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貧乏な読者と無名の作者

大学二年の春。

 遠野奏多という男は、人生のあらゆる局面で凡庸だったが、生活費の計算にだけは、なぜか異様な切れ味を発揮するタイプの人間だった。


 家賃。

 光熱費。

 通信費。

 学食で雑に処理する昼飯代。

 そこへ、教科書代だの、サークルの飲み会だの、友人の「今月だけ貸して」だの、そういう貧乏人の家計簿を破壊するためだけに存在しているイベント群が、当然の顔をして突っ込んでくる。


 すると、数字は死ぬ。


 綺麗に死ぬ。


 そして、死んだ数字が最終的に着地する結論は、だいたい決まっていた。


 ――今月は本を買わない。


 最悪である。


 何が最悪って、奏多にとって、それが、空腹より、睡眠不足より、だいたいの社会的屈辱より、ずっと堪える類のダメージだったことだ。


 奏多は本が好きだった。

 小説が好きだった。

 新刊の帯を見ると胸がざわつくし、紙の匂いだけで「まだ人間やっててよかったかもしれん」と思える、そういう、だいぶ面倒くさい種類の読書好きだった。


 だが、現実は優しくない。

 というか、現実は、貧乏な大学生に対して、びっくりするぐらい無慈悲である。


 腹は根性で誤魔化せても、家賃は誤魔化せない。

 精神論では電気はつかない。

 「文学は人を救う」と何人かが言っていた気がするが、少なくとも、公共料金の引き落とし日には助けてくれなかった。


 なので、奏多は、小説投稿サイトを読み漁っていた。


 最初は代用品のつもりだった。

 無料。量が多い。暇も潰せる。

 貧乏学生にとっては、かなり優秀な娯楽だ。


 ただし、当然、無料には無料の厳しさがある。

 読めば読むほど分かってくる。

 テンプレの導入。見覚えのある設定。どこかで見た感情の起伏。

 悪くはない。

 普通に面白いものもある。

 だが、心の底をひっくり返されるレベルには、そうそう当たらない。


 それでも、夜更け。

 安いカップ麺の汁を胃袋に流し込み、湿っぽい布団に転がり、スマホの光だけで物語を追う時間を、奏多はやめられなかった。


 やめられるわけがない。

 たとえ代用品だろうが、物語がなければ、この毎日は、あまりにも、ただの消耗だった。


 その日も、そうだった。


 新着欄を、半分死んだ目で流していた指が、あるタイトルのところで止まる。


『横断歩道の向こうで、死者だけが手を振っている』


 妙に静かな題名だった。

 変に煽っていない。

 逆に、その静けさが不気味だった。


 煽り文は、さらに短い。


『見えるはずのないものが見える朝の話。全九話』


 投稿者名は、もち。


 知らない。

 評価も低い。

 ブックマークも少ない。

 要するに、サイトの海に沈んでいる、無数の作品のうちの一つ。

 普通なら、そのまま流れて終わるやつだ。


 だが、奏多は一話を開いた。


 そして、数行で、固まった。


 派手じゃない。

 比喩も多くない。

 むしろ、びっくりするぐらい素朴。


 なのに、異常だった。


 春先の、薄く冷えた朝の空気。

 信号機の明滅。

 青になる前の車道のざわめき。

 横断歩道の向こうに立っている「それ」を見た瞬間、頭で理解するより先に、胃の底が「これは駄目だ」と悟るあの感じ。


 情景が立ち上がる、とか、そんな生ぬるい話じゃない。


 流れ込んできた。


 映像が。


 頭の中に浮かぶ、ではない。

 もっと直接的だった。

 目の裏に焼きつくみたいに、読むという行為をすっ飛ばして、場面だけが侵入してくる。


 読んでいるはずなのに、見ていた。


 気づけば、九話を一気に読み終えていた。

 画面の下にある「完結」の二文字が、やけに冷たく見えた。


 奏多は、しばらく動けなかった。


 面白かった。

 いや、それでは足りない。


 何かがおかしい。

 文章として成立しているのに、読書体験としては、どこか、正常なラインを踏み越えていた。


 すぐに作者ページへ飛ぶ。


 怪談。

 SF。

 現代ファンタジー。

 パニック。

 青春。


 ジャンルはバラバラ。

 しかし、どれも十話前後で終わる短編寄り。

 そして、投稿日を見た奏多は、思わず眉をひそめた。


「……は?」


 三日前に一作。

 その前が五日。

 さらにその前が二日。


 更新速度が、だいぶイカれていた。


 人間、そんなペースで、質を保って物語を出せるものではない。

 普通は、どこかで雑になる。

 崩れる。

 薄くなる。

 だが、奏多は次の作品を開いて、すぐに理解した。


 崩れていない。


『終電にだけ現れる十三番ホーム』


 それも、とんでもなく面白かった。


 終電後にだけ現れる、存在しないはずのホーム。

 そこへ迷い込む、疲れ切った会社員。

 乗れるのは、摩耗した人間だけ。

 行き着く先は異世界ではなく、現実の裏面みたいな場所。


 奏多は何度もスマホを伏せて、天井を見上げた。

 現実に帰るためだった。


 そうしないと、自分が今どっち側にいるのか、微妙に怪しくなる。


 なのに、評価欄は静かだった。


 感想は少ない。

 熱狂的な長文もない。

 たまに「雰囲気は好き」とか「短いのが惜しい」とか、その程度。

 ランキング上位にいるのは、もっと派手で、もっと分かりやすくて、もっと長く続く作品たち。


 奏多には、理解できなかった。


 これが埋もれていていいはずがない。


 その夜、彼は作者ページの全作品をブックマークした。


 そして翌日から、それは日課になった。

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