 目を閉じると、背中に残ったあのかすかな重みと、震える吐息が蘇る。


 かつて、ピアノを弾いて「天才」と持て囃され、転落した前世の俺。

 そして、両親に化け物扱いされ、心を殺した今世の俺。


 どれだけ自分を押し殺そうとしても、あの瞬間の衝動だけは否定できなかった。理不尽な暴力に蹂躙され、絶望に沈んでいた彼女の瞳に、かつての自分自身の姿を重ねてしまったから。


「……馬鹿だな、俺は」


 独り言が、冷たい空気の中に溶けていく。

 あと三日で卒業だ。そうすれば、この地獄のような日常ともおさらばできる。翔太たちとは別の中学に行けるし、今度こそ本当の『平穏』が待っているはず。


 だから、これは一回きりの間違いだ。

 名前も名乗らず、顔もなるべく見せないようにした。彼女にとって俺は、雨の中に消えたただの奇妙な『通行人A』で終わる。

 それでいい。いや、それがいいんだ。


 俺は自分に言い聞かせるように、毛布を深く被った。

 あと少し。あと三日だけ耐えれば、俺の『モブ・ライフ』は第二章へ進めるのだから。


 * * *


 翌朝、雨は上がっていた。

 どんよりとした曇り空の下、俺は重い足取りで学校へと向かった。


 校門の近く。

 いつものように、たむろしている翔太たちの姿が見える。だが、今日は明らかに様子がおかしい。彼らは何かに怯えるように、青ざめた顔で固まっていた。


 その視線の先に、彼女がいた。


「…………あ」


 心臓が嫌な跳ね方をした。


 昨日の、ボロ雑巾のような姿ではない。

 泥だらけだった金髪は美しく整えられ、顔のアザには白い眼帯が痛々しく貼られている。制服の上に黒いスカジャンを羽織ったその姿は、ただそこに立っているだけで周囲の空気をピリつかせるほどの、圧倒的な威圧感を放っていた。


 北川中の女番長、山城玲愛。

 ヤンキー漫画の世界において、彼女のような『強者』が、わざわざこんな弱小地区の小学校に現れる理由なんて、一つしかない。


(……逃げ切れるわけ、なかったか)


 俺は視線を逸らし、歩みを止めずに通り過ぎようとした。

 気づかないふりをしろ。俺はただの、どこにでもいる、いじめられっ子の小学生だ。


 だが、その淡い期待は一瞬で打ち砕かれる。


「――待てよ」


 低く、けれど芯の通った声が俺を引き止める。

 通り過ぎるはずだった俺の正面に、彼女がピタリと立ちふさがった。


 周囲の連中が、ヒィッと息を呑む音が聞こえる。


「お、おい嘘だろ……なんで北川の『姫』がこんなとこに……」


「あいつ、何したんだよ……殺されるぞ……」


 翔太たちが震えながら囁いている。


 俺はゆっくりと顔を上げた。

 彼女の鋭くもどこか澄んだ瞳が、まっすぐに俺を射抜いている。


「…………おはようございます。何か、御用でしょうか」


 俺は努めて無機質な、パシリとしての声を出す。

 けれど、彼女は俺のそんな偽装など見透かしたように、さらに一歩、距離を詰めてきた。


 周囲の喧騒が遠のき、世界に二人だけになったような静寂が訪れる。


「……見つけた。昨日、雨の中であんたが着せてくれたこれ、返しに来た」


 彼女の手には、洗濯されて綺麗に畳まれた、俺の体操服があった。

 その上に、小さな、けれど確かな温もりがこもった書き置きが添えられているのが見えた。


「…………人違いじゃないでしょうか」


「しらばっくれんなよ。その緑の目……忘れるわけないだろ」


 逃げ道は、もう完全に塞がれていた。

 玲愛は俺を真っ直ぐに見据えたまま、昨日と同じ問いを口にする。


「――あんた、名前は?」


 名前。

『俺』の名前は、一体なんだ?


 前世の記憶に縋る自分か。それとも、心を殺して空っぽになった今の自分か。

 一瞬の逡巡。だが、彼女の誤魔化しのきかない瞳を見つめ返しているうちに、無意識のうちに俺の口角が上がっていた。


 考えるまでもないことだった。

 前世の記憶も、今世での絶望も、すべてを内包して今ここに立っているのが『俺』なのだ。名前も、肉体も、世界すらも変わろうと、『俺』は『俺』だ。


 俺は、彼女に向けてゆっくりと口を開く。


 俺の名前は――――


「――廻。空樹うつろぎめぐるだ」


 空っぽになった心で、再び巡り始めた俺の人生。

 それが、彼女の前に立つ俺の、本当の名前だった。

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