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短編集ー文芸系

私に配慮してください。

阿古矢(あこや)。とりあえず、これ”なるはや”で」


 投げ捨てるようにデスクに置かれた仕事に、俺は顔をしかめて先輩を見た。

 とりあえず。一応。なんとなく。だいたい。俺の嫌いな言葉だ。


槙田(まきた)先輩。なるはやって何時までですか」

「だーかーら、なるはやだって。わかんない? なるべくはやく。ASAP。すぐやって」


 面倒くさそうにそう言って立ち去りそうな槙田先輩を、俺は慌てて引き留めた。


「だから期限はいつですか。槙田先輩が次の作業のためになるべく早く上げてほしいだけなのか、明確なリミットがあってそこまでに確実に仕上がっていないと困るのか、”なるはや”の指示じゃわかりません」

「うるっせえな、とにかくすぐやりゃいいんだよ!」

「俺は今日笹原(ささはら)課長から十六時期限の仕事を頼まれています。この作業量だと槙田先輩の作業を優先した場合笹原課長の依頼が終わりません。槙田先輩の作業の優先度が高いようであれば笹原課長に相談して期限を延ばしてもらう必要があります。早い方がいいけれど明日にかかっても構わないのなら笹原課長の仕事を終えてから取り掛かります。温度感を示してもらわないと作業の優先順位がつけられません」

「わーかったわかった、いいよ俺のが(あと)で! 笹原課長の仕事って明日のプレゼンのだろ? そっち延ばせるわけねえじゃん。考えりゃわかるだろ」

「わかりました。最低いつまでという期限はありますか」

「んじゃまー……明日中に渡してくれればいいよ」


 げっそりした様子で先輩はそう言って去っていった。

 あの感じだと、絶対に明日中に必要というわけじゃなさそうだけど。言われたからには、明日中が期限。

 俺はスマホのTODOリストにアラートと一緒に打ち込んだ。

 付箋などに書くと、それ自体がどこかへ行ってしまう。紙のメモ帳に書くと、どこに何を書いたのかわからなくなってしまう。

 だから俺の仕事の相棒はこのスマホだ。メモは全部この中。検索機能が使えるから探しやすくていい。技術の進歩には本当に助けられている。昔はこんなのなかった。

 やらなきゃいけないことは箇条書きにしてリスト化。終わったら一つずつチェックができるし、期限を登録しておけばアラートが鳴ってうっかり忘れを防止してくれる。

 話を聞きながらスマホを出すのは嫌がる人が多いから、指示はボイスレコーダーに録音しておいて、重要なことはいったん紙のメモにとる。それを後から聞き直して、文字に起こして、スマホに入れ直す。紙や付箋で渡された指示も、全部そうする。

 手間だけど、俺は普通の人みたいにすぐに指示を理解することができないから。覚えておくことができないから。だからこうする。

 本当はメールで連絡を貰えた方が楽なんだけど、さっきの槙田先輩みたいな指示はよくある。メールは面倒くさいらしい。後になって話が食い違ったり、言った言わないの水掛け論になったりするから、俺は全部文字に残した方が結果手間も少ないと思うんだけど。他の人は、ぱっと口で言ってそれで済ますのが一番早いんだそうだ。


 俺はぐっと伸びをして、TODOリストをじっと眺める。

 一時間に一回は、こうやってやることを確認する。そうでないとすぐにわからなくなる。今何をやっているのか、次に何をやるのか。途中で挟まれた作業は無いか。やり残していることはないか。

 今日は何をする。明日は何をする。仕事だけじゃない、俺のスマホには、しなきゃいけないことが山ほど書いてある。

 

 朝は何時に起きる。朝食は冷蔵庫の何段目に置いてあるどれを食べる。ゴミは何時までに何ゴミを出す。消耗品は何が足りなくなっていて、帰りにどこで何を買うか。その日の行動は逐一書く。写真もいっぱいだ。覚えておかなきゃいけない情報のスクショ、買わなきゃいけないものの写真、コンセントを抜いた写真、ガスの元栓を閉めた写真、家の鍵をかけた写真。

 書いて、終わったら消して、また書いて。日々それの繰り返し。

 それでも取りこぼすことがある。何度も何度も確認しているのに。今さっき確認したことを忘れてしまう。

 でもそんな自分にも慣れたから、リカバリーするために忘れた分の予定はどこかに詰め込む。それも書いておく。


 そうやって俺なりに工夫して、何とかやってきた。やってこれたと、思っていたのだけど。


 


