チョコレート戦線異状あり
紗希は、憧れのバイトに採用された。
それは、下町の材料加工工場。
小さな部品の材料を選別し、形成し、仕上げをして、大手工場に送り出す、家族経営に近い小さな工場。
この時期、一番の人気のアルバイトである。
「おはようございます! よろしくお願いします!」
「はいはい、紗希ちゃんだったかね、よろしく」
工場長の妻らしきおばさんの笑顔に迎え入れられて、紗希の緊張も、少しだけ解けた。
***
それは、戦略物資だ。
黒く甘く、体温でほろりと溶ける。
二月十四日に、意中の男子の心を溶かす。
だからそれは戦略物資――なのだが。
ある時からそれは、二重の意味で戦略物資になった。
チョコレートにある加工を行うことで、異常なほどの硬度と靭性が実現することが、分かった。
それは、鉄より強く、ダイヤモンドより硬い。
なおかつアルミより軽いのだ。
ポリフェノールとテオブロミンとカカオ油脂と――その一式の組み合わせに、ある熱的電磁的核的処理を行うことで、油脂の中に未発見だったIX型構造が生じ、歴史上もっとも使い勝手の良い材料となることが分かったのがきっかけだ。
それからは、あらゆる場所に、硬化チョコレートが使われるようになった。
丈夫さが求められる小さな部品は、特に。
普通のカカオマスを熱して液状化し、型に流し込んで特殊な処理をするだけで、鉄より強くダイヤモンドより固い部品が出来る。
これまで材料の問題で実現できなかった様々な機械が実現できるようになり、車や飛行機も飛躍的に軽く効率的になっていった。
成金趣味の代名詞と言えば、『全チョコレート製』である。例えば、車のシャーシ、ボディ、エンジン、シャフト、トランスミッション――ありとあらゆる機械的強度を求められる部品をチョコレート製にしたものである。
だからチョコレートは、二重の意味で戦略物資となった。
もはや、普通の女子高生が手に入れられるようなものではない。
***
小さな鋳型に、慎重に溶かしたカカオマスを流し込んでいく。
一滴でも無駄にしないでくれ、と工場長は言ったが、今近くで別の作業をしているおばさんは、それをほほえましく見つめている。
鋳型の入り口までカカオマスがあふれてくる。
ほんの少し盛り上がったカカオマスを、小さなヘラで拭って、ヘラについたわずかな液体を、手元の小瓶にこすりつける。
「……とれた」
何度も何度も繰り返す作業の中で、ようやく、瓶の中に一滴、たれ落ちるくらいのカカオマスが集まりつつあった。
「ねえねえ、紗希ちゃん」
ふいに話しかけられて、紗希はビクリと身体を震わせ、慌てて瓶を隠す。
「は、はい、なんでしょう!」
「あはは、いいさ隠さなくて。毎年、みんなそうなんだもの。だからあたしらは十一月くらいからのんびりお休み取れるし、助かってるからさ。あんまり多いと工場長にドヤされるけどさ、ま、そんなのも込みで、あたしら、応援してんのさ。――でさ」
あけすけな言いように、紗希はちょっとどぎまぎしてしまう。
当然、知られているのだ。
毎年、十一月ごろから一月ごろまで。三か月間。女の子たちは、わずかなチョコレート材料を求めて、奔走する。
どこに行っても手に入らない、高嶺の花。
でも、想いを伝えるために。
その為だけに、こうしてわずかな材料を集めて回る。
そんなことは、チョコレート材料を扱うこの工場でも当然分かっていた。
「――告白、するんだろ? ねえ、どこで会ったのさ」
当然こういう出歯亀おばさんも出てくるが、それも季節の風物詩。
「いえ、あの、会ったとかじゃなくて……幼馴染で。高校まで一緒で」
「へえ」
「お互い推薦で大学に進むことになって。住む場所が変わって。もう帰り道でお話しすることないんだって思ったら、泣けてきちゃって。だから」
「そうかいそうかい。……向こうは、どう思ってるんだろね?」
「分かりませんよ。分かりません。きっと普通の友達だって思ってます。でも、もう最後だから。なんか、気まずくなってもいいや、って思ったら」
紗希は、そう言いながら、仄かな笑みを浮かべる。
カカオマスの香ばしい匂いの中に、入れていないはずの砂糖の香りが漂ったような気がした。
「チョコレート渡して。本気だよって伝えて。そういうんじゃないからって言われて。だよねーあははー、って。それでおしまいでいいやって思って」
「……いいのかい? それで」
「良くないですよ。良くないです。でも、なんていうか、ほら、チョコレート渡すほどの本気なんだよって、全力でぶつかったら、なんか結果なんてどうでもよくなるんじゃないかなって思うんです」
