小笠原 2
その時代にはその時代に合ったものが存在する。中世には中世、近代には近代、現代には現代の仕組みや様式、思想が反映されている。物が今ほどなかった時代、現在なら機械に頼ることを自らの手で行った。ピラミッドの話は有名だろう。あれをあの時代の人間たちが機械を使わず、手作業で、あそこまで正確に作るとはどういうことなのか。
機械がなかったからああいうものができた、という簡単な発想に至るまでに、何年費やしただろうか。コンクリートと木だったら、きっとコンクリートを選ぶ。自転車か車だったら、きっと車を選ぶ。コスパが重視されるのは当然。物が溢れ、優れ、スマートフォンが必需品となった時代に、服も、ゲームも、コンビニ弁当もいらない、だから島で自由に自給自足の生活を送らせてくれ、という生き方を望む人間が果たしているだろうか。
少なからず一人はいる。
すべては手に入らない。時代には時代に即するものしか存在しようとしないからだ。それが普通で、当たり前だからだ。機械と多数の作業員を充てれば一年で出来上がるものに、態々(わざわざ)何年もかけて、一人でレンガを運び、積み上げ、加工し、鉄橋を作ることに一生を捧げることで、一生を棒に振ろうとは普通、思わないだろう?
もしいたのだとしたらそいつは馬鹿なんだよ。
時代に反したものを目撃したとき、美しいと思う。
ぼろぼろの鉄橋はスカイツリーよりも美しいだろう。自覚がなくても、全身に走る鳥肌が教えてくれる。美しい人が作ったに違いない。美しい時代背景だったに違いない。作ろうとした経緯が美しい。人生をティッシュのように使い捨てにする奴は、きっと誰よりもその一枚のティッシュに愛情を注いでいる。そのティッシュで鼻をかんでみたいものだ。無造作に。