現実の裂け目に魅せられて
講義中、ノートの隅にタイトルを書く。
バイトの休憩中に更新確認をする。
夜、帰宅してから読む。
新作が来ていない日は、古い作品を読み返す。
なかなか終わっている生活だが、本人にとっては、それが唯一まともな時間だった。
読み返すたび、奇妙な感覚が増していった。
どの作品にも共通するものがある。
世界は、現実の延長線上にある。
電車も、コンビニも、大学も、市役所も、ちゃんと存在する。
人間は普通に生活している。
その上で、ほんの少しだけ、説明不能なものが混ざる。
朝になると、マンションの非常階段が十一階より上へ伸びている。
雨の日だけ、空から魚が降る地区がある。
深夜のコンビニには、人間に混ざって“期限の切れた存在”が立ち読みをしている。
市役所の地下には、地図にない避難経路がある。
異世界ではない。
現実の方が、少しだけ壊れている。
そこが、たまらなく良かった。
奏多は、薄々、気づいていた。
自分が息苦しかったのは、現実が退屈だからじゃない。
現実の見え方が、固定されすぎていたからだ。
大学。
バイト。
安アパート。
往復。
消耗。
我慢。
たまに、ささやかな娯楽。
そしてまた消耗。
その繰り返し。
もちの小説には、その毎日に、綺麗に亀裂が入っていた。
あるとき、奏多は初めて感想欄に書き込んだ。
『今回も面白かったです。現実のすぐ隣にある世界を見せられてる感じがして、本当にこんなことが起きるんじゃないかと思いました』
送信したあと、自分でも少し気持ち悪いなと思った。
やや熱がある。
だが、本音だった。
数時間後、返信が来た。
『ありがとうございます。そう感じてもらえたなら嬉しいです』
短い。
そっけない。
ほぼ業務連絡である。
しかし奏多は、その一文を十回以上読み返した。
終わっている。
だが、読んだ。
それ以降、彼は、ほぼ毎回感想を書くようになった。
『夢じゃなくて、現実がずれた感じが最高でした』
『こんな世界なら生きてみたいです』
『この作品の住人になりたいです』
『現実より、こっちの方が本物に見えます』
大げさなのは分かっていた。
だが止まらなかった。
もちの作品を読んでいる時間だけ、奏多は、ただの貧乏大学生ではなくなる気がした。
世界の外れで、観客席の隅から見ているだけの人間ではなく、少しだけ、舞台の近くに行ける気がした。
ある晩、三時過ぎ。
作品を読み返しながら、奏多は考えた。
――こんな世界なら、俺は、ちゃんと生きられるかもしれない。
怪物がほしいわけではない。
死者が歩いてほしいわけでもない。
危険に憧れていたわけでも、多分、ない。
彼が欲しかったのは、もっと単純なものだった。
日常に、意味が発生する瞬間。
何かが起きるかもしれない朝。
選ばれるかもしれない夜。
自分の行動一つで、世界の見え方が変わる感覚。
現実には、それがなかった。
少なくとも、奏多には、そう見えていた。




