3
長い下り坂は浜辺に向かって続いていた。
辺りは完全に陽が落ち切って、暗闇に包まれている。夜目が効くので辺りの景色は見えている。それに……。
今夜は満月のようだ。長い下り坂を照らすように正面に大きな丸い月が見える。月明かりが下り坂沿いの景色をいつもより鮮明に見せている。奥に見える水平線に浮き月が見える。海に反射してゆらゆらと揺れている。月の位置が低く、いつもより一層大きく、白く、光って見える。
青年の頭では、フェンスに指を掛ける女の顔が離れずにいた。
何を言っていたんだあいつは――理解に苦しんだ。この島から出る? 出てどうするのだ。そもそも出ようと思う奴なんかこの島には――。
考えたこともなかった。島から出ようなんて思いつきもしなかった。本島――知ってはいる。知ってはいたのに、今の今まで忘れていたかのような、知らなかったかのような、言われた瞬間にインプットされたかのような、奇妙な感覚、余白空白――今は考えないようにした。「どうせ俺も、二日後には……」
気づけば浜辺に辿り着いている。坂から見た景色と浜辺まで来て見る景色は違って見えた。波の音が響いている。音が夜の静寂に溶け、自分の身体もまた、月の白い光に溶けていってしまうかのようだった。逆だろうに……両掌を広げて視線を落とす。自分の手が視認できるのはこの月明かりのおかげだ。自分の身体に色を付けてくれているのは光だ。その月の光に溶けるなどお門違いであろう。
ゆっくりと踏み出す。昼間に容赦なく照りつけられた浜辺の砂は、未だ心地よい熱を持っていた。歩くたびにまとわりつく砂の鬱陶しさが、その温かさに掻き消される。
細波が押し寄せてきた。規則的な音が耳を潤す。波の音に耳を澄ませようとした。波の音がさっきより大きく聞こえる。それでも、数十メートル後方から聞こえる息遣いと喘ぎ声は、小さいとはいえ、消えてはくれなかった。
なんで今日かなあ、と思いながら青年は浜辺に腰を下ろした。左右の足の裏を合わせる。足の裏に着いた砂を払ってみる。
今日でなければ別に聞こえていていいはずの音が、今日に限って聴こえてくる。耳を澄ませていないのに。耳を欹てていないのに。寧ろ、その今日に限って不快に聞こえる音だけを聞き分けるかのように、波の音は段々と音量を減らし、ついには消えてしまった。
こんなに他人のセックスを不快だと思った夜はないだろう。これはあれか? 俺が数日後にはフェンスの向こうに入るからなのか? どっかの家に入って、地下室の鍵を開けて、中には誰かの白骨が見えて、入って、扉が閉まれば鍵の閉まる音がして、真っ暗になる。夜目さえ効かない真っ暗闇だ。そこには俺がいるはずなのに、俺はいない。いくら掌を見ても、いくら自分の腹を覗いても、色がない。あるのにない。そこで飢える感覚とは。どんな気分だろう。
周りが見えないことには動きようがない。背中に何もないかと手触りで確認し、平たいコンクリートの上に背を付ける。ひやっとする。コンクリートから伝わる冷たさと比較されて、体の温みを感じる。風邪を引いて拗らせないだろうか。考えながらそのまま眠りに落ちる――ふと目覚める。また瞼を閉じる――寒いな。でも布団はない。また瞼を閉じる――目覚める。瞼を閉じる――――。
死を恐れている感覚はなかった。ただ漠然と、そうやって人は死んでいくのだろうとぼんやり思っていた。フェンスの女にも言ったが、そうとしか言いようがない。世の中には説明のつかないことだって――。
あるのだろうか。
「なーにしてるの」
青年の肩に長い髪がさらさらと触れた。首の前に自分のものではない腕が組まれる。背中から体温が伝わってくる。胡坐をかいた脚から伝わる砂の熱とはまた違った温みが。砂の熱は、昼間の太陽の熱だ。じゃあ太陽はなぜ熱を持っているのだ。そういうものだからだ。背中の体温は、女が温かいからだ。人間は体温を一定に維持できる生き物だ。その温かさが伝わっているだけ。でもじゃあ、なんで人間は体温を維持しなければならないのだ。そういうものだからだ。そうしなければ生きられないのだろうか。じゃあ太陽も、熱を発しなければ太陽じゃなくなってしまうから、熱を持っているのか。
なんだ。ちゃんと理由があるじゃないか。
青年の右肩から顔を出した女の顔が見える。青年は、ん、と首を傾げる。女もそれに倣うように、ん、と首を傾げる。額と額が合わさる。焦点が合わないほど、近く、近く、近く、近く。離れれば、満月はまだ白い光を発している。
波の音が聞こえた。遠く聞こえる息遣いと喘ぎ声が背景に溶ける。
女の顔が白く映る。彼女の瞳に小さく映る自分の顔。自分の顔など最後に見たのはいつ……。
「あったかい」波が引いていく。引き波が鬱陶しい音を攫って行く。
大きな満月の前で二人の影が揺れ動く。波に浮かぶ丸とは言えないその光の反射に比べれば、彼らの影は色濃く、輪郭が象られている。きっと、月が彼らの背景として溶け込んだのなら。水平線の上に浮かぶそのまん丸い大円の中で、彼らのシルエットは、兎が餅を搗いているように映るのだろう。