玲愛視点:残響
エントランスの自動ドアが閉まる音を聞いて、私はその場にへたり込んだ。
膝の力が抜け、冷たいタイルの上に崩れ落ちる。全身に刻まれた痛みが、先ほどまでの凄惨な現実を突きつけてくる。
……さっきまで、私は死んでいたはずだった。
背中を預けていたはずの副総長――一番信じていた右腕の裏切り。
多勢に無勢で路地裏のゴミ溜めに沈められ、意識が薄れゆく中で、かつての仲間たちの嘲笑を聞いていた。
『女がトップに立ってんじゃねえよ』
『所詮はただの女だ。番長なんて名前だけだろ』
何度も何度も踏みつけられ、泥水をすすらされた。心がポッキリと折れる音がした。
もう、このままここで冷たくなればいい。そう思っていた。
なのに。
泥の中に、誰かがいた。
私を背負って、雨の中を歩く少年。その背中はひどく細くて、冷え切って震えていた。私と同じくらい、あるいはそれ以上にボロボロなはずなのに。
痛みに耐えながら、私の汚れた体を拭き、氷をあててくれた。名前を尋ねても答えず、ただ『通行人A』のように振る舞おうとする。
その不器用な優しさが、諦めきっていた私の胸の奥を激しくかき乱した。
* * *
帰宅した私を待っていたのは、涙で顔をくちゃくちゃにした母と、青ざめた表情で立ち尽くす父だった。
「玲愛……っ、あんた、どこで何を……! すぐに救急車を――」
「待って……っ、病院は、いいから……!」
かつて『伝説の総長』と呼ばれた母の目から、初めて見る涙がこぼれ落ちていた。私は必死に首を振り、救急車を呼ぼうとする母を止める。
どうしても、今すぐ確かめなければならないことがあったから。
父は震える手で分厚い救急箱を広げ、慣れた手つきで私の傷の応急処置を始めてくれた。
いつもなら「過保護だ」と突っぱねていたはずのその温もりが、今の私にはあまりに切なく感じられた。
軽く手当てをしてもらった後、自室に逃げ込み、窓の外を見つめる。
この街の冷たい雨音は、私から全てを奪っていくものだと思っていた。けれど、あの子の不器用な体温だけは、雨の中でも決して消えなかった。
(……見つける。絶対に)
私は震える手でスマホを握り、知人の番号を呼び出した。
電話の向こうで出たのは、西中の柳だ。他校だが、この辺りで一番顔が広く、腕の立つ男。
「……もしもし。柳、あんたに聞きたいことがある」
「お? 玲愛か。珍しいな、わざわざ俺に連絡なんて。……お前、なんか声が――」
「いいから聞いて。……緑の瞳をした、無口な男の子、知らない?」
電話の向こうで、柳が少しだけ沈黙した。
「……ああ。一人、心当たりがある。昨日会ったばっかだ」
「……本当に?」
「西山小学校の六年生だ。……あと三日で卒業だってよ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
彼もまだ、この街にいる。
「……下には連絡しといてやる。明日だけ、そっちから手を出さない限り、お前に手は出させねえようにしとく。あとは勝手にしろ」
「……ありがとう、柳」
電話を切り、私は肩に乗ったままの少年の体操服をきつく握りしめた。
彼が何者であれ、なぜあんなにも傷ついていたのかも知らない。
でも、あとたった三日しかないこの街のどこかで、私は必ず彼を見つける。
あの子が言った「これが普通かと思いますが」という言葉。あの緑の瞳に宿っていた、ひどく深く、冷たい諦念。
彼が抱える痛みは、私のものよりもずっと底知れず、暗いものかもしれない。だからこそ、今度は私が彼を引っ張り上げなければならないのだ。
窓を叩く雨の音が、以前よりも少しだけ心地よく感じる。
私は傷だらけの体を引きずりながら、ゆっくりとベッドへ向かった。明日になれば、また血みどろの世界が待っているかもしれない。でも、今の私は以前の私とは違う。
あの子がくれたこの『温度』を、私は絶対に忘れない。
両親が私の身の安全のためにと決めた、遠方の地への引っ越し。あと三日後には、私もこの街を離れる。
けれど、この街の片隅に、私の世界を変えてしまった恩人がいる。
夜の闇の中で、私は密かに決意した。
たとえ彼がどんなに拒絶しようと、何度でも手を伸ばす。あの雨の日に、彼が私を泥から引き上げてくれたように。
私の物語は、あの日、路地の奥で終わるはずだった。けれど、あの子のおかげで、今はまだ続いている。
窓の外、雲の切れ間から微かな月光が差し込んだ。
明日、また雨が降れば、私は傘を持って彼を迎えに行く。
今度は、私が彼の世界に灯りをともす番なのだから。
* * *
――もしまた会えたら、その時は名前を教えて。
私の世界を、あんなにも温かい光で満たしてくれた恩人の、本当の名前を。