 翌日。今日は笹原課長と面談の日。

 話が長くなると、俺はどんどん頭がぼーっとして話の中身がわからなくなってしまう。相手のことを一生懸命見るようにするのだけど、視界がぼやけていって、焦点が合わなくなり、曇りガラス越しに見ているような景色になってしまう。人間の判別ができなくなる。

 だからせめて話したことは後から確認できるように、と俺はいつものようにボイスレコーダーを回した。

 

「阿古矢くん。仕事はどう? 大変じゃない?」

「おかげさまで最初よりは随分慣れました。私のわがままを聞いてくださってありがとうございます」

「いやぁ、うん。僕はいいんだけどね」


 笹原課長には、初期の頃に親身に話を聞いてもらった。入ったばかりの頃はテンパりまくって、何をどうしたらいいのかもわからなかった。

 そこから相談を重ねて、こうしてほしい、こうして貰えたら助かる、という要求を聞き入れてもらって、俺はなんとか仕事ができている。

 笹原課長は指示をメールでくれるし、必ずいつまでと期限も書いてくれる。ありがたい。


「僕はいいんだけど……槙田くんがねぇ」


 言いにくそうに、笹原課長は苦笑した。

 槙田先輩。何度お願いしても、適当な指示をやめてくれない。メールで送ったことに口頭で返事をする。俺はあの人の対応にいつも困ってしまう。


「笹原課長。申し訳ないんですけど、課長からも槙田さんに言っていただけないでしょうか。あの人の仕事のやり方だと私はついていけません。指導係を引き受けてくださったことは感謝していますが、私の言うことは何一つ聞いてくれないんです」

「うーん……」


 笹原課長が頬をかく。板挟みにしていることは申し訳ないが、あの人が少しでも歩み寄ってくれないと、俺はいつまでもまともに仕事ができない。


「聞いて()()()()、かぁ」


 苦々しい顔で、笹原課長が呟く。

 俺はどきりとした。心臓が嫌な音を立てている。

 こういう空気はわかるのだ。びりびりする。人が不機嫌になった時の空気は、伝播する。手がかすかに震えた。

 でもなんで不機嫌になったのかは、わからない。

 じとりと嫌な汗が伝った。


「僕は課長で、部下の面倒を見るのも仕事だしね。なるべく、要望とかは聞くよ。意思疎通は大事だ。でもそれは双方向で行われるもので、一方通行であってはいけない」


 真面目な顔で、笹原課長が俺を見据える。


「僕は阿古矢くんの話をなるべく聞いてきたつもりだよ。それは槙田くんもだ。最初は彼、あそこまでじゃなかったでしょう。でもああなった。その原因が自分にあるとは、阿古矢くん思わない?」

「……私が、仕事ができないから、ですか」

「できるようになる努力をして見えないから、だよ」


 目の前が真っ暗になった。努力をしてない? 俺が?

 あんなに毎日いっぱいいっぱいで、仕事が終わってからもその日のことを必ず家で纏め直して。何度も何度も確認して、何度も何度も練習して。

 他の人より何倍もやって、それでも普通の人に追いつけない。それだけなのに。


「阿古矢くんは”してほしい”ばかりだよね。ああしてほしい、こうしてほしい。そうでないと仕事がしにくいっていう言い分はわかったよ。でも、君がこちらに”してほしい”と思うように、こちらも君に”してほしい”がたくさんあるんだよ。それはできないのに、自分の要求だけは全部通ってほしいっていうのは、ちょっと無理があるよね」

「全部通してほしいとは、思ってないです。ただ、なるべくなら、仕事が円滑に進めばいいと」

「阿古矢くんにとっては円滑かもしれないけどさ。他の人の手間考えたことある? 阿古矢くんはメールの方が見やすいかもしれないけど。言う方はさ、通りすがりにちょっと声かけて「はい」って返事貰えたら、三秒で済むことをね。わざわざパソコンの前に座って、メーラーを立ち上げて、文字を全部打って、署名入れて、送信して。それって積み重なるとね、結構な手間なんだよ。阿古矢くんはその負担を他人に押し付けている」