「……ふふ。そうかい。じゃあそういうことにしとくよ。がんばんな」
その言葉に、紗希は、口に出さずに、顔を赤くしたまま、うなずいた。
***
二月十一日の祝日は、なぜか学校が解放される。
誰の粋な計らいかは今となっては分からない。
だがこの日、学校の女子たちは、学校の調理実習室と化学室に集まる。
ほんのわずかな材料を無駄にしないよう、実験用の器具を使って、配合を整えていく。
『本物のチョコレート』を作るためだけに。
紗希のそばには、同じく幼馴染の、凛がついている。
彼女も、紗希のチョコレートづくりを手伝う、と来てくれているのだ。
「……ありがとね、凛」
小さなピペットで、慎重にカカオマスを移しながら、紗希が言うと、凛はくすっと笑った。
その凛は、カカオマスの温度が上がりすぎないように、下がりすぎないように、サーモメーターで測りながら温度調節をしてくれている。
「なんか、私のことなのに」
凜は、じっとカカオマスの溶けた壷を見つめながら、答える。
「あたしさー。なんか昔からガサツで。こんなの縁がなかったからさ。なんかいいよねー、こういうの」
「凛はかわいいよ」
そんなことを言いながら、ピペットからたれ行く一滴を、目で追う。
そんな音が聞こえるはずがないのに、それが、ぽたりと音を立てたような錯覚。
「あははーありがと。そんなこと言ってくれるの紗希だけだよ。……実はさ」
ふっと、凜の顔から笑顔が消える。
「……あたしさ。去年、祐樹に、告白したんだ」
「えっ!?」
思わず大きな声を出した紗希に、他の女子の視線が集まる。
「大丈夫ー?」
遠くから声がかかり、紗希は慌てて、大丈夫なんでもない、と答える。
貴重な材料を焦がしてしまうという事故が毎年どこかで起こる。
泣き崩れる女子に、周りの子が一滴ずつ、チョコレートをカンパすることも、風物詩だ。
「……黙っててごめんね。ずっと祐樹のこと、好きだったんだ。夏休み前だったなー。最後に一緒に過ごせる夏だから。思い切って言ってみたんだけど。ギョ・ク・サ・イ! やっぱガサツな子はだめよねー」
「……あの、凛、なんて言えばいいのか分かんなくて……その、ご、ごめん」
紗希はあふれ出る感情をどうしようもなく、ぽたぽたと涙をこぼしていた。
まさか、自分がこれからチョコレートで本気を伝えようとしている相手に、親友の凜が、と。
「ちょっとーよしなよー。案外あれよ? ここでこっそり毒でも入れてやろうかって魂胆で手伝ってるのかもよ、あたし?」
「り、りん、凜は、そんなこと、し、しな、しないよ」
「まあねー。そんな度胸もないよ。……もいっこ告白しとく。紗希が祐樹好きだって知ってて、あたし、告白した」
「……!」
「抜け駆け、ってやつ! だから、これは、罪滅ぼしだからさ。気にしないで」
「き、気にしないわけないじゃん! こんなの、私、卑怯者じゃん! なんか凛の弱みに付け込んで祐樹の告白の手伝いさせて! 凛だって、チョコレート作って渡すくらい本気だって言ったら、祐樹だってきっと!」
「どうだろねー。そこはいろいろあんのよ。なんかネタバレしそうだから、黙っとく!」
凜は、タンポポのようにニカっと笑う。
「な、何よそれ!」
「いいのいいの。あたしも、なんかさー、すっぱり諦めたいから告白したんよ。だからマジで気にしないで」
そうは言っても、こんな土壇場でそんなことを聞かされて気にならないわけがない。
「……凜も。私の半分あげるから。凜も一緒に、渡そ」
「……それは無理。なんか違う」
「違わない! お願い」
すると、後で聞き耳を立てていた後輩の一人が。
「私のも、一滴あげるー! 凛先輩も、コクりましょうよ!」
「私も私も!」
そんな風に言われて、今度は凜が顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振る番だ。
「や、やめなよ。これは紗希が主役だから」
「凛先輩も主役ですよ!」
「結果分かってるのにやらせるなよ!」
「だから面白いんじゃないですか!」
「面白がってんじゃねーか! てめーら、来週、アレな、あたし行くわ。部活行くわ。練習メニューねじ込んだるわ」
どうやら凜が所属する陸上部の後輩だったようだ。
「いいですよー! 結果教えてくださいねー」
「うるせー分かってるくせに!」
そんな姿を見ながら、紗希は涙をこぼしながらもようやく小さく笑った。
