第4話 雨の日の出会い
小学校卒業を三日後に控えたその日は、ひどく雨が降っていた。俺は不良たちに傘をもぎ取られ、ずぶ濡れになりながら歩いている。
雨の日は好きだ。
雨音に耳を傾けているときは、自分の中の空洞が少しだけ埋まる気がする。世の中の全てが、雨の音に掻き消されていくような、そんな錯覚。
だからだろうか。
『帰りたくない』などと、柄にもないことを考えてしまったのは。
モブとして生きると決めた以上、こんな日に寄り道などすべきではない。絶対に何かが起こる。この街の悪意は、俺のような異分子を嗅ぎつけるのが上手すぎる。
それでも、今だけは。その衝動に身を任せてみたかった。
歩く。歩く。歩く。
気づいた時には、室外機の唸りが響く、路地の奥へと足を踏み入れていた。
そこで俺は、彼女と出会った。
『ボロ雑巾』という言葉がこれほど似合う人物を、俺は初めて見た。
手入れされていたであろうロングの金髪は、泥と血でぐちゃぐちゃに汚れている。特攻服はあちこちが裂け、そこから覗く肌は、まるで地図のように痛々しいアザが刻まれていた。
サラシだけを巻いた上半身に残る無数の暴力の痕跡。雨に打たれ、泥にまみれた彼女の姿が、その身に起きた凄惨な時間を雄弁に物語っていた。
本来の目的――モブとして平穏に生きること――を考えるなら、ここは黙って引き返すのが吉だ。
関われば、間違いなくヤンキーたちの抗争に巻き込まれる。
でも。
(これを見て見ぬ振りをするほど、『俺』は堕ちたくはない)
正直、自分でも驚いている。
まだ『俺』に、人としての情が残っていたのかと。見ず知らずの他人のために行動できるほどの余裕があったのかと。
だが、彼女は助けなければならない。『俺』が『俺』である為に。
俺は手早く行動した。着ていた上着で彼女の体を覆う。特攻服を着ているから中学生あたりだろうが、小柄なせいか、小6の俺と背丈はそう変わらなかった。
ノートを破いて置き手紙を書き、いつもの店員がいるコンビニへ走る。血濡れの俺を見て事情を察した店員は、何も聞かずに数枚のタオルと氷、水を手渡してくれた。
路地裏に戻っても、彼女はまだ目覚めていない。
濡らしたタオルで汚れを拭い、アザのひどい箇所に氷をあてる。俺は自分の体操服を彼女に着せた。体育の授業が終わっていて持ち歩いていたことが幸いした。
肉体年齢は12歳。だが、中身は高校生+6年だ。
それなのに不思議と、邪な思いは湧かない。 ただ『どうにかしたい』という、純粋な衝動だけが胸の内を占めていた。
ある程度の処置を済ませた時、彼女がゆっくりと目を開けた。
「…………なに、やっ、て……」
「動かないでください。傷が痛みます。名前は言えますか?」
「………山城…玲愛……」
「玲愛さんですね。住所は言えますか? 運びます」
「……何、言って……」
「言えますか、言えませんか。どっちです?」
「………北川中の……近くの神社……そこまで、行けば………一番、高いマンション、だから……」
「わかりました。運びます。揺れますが文句は言わないでください」
数年ぶりに触れた他人の体温は、泣きそうになるほど温かかった。
俺は彼女を背負う。驚くほど軽かった。この体格の少女ならもっと重いはずなのに。それほどまでに彼女は、この街の暴力に命を削られていたのだろうか。
路地を出て、大通りへ出る。通行人はずぶ濡れの俺たちを怪訝そうに見るが、今の俺にはどうでもいい。モブとして生きる計画? そんなものはとうに吹き飛んでいる。
背中の彼女の呼吸が、俺の体に熱いリズムを刻む。その熱が、今まで「空っぽ」だった俺の中に、ゆっくりと澱のように積もっていく。
「……なんで」
背中で彼女が小さく呟いた。
「……何がですか」
「……なんで、助けた。……あんた、自分も……ボロボロじゃん」
「………そう、ですかね。これが普通かと思いますが」
なぜだろう。俺にも分からない。ただ、この少女の姿が、かつて鏡に映った「理不尽に虐げられていたあの日」の自分と重なっただけだ。
「さあ。雨が強くなってきたから、早く帰らないと。風邪引きますよ」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
この夜の記憶を、いつか彼女が忘れてもいい。俺が彼女にとっての「通行人A」で終わるなら、それが一番だ。
「………あんた、名前は……」
「………さぁ。俺にも、よく分かりません。『今』の『俺』は、どっちなのか」
「………何それ……」
初めて、彼女が薄く笑った。チラッと見えたその横顔は、すっかり薄暗くなった夜のなかで、なぜかひどく眩しく感じられた。
マンションの前まで送り届けると、彼女は震える足で立ち上がり、何度も振り返りながらエントランスへと消えていった。
俺はその背中を見送ると、何事もなかったかのように雨の中を歩き出した。
孤独な孤児院へ戻る道のり。だが、先ほどまでの「空っぽ」な俺とは、何かが決定的に違っていた。
俺の中に、まだ他者を思いやる「人間らしい熱」が残っていたという事実。
それだけが、冷え切った体を少しだけ温めてくれていた。