「それは、多少手間かもしれませんが、記録に残った方が他の人にだって」

「そのボイスレコーダーもね。覚えてられないっていうから許可したけど。会話がいちいち記録されてるって、結構ストレスだよ。なんでもかんでも記録、記録じゃね。監視されてるみたいだし、信頼されてない気分だ」

「そんなつもりないです! ただのメモのつもりで」

「つもりはなくてもね、結果そうなるんだ。君が仕事をしやすいように我々に求める配慮は、我々にとって負担になる。そして君は、その負担を補うだけの成果を出せない」


 既に頭がくらくらしていた。笹原課長の言葉は半分も入ってこない。

 ただ、俺が負担になっている、という事実だけは、はっきりと胸に残った。


「会社っていうのは学校じゃないんだよ。君を育てるためにあるんじゃない。会社は利益を上げるために社員を雇っている。なら君は会社にどれだけ貢献できる?」

「貢、献」

「阿古矢くん、一般雇用だよね。つまり君は、普通の人と同じように、社員一人分として、給料に見合う戦力としてカウントされているんだ。君を雇うことで補助金が出たりはしないし、安い賃金で仕事をさせているわけでもない。だったら同じ給料の人達と同じだけの仕事ができないと困る」

「……それは……誰もが、全く同じに、仕事ができるわけじゃ」

「そうだよ。だから僕も、最初は皆の話を聞くんだ。得意不得意はそれぞれ違う。チームで動けば成果が倍増することもある。少し手を貸せば、大きな利益を上げてくれる社員もいる。そういう人は手助けしようって思うだろう。槙田くんがそうだ」


 槙田先輩。そうだ。あの人は、とても仕事ができる人なんだそうだ。

 人よりできるから。人より余裕があるからと、だから俺の教育係を引き受けてくれた。


「でも君は、手助けして、周りが配慮して、それでやっと普通と同じくらいしかできない。君の負担を、周りが分け合っている。一番割を食っているのが槙田くんだ。君の面倒を見るために、貴重な戦力が満足に動けずにいる。これは会社にとっても損失だ。わかるかい?」


 優しいと思っていた笹原課長の目は、鋭く俺を射抜いた。


「配慮をするのは、そうすることで利益が生まれると思うからだ。君に気分良く仕事をしてもらうためじゃない。損失しか生まないのなら、配慮をする理由は無いよ」


 それに何と返したか、記憶にない。

 ただ俺はふらふらと面談室を出て行って、その後は仕事が手につかなくて、ずっと怒られていた気がする。

 もういいと言われて、俺は定時で会社を出た。




 ふらふらと帰路を歩きながら、頭の中はみっしりと言葉で埋まっていた。

 笹原課長のあの言葉は。つまり、利益の出せない俺は、会社を辞めろということだろうか。

 日本では会社の方から解雇するのは結構難しいらしい。だから自主的にいなくなってくれ、という意味なのだろうか。

 だったらいっそはっきりそう言ってくれればいいのに。

 どうして欲しいのだろう。これで辞めたら根性無しとか言われて、激励したつもりだったのに、とか陰口叩かれるんだろうか。

 でも居たって何の役にも立たない。俺は俺なりに精一杯やってきたつもりだった。お荷物だから何とかしろ、と言われても。これ以上俺は、どうしたらいいんだ。

 今後一切配慮をしない、という宣言だと捉えるなら。俺は今以上にまともに仕事ができなくなる。

 毎日毎日怒られて、責められて、呆れられて。すぐに何の仕事も任せてもらえなくなる。今だって責任ある仕事はろくに任せてもらえないのに。

 でもじゃあどうすればいいかって。

 

 俺にできる仕事だけください。

 俺が困らないようにいつでも教えてください。

 俺が仕事しやすい環境を整えてください。


 それがどれほどのわがままかってことくらい、俺にだってわかる。

 会社が仕事をしてもらうために俺がいるんであって、俺が仕事をするために会社があるんじゃない。


 でも働かないと生きていけない。

 凸凹が激しい俺達は、よく得意を生かせって言われるけど。

 得意ってなんだよ。誰にでもあると思うなよ。それは才能なんだよ。


 過去の天才達が発達障害だったって説をよく見る。

 でも、そんなのはなんの役にも立たない。

 きっとああいう人達が、笹原課長の言うような”配慮しがいのある人間”だ。

 それほどの天才なら。些末なことで煩わせたくないと思うだろう。手助けしたいと思うだろう。身の回りの些事を周囲がやってやれば、大きな成果をもたらしてくれる。

 