***
「なあなあ一真、ホワイトデーのお返し、準備したか?」
「はは、んなわけあるかよ、もらえる当てもねーよ」
言いながら、小瓶の中に集めている『ブツ』を後ろ手に隠す。
「俺集めてんだー。多分、ホワイトデーには間に合うと思う」
「マジかよ、智明、お前頭イッテんな!」
「うるせーよ。一真、お前暇なら手伝えよ」
「暇じゃねーよ、バイトあんだよ」
「バイト? どこだよ」
「言うかよ」
察した智明は、生暖かい目で一真を見つめる。
「……がんばれよ」
「るせー!」
***
いつものことだ。
なんとなく、帰り道を、一緒に歩く。
紗希と祐樹は、いつものように、帰り道を一緒に歩いていた。
時に凜も一緒になるが、今日はそう言う珍しい日でもあった。
三人の生まれた町で、駅を降りると、静かな住宅街。
歩き続けると、左手に大きな倉庫、右手に公園、という小道を通ることになる。
そこで、意を決して、
「ゆ、祐樹! その、待って!」
紗希が言うと、祐樹は、ぴたりと立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その顔は、驚いたというよりも、緊張の色だ。
その頬が赤いのは、夕日のせいだけではないだろう。
「あ、あの、紗希、その、なんとなく今日が何の日かはわかってるけど、その」
祐樹はもう察してしまい、しどろもどろだ。
「そう、それ! その、これ、本気の気持ちだから!」
紗希は、ポケットから、手のひらに収まるほどの小さな箱を取り出した。
ピンクの包装紙に、黄色いリボンがついている。
祐樹が戸惑うのも無理はない。
なにせ、凜が横にいる。
こういうものって、二人きりの時なんじゃなかったっけ?
ずっと凜も一緒で、ああ、やっぱり、もらえないんだろうな、と思っていたのに、どういうこと?
「祐樹、あたしも、これ。受け取って」
隣にいた凜が、似たような箱を、すっと差し出した。
――そういうこと。
祐樹はその意味が分かって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
……俺が好きなのは。ずっと好きだったのは。
だから、あの夏の日、凛の気持ちにも。
そう思っていた。
でも、今、二人から差し出された、二つのチョコレート。
それは、この世界では、何よりも貴重で。どんな言葉を尽くすよりも、重い想いを乗せたもので。
――これは、受け取れない。
一瞬そう思って二人の顔を見た祐樹の網膜に、入ってきた光景。
凜が、ニヤリと笑って、ウインクしている。
……そうか。
凜も、知ってたのか。
じゃあ。
祐樹は二人のそばに近寄ると、手を伸ばし――
紗希の小箱を、手に取った。
「……ありがとう紗希。受け取る。俺も――」
ポケットから彼が出した、小さな、透き通るようなキャンディ。
「……お前にもらったら、返そうと思って、作ってたんだ」
紗希は、その言葉に、思わず涙をあふれさせる。
そして、同時に、失恋した親友の顔が気になりふと左に顔を向けると――
「あと、こっちも受け取る」
祐樹が、凜の小箱を手に取った。
「やるねえ、二股宣言か?」
凜が茶化すが、
「こっちも、紗希が作ったんだろ?」
「はっ、さすが、紗希にぞっこんの祐樹さん。そりゃ見抜くよね」
「どうせ凛のこと聞いて紗希が分けてやったんだろ」
「ご名答~」
紗希が、うわあ、というような小さな声を上げて、涙をこぼした。
「お返しは、ホワイトデーまで、待ってくれるか? もう少し大きくして見せる」
***
さて、チョコレートと同様に戦略物資になったものが、もう一つある。
超高純度ブドウ糖結晶である。
チョコレート硬化と同様の技術で、高純度のブドウ糖が、うっかり、超耐熱・超透過・超高励起性の光学材料になることが分かった。
レーザー兵器に革新が起きてしまった。
ゆえにたっぷりと不純物が混ざった砂糖だけが市場に出回り、超高純度のブドウ糖と、その材料になりうるものが、国際的に取引が制限されるようになり――もはや言うまでもあるまい。
女子も苦労したのだから男子も苦労しろということだ。
超高純度ブドウ糖から作ったキャンディだけが、ホワイトデーのお返しとして認められる世界になったのである。
……つまり、もらえるかどうかも分からないチョコレートのお返しとして、何か月も前から一滴ずつ集めて作った透き通るようなキャンディを握り締めた男子の屍が積みあがるのも、この時期の風物詩なのである。




