異変の真相
部屋の中は、長い病気の痕跡みたいだった。
壁一面のメモ。
「夢日記」と書かれたノートの束。
日付。地名。怪物のスケッチ。断片的な会話。意味不明な地図。
机の横には、印刷した自作に赤線を引いた束。
「昔から、変な夢を見るんです」
もちが言う。
「現実みたいに細かい夢。匂いも温度も痛みもある。起きても忘れない。最初は気味が悪かっただけだけど、書くようになって少し楽になった。外に出すと、中から薄まる感じがして」
「夢を書いてただけ?」
「最初は」
窓の外で、どこかのサイレンが鳴った。
「でも、何作かは、あとで似たことが起きた。最初は小さい事故とか、行方不明とか、その程度。偶然だと思おうとしたけど、数が増えすぎた」
「なら、やめればよかった」
言ったあとで、奏多は、自分の声に責める色が混じっていたことに気づいた。
だが、もちの方は、怒らない。
「やめたこともあります。でも、その時は、もっと悪い形で現れた。夢のままだと輪郭が曖昧で、現実に漏れ出す。書くと、少なくとも、範囲を決められた。終わりまで書けば、終わり方も少しは指定できる」
「じゃあ、どっちなんですか。書いたから起きたのか、書いたから抑えられてたのか」
「両方です」
即答だった。
「夢は種みたいなものです。書くと形になる。でも、それだけじゃ定着しない」
もちがスマホを手に取る。
開かれていたのは、小説投稿サイトの管理画面。
感想一覧。ブックマーク通知。アクセス解析。
「読まれると強くなる。信じられると輪郭を持つ。望まれると、現実に残る」
奏多は、動けなかった。
画面がスクロールされる。
そこに並ぶ感想の中に、見覚えのある文章が何度も出てくる。
『本当にありそう』
『現実になればいいのに』
『こんな世界に生きたい』
『この物語の住人になりたい』
全部、自分だった。
「あなただけのせいじゃないですよ」
もちは事務的に言う。
「でも、影響は大きかった。数じゃなくて、熱量の方が重要だから」
「……証明できるんですか」
「できません。でも、分かるんです」
こめかみを押さえながら、もちが続ける。
「夢の側で。定着する感触がある。誰かの強い願望が、向こうから押してくる」
奏多は吐き気を覚えた。
自分は読者。
無関係な観客。
安全地帯で震えたり興奮したりしているだけの人間。
そのつもりだった。
だが違った。
安全な席から、舞台が燃えればもっと面白いと願っていた。
しかも、それを、ほとんど無邪気に。
「今、外では、元に戻せって連中が集まってます」
もちが窓の下を見下ろす。
団地前には車が数台。
スーツの男。武装した人間。
政府、研究者、宗教関係。そういう手合いが勢揃いしていた。
「要するに、最後の物語を書けってことです。全部なかったことになる話を」
「書けるんですか」
「多分。完全じゃなくても、大半は消せる」
「……じゃあ、書けばいい」
言った瞬間、奏多は、自分の中にある嘘を自覚した。
もちも、それを見抜いていた。
「本心じゃないでしょう」
沈黙。
窓の外、曇った街の向こうに、見たこともない巨大な影が移動している。
恐怖はある。
死ぬかもしれない。
昨日までの生活が戻る保証もない。
なのに。
本当に、昨日までに戻りたいのか。
そう問われると、答えられなかった。
「俺、多分、最低です」
喉がひりつく。
「みんな怖がってるのに。死んでる人もいるのに。俺だけ、どこかで、やっと始まったって思ってる」
もちは何も言わない。
「小説が好きだったのは本当です。でも、それだけじゃなかった。俺は……ああいう世界なら、自分も何かになれる気がしてた。読んでる時だけ、自分が空っぽじゃない気がした」
「よくあることです」
「でも願ってた。安全圏から」
「そうですね」
慰めない。
だから、続けられた。
「だけど、今、分かった。俺が欲しかったのは、怪物でもダンジョンでもない。自分の人生を、他人事みたいに眺めるのをやめることだった」
口にした瞬間、それが核心だと分かった。
自分は、ずっと読者だった。
ページをめくる側。感想を書く側。
誰かが用意した起伏に熱狂する側。
現実では、何も選ばず、何者にもならず、ただ面白い物語を求めるだけ。
世界が壊れて、その逃げ場が消えた。
その結果、ようやく、自分が人生の当事者になった。
それが事実なら、皮肉どころではない。
かなり醜い。
「元に戻したら」
奏多は言う。
「また、みんな元の場所に戻るんですか」
「ある程度は」
「俺も?」
「たぶん」
「……嫌だな」
もちが、初めて少しだけ笑った。
疲れ果てた顔のまま、諦めたみたいに。
「あなたは、そう言うと思ってました」
「じゃあ、どうするんですか」
もちは机に向かい、白紙の画面を開き、キーボードに指を置く。
「終わらせる物語は書かない」
「外の連中が納得しますか」
「しないでしょうね」
「なら――」
「でも、残し方は選べる」
その時、ようやく、もちの目に生気が戻った。
書く人間の目だった。
「全部を野放しにはしない。怪物も災厄も、そのまま残せば地獄になる。だから、法則を変える。超常が存在すること。人間がそれに対抗できること。危険と同時に可能性も生まれること。読むだけの世界じゃなく、生きる世界として成立する形にする」
「そんな都合よく」
「都合ではないです。調整です。物語は、そういう仕事もできる」
外で怒鳴り声。
階段を上がってくる足音。
遠くから扉を叩く音。
もちが打ち始める。
文字が流れていく。
夢日記の断片。
過去作の設定。
現実で起きた被害。
そして、ここにいる奏多自身までが、一つの文脈にまとめ上げられていく。
まるで、最初から、この瞬間のために全部の短編があったみたいに。
奏多はその背中を見ながら、何もできない自分を噛みしめた。
だが、同時に、もう何もしない側には戻れないとも理解していた。
扉の前に立つ。
部屋の脇に立てかけられていた鉄パイプを握る。
手は震えている。
当然だ。
怖いに決まっている。
英雄でも何でもない、ただの大学生なのだから。
それでも、前よりはずっとマシだった。
少なくとも今は、自分が何をしているのか分かっている。
逃げるか、残るか。
責任を投げるか、持つか。
もう、「主人公になった気分」みたいな安い言い方では済まない。
選ぶしかない場面が来ただけだ。