 そんな才能のない有象無象の俺達は、底辺であがくしかない。

 手帳のないグレーゾーンの者達は、支援だって格段に限られる。

 そもそもグレーゾーンなんて、自称みたいなもんだ。だって診断されてないんだから。

 個性だ。性格だ。気をつければ治る程度の、フェイク野郎。

 別に張り合う気も無いし、診断されたかったわけでもないけど。


 自力で生きることはできない。

 手を差し伸べられることもない。

 そんな狭間に、たくさんの人間が埋まっている。

 全部纏めて捏ね直したら、いっちょ前の人間にならないかな、なんて。くだらないことを思った。


 通りの向こうに家族連れが見えた。

 小さな子どもを母親が抱き上げて、頬ずりをしている。そして大切な宝物を扱うように、ぎゅっと抱き締めた。そんな二人を、更に父親がぎゅっと抱えた。

 絵に描いたような幸せ家族だ。普通の家族って、ああなんだろう。

 あの子は、祝福されて生まれてきたのだろう。この先、生まれてきて良かったと思うことがたくさんあるだろう。


「俺は、生まれてきたく、なかったよ」


 口に出すと、怒りにも似た感情が湧く。

 なんで俺なんか産んだんだろう。出生前診断でもなんでもして、堕ろしてくれれば良かったのに。

 命の選別とか。生まれてきたらいけない命はないとか。綺麗ごとは大抵、親か他人の目線で言われる。

 あれはいつも不思議だった。出生前診断で障害がわかったら産むべきかどうか、とか。なんで親側の目線で相談するんだろう。そんなの当然、産んで良かったって言うに決まってるじゃないか。

 どんなに育てるのがしんどくったって。産むという選択をした以上、それを間違いだったと否定したい人間がどこにいる。既に生まれてしまった命を否定するなんて非人道的なこと、たいていの人間はしたくない。

 なんで当人に聞かない。自分と同じ人間を産みたいと思うか、って。

 生まれてきて良かったか、なんて聞き方をしたら、そりゃ良かったって言うだろう。世話してくれた人間の手前。世間体だってあるし。自分のためにも、自分を否定したくない人だっているだろう。ハンデを負っても、十分に人生を楽しんでいる人だっているだろう。

 でも、自分と同じ子どもが欲しいかと聞けば。それにYESを返せる人間は、どれだけいるだろうか。自分はこれまで耐えてこられた。でもそれと同じ思いを、子どもにさせたいだろうか。

 俺はさせたくない。俺と同じ思いを、俺の子どもにさせたくない。

 この世に生まれてくるからには、健やかに、幸せに育ってほしいと思う。その考えが間違っているとは思わない。

 遺伝子研究は進んでいて、この手の特性のほとんどは親から子に遺伝するそうだ。だから俺は、絶対に子どもは作りたくない。俺なんかの遺伝子は後世に残すべきじゃない。

 子どもができたら、俺はなんらかの使命をやり遂げた気になって、生まれてきた意味も見出せるかもしれないが。それは自分が抱え続けた苦悩を子どもに押し付けて、自分だけ楽になる道だ。俺は俺がどうやったら人生をちゃんと生きられるのかの答えを見つけられていないのに、子どもに聞かれたらなんて答えればいいのか。親ができなかったことを、子どもにやらせるつもりなのか。きっとその子は、俺を呪うだろう。

 俺はそんな選択はしない。


 家族は持たない。だから俺は、誰かのために頑張ることはない。

 でも自分のために頑張るのは限度がある。俺は俺が好きじゃないし、大事じゃないから、俺のために頑張ろうと思えない。

 働かないと生きられないけど。俺を生かすために働こうと、思えない。

 死にたくはなかった。人並みに死への本能的な恐怖はある。ただ生きていたいという能動的な希望もない。何もしなければ死んでしまうのなら、それも仕方ないという諦めがあった。


 なんかもう全部、どうでもいいや。


 全ての音が消えた中。急に体に響いた振動に跳び上がった。ポケットの中でスマホが震えている。珍しいことに、通話の着信だ。電話は苦手だから、顔が歪んだ。

 画面に表示された名前は、槙田先輩だった。今日は外回りで会社では会っていない。いったい何の用だろうか。

 渋々、画面をスライドして通話モードにする。


「……はい」

『あっ阿古矢てめえ! 今日中にやっとけっつった仕事終わってねえだろ!』

「今日中? ……あっ!」


 俺は通話状態のまま、慌ててTODOリストを確認した。しまった。笹原課長との面談以降、ずっと心ここにあらずだったから、スマホを全く見ていなかった。アラートを見逃していた。

 ざっと血の気が引いた。これだから、駄目なんだ。一つ気がかりがあると、それで頭がいっぱいになってしまう。他のことが何も手につかない。

 やっぱり、こんなんじゃ。


「すみません、終わらなくて」


 慌てて謝った俺に、電話口から盛大な溜息が聞こえた。

 鳩尾がずくりと痛んだ。呆れている。自分から期限を尋ねておいて、終わっていないなんて。

 そうだよな。槙田先輩は、こんな俺によく付き合ってくれた。今日だって出先から直帰のはずなのに。わざわざ共有ドライブの俺の仕事を確認して、電話してきてくれた。

 いや待て、わざわざ電話してきたってことは、やっぱり急ぎの仕事だったのか?


「あの、今日中に必要なら、俺戻って仕上げますんで」

『あーいや、いーよ別に。どうしても今日中に必要ってわけじゃねーし』


 ああ、やっぱり。だったらなんで今日中って言ったんだ。

 なるはやって指示はなんだったんだ。

 考えてもわからない。わからないから、言う通りにする。

 けど、もうこれが最後かもしれないから。俺は、思い切って尋ねた。


「今日中に必要じゃないなら、なんで期限今日中って言ったんですか」

『あ? お前が期限つけろって言ったからだろ』

「でも結局急ぎじゃなかったんですよね。なら最初になるはやって言ったのなんだったんですか。一日以上経ってもいいならなるはやである必要ないですよね。あの指示を出した理由を教えてください」

『だーもう、こまけえなお前は! いちいち聞くなよ! 自分で考えろ!』

「考えてもわからなかったので教えてください。辞める前にすっきりしておきたいです」

『……なにお前。辞めんの?』

「そのつもりです」


 スマホの向こう側で、槙田先輩は少しの間沈黙した。それから聞き慣れた溜息が聞こえた。


『なるはやって言ったのは、言葉通り。お前のできる範囲で、なるべく早く仕上げて欲しかった。あれは俺のところで完結するんじゃなくて、終わったら客先に回すやつだからだ。期日はまだ先でも、早めに回せた方が印象もいいし向こうも助かるだろ。ウチに任せれば仕事が早いって思ってほしい。でもそのために無理に仕事を詰める必要は無い。それで中身が雑になったら本末転倒だ。お前が課長から仕事貰ってんのもわかってた。でもその仕事がいつ終わるのかは知らない。だから、課長の仕事が終わって、手が空き次第こっちに着手してくれればそれで良かった。課長の仕事だけとは限らない、俺の知らない仕事持ってるかもしれないし、優先順位はお前しかつけられないだろ。そこに割り込めないから、お前のできる範囲で可能な限り早めに処理して欲しかったんだ。それを何日の何時って指定できるかよ。お前の仕事のスピードもわかんねえのに。仮に今日の午前中とか言ってたらお前できたわけ? 無理だろ。でも来週とか言って余裕持たせすぎて後回しにされても困んの。んで、ここまで俺が語ったながーーい理由を一言で言うと”なるはや”になるわけ。普通はその一言で理解できるわけ!』

 

 キン、と声が響いて俺はスマホから耳を離した。

 普通は。そうか、普通は、それで通じるのか。俺は今の理由を聞いても、丸ごと納得はできないけど。

 俺が普通じゃないから。できないだけ。


「すみません普通じゃなくて。俺が役立たずだってことがよくわかりました。ありがとうございました」

『待て待て待て切るな』

「……まだ何か?」

『あのな、電話は普通かけた方が切るんだよ。常識だろ。何勝手に切ろうとしてんだよ』

「すみません常識がなくて。それじゃ」

『だから待てって! 話を聞けお前は!』


 うるさい。忙しいんじゃないのか。俺なんかと無駄話してる時間あるのか。


『この時間なら、まだ会社からそう離れてないよな』

「……まぁ……」

『おし。んじゃ××駅の東口の方で待っとけ』

「は?」

『飲み行くぞ』

「え、いや俺酒は」

『先輩からの誘いを断れると思ってんのかてめーは! 酒が飲めなきゃ焼鳥でも食ってろ! 行くことが大事なんだよ!』

「それなんらかのハラスメントだった気がするんですけど」

『知るか。そんなの気にしてたら後輩と飲みになんか行けねえだろ。腹割って話すのに素面(しらふ)とか冗談じゃねえ』


 俺は息を呑んだ。この人、俺と腹割って話す気があるのか。

 なんで。俺の事、どうでもいいんじゃないのか。面倒だと、足手纏いだと思ってるんじゃないのか。だから笹原課長は、あんなことを言ったんじゃないのか。


「あの……どういうつもりか知りませんけど。辞めるのは笹原課長から自主退職を勧められたからなんで。俺が辞めても槙田先輩の評価には響きませんし、会社の損失にもならないんで。むしろ俺が辞めた方が助かるみたいなんで。引き留めても槙田先輩にメリットな」

『めんどくせえな電話でぐちゃぐちゃ言うないいから来い!』


 怒鳴りつけて、槙田先輩は電話を切った。

 俺は半眼でスマホの画面を見つめた。ハラスメントの見本みたいな人だ。こっちが理解できていないのに、大声で喚いて威圧すれば言うことを聞くと思っている。

 今は勤務時間外だし、俺はもう会社を辞めると決めたし、先輩の言うことを聞く理由はない。

 でも、なんだかんだで小心者な俺は、先輩の命令を無視する度胸などない。

 わけもわからぬまま、俺は待ち合わせ場所に行った。


 暫く待っていると、槙田先輩が来た。俺を見るや否や肩を組んで、引きずるようにして居酒屋に連れ込んだ。

 酒は飲めないと言っているのに勝手に俺の分まで頼むし、焼鳥は皮ばっかだし、なんか話は自慢が大半と昔ながらの根性論を延々と繰り返されて、俺は正直帰りたかった。

 けど後半、べろべろになった槙田先輩は行儀悪く俺に箸を突きつけてこう言った。


「阿古矢ぁ! てめーはめんどくせえし理屈っぽいしそのくせ話は通じねえし馬鹿だし空気読めねえし役立たずだが!」


 ぼろくそ言うじゃん。言われなくてもわかってんよ。


「俺はお前を諦めてねえから! お前もお前を諦めてんじゃねえぞ!」


 呼吸が止まった。


「つうか早すぎんだよ諦めが! 諦めたらそこで試合終了だろうが! まだ1クォーターも終わってねえわ! 俺の下から退職者なんか出して堪るか!」


 なんか最後が本音っぽいな、と思ったら槙田先輩がだんと机を叩いた。


「お前にはちゃんと大成して「槙田先輩のおかげで立派になれました」ってスピーチしてもらわにゃならんからな。俺に指導は無理だって笑いやがった同期どもを見返してやるんだ……!」


 低く笑った槙田先輩は目が据わっていた。私怨だった。全然俺のためとかじゃなかった。

 なんだ、と力が抜けて、気がついたら俺は笑っていた。


「槙田先輩、同期から馬鹿にされてんですか」

「あいつら俺のことくそみそ言うからな。見返してやりたくて業績上げてんだよ」

「それで成果上げてるんだから、立派じゃないですか」

「数字はな。だから上からの信頼はあるが、下に人望がない。このままだと管理職上がってくのは厳しい」

「それで、俺」

「お前みたいな出来損ないを一人前にできたら俺の評価は確実に上がる。人材育成能力が認められる。だから俺のために辞めるな、成長しろ」

「無茶苦茶言う」


 この人でも何でも完璧にこなせるわけではないのだな、と思うと親しみが湧いた。それでも、俺よりはずっと多くのことができる。俺なんかとは比べ物にならない。

 そんな人が、俺に居てほしいと言う。どんな理由であれ、俺は、必要とされていると思っていいのだろうか。


 この人のために。


 俺は俺のために頑張れないけど。この人のためになら、もう少しだけ頑張れるだろうか。

 優しくもなんともない、エゴ丸出しな言葉だったけれど。

 全然俺に配慮してくれない、ハラスメントの塊みたいな人だけど。

 少なくとも、俺よりは俺の事を信じているようだから。


 この人が俺を諦めるまでは。俺も、諦めるのを保留にしようと思った。

最後まで読んでいただきありがとうございます。もし気に入っていただけましたら、是非★評価いただけると大変嬉しいです。よろしくお願いします。

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